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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2020年02月06日

歎異抄の悪人正機と蓮華の五徳

私たちを本当の幸せにしてくれる、
裏切ることのない正しい信心がどんなものかを教えたものに、
正信偈がありますが、他にも
蓮華の五徳というものがあります。

仏教ではよく蓮華が使われますが、
蓮華は正しい信心を表しているということです。

その5つとはどんなことかというと、
1つには、淤泥不染の徳、
ドロドロの泥田の中に、美しい花が咲くということです。

2つには、一茎一花の徳
一つの茎に一つしか花が咲かないということです。

3つには、花果同時の徳
花と実が同時 ぱーっとひらく、
そして、開いた時には実ができている。

4つには
一花多果の徳
一つの花にたくさんの実がつくということです。

5つには中虚外直の徳
中虚というのは中が穴があいている。
外直というのは固いということです。


徳というのは、普通は特徴です。
特徴は徳に通じる。といいます。

蓮華は、ドロドロの泥田にしか咲きません。
高原植物ではないので、高原陸地には咲かないのです。

では泥田というのは何のことかというと、悪人のことです。
陸地は善人です。

悪人の心の中にしか、正しい信心は咲かないということです。

善人の心の中には咲かない。
これには深い意味があります。
誤解もされやすいことです。
歎異抄3章には、
善人でさえ助かるから悪人はなおさら助かると説かれています。

無期懲役の人も恩赦なら、万引きはゆるすならわかります。
善人でさえ助かるのだから悪人こそ助かるというのは深いです。
歎異抄にも淤泥不染の徳と同じことが教えられているのです。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年02月02日

蓮如上人「白骨の章」さればいまだ万歳の人身を受けたりということを聞かず

浄土真宗葬儀などで読まれる
蓮如上人白骨の章という有名なお言葉に
「されば、いまだ萬歳の人身を受けたりということを聞かず」
とあります。
これは、今まで、一万才生きたという人を聞いたことがない、
ということです。

光陰矢の如しといわれるように人生はあっという間です。
子供が生まれたと思ったら、子供が巣立って空の巣症候群になります。
以前は駅まで10分で行けたのが、今は30分かかります。
とても歩いて行く気になれません。

水たまりに落ちる可能性もあります。

階段も手すりをつかわないと登れなくなって、エレベーターを使うようになります。
あっという間にそうなります。

そして臨終にはすべて夢のまた夢と消えて行きます。

一万年どころか、どこに100年生きている人がいるでしょうか。
皆さんの中で知り合いにいますか。
ほとんどいません。

人生というのは、そういう一時的な、儚いものだということを
蓮如上人は
「されば、いまだ萬歳の人身を受けたりということを聞かず」
と言われているのです。

では、そんな一瞬の儚い人生、何のために生きるのでしょうか?
本当の生きる意味を教えられたのが仏教です。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年01月30日

阿頼耶識が生みだした夢はあっという間

死の体験授業というのがありました。

死んだらどうなるかと聞くと、
天国に行く、とか、土に帰り、無になるという答えが多くありました。

死んだら無になるなら、何百人殺しても、自殺して終わり、
という犯罪者も出てくる。

臨死体験というと、本当に死んだわけではありません。
単なる幻覚です。
幻覚ではないと言い切れるでしょうか?

言い切れません。
だから死んだらどうなるか、分からずにみんな苦しんでいます。

蓮如上人の時代も死んだら死んだ時という人がいた。
それで御文章に、天上界について書かれています。

今、人間という夢を見ている。
阿頼耶識が見せている夢のようなものです。

天上界では、人間の1日が50年です。
91万年
ビルゲイツのような金を得て、91万年の命です。
その四王天の50年が、等活地獄という一番苦しみの軽い地獄の一日です。
等活地獄は166億年の命です。
ブッダは、人間は地獄に堕ちるといわれている。

御文章2帖目には、
信心獲得しなければ、無間地獄に堕ちるといわれています。

御文章2帖目12通には等活地獄を教えられています。
しかし、のんきだと言われています。
昔の人も今の人も同じです。

光陰矢の如しで、人生、あっという間です。
ジャネーの法則のように加速していきます。
そんな一大事を抱えているのが私達です。

その後生の一大事を解決したのが絶対の幸福です。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年01月27日

