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冬の紳士
定年前に会社を辞めて、仕事を探したり、面影を探したり、中途半端な老人です。 でも今が一番充実しているような気がします。日々の発見を上手に皆さんに提供できたら嬉しいなと考えています。
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2016年12月15日
第2回 歴史 第3部中世13【日本は古代・遣唐使】
〈遣唐使〉
 遣隋使の時に、日本は無礼といわれるのを承知で、隋の冊封を受けずに、自立した君主であることを認定させ、冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を示そうとした。中国がそれをしぶしぶ認めたのは、日本が高句麗と結ぶことを警戒した為というのは、お話ししましたが、「隋書・倭国伝」では、帝王に対し、あなたは仏教の交流を行っておられるから朝貢すると言っているようです(司馬遼太郎「空海の風景」)。中国の皇帝だからではなく、仏教という(中国ではない他国の)普遍的な宗教を信仰しているから、私と同じだから敬うんですと言っている。それで聖徳太子の「日出づるところの天子・・・」に繋がるわけですね。
遣唐使は630年から始まり、894年菅原道真が遣唐大使に任命された際に、(藤原氏の陰謀を感じたかどうかは判りませんが)派遣の可否を奏上したことをきっかけに、以後消極的になり、派遣されなくなりますが、その間十数回実施され、唐の進んだ政治や文化を学ぶ重要な役割を果たした。長安の都市計画や律令を学ぶためというのが大きかった。そうかといって、仏教や道教などまじめなものばかりでなく、好色小説「遊仙窟」や錬金・練丹術の神仙道を紹介した葛洪の「抱朴子(81)」などを持ち帰っている。「遊仙窟」などはあちらで絶版になったものを現代中国で逆輸入して大いに喜ばれているようです。紫式部は読んでいるでしょうし、空海は「抱朴子」は間違いなく読んでいる筈です。
回賜(かいし)というお土産を山のようにもらってきた。日本はそれでも、律令にしても中国の物真似ばかりではなく日本独自の律令を作ろうとしていたところが偉い。唐側でも、日本から授戒など正式な戒律のあり方を知るものを派遣してほしいという要請などあったが誰も引き受けたがらなかった。そんなとき、聖徳太子の徳を慕っていた鑑真がひき受けた(当時中国では、聖徳太子の前世は中国の高僧だったということが信じられていた)。長屋王の要請文にもこころを打たれていた鑑真は5度の難破や失明にもめげず、来日を果たし、日本に天台学や正式な戒律を伝えている。彼が聖武天皇の願を奉じて建立した唐招提寺の御影堂にある鑑真和上像は、脱活乾漆造り(82)の傑作ですね。生命感というものとは反対の霊感というべきか、もう圧倒されるしかない。
場所そのものに居る。存在というものはこのようなものかと思わされます。
 アランに、「出現」の彫像家と讃えられた高田博厚が「彫刻史上最上の肖像彫刻だ」と絶賛したのも肯けます。
鑑真和上座像.jpg
鑑真和上

