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陽葵は、ひなたと読みます。仏教が好きな仏教ガールです。一緒に仏教を学びましょう。
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2019年07月23日

仏教は葬式ではなく生きる意味

仏教と聞くと葬式法事を思い浮かべます。

しかしそれは仏教を説かれたブッダの教えられたことではないのです。
ブッダが葬式をされたこともありませんし、
ブッダが亡くなられる直前、お弟子の一人が、葬式はどうすればいいのか聞きました。

するとブッダは、
「遺体の後始末はかかわるな、葬式ならそういうことをする人に任せておけ」
ひたすら教えを説きなさいと教えられています。

葬儀はもともと、仏教の教えではありません。
仏教がインドから中国、中国から日本へ伝えられるときに
混ざってきたものです。

中国、儒教も道教も先祖を大事にします。
それらがまざって、日本の土着の先祖供養の思いから、
仏教が葬儀が入ってきました。

しかし、仏教の教えは、本当の生きる意味一つを明らかにされたものです。


2019年07月19日

湯川秀樹と仏教

湯川秀樹生誕100年で2007年に発刊された『目に見えないもの』という本があります。
この本の中に仏教に関する記述が非常に多くあります。


「極微という言葉が仏教にある。
これ以上分割できない最小単位があるはずだと素粒子が提唱された」


最近ではさらにそれを分割してクォークというものが5種類か6種類か発見されていますが
現代物理学でいわれる素粒子のことを仏教では極微といわれています。
極めて微細。
言葉の感覚からいうとぴたっときます。
仏典にあります。


仏滅900年にしてインドに現れた世親の倶舎論でも・・・


世親菩薩ともいわれインドの言葉でヴァスバンドゥで覚えた人もあると思います。
有名な本を書いています。

「倶舎論の中で物質世界は4つの性質をもつ極度に微小なものでできている」

これは素粒子というにほかなりません。

ノーベル賞をとった人の物理学の文章に仏語ではこう、
物理学ではこうといっています。
昭和18年ですから戦争終わる前、戦中です。

ノーベル賞を取られる前です。
物理学と一緒に仏教も研究されています。

極微といえば素粒子です。

それには固い性質、湿った性質、温暖性 動性があります。
クォークには波動のようなもの、質量をもった粒子のような性質もあります。

物質の最小単位が振動すれば温度にもなります。

ブッダのみられた物質の最小単位は科学の実験顕正した結果とぴたっときます。
この本は物理の本ですが自然にぽつぽつと仏教の内容がミックスしてできています。

それというのも、ミックスできるからです。
もうミックスできない内容ならミックスできない。
ぶつかってしまいます。

仏教は科学とぶつからないのです。
その上で仏教は、科学に取り扱えない
本当の生きる意味を教えられています。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年07月16日

人工知能の研究にブッダの論文

ただ今、若者で宗教という言葉でいいイメージをもって好きという人はないでしょう。
しかし仏教は、明らかにキリスト教などの宗教の教えと違います。

科学が進歩するほど、仏教はすごいという人がいろんな方面から多く出てきます。

田原総一朗さんの本に出ていました。
朝ナマの司会やってテレビ出てきます。
ものすごいなんでも出てきます。
全然仏教と関係ない処に出ていたものです。

昭和60年11月、MITのキャンパスだった。
たった今人工知能の世界的権威であるマービン・ミンスキー教授にあったばかりで・・・・・
現在の研究のターゲットはなにかと聞くと彼は
「今ブッダに関しての論文を書いているところだ」
数学者で人工知能の権威がブッダについての論文を書くとはどういう事かとうと
人工知能をやろうとすれば人間の知能、心の仕組みがターゲットになり、
特に心の研究には仏典が比類なきテキストになるのだ」
なぜキリスト教ではなく仏典なのか?
「キリストは道学者であるのに対してブッダは優れた心理学者だ」

人工知能とは人工的に心をつくりだそうというもの。
それには人間の心をよく知らなければならない。

やっぱどんな道でも極めた人は仏教にたどり着きます。
ここでブッダといえばお釈迦様のこと。
こんなことが普通のビジネス本が出ています。

posted by 陽葵 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年07月13日

隠れ家は、心の底の奥の院

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、
私はこういうものだったと知らされて
主著の教行信証などに書かれたお言葉がいっぱいあります。

つまりブッダのお言葉間違いなかった。
私の事だったと
本当の私の姿が疑いなく知らされた姿を書かれ、
それがそのまま全人類の姿であった。
自分の姿を通して全人類の姿を明らかにされています。