心の闇が晴れた世界

絶対の幸福は、心の闇が晴れた世界です。
心の闇というのは暗い心です。
何に暗いかというと、死んだらどうなるかです。
死んだらどうなるか分からないということです。

人は必ず死ぬのに、死んだらどうなるか分からないから、
不安にかられたり、死の恐怖に襲われたりするのです。

死んだらどうなるか、ないという人いる。
証明しているかというとしていません。

科学的にないという人がいるが、100年前です。
量子力学はあると言っている人もいます。

物理学は仮説、それでもあるといっています。

死後の世界はあれば永遠です。
人生は100年。
臨終に後生こそ大事な問題と気づきます。

いつ死ぬか分かりません。
新幹線で殺された人もいます。

それを、死んだら死んだときでいいはずがありません。

どう生きるかのすべてを手に入れたような人で、
例えば豊臣秀吉は、臨終に今までの人生について
のまた夢
という歌を残しています。

死を徹底的に哲学に取り組んだのが、ハイデガーです。

だから、歎異抄の英訳を通して親鸞聖人の教えに触れた時に驚きました。
歎異抄というのは、心の闇が破れた世界ばかりが説かれています。

ハイデッガーは、10年早く知りたかったと言っていました。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2020年01月25日

西洋人も最後にたどりつく本当の生きる意味

西洋で、本当の生きる意味を知りたいと思って、
キリスト教を学んだけどなくて、
西洋哲学を学び、
そして最後に親鸞聖人へ来たという人があります。

晩年に歎異抄を呼んだという
ハイデガーと同じになっています。

その親鸞聖人の主著の教行信証の一番最初に
こう書かれています。

難思の弘誓は難度の海を度する大船

難度海というのは、苦しみ悩みの海のことで人生のことです。
苦しみ悩みの絶えない人生の海を渡す大きな船があるぞ。
この船に乗ることが本当の生きる意味
ということです。

次に、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
といわれています。

部活で大会で負けて、終わってしまった。
そうなると虚しい気持ちだけになります。

これを埋めるために趣味や生きがいをしているが、埋まりません。
それは心の闇です。

その心の闇を破る力が仏教にある、
ということです。

2020年01月22日

いろは歌に説かれる真理

いろは歌は、日本人の多くの人が聞いたことはあると思います。
また、覚えてはいたけど、意味があるとは知らなかったという人もあります。

ところが、天才作家といわれる芥川龍之介は、
生活に書くべからざる思想は、あるいはいろは歌につきているかも知れない。
と言っています。

凄いことが、いろは歌に歌われているのです。

高校の倫理の教科書にも日本人の考え方ということで紹介されています。

いろは歌は、弘法大師が作ったともいわれますが、誰が作ったか不明です。
どんな歌かというと、漢字で書くと
色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず

という歌です。

共通した見解は、
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
という涅槃経のお言葉が元になっているということです。
この諸行無常というのは、生じたものは必ず滅する、ということで、
仏教真理であるあかしの1つです。

すべてのものは、続かない、
そんなことは子供も知っています。
知ってはいても、わかってはいない
ということです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年01月19日

浄土真宗のよくある間違い(御文章)

蓮如上人御文章2帖目11通に、
今でもよくある間違いが教えられています。

当流親鸞聖人の勧化の趣、近年諸国に於て種々不同なり。
これ大に浅ましき次第なり。

当流親鸞聖人の勧化の趣」とは浄土真宗親鸞聖人の教えのことです。
信心一つで救われると教えられたのが親鸞聖人ですが、最近、それが乱されている。
とんでもないことだと言われています。

 その故は、まず当流には他力の信心をもって凡夫の往生を先とせられたるところに、
その信心の方をばおしのけて沙汰せずして、その勧むる言にいわく、
「十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまえることを忘れぬが、
即ち信心のすがたなり」といえり。
これ、さらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分はなし。



阿弥陀如来は、十劫の昔に仏になられたのだから
皆、助かっている。
極楽へ行けると思ったのが信心だと思っている。
それは他力の信心獲得していないのだから
救われていないのですよ、と教えられています。

蓮如上人は御文章5帖目にも、
当流の意は、あながちにもろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、
一念の信心の謂を知らざる人は徒事なりと知るべし。