 特に日本からの航海たるや並大抵のものではなく、難破や沈没はざらで、むしろ安全に長安にたどり着く方が奇跡だった。偏西風一つ考えても、当時の稚拙な航海術と小さな船で逆風に逆らって西に向かうことの危険は容易に想像できる。対馬海流も方向は逆です。それに輪をかけて、航海の出発日時は、陰陽師や風水師の占いで決められた。嵐が猛り狂っていようと、日が良いからと出発を命じる。逆らえば死刑。これでは難破しない方が不思議ですね。それほど当時は「占い」「祟り」というものを信じ切っていたわけです。平城京から平安京に落ち着くまで何度遷都したことか。これも風水や占いで祟りを恐れて、事あるごとに移ったわけです。
こうして続けられた遣唐使のルートは、4つくらいあった。
@北路(新羅西岸沿いに進み登州から陸路)A南路(海路で江南に向かい、蘇州・杭州などを経て長安に向かう)B渤海路(新羅東海岸沿いに北上して、渤海に入り、そこから大回りをして、南下して長安を目指す)Cその他(南路から北や南に逸れて、南から北上する)があり、いずれにしても危険を伴う航路でした。そればかりか、異国に漂着して処刑されることもしばしばあったという。不思議なことに新羅(朝鮮半島)を陸路向かうことをしない。渤海という朝鮮半島の北の国を経由している。どうしても新羅に世話になるのが嫌だったのでしょう。渤海王は高句麗の末裔と称していて、日本は新羅との対抗上友好的な外交関係にあった。こんなわけで、藤原氏はライバルになりそうな有能な人物を遣唐使のメンバーに加え、海に沈めたともいわれている。
こんなわけで、894年廃止されるまで恐怖は続いた。
 遣唐使廃止にはこのような航海の恐怖と共に、唐の変質が挙げられます。それは政治的混乱と共に、廃仏に走り、民族主義に戻ってしまったことも大きいといわれます(当時の長安は国際都市で、世界中から人や物が集まり、唐自体が異民族国家であったが故に可能だった仏教中心の世界普遍の文化を誇っていたのです。それが、各地で反乱の手が上がり、政治を顧みない玄宗は、寵愛した楊貴妃と共に、没落し、唐は自国中心の偏狭な民族主義に堕していったのです)。死を賭して行くほどに学ぶべきものはもうないと。更にもうこの頃は遣唐使がわざわざ国から派遣されなくとも、僧侶や新羅・唐の商人たちによって、唐の情報や文物は入手できるようになっていたのです。遣唐使が派遣されなくなっても、民間での貿易や交流は、摂関や有力貴族の個人的な援助なども含めて、宋の時代になっても続きます。時代は、国に世話にならなくても、個々に勝手に動く、分裂の時代である中世に近づいていたのです。

注81)  葛洪(かっこう)著「抱朴子(ほうぼくし)」
神仙の道、仙人になるための方法を書いた書として知られるが、いかがわしい夢物語を書いたのではなく、儒者たちの言ばかりが採り沙汰される風潮の中で神仙道が唯一の自然科学であったことを、葛洪は研究者(只の人)として平明に人々に伝える目的で書いたとしている。
「〈微妙な道は理解しがたい。だから疑う人が多い。私は人並み以上の知恵は持ち合わせないが、ちょうど鶴が夜半の時刻を知り、燕が巳の日を知るように、あることだけを知っている。だから全体もわかるのだ(巻5)〉。特殊な生物が特殊な能力を持つということは(超能力ではなく)、どんな生物も必要な知識と能力を持っているものだということを説明しているに過ぎない(*)」。人間も、人間に与えられた能力を極めることで「既に」全体を知っていることになるのだということですね。どうですか。空海もそうですが、既にこの時代に「部分を語ることが全体を語ることだ」ということを知っていた人間がいたことだけでも驚きですね。
(*)松岡正剛「遊学」T中公文庫P46

注82) 脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)
 土や石膏で原型をつくり、その上に麻布を数枚漆で塗り重ね、乾燥したのち、中の原型を抜く方法。奈良興福寺の十大弟子像や阿修羅像など天平時代の仏像に多い。脱乾漆。夾紵きようちよ。芯のない脱活乾漆なので、収縮して静かな内省的な像となる。従来の塑像(心木と荒縄で巻いた銅の針金を芯とし、粘土で造る技法は中国伝来のもので、特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。日光・月光菩薩像などが代表的)と比べ、漆が乾燥というより、固められて干割れしにくく、ヴォリュームが出やすい。

参考) 乾漆棺・・・漆(うるし)塗りの棺で、飛鳥(あすか)時代の古墳に用いられた。木棺を漆塗りにした木芯(もくしん)乾漆棺と、布を漆で固めた脱活(だっかつ)乾漆の夾紵(きょうちょ)棺がある。木芯乾漆の場合は、やがて木芯の上に塗った乾漆をとってしまって木材そのもの、一本彫りの仏像が出てくる。これが密教仏像になります(高雄・神護寺の薬師如来など)。力感と生命観にあふれた木像(*)です。
(*)丸谷才一・山崎正和「日本史を読む」中公文庫p34


