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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2019年12月03日

ブッダが45年間かけて教えられていること

ブッダは私たちに後生の一大事が、なるほど、とわかるように、
45年間を費やされました。
迷いの深い私たちにはそれほど納得できない話が後生の一大事です。

後生の一大事を引き起こすのは煩悩ともいえますが、根本原因は心の闇です。
煩悩の欲望怒りなら分かり易いのですが、
心の闇は、煩悩よりもはるかに自覚がありません。
臨終になれば誰でもわかりますが、臨終にわかったのでは手遅れになります。

小さい子供が病気になって、
「ぼく死んだらどこいくの。くらいくいらい」
と言います。
この暗い心が心の闇です。
仏教では、この心の闇を教えられています。

心の闇とは、暗い心です。
全人類は、暗い心を抱えています。
何に暗いのかというと、
死んだらどうなるか?
ということです。

未来に暗いのです。
後生暗い心ともいいます。

暗いというのは、ハッキリしない、ということです。
この心によって、何をやっても、何を手に入れても、
心からの安心も満足もなく、
不安な毎日を過ごしているのです。

この不安をなくして、心からの大安心大満足の幸せになることを教えられているのが仏教です。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年11月29日

キルケゴールの実存の三段階

幸福を求める思想に三段階あります。
キルケゴールはこう言っています。

1つ目は美的実存です。
欲望を満たして幸せになろうとしている段階です。
しかし、欲望は満たせませんので、幸せにはなれません。

2つ目は倫理的実存です。
今度は逆に欲望を無くして幸せになろうとする段階です。
年をとって、後は、ボランティアなどをしますという人もあります。
キルケゴールも徹底的に実行しようとしました。
するとに敏感になってきました。

ずるずる寝ていた人が、しっかりと起きてと実行するようになると悪に敏感になります。
今まで自分がやっていたのに、8時に起きたとかいう友達に対して、だめじゃないかと思います。

私はこんな善をやっているぞと、自惚れている心が知らされてきます。
やればやるほど煩悩が逆巻いてきて、
とてもなくすことはできないということが知らされます。
そんな煩悩でできた人間が幸せになれないということが知らされます。

では幸せになれない存在というので結論でいいでしょうか。
それでは苦しむために生きていることになってしまいます。

そこで、人間が幸せになれるとしたら3つ目の宗教的実存になります。

田辺元とキルケゴールという本がありました。
キルケゴールの哲学を浄土真宗の立場で理解するとこうなるというものです。

本当の幸せになるには、真の心を外から得なければならない。
真の心を与えて幸せにするという教えあるか。

キルケゴールは一度、キリスト教を捨てて
三段階でまた、キリスト教に求めました。
ピュアな心を与えて救うという教えを求めた。
しかしキルケゴールには見つかりませんでした。
キリスト教はを信じよといいます。

信じる者は救われるというもの。
私達に信じる心があれば救われるが、私たちには信じる心も無いから救われません。
そんな者を救うのが、阿弥陀如来なのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年11月26日

人生は寂しい

人生を季節にたとえると秋が似つかわしいのではないでしょうか。

秋は、寂しさを表します。
人生も寂しいものです。

なぜかというと、
ブッダお経

独生独死独去独来

と説かれています。
「独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる」
と読みます。

生まれてくる時も独り、
死んで行く時も独りです。
心中で死んだといっても一人一人です。
人生は生まれてから死ぬまで一人ぼっちということです。

でも私は家族もいるし、友達もいると思っている人は
あると思います。

ブッダが言われているのは、
肉体の連れはいるが、魂の連れはいないということです。

魂の連れがいないというのは、
心のそこから分かり合える人がいないということです。

仏教では、一人一人が自分の世界を生み出していると
教えられています。
これを業界といわれます。
ぎょうかいではなく、ごうかいと読みます。
自分の過去のによって生みだした世界ということです。
一人ひとりの経験で生きている、ということです。

夫は夫の苦しみ、会社で苦しいことが色々あります。
それを奥さんに言おうという気持ちにならない。
言っても分からないと思うから、飯、風呂、寝るです。

奥さんには上司から叱られるという経験がありません。
一日くらいやっても分かりません。

奥さんの苦しみは姑との苦しみです。

夫に言いたいと思っている。
わかってくれないといいます。

一人一人の生みだした世界で生きているからです。

2019年11月23日

人生は旅のようなもの。沈んで屈するな浮かんでおごるな

仏教では、人生を旅にたとえられています。

人生を旅に譬えるのはブッダだけでなくよくあることです。
歌謡曲とか、和歌とかでもそうです。

昔、美空ひばりも言っていました。
生きることは旅することです。

旅をすると平坦な道もあれば、上り坂も下り坂もあります。
上り坂が苦しいと思って頑張ると、
頂上で思わぬ景色をみたりすることもあります。

それと同じように、人生も旅ですから、順境と逆境があります。
順境というのは調子のいい時です。
逆境というのは思い通りに行かない時です。
そういう時は泣きっ面に蜂で悪いことがどんどん起きることがあります。

