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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2019年09月24日

いろは歌の「有為の奥山今日越えて」の意味

いろは歌に、
「有為の奥山今日越えて」
とあります。

これは仏教の教えを歌われたものです。
どんな意味かといいますと、
「有為の奥山」の「有為」とは無為の反対の意味です。

「有為」とは苦しみ悩みがある、
苦しみに満ちているということです。

その反対が無為です。
苦しみ悩みが解決した、
苦しみ悩みから開放された世界です。

では漢字はどういう意味があるのかというと、
仏教の言葉ですから漢字の意味を解説しようとすると難しいです。


有為とは苦しみ悩み。
それが有為の奥山ですから苦しみ悩みを奥深い山に例えられて、
苦しみ悩みが深くて多いということです。

人生のことを有為の奥山、苦しみ悩みの奥深いものが人生です。

なぜそうなのかを説明されたのが前の2行です。

色は匂えど 散りぬるを
我が世 誰ぞ 常ならむ


これは続かないということです。
仏教では諸行無常と教えられて、
この世のどんなものも続かない、と教えられています。

それは自分の命さえも終わってしまうから、
ということです。
どんなに「幸せだ、幸せだ」といっても死によってすべて崩れてしまいます。

昔、21歳のアイドルがガンでなくなったことがありました。
なんで死んだかというと、ガンです。

最初は小学校2年で脳腫瘍になりました。
脳腫瘍と戦い全身に転移しそれで亡くなりました。

そういう人のニュースがありましたが、
小学校2年生のときといえば7歳です。

それから21歳で亡くなった。
その人生の2/3の14年間が、脳腫瘍との戦いの人生です。
まさに有為の奥山だったことでしょう。

じゃあ7歳まではそうでなかったかというと
7歳まではほとんど覚えていません。

ものの本によると小学校1,2年までの記憶はほとんど残らないといわれます。
毎日刻銘に覚えているという人はないよね。
人間としての自覚がなかったころです。

その中アイドルとして歩みはじめたんだから
やっと苦しみ悩みから離れられると思ったら
いろんなとこ転移して悪くなっていたのです。

食べるものも食べられない。
食べても吐いてしまいます。
肺にたまる水を取るのにくだを通します。
聞いただけで大変です。

そんな生活したい?
だからああこんな子がいるんか。
アイドルになっているんだから見た目にも可愛く、歌や踊りの才能もあったのでしょう。

だけど苦しみの連続の人生でしかも21歳で終わりです。
そんなのを聞くとかわいそうと思いますが、
その子だけかというとそんな人一杯います。

そして、21歳で死ななかったとしても、
やがて全員死にます。

光陰矢の如しと言われるように、
人生あっという間なので、
私たちもみんなすぐに死んで行くのです。

そんな苦しみ悩みの解決した世界がある、
それは、今日解決できるというのが、
いろは歌の後半の
「有為の奥山今日越えて」
といわれている意味です。


posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年09月21日

源信僧都の往生要集の六道輪廻

往生要集』というのは、平安時代の天台宗僧侶
源信僧都の書かれた有名な仏教の本です。

仏教では中国が日本の先輩にもかかわらず、中国でベストセラーになりました。
六道輪廻が説かれています。
人間界の6つの世界があるのでない。
今、生きているのが人間界です。

夢を見ているようなもの。
地獄ような夢、楽しい夢などみる。
私は変わらないが、夢の世界を作り出して、世界が生まれます。
目が覚めるまで存在していました。
夢の世界どこにあるかいえません。

六道どこにあるの?というのは同じ質問です。
この部分だけ学ぶのに7,8年かかります。

日本人の6割が、死んだら無と思っています。
死ねば無になるというなら、いいです。
余命わずかという人に聞くとほとんどの人はあると思っています。

おじいさんお祖母さん、孫を震災で亡くされました。
孫は今頃天国にいると思いますといいます。

死んだ後、無だとは思っていない。
死んだ後ないのやら、ないのやらわからない。
100%の未来、そこがはっきりしていないのに、突っ込むのが楽しいでしょうか。
真っ暗な中、走れと言われても走れません。
スイカ割りでも回ってそこから走れません。
視聴覚室に黒いカーテン。
突っ込めと言われてできるでしょうか。
はっきりしない人生、不安になって当然です。