2016年12月09日
第2回歴史第3部中世12【日本古代・万葉集】
〈万葉集〉
 日本在来の文学であり、天皇から庶民に至るまで広く詠まれた和歌を収録した歌集(アンソロジー)である「万葉集」もこの頃(8世紀後半)に編纂されました。新しい試みがなされました。万葉仮名を使い、漢字を音訓両読みしたのです。いよいよ新しい文字へのスタートを切ったのです。
唯、古事記のところでも述べたように、万葉仮名は漢字だけで書かれており、現在私たちが読んでいるような漢字仮名交じりの和歌として再生させるには、何世紀にもわたる先人たちによる血のにじむような解読の歴史が必要でした。平安以来の学者たちもそうですが、江戸時代の古典学者・契沖、国学者・真淵、宣長らの努力に負うところが大きいのです。

当初は、斉明天皇や額田王など王族の歌が多く、呪術性・集団性・自然との融和性が目立つが、柿本人麻呂のころから枕詞や対句を駆使されて和歌の表記法も確立し、天皇制や律令国家の創設期である時代の空気を高らかに歌い上げた。
小野老(おゆ)の大宰府における望郷歌

「あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今盛りなり(巻三・328)」はそこをよく見せてくれる。

人麻呂の名は、一人でなく集団を意味する言葉ともいわれるが、謎のままです。
彼の歌は、言霊の原理を熟知し、「代作」という方法から歌枕などを駆使して、古代日本が深い闇の中に抱える魂の世界を、皇族たち(持統天皇)に成り代わって、言葉(日本語)にして、すくい上げて見せた。皇族の気持ちを代弁したから体制側の人間(舎人・とねり=下級官人で天皇や皇族に近侍し護衛を任とした)であり、それだから駄目だなどという素朴でナンセンスなことは言いません。
この世に生きること事体が体制なのです。体制が無ければ、反体制など気取れません。

建築が芸術の母であるように、体制は言葉(文学)の母なのです。人麻呂はこの体制にあって、自らの個を殺し、集団の中に自らのエネルギーを埋没させながら、天皇を始めとした皇族の威厳や悲運を言葉に乗せて解き放ったのです。それは彼(彼等・人麻呂集団)自身の個人的な想いを越えて、更には皇族たちの思いをも越えた、日本人の普遍に届いたのでした。その普遍こそ、モラルの支配する現実から離脱した、格調の高さであり風雅です。

それは「様式(77)」
というものでした。彼は芸術家の(様式の喪失による)「孤独」など知りません。「様式」が支えてくれているからです。彼らは、ヨーロッパ中世のところでお話ししたように、アルティスト(芸術家)ではなくアルティザン (職人)という意識で共同体の為に生きたのです。
常に聴者(読者は未だ存在しません)と共にあるのです。
そういう縛りが強ければ強いほど、どこにも個性など出る幕のない、伝統や型(フォルム)に縛られれば、縛られるほど、抑えても抑えきれない昇華された「もの」が、自身の個性的な感情や思想などよりも、もっと大きな「様式」という舟に委ねられて、にじみ出てくるものなのです。様式はどんな天才といえども作り出すことなどできないし、消えてしまったら元に戻すことはできない。それは時代の無意識であり「うねり」だからです。後の能にもこの伝統や型(フォルム)の縛りと、そこから浮かび上がった様式は色濃く残存していますね。顔を隠す面こそが、「おもて」となるのです。であれば「うら」とは一体何でしょうか。
私たちが表だと、思い込んでいるものでしょうか。

「東(ひむがしの)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」(巻1・48)
(安騎野の東方の野の果てに曙光がさし染める(かぎろいは、陽炎ではなく、明け方東方にさす光)。振り返れば西の空に低く下弦の月が見える)

