教行信証は、
喜ばしきかなで始まり、
喜ばしきかなでおわっています。
その教行信証の総序の喜びの言葉の一つにこういうものがあります。
噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
もしまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(教行信証総序)
まず最初に噫(ああ)、といわれています。
小学校の友達に町で突然会ったりすると、
あ、とか、あらといいます。
あら、と蓮如上人も言われています。
多生というのは、生まれ変わり、死に変わり、輪廻転生した、多くの生です。
億劫というのは、1劫は4億3200万年ですから、その億倍です。
真実の浄信は、絶対の幸福のことです。
50年ぶりに会っても驚きます。
億劫ぶりでもなく、億劫にもなかったことです。
生まれ変わり死に変り、蛇でさえ気持ちがわかります。
多生の間求め続けてきたものが、
今、達成できたぞというよろこびです。
あうはいろいろあります。
会うとか逢うとか遇うなど色々です。
ところが
値という字は、
一度しかないあいかたです。
過去にも未来にも一度しかない。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
遠い過去からの仏縁を喜ばずにおれない
宿縁ともいう。
絶対の幸福になると疑いなく分かります。
遠い過去からの仏縁です。
評論家の亀井勝一郎は、教行信証には、
大歓喜が満ち溢れていると言っています。
日本一の読書家です。
世界中の本を読んでいたが、
教行信証を読んで、人生にこれにかけると
人生は、邂逅である。
邂逅とはめぐりあいによる
どんな教え、人にあうかで決まります。
世界の思想に通じた人ほど、教行信証にたどり着く。
親鸞聖人は、
三恒河沙の諸仏の出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり
といわれています。
ガンジス河の砂の数ほどの仏のもとで菩提心をおこした。
これだけの仏縁がないとあえないということです。
90歳で聞けた人が喜ばれたが
若い時に聞きたかったと言われていました。
もしまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
この人生も疑網に覆蔽せられなば、心の闇がはれなければ、
長い間、六道を輪廻しなければなかった。
合格しなければ浪人だったと。1年。
絶対の幸福にならなかったら、輪廻していた。
誠なるかなや、摂取の不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
本当だった、誠だった。
摂取の不捨の真言も超世希有の正法も阿弥陀如来の本願のことです。
弥陀の本願にウソはなかった。
だから年をとってから仏教を聞くというのではありません。
今、聞きなさい、ということです。
優先すべきことを優先しなさいといわれているのです。
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