親鸞聖人ほど自分の罪悪に苦しまれ自分の罪悪に苦しまれた方はない。
親鸞聖人ほど罪悪観の深い人はないと評されます。

心と口と体
法律では一番中心は体。
体で人を殺したなら逮捕。
あんなやつ死んでしまえと心で思っただけで逮捕ということはない。

心で思っただけで逮捕、昔そういう映画もあった。

未来を予言する能力を持った人が特殊警察みたいなのに囲まれて明日ここでこういう事件が起きます。
明日殺人事件が起きるイメージ。
殺される人と殺す人が全部わかる。
明日殺人事件を起こす人を今日逮捕する。

これが完璧に行われれば殺人によって死ぬ人は0になる。
最高の防犯だというのが開発されたという映画。

だけどそこに問題があって、それを逆手にとって犯罪を犯すものがあったがそれは映画を見てください。
そういう映画を考えつく人は体でやってしまったら
ダメだけど体でやるものは必ず心で思ってからやるはずだから心が重い。
こっちが先だということ。

しかしながら仏教では2600年前から、口や身体よりも、心を最も重く見られています。


posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2019年07月09日

仏教にあって哲学にないもの

本当の幸せになるには、
人間とはどういうものかを知らねばなりません。

人間の心を見て行くと、煩悩とか罪悪が出てきます。
人間というものをみつめるとき
煩悩だとかだとか悲観的すぎるのでないかと思う人もあります。

たとえば人間というものを観察しているのは西洋哲学でもあるんでないかという人もあります。
だけど結論からいいますと哲学者も自分とはなにか、
汝自身を知れ、自分を見つめねばならぬといいますが
哲学に決定的に欠落しているものはなにかというと罪悪観です。

仏教では無常観と罪悪観の2つが大きな柱です。

この世は無常だ、どんなものも続かない。

例えばいろは歌の前半はこれです。


この世は無常ですよ。この世が無常であることを観よ。無常観。
哲学でも人間生まれたら死ぬものだ。
死をみつめよという哲学はあります。

しかし、罪悪観はないのです。
posted by 陽葵 at 12:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年07月06日

上野公園の矢ガモ

平成のはじめごろ、矢ガモというのがいました。

上野公園に矢が貫通して当たりどころがよかったか、そのまま生きているかもがいました。
可愛そうですとカメラでおいかけて1カ月ほど見物人がたくさんつめかけました。

そして、保護されて矢が抜かれて放されました。

料理店でその矢鴨のテレビをみながらなんと酷いことをと顔をしかめて
カモ鍋を食べている人がいました。

これはどっちが残酷かわかりますか?
矢を放った人とカモを切り刻んで美味しいなとたべている人と。

カモを殺して食べている自分と、どっちがかわいそうなことをしているでしょうか。
自分のことはわからないものだなぁと思います。
仏教ではこれを殺生といい、地獄へ落ちるです。

こんな自己矛盾はいくらでもあります。
いかに自分の姿がわからないかということです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年07月03日

煩悩即菩提の即とは

以前、絶対の幸福、煩悩即菩提の話をしましたが
煩悩がそのまま菩提になる
苦しみの元である煩悩が、即、そのまま、同時に菩提になる、
ということです。

「即」という言葉の使い方は2通りあります。
仏教では「同時即」という意味と「異時即」とあります。
異なる時間を表す即と同時を表す即とあります。

世間でいわれる即は異時即です。
即席ラーメンといったってお湯を注いで、はいできた!
ということはないでしょ。3分は待たないとできません。
ご注文頂いたら即配達します。
じゃあ注文ボタン押したら玄関でピンポン!
これはありえないでしょ。
だから即といっても異時即です。

ところがこういうところで使われる即は同時即です。
煩悩で苦しんでいるままで菩提。
それが煩悩即菩提です。

煩悩が喜びに転じますから、
煩悩で壊れることのない幸せです。
これが絶対の幸福です。


posted by 陽葵 at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年06月29日

「鎌倉新仏教」の名づけ親

浄土真宗の8代目、蓮如上人は、一代でわずか1カ寺、本堂が32畳だった本願寺
石山本願寺という今日の大阪城の元になったあそこへ巨大な本願寺へ成長させられました。
倍数でいえば100倍1000倍規模の本願寺に大発展されました。

それで今日形だけではあるけれど今日日本で一番大きい仏教の宗派はというと
浄土真宗・本願寺。
そうなったのは蓮如上人の時です。

なんでかというと法然上人・親鸞聖人は
さっきの承元の法難で解散させられてぶったぎられましたから
今日みたいな状態には至りませんでした。

それが今日のように浄土真宗と浄土宗がほとんどになりました。
中でも浄土真宗が大発展したのは蓮如上人のおかげです。
だから浄土真宗の人たちは蓮如上人を大変尊敬します。