といわれています。

どれだけ知っていても他力の信心の謂れを知らなければ
助かりませんよといわれています。

謂というのは味ということで、
これは体験しないとわかりません。

料理番組では、美味しそうだとは思っても、
自分が食べないと味は分かりません。
体験ないと味わからないのです。

皆、死んだら極楽ではないのです。
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2020年01月15日

煩悩即菩提を表す親鸞聖人のたとえ

煩悩即菩提不思議について、
親鸞聖人は次のような喩えで教えられています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにむおおし
さわりおおきに徳おおし



罪障とは罪や障り、これは煩悩のことです。
煩悩で罪やをつくるから罪障といわれています。

ですから罪障とは煩悩ということです。
それが功徳の体となる。


功徳とはあそこの言葉で言うと菩提。
菩提とはどういう意味かというと、今日の言葉でいうと喜びです。

煩悩は私達を苦しめるもの
私達は煩悩で苦しんでいる。

その煩悩で苦しんでいる我々の苦しみが、菩提、喜びの体となる。
煩悩が喜びの体となる。


では、それはどういう意味か。
体とは何か。

煩悩が喜びの体。
元となる。
元となると言っていいのかな。

体となるというのが、いまいちわからんという人に例えて言うと、氷と水の関係ですよ。
氷おおければ溶けた水も多いでしょ。

なぜなら氷と水の体は同じだからです。
氷が溶けたのが水です。
今日、科学で言えば、水蒸気も体は水です。

水の気体の状態が水蒸気です。
水の個体の状態が氷です。
理科の世界です。

理科の教科書に出てくるようなもので例えて教えてくれています。

体が同じ。形状が違う。
そういうようなものですよ、ということです。

体は同じで形状が違う。と言っても
えらい違いすぎるでないか。

ものすごい違いだけど、それが体となるといってもわからんだろうけど、それを例えて言うと氷と水です。
氷多ければ溶けた水も多いように、煩悩が多いほど、それが喜びなった時大きい。
煩悩の塊が喜びの塊になります。

さわり、煩悩が多ければ多いほど
煩悩がおおいから、功徳、喜びが多い。

だからこれは例えでしかいえないから、例えて言うと氷お大きければ、溶け出た水が多いように
煩悩が多ければ喜びも多い
煩悩の塊だから、喜びの塊になる。

このように親鸞聖人は煩悩即菩提を教えられています。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 信心

2020年01月12日

ブッダの自殺

仏教を説かれたブッダは、35歳で仏のさとりを開かれた時、
まずはしばらく仏のさとりの境地を楽しまれました。

それからそれを皆に言いたい、伝えたいと思われたのですが、
ではどう伝えればいいのでしょうか。

言葉にしようと考えられた時に、
不可能だと思われたのですが
それというのも、仏の境地は
言葉にならないからです。

今日の量子論の人たちでも数学というものがなければお手上げです。
数学はまさに最後の手段です。

言葉にできないことを数学で証明したものです。
11次元の世界はあるということを、数学で表現しました。

目には見えないが、数学で証明しました。

では数学が正しいのか。
それを徹底して言われたら、それも発展途上でしょう。
完璧ではない。

しかし、現状ではこれが正しい。
それがなければ、言えません。

2600年前のインドであれば高度な現代数学はまだありません。
そうなれば表しようがありません。

表しようがないから誰にも言わんとならざるを得ない。
いったらキチガイ扱いされるでしょう。

キチガイ扱いするということは、
ブッダご自身は偉いものと自惚れているわけでないけども、
大宇宙の真理を発見された方です。
そういう正しい教えを説く人をそしるとか、馬鹿にするのは、罪になります。

私達でもそうでしょう。
正しい政治をやろうとしている人をやめろと潰そうとしたら罪でしょう。
橋下さんがやめるといっておるが、借金まみれの大阪をどうするか。
公務員の給料を減らそう。
2割カットしようとされたが、否決されました。

だけど自分だけは3割カットしました。
退職金は8割カット。
そんな人はなかなかいません。

みんなの給料も下げようとしたところ
それは市議会で否決されました。

だから皆にとってよくしようと思うと、反対勢力に潰されます。

会社が赤字なら給料下がるの当たり前です。
にもかかわらず公務員は赤字なのに下がりません。
おかしいことです。
一般の社会人からすれば、橋下さんは極めて常識的な人です。