人生には全てのことを投げ出したいときもあるし、
調子のいいときもあります。

どちらかっていうと逆境のほうが多いように思います。

しかしどちらも続きません。
諸行無常です。

恋を得ることもあれば失恋もあります。
今どちらにいるのかは、顔に表れている人もいます。

沈んで屈するな浮かんでおごるなといわれます。
沈んで入るときは待てばいいのです、

浮かんでいる人にはブレーキをかける必要があります。
沈んでいる人には背中を押す必要があります。

2019年11月19日

地獄の閻魔大王の正体とは?閻魔大王の有効な対策

日本では昔から、死後の世界には、地獄閻魔大王がいるといわれます。
これは仏教の教えにもとづくもので、閻魔大王は地獄の裁判官です。
そして、死ぬまでの行いを裁判して、死んだらどうなるかを決定するといわれます。
その時に使われるのが、浄玻璃鏡です。

浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ、じょうはりきょう)とは、閻魔王庁に置かれている鏡です。
閻魔が亡者を裁くとき、の見きわめに使いかます。
この鏡には、生前のすべての種まきが映し出されます。
死んだ人の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできません。

これによって、因果の道理という法律にもとづき、因果応報の結果を受けるのです。
この閻魔大王というのは、因果応報を人間にたとえたもので、実は、自分の運命は、自分が作っているのです。

善い行いをすれば善い結果
悪い行いをすれば、悪い結果を受ける自業自得です。

ここから分かることは、自分の行いを見つめて、自分の行いを少しでもよくしなさいと
廃悪修善を教えられているのが仏教なのです。





2019年11月16日

真実の信心の一番大事な特徴

正しい信心には、蓮の花のような特徴があります。
それに5つあるのですが、一番大事なのは
花果同時(かかどうじ)の徳」です。

蓮の花というのは、だんだん開くのではなく、ばさっとひらくといわれます。

正しい信心というのは、だんだんと作り上げられるのではなくて、
一念で得られるものです。

一念というのは、信心獲得する何億分の一秒よりも短い時間のことだと
親鸞聖人は『教行信証』に教えられています。

西洋の哲学者、キルケゴールは、幸せについて考えました。
まず欲望を満たして幸せになろうとしますが、
欲望は無限なのでできません。

次に、をすることによって幸せになろうとしましたが、
善に向かうとに敏感になります。
そして、見返りがないと腹が立ってきます。

どんなに善に向かってもできないので、絶望してしまいました。

ところが仏教には、煩悩そのまま幸せになる
煩悩即菩提の世界があります。

煩悩即菩提は、煩悩をなくして幸せになるのではありませんから、
信仰の飛躍があります。
煩悩即菩提になるのは一念なのです。

そういう世界はキリスト教にはなかったので、
キルケゴールは絶望してしまいましたが
この一念の救いをキルケゴールが知っていたら
どんなに驚くでしょうか。

親鸞聖人の教えを知らないのに、
一瞬の救いが真実だといっています。
キルケゴールと親鸞とか、たくさんの本があります。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年11月13日

史上最強の哲学入門

史上最強の哲学入門』という本があります。
その中で、西洋哲学と東洋哲学の比較がなさています。

それによれば、東洋哲学は真理を発見したところから始まります。
そんな真理を発見したところから始まります。

宗教っぽいという人いるが、
だから、誤解されるのです。

生きる意味を発見したぞ。
それは前からあるものです。

西洋哲学はいろいろ考えてきた。
しかし、真理に到達していません。

真理を月とするとそれを探しているのが西洋哲学です。
東洋哲学は月に行った人が言っています。
発見を、悟るといいます。

政治も経済も全部、階段を登っていくようなもの。
相対です。
真理を発見したぞ、というのは絶対です。

相対というのは、
投資しているのいくら?
1億。
そうしたら自分の分は言えなくなります。

就職したよ。
どこに、トヨタ。
凄いねえとなります。


相対の幸福を生きる手段と思って生きていくならいいのですが、
目的と思っていると、死ぬ時に崩れるので後悔します。

株も相対の幸福です。
紙切れになります。

私達の知っている幸せは相対の幸福なのです。
それに対して絶対の幸福になることが、本当の生きる意味です。

2019年11月08日

仏教は葬式だというのは偏見

いろは歌には、仏教の内容が歌われています。
たとえば最初の
色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ
は、仏教の旗印である諸行無常について歌われたものです。