向こうがどうなっているか分かれば安心。
カーテンの向こう分かったら止まれる。
人生は止まることはできない。

源信僧都は死の準備ができたのです。
往生要集には、地獄の様子が説かれている。
そして、死んだらどうなるか考えよと源信僧都は教えられました。

死んだらどうなるかハッキリすると、安心できます。

どっちにしろ、はっきりしないと思っています。
しかし、まず、準備をしなけばならないことが
分かるかどうかです。

ある歌人がこのような歌を詠みました。
「見るも憂しいかにかすべき我がこころかかる報いの罪やありける」
こういう結果を受けるような気がするのです。

罪悪といっても他人事と思えない。
地獄というのは、戒めるためにと思っていますが、
いよいよ死んでいく時には、こういう世界に行くと知らされてきます。

その死の問題の解決を明らかにされたのが仏教なのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年09月17日

煩悩のまま最高の宝と一体になる

仏教で本当の幸せは、仏凡一体といわれるように
仏心と凡心と一体になります。
無上の功徳を具足して
煩悩具足のまま至徳具足となります。


安心決定鈔にはこのようにあります。

小乗には極微の所成といえり。
身を極微にくだきてみるとも、報仏の功徳のそまぬところはあるべからず。
(安心決定鈔)

原子のようなもののことを
極微という言い方を小乗仏教ではされています。

現代の物理学の観点から考えると、
極微に質量はあるのでしょうか?
集まったら質量あるから、極微にあるだろう。
しかし、極微に大きさ、重さがあるなら、その半分は?
となります。

量子論からすると、最小単位はクオークです。
質量がある性質も無い性質 波のようなものです。

質量がないものから、質量がある物が出ています。
E=mc2

そのようなことも
ブッダは大宇宙の真理を全部知られた上で、
当時の人たちに極微と言われているのです。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年09月14日

金八先生が茨城のり子の詩で生きる意味の授業を!

「死ぬとなると生きる意味を感じられない」という投書がありました。
こういうことに気づく人はわずかです。

生きる意味に答えがあると言っても関心ないのは
生きる意味を知りたいと思っていないからです。
癌の治療法が見つかっても癌でない人には関心がないのと同じです。

昔、金八先生も
「なぜ生きるが分からないと人は生きてゆけない」
といって、
茨木のり子さんの詩を出して授業をしていました。

短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年の

お百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう

世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう

という詩です。

おぎゃっと生まれて、年取って死んでしまう。
そう思うと虚しいものです。

毎日、家と会社の往復、虚しいという人も多くあります。
根底にあるのは、何のために生きるのか、
生きる意味が分からないことがあります。


2019年09月11日

すべての人は病人?

仏教では、全ての人は病人だと教えられています。
病人といっても、肉体の病ではありません。
心の病です。

ところがこの病は自覚がありません。
すべての人がかかっているのに自覚がないのです。

しかし、その病気にかかっている兆候はあります。
その兆候が
有無同然
です。

会社で働いていると社長はお金があって偉そうに命令していて
いいなと思います。
ところが社長は社員をやとうので大変です。

日本人は東南アジアに比べるとお金がありますが、
自分たちは幸福だとは思っていません。
実際、ベトナムからの留学生に聞くと
日本人幸せそうでない
といいます。

別にお金があっても幸せにはなれないのです。

お金以外でもそうですが、何かが
あってもなくても幸せになれないのは同じだ
というのが有無同然です。

この病の病名を
無明業障の恐ろしき病
といいます。

恐ろしいのは病にかかっている
自覚がないからです。

それがどんな病かというと
後生暗い心です。

後生とは、死んだらどうなるかということです。
死は人生最大の問題です。

そしてやがて100%確実に直面します。
どうして確実な未来を心配しないのでしょうか。
それよりも年金を心配しています。

後生くらい心。どれだけ、自覚を持っているでしょうか。
言われても分からないくらい自覚ができません。

「一週間後に死ぬとなったらどうしますか」
とインタビューすると、
「お金下ろして使いまくります」
と答えます。

しかし、実際に医者から宣告されたら、
同じことをする人はありません。
死に直面したら、そんなことはできないのです。
お金を使っても何も楽しくありません。
貴重な命の時間を無駄にして後悔するだけです。

死を遠くに見ているから言えることなのです。

昔から西洋ではメメントモリと言われています。
「死を思え」ということです。
宗教学者の山折哲雄さんは、
『私が死について語るなら』という本で、
死について教育で教えるべきといっています。