この場所でこの方向に曙光(しょこう)が輝き始め、ちょうど反対の西に月が傾く光景が成立するのは、西暦692年12月31日の午前5時50分頃だそうです。持統天皇の6年に当たり、軽皇子(かるのみこ)に付き添った人麻呂一行が、安騎野での旅宿りの朝、目の当たりにした光景です。安騎野という場所は、古代社会では多くの外来魂と触れ合うことのできる結界だったようで、当然ある目的があってそこに行ったわけです。持統天皇は天武天皇の妃であり、その死後皇位を継いだのだが、子の草壁皇子が画策の末ようやく皇位継承権を得たものの、天武の死後すぐに病死してしまい、孫の軽皇子(文武天皇)に継承させたいと願って安騎野での冬狩りが計画されたとみられます。これは漢字学者・白川静さんの見立てで、万葉的世界で最も雄大で難解といわれてきたこの「安騎野の冬猟歌」は、単に自然の美しさを詠んだ叙景歌、誰かが亡くなった孤独な挽歌だけではなく、軽皇子を皇太子として立たせるための、大嘗会(古代天皇の天皇霊の授受を行う行為)に見立てた呪術的行為だといいます。しかもこの前後は冬至に当たり、翌日から日が長くなる復活の日に当たります。冬至と王権交替は、世界中で繰り返された儀式です。この儀式は「朔旦(さくたん)冬至説」から来ていて、朔日(太陰暦で新月の日=旧暦11月一日)と冬至が重なるのは19年7か月周期といわれます(新月はまた、これから満月に向かう月の復活でもあり二重にめでたい)。持統天皇が始めたといわれます。伊勢神宮の20年遷宮もここから来ているでしょう。
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下弦の月と「かげろひ」

やがて律令体制が整い、藤原一族、道鏡などの僧侶、長屋王らとの権力闘争が暗い影を落とし、追い落とされた皇族や大伴、佐伯などの旧豪族は政治の表舞台から姿を消し、摂関独裁へ傾く中、大仏造営に取り掛かる藤原仲麻呂と反対勢力との暗闘は、古代天皇制の専制の危機と仏教の権威でそれを回避しようとの体制の崩壊を暗示するものだった。公地公民制に代わる荘園制、藤原氏の摂関制度など新たな権力が育ち、他の勢力は一掃された。
こうした時代を背景とした万葉は、大伴・物部氏などの敗者を祀る「鎮魂歌集」としての姿も垣間見せます。保田與重郎が万葉集を、敗者の美学とみるのもそこにあります。
勝者は高級クラブで漢詩を書き、記紀に詩歌を載せる。敗者は時の権力者藤原一門の歌は載せずに、赤ちょうちんで万葉に和歌を載せる。壬申の乱で天武系が天下を取った後、久しぶりに復権した天智系(?)の光仁天皇の時に完成した万葉集だからこそ、(天武に敗れた)敗者に対する挽歌として万葉集は編纂されたという一面があるのは確かだと思います。

人麻呂と同世代でありながら、長生きした憶良や旅人は、藤原四家の権力の下、名門大伴氏の衰退を感じて、詩を個人的信念表白の場としてしまい、人麻呂の神話的世界観とは異にするものになった。家持に至って、名家没落の意識はこころの多くを占め、「貧窮問答歌」など、名を立てられなかった不満感がみられ、共同社会から離された孤独意識の強い近代人的悲哀が窺われます。
「悠々(うらうら)に照れる春日に雲雀あがり、心かなしも。独りし思えば」巻19・4292

「春の野に霞たなびきうらがなし。この夕光(かげ)に 鶯鳴くも」巻19・4290

とはいえ、万葉集が決して、当時の庶民の生活を詠ったものではないことも、心にとどめておくことは大事なことでしょう。平城京にしても斑鳩の郷にしても、平安京にしても、瓦屋根の建物・椅子に座っての執務など当時のハイテクの極みであり、周りは良くて檜皮葺(ひわだぶき)、地方に行けば竪穴式住居に住む人もいたのですから。万葉は防人歌、東国歌などを除いて、ようやく都会に生まれつつあった文化を詠った歌でもありました。

それでも万葉集は、「呪能が芸能に、呪詞が文芸に、集団のパフォーマンスが次第に個人のパフォーマンスとして成立(78)」する過程を、あたかも古代から近代の成立までの日本の詩歌の歴史を、150年間に亘ってデパートのように雑多に拡げてくれた玉成混淆の歌集なのです。「この一世紀半の間に、詩は神々の時代の蒙昧から抜け出して、近代の孤独の詩にまで到達する。僅か一冊の歌集でありながら、古代から近代にいたる詩的体験が圧縮されている(79)」のです。それは「日本の小説が、後の「源氏物語」の内部において、もっとも素朴なものから発展して最後に、最も近代的な「宇治十帖」の世界に到達した(80)」のと呼応しています。古代の中に近代が同居することもある訳です。