これは現代科学にも通じる面です。

また、AI研究の先駆者である
マービン・ミンスキー教授は、
人間の心を研究するのに仏典を勉強しています。
これは、仏教が人間の心を詳しく解明した
仏教の心理学的な面です。

哲学の世界でも西洋が東洋に注目しています。

このように、科学、哲学、心理学の最先端で
仏教を研究されていて、
しかも西洋の人は、仏教を宗教と思っていないのですが、
こういう仏教を日本人が宗教に入れているのが不思議です。

仏教を全然知らない人が
いつの間にか、葬式法事にして、
金儲けにしています。

土台が間違っているから、宗教と思ってしまいます。
このようなことを知ると凄いなあということが分かります。

アインシュタインの言葉に
「常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクションである」
という言葉があります。

仏教が葬儀をするものだなんて常識だと思いますが、
アインシュタインからいうと、
そんなものは偏見のコレクションです。

実際に、仏教を学んでいないだけです。
私達は自分の知らないことを知ったつもりになったりします。
情報収集は死ぬまであります。

18でとても、情報量が足りないのです。
日本人たるもの、よく仏教を学ばないといけません。

posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年11月03日

キルケゴールの苦悩とその解決

キルケゴールは、実存主義の先駆けといわれる哲学者です。

本当の幸せに至る三段階を考えました。

1番目は美的実存です。
美的実存とは、要するに欲望を満たして幸せになろうとすることです。

2番目は倫理的実存です。
倫理的実存とは、欲望を抑えてなくして幸せになろうとすることです。

あなたの人生の目的はと聞かれて、お金です、名誉です、という人は偉いと思いません。
自分の欲望を満たすために生きるという人よりも、
人の幸せのために生きるという人のほうが立派だと思います。

ところが、他人の幸せのために善いことをやろうとすればするほど、
醜い心が出てくるのが知らされます。

ケーキ、子供にあげていると、当たり前になる。
そして、今年は去年よりも小さくなっていると思います。
そんなことを言われると、あげたくなくなります。

見返りを期待する心が知らされて来るのです。
やればやるほど、醜い心が見えてきます。
見返りを買うための商売のようなものです。
こういうのを偽善といいます。

欲望を満たすことも無くすこともできないとすれば、幸せになれません。
こうしてキルケゴールは行き詰まってしまいました。

ところが東洋では、この答えが昔から出ています。
では、どうすればいいかというと、そのままで幸せになるしかありません。
欲望があるままで幸せになれる世界があります。
これを煩悩即菩提といいます。

本当にそんな幸せになれるかなあと思います。
私がなれると言っても信じがたいと思いますので、
親鸞聖人はなれるといわれています。

渋柿の渋がそのまま甘みかな

という歌があります。

これは煩悩即菩提を教えるために
昔からいわれている歌です。

2019年10月31日

宗教と医学の役割分担

宗教とは宗となる教えということです。

科学や経済が考えるのは、この世のことばかりです。
後生の問題がごそっと抜けています。
私たちは確実に死にますから、それを考えなければなりません。
それが宗教です。

医療の現場では、みな死にます。
それなら闘病というのは、100%負ける闘いです。

患者は死んだらどうなるのかと聞きます。
それに答えられないと本当に患者を救うとは言えません。
それは医学では不可能です。
医療も宗教哲学と結びつかなければならないのです。

仏教の教えではこの世で絶対の幸福に救われます。
それは、いつ死んでも極楽行き間違いなしとなります。
答えを知っている医者や看護師になれます。

しかしそういうこと分かっている医者はいないのです。
医者でバーンアウトする人も少なくありません。

本当の生きる意味は、後生の一大事の解決です。
それがあまりに大きな問題で、よくわからないので、どう生きるかという生き方で
目隠しをしています。
ゲーム、マンガなどです。

山崎章郎氏の武蔵野美術大学の特任教授として行った『死の体験授業』  
死んだらどうなるか聞きました。

死を目の前にした人は、死んだら無になるとは言いません。
死があると感じている患者の方が真実に近いといっています。

ブッダだけが、死んだ後が有ると言われているのでない。
このように仏教と関係ない人もいっています。