2019年09月07日

源信僧都が立派な僧侶になった理由

源信僧都というのは平安時代の天台宗の僧侶で、往生要集を書いた人です。
往生要集は、地獄の有様が詳しく書かれていて有名です。
浄土真宗七高僧にもあげられています。

その源信僧都がどうしてそんなに立派な
高僧になったのかというと
お母さんも立派な方でした。

源信僧都が、天皇からほうびをもらって喜んでいたときに、
こんな歌のついた手紙を送っています。

後の世を わたす橋ぞと 思いしに
 世渡る僧と なるぞ悲しき



「後の世を渡す」とは後生の一大事を解決するということで、
仏教の目的であり、生きる目的です。
後生の一大事を解決すると、絶対の幸福になれます。

人々を絶対の幸福に導く僧侶になれよと思って
比叡山にやったのに、この世をどう生きるかということに
うつつを抜かすとは
悲しいことだ、ということです。



君たちはどう生きるか
という本がベストセラーになりましたが、
そういう生きる手段には関心を持つ私たちでも、
生きる目的は抜け落ちてしまうのです。

これに驚いて深く懺悔した源信僧都は、
姿勢を改めて後生の一大事の解決に向かい、
今日まで語り継がれる立派な僧侶となったのでした。

2019年09月04日

メメント・モリと生きる意味

メメント・モリという言葉があります。
メメント・モリは、ラテン語ですが、日本語でいうと
「死を忘れるな」ということです。

死というと生き物が死んでしまうことや、
誰か他の人が死ぬことを思い浮かべますが、
忘れてはいけないのは、
人の死でなく、
自分の死です。

忘れるなというのは、簡単に忘れているからでしょう。
人間はいかに、簡単に自分が死ぬということを忘れるということです。

現代人となると、まるっきり忘れ果てています。
死を目の当たりにすること、少なくなりました。

概念の死と現実の死は全く別物です。

昔は死がそこらじゅうに転がっていました。
飢饉や災害で膨大な死がありました。

死について考えるのは、生について考えることです。
昔の人、自分の死について考えていたからでしょう。

現代人は、その正反対の生き方をしています。

平均寿命が伸びたって、死ぬことは変わりません。
死は、自然の摂理なのに、人生の不条理のように扱います。

死を世の中から隔離しようとしているようです。
それが風潮なのでしょう。

人が死ぬのは当たり前です。

日本では、テレビ画面で死体を映すのはNGです。
死んだ瞬間にテレビに映しません。
死は、人の目から隠されます。

お茶の間に、本物の死を持ち込んではいけないということなのでしょう。
そのくせドラマでは、殺したり殺されたりが日常茶飯事です。
殺し合いをして、死体が山ほど転がっています。
すべて偽物の死です。

フェイクで、撮影が終われば笑って起き上がるとわかっているからです。
おかげで俺たちは死を忘れて生きています。

自分の死は今日か明日かもしれないのに、能天気に生きています。

だが、死から目をそむけることは、生から目をそむけることなのです。
生きてる実感も生まれません。

現代人のモラルが低下していると言われる理由はそれだと思う。
いつか必ず死ぬってことをよく考える。
引きこもりのニートだって、あらゆる人間にとって意味があります。

ビートたけしは
「メメントモリは道徳の土台なのだ」
と言っています。

死から目をそむけては、生きる意味も分かりません。
死を見つめることが、生を見つめることになるのです。

2019年09月01日

いろは歌…すべては移り変わってく

いろは歌をご存じでしょうか。

色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔いもせず

という歌です。

このいろは歌を作った人はだれかはハッキリしません。

弘法大師が作ったという説もありますが、
最近はそうでもないという説が強くなっています。

この歌を作った人、これをもとに作ったのであろう、
という言葉が仏典にあります。

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽

これは涅槃経の言葉です。
2600年前からある、ということです。

これを日本人の天才的な人が、
いろは歌にしました。

いろは歌の解説本は、いろいろありますが、
ほとんどこれ出ています。

いろは歌の最初は
色は匂えど散りぬるを」です。
意味は、どんなに満開の桜も散っていくということです。

続いて
我が世誰ぞ常ならむ
といわれます。

この世の中で、一体だれが常なるものがあるだろうか、
人間なら永遠に死なない人間があるだろうか、
モノならば、永遠に変わらないものがあるだろうか、

このことを、ここでは、諸行無常といわれています。


諸行無常という言葉は、仏教の旗印、三法印の一つです。
平家物語という古典の最初にも出てきます。

諸行とは、すべてのもの。すべてのものは、無常。
無常とは続かないということです。

これ、生滅の法なり。
生まれたものは、必ず滅する法なのだ、ということです。
posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 無常