ところが蓮如上人の時代、蓮如上人の首には賞金がかけられていました。
蓮如の首とってもってきたら一生涯たべてくらせる賞金を与えると
当時街頭に蓮如上人の似顔絵が描かれて
これが本願寺の蓮如だ、この首を持ってきたら金100貫文与えると
西部劇でいえばWANTEDの手配書が出ていました。

誰がその賞金だすのかといったらこれまた比叡山です。
もうこの点比叡山というのは、今は観光地だからは形だけだけど
私たちこそ仏教だ。
あんなものは新興宗教だ。
そういう扱いでした。
だから彼らはいつも自分たちこそが正しい仏教だ。伝統仏教だ。
そして法然、親鸞こいつらは新仏教だといった。
今日歴史の勉強をすると鎌倉新仏教という言葉が出てきたでしょ。
あれはこの連中がそういった。
別に新仏教じゃないんです。
もし新仏教の「しん」を書きたかったらここに書くべきは「真仏教」と書くべきです。
意味からいえば、内容からいえば。

ところが日本の歴史ではいわないでしょ。
あいつら鎌倉時代につくった、
新仏教やと伝統仏教の連中がいうからです。
それで新仏教といわれるんで本当は正しい仏教という意味の真仏教です。
ところが日本人は「伝統」という言葉に弱いんですね。
伝統!とか元祖!とか。
ラーメン屋でも元祖つけたら客が入るというぐらいです。

新というと悪いものというイメージがあります。
今では新興宗教というとよい感じしないですよね。

だから新というのはね。
新幹線はいいが、あとは新しいのはどうも・・伝統があるのがいいなとなるんで
こうして今では弾圧した天台宗よりも浄土真宗が大きくなったのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 罪悪

2019年06月26日

親鸞聖人・法然上人が島流しにあわれた本当の理由

法然上人も親鸞聖人も今日、歴史の教科書に出てくる偉人です。
そんな方がなぜ島流しにあわれたのでしょうか。
悪いこと何もしておられない。
悪いことどころか、人々を本当の幸せに導かれた。
なんせこの2人が説かれたことは
その内容はすべての人が本当の幸せになれる道です。

本当の幸せとはどんな世界で
どうしたらこの世界に出ることができるのかを
教えられた2人が、当時の仏教界の僧侶たちにとっては
邪魔だったんです。

なんででしょうか?
彼らは間違った仏教を仏教としてそれで生活していたからです。
分かり易くいえば仏教といっても名ばかり、形ばかりでした。

今日でも仏教といったら何かいったら、
仏教といえば葬式するもの法事するもの。
をたてて墓番するもの。
仏教といえばそういうイメージではありませんか?

葬式も法事も墓も人が死んだら用事があるものですから
死人相手のものが仏教になっています。

ところが本当はそうではありません。
仏教という教えは生きた人相手に生きている時に
苦しみ悩みの人生、今日解決できました!
いつ死んでも悔いなしこういう幸せに導くのが仏教です。
それをこの2人は教えられた。

ところがそんなこといわれると、
死人相手の仏教が間違いだということが明らかになってしまいますから、
彼らは収入源を失います。

実際に多くの人がこっちいっちゃいましたから。
これは面白くありません。
それで、本当の仏教を明らかにした2人の方が島流しにあわれたのです。

posted by 陽葵 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2019年06月23日

仏教史上最大の法論・大原問答の結果

仏教の歴史上、最も大きな仏法上の争いは、
大原問答でした。

法然上人が、当時仏教界全体を相手に戦われました。
1人対380人です。

ところが、380人集まっても、法然上人の勝ちでした。

それは腕力ならやっつけられるでしょう。
いくら横綱でも380人に囲まれたら倒れるどころではありません。
圧死するでしょう。

法然上人も体力なら絶対負けるけど仏教上の争い、
智慧と智慧の戦い。口一つで戦います。

それでも勝てるだろうと3日3晩論争したといわれます。
こっちがこう質問したらあっちがこう答える。
逆にあっちが質問してこっちが答える。

この時の記録は今も残っているので読もうと思えば読めます。
仏教の専門用語が飛び交っていますから
普通の人が読んでもなんのことかわかりません。

仏教の内容からいうと興味深い内容が戦われました。
3日3晩戦われた結論、法然上人の完全勝利でした。

380余人は何もいえなくなって敗北しました。
それでどうなったかというと、
380人の中の多くの人が法然上人の弟子になりました。
負けたからです。

昔の人は律儀でしたから負けたら相手の弟子になります。
それを負けたのはちょっと風邪引いとったからだ、
そんなこと言っているのは情けないということです。

一部そんな情けない者がいて残ったんだが多くは弟子になりました。
その結果、法然上人の名声を高めることとなったのです。

posted by 陽葵 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 実践