すると、どこかに、救われた人がいて、体験を話している。
それを聞いたい、知りたいという心があるはずです。
聞きたいという心がある。
ところが、体験が正しい親鸞聖人の教えなのかというと、
それは違います。
代表的な間違いが2つあります。
1つは十劫安心です。
十劫安心という異安心は、すでに救われているというものです。
または、救われていることに気づいたのが信心だといいます。
2つには三業安心です。
三業安心は、こうやって救われたなどいいます。
心と口と身体の3つの行いで、他力の信心を獲得できるというものです。
これは異安心です。
そういう人たちは、簡単に信心獲得できると思っているので、
獲信は、多い人がいいのではと言います。
しかも、それも本当かどうか、確かめたらいいのではといいます。
このままでいいんですか、というのは疑情です。
「そのまま」
というのは知識がいうことでない、
阿弥陀如来が言われることで、全く違います。
知識が認可するのは、他力信心ではなく、人工信心です。
こういうことを聞きたい、
これが早く救われるのではという心は、
聞法心でもありますが、人工信心に迷いやすい
諸刃の剣です。
善知識はどう言われているでしょうか。
体験談はまったく言われていません。
親鸞聖人は、教行信証に
「雑行を棄てて本願に帰す」
とだけ書かれています。
後はありません。
覚如上人、蓮如上人は書かれていません。
最初はどうして書かれていないのか、
書かれていないのがおかしいと
自分の考えを正しいと思っています。
次第に、自分は間違っていることが知らされて来ます。
仏教の尊さを分かっていくとそうなります。
すると善知識のお言葉を聞き、それに従うようになります。
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