それ反対する人達は
「やめろやめろ、橋下のアホ」
と非難します。

道徳倫理的なことでも一般的な人でも、正しいことやろうとしている人を非難するの良くありません。
まして真実の幸福伝えようとしたブッダを馬鹿にしたり、非難するというのは、恐ろしい罪です。
だからブッダは悩まれたのです。
言葉にならん世界。
素晴らしい世界あらわしたい。
しかし言葉にしたら表せませんから、
それを聞いた人は謗ります。
疑います。

説けば、理解する人はなくて、謗る人ばかりなら、説く意味がありません。
人々に罪を作らせるだけになってしまう。
ならば一言も説かずに死んだ方がいい。
自殺しようという結論を出そうとしていました。

その時にある人が現れて、そういう悟りを開かれたのであれば説いてください。
たとえ分かる人が500年後、1000年後に現れるとしてもすごいことでないですか。
説いてくださいと懇願せられ、説こうと決意せられて説かれたのが仏教です。

それから45年間、どのようにこの言葉にならない世界を言葉にしようと、
七千余巻の経典に言葉にされました。

七千余巻の仏典になるようなことを説かれました。
それだけのお言葉を使ってあらわそうとされました。

とても凡人にできることでない。
それが仏教です。

そういう絶対の幸福をどうにかして説かれて導かれて、ああこんな世界があったのか。
とわかるときは「即」です。
煩悩即菩提です。

ああでない。こうでもない。
そのように仏教は組み立てられて説かれています。
それをまずよく知ってほしい。

じゃあ、わかるのに時間がかかるのかというと、体験すればはっきりします。

説明には時間がかかります。
理解するのは早い人は早い。

食べ物の味は、言葉で説明するのは大変ですが、食べたらすぐに分かります。

食べるのお金もったいないといって食べないで説明だけ聞いていたら時間かかります。
食べればわかる話だから、食べる人はすぐに分かります。

説明には時間かかります。
45年かかっても説けません。
そういう事情があることをよくわかってもらいたいと思います。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 善知識

2020年01月09日

絶対の幸福を言葉で説明する件

水原舜爾先生の『科学を包む仏教』には、
「現代人の多くは、「論理に矛盾があってはならないと思っていますが、・・・・
   ・・・・・
   無矛盾の論理と区別しています」
このような表現しています。

水原舜爾先生は仏教も勉強し、現代物理学も勉強した人です。
そういう人から見ると、仏教と現代物理学は非常に共通しています。

真理を探求していった時に、それを見極めようとしていった時。
そのレベルでは言葉は不完全で、
そんな言葉で表すことができないというのが最先端のレベルです。

それと同じように、ズバリ仏教では2500年前に
言葉で表現できない真理を明らかにされています。

あれは物理学的真理ですが、仏教は幸福の真理です。

物理学的真理とはレベルが違いますが、違うとはいえ、人間の幸福を極めています。
それを言葉に表した仏教と、
物理学的真理を極めようとしている物理学では表そうという表現が
非常に似ています。

それがこうでないこうでない、こうでない、こうでない、、、。
こういう表現しかできません。
これが根底にあります。

お金、きりがないからあっても不安が尽きないし。
いつ壊れるか不安だし。
相対の幸福ならいくらでもわかります。
私達の智慧でわかる世界です。

それに対してい絶対の幸福は物理学的真理でいえば、
最小単位はこうでこうで……
これを勉強していくと実態あると思っていたものは現れたり消えたり、
どうなっているか、こうでこうで計算していくとこの世界は11次元となります。

11次元から3次元にぱっと現れて消えます。
それっが結論です。

そこまでいくとついていける人ないでしょ。
そんなレベルです。

ニュートンにはそんなことばかり書かれています。
だから今の世界は。物理学でもそうです。

もし100年前にニュートン読んだらキチガイだと思われます。

11次元とか多次元です。
超ひも理論。
そんなもの100年前の人が
今のニュートン読んだらキチガイにしか思えません。

そういえば200年前、
教行信証を読んだある学者がキチガイの書いたものと庭に捨てたというのがあります。
教行信証には煩悩即菩提が言葉に表されているから、
キチガイの書いたものとしか思えなかった。
そういう学者がありました。

そういうことで
「絶対の幸福について具体的に言ってくださいよ」
と言っても、言葉にならない世界だから絶対と言われるのです。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教