2019年08月28日

般若心経の色即是空がアインシュタインを先取り

苫米地英人(とまべち ひでと)という脳科学者がいます。
『お釈迦様の脳科学』という本で、
「最先端の科学で神は否定された」
と言っています。
今日の科学を知っている人での存在を信じる人はいません。

むしろ量子論の結論と仏教の結論は同じです。

みんな仏教と聞くと宗教と思っています。
宗教は信じないとか言っています。

ところがブッダは、2600年前に科学を先取りしています。
思いあがっているのが人間です。

現代物理学の空への回帰がなされています。
素粒子から原子、分子、物質、生物・無生物となります。

それ以上、分割できないものになると思われていたのが19世紀までの科学です。
電子、陽子などの素粒子からできていると思われていました。

それもエネルギーから作られています。
粒子とも波動ともいわれるものになります。

原子核もクオーク
電子もレプトンというクオークです。
クオークは5種類くらい発見されています。

素粒子からエネルギーが取り出せます。
1グラムの物質は3000トン分の石炭を燃やしたエネルギーです。

アインシュタインの相対論から分かったこととして
E=MC2
Cは高速度で、3×10の8乗です。

これで原爆が作られてしまいました。
この式こそお経にあります。
般若心経』の「色即是空 空即是色」です。
色とは、形のあるもの。
空とは、形のないもの。
エネルギーといえます。

何もないのは無だろう。
しかし、無は無といわれています。
空といっても空気があります。
からは何かある。

アインシュタインと同じだと驚いています。

「このように、 差別の面と ところで我々は平素、たんぱんかん【担板漢】」
担板漢は、一面しか見えません。
そんなものが、仏教をあれこれいうことはできないのです。

そして、仏教には本当の生きる意味が教えられています。
posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年08月25日

プラトンの洞窟のたとえ・現実は真理の投影?

2千年前のギリシャの哲学者プラトンに、有名な洞窟のたとえというものがあります。
プラトンは人間を、洞窟の中で鎖につながれ壁しか見る事ができない囚人に例えました。
洞窟の壁には外で営まれている暮らしの影が映ります。
やがて彼らは壁に映る二次元の影こそ現実だと思うようになります。
振り返って美しい三次元の世界を見る事はできないのです。

このたとえの言いたいことは、
人間は現実の意味を決して理解できないのではないか
ということです。

現代物理学でも、量子論は、同じような結論に至っています。
私たちは、量子についてはすべてを知ることはできません。
必ずわからないところがあります。

この世界が量子でできているとすれば、
私たちは原理的に、自然を理解することはできません。
私たちに見えているのは現実の影だけなのです。

しかしトングは真実は更に奇妙かもしれないと言います。
壁に映る影こそが真の現実かもしれないとということです。
これはホログラフィー原理と呼ばれる理論です。

数学者はブラックホールに詰め込む事ができる情報の量を計算しようとしました。
そしてその量は体積ではなく表面積に比例する事に気付きました。

もしブラックホールがそうなっているなら
恐らく宇宙全体にも同じ事が言えるのではないかと
推理できます。

私たちは皆巨大なブラックホールの中にいる可能性があるのです。

宇宙にある全ては情報の断片だとします。
インターネットに収められた情報のようなものです。

インターネットの情報は、画面に表示すると二次元に見えます。
しかし、実は情報を保管しているハードディスクなどの記憶媒体は、3次元です。
情報は三次元におさまっているのです。

それが、二次元に表示されています。
それと同じようなものが
ホログラフィー原理です。

あなたも私も地球も星も宇宙そのものさえも。
三次元のものは全て実際には錯覚だと言うのです。
情報がおさまっているもっと高次元の世界があって、
それが三次元に投影されているだけかもしれません。

この理論なら、量子に不確定性があり、
すり抜けたりするのは、高次元の情報が
投影されているだけだからだと説明できます。

私たちが三次元世界だと思っている世界は
宇宙のどこかから投射されたホログラムだとも言えます。

プラトンは、それを知っていて、
洞窟の囚人にたとえたかのようです。
自分が見ている世界は、すべて幻であり夢であり、
真実は別にあるということです。

科学の探求がようやく到達していることですが、
私たちが見ている現実は、夢のような幻影に過ぎません。

ところが仏教では、
私たちは皆夢の世界に生きているのだと
教えられています。

そして、人生が終わるとき、
すべてはのように消えてしまいます。

生まれてから死ぬまでに努力して手に入れたものは
すべて消えて行きます。

ではなんのために生きるのでしょうか。
最後にすべて消えていくのに生きる目的は何なのか、
本当の生きる意味を教えられたのが仏教です。