注77) 様式(スタイル)
語源的には、尖筆(とがった筆の先)の意味で、転じて文体の意味となった(ビュッフォン・「文は人なり」)。ゲーテはこの概念を芸術の主観的・理念的契機、客観的・素材的契機との調和的協同を示す最高の美的価値概念としたが、現代では芸術的形成の類型的規定性を示す概念として美学・芸術学上の重要な述語となっている。以下の諸条件によって様式区分される。@作品の素材、技巧、使用目的などA作家の個性、素質、世界観などB時代、民族、地方、流派、世代など集団的全体精神の傾向や精神的雰囲気(バロック様式、フランドル様式など)C芸術のジャンルの根本方向(音楽的、宗教画的、抒情的など)D芸術的形成の本質的可能性に基づく大局的方向(視覚的と聴覚的、アポロン的とディオニソス的、素朴的と情感的など)。
ここでは、古代ですからB〜Dを想定していただければいいと思います。
難しいですが、私などはぶっちゃけ、様式とは、卑近なところでは、作品を作ってみてもらうためには、時間内に収めなければならないとか、視聴率を上げなきゃならないとか、自営業でも、厳しい環境だったら、食べていくためには、休んだり、遊んだり出来ないという、しょうもない条件、けれども、それを守らなきゃ現実と繋がらない大事な縛りを、敵としないで、自分と一体化する生き方にも現れるものだと気楽に考えています。
また、一度味わってしまったら自分を売り渡してしまう「元気先取り」の覚せい剤や、一度知ってしまったらそこから抜け出られなくなる「自由、平等、愛」や「規律、支配、憎悪」などの固定観念にどっぷりつかり、それと戦い、もがく姿も、時代の様式を生むのかもしれません。時代の人格とでもいうものでしょうか。

注78) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎P78

注79) 山本健吉「古典と現代文学」新潮文庫1960年10月P49
注80) 同P110

2016年12月02日
第2回歴史第3部中世11【日本古代・藤原一族の盛衰】
〈藤原一族の血のマネジメント〉

【黎明期】 
中臣(神の言葉を管理する神官一族)から藤原(治水技術を持つ一族)に姓の変更(73)をした藤原鎌足はいよいよ政治的に力をつけていった。藤原氏は律令国家の建設に、大きな役割を果たし、律令(74)制の下での官僚貴族としての道を早くから歩んでおり、大伴氏などの様な律令制以前からの古い職務に固執した他の氏族は、陰謀に巻き込まれたりもして、没落していった。律令制の浸透と共に、時代は以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係から、天皇の権力の強い、天皇との個人的な結びつきで地位が左右されるように変化し、文人としての教養・官吏としての政務能力・天皇父方の身内・母方の身内などが重用された。こうした中で母方の身内・外戚の藤原氏が勝ち残った。
鎌足の子・不比等は、娘を文武天皇の皇后にして姻戚関係をつくり左大臣にまで上りつめた。その権力は息子たち4兄弟(南家、北家、式家、京家)に引き継がれ、不比等の死(720年)後、四氏は光明子を聖武天皇の后にするため、それに反対していた天武天皇の孫で皇位継承者の長屋王をも自害に追い込み(729年)、実権を握ったが、737年4兄弟とも流行の天然痘であっけなく死亡し、藤原氏は、暫くは政治の表舞台から退けられます。当時は同じ川を飲料と排泄物処理の両方に使っていたことが流行の原因とされています。
その後四兄弟の子は、式家・宇合の子である広嗣は地方豪族と結託し広嗣の乱を起こすが敗れ、南家・武智麻呂の子である仲麻呂(恵美押勝)は、忌部氏、高橋氏、大伴氏、紀一族を追い落とし、天皇をも凌ぐ実権を握るが(757年)、道鏡を寵愛した孝謙天皇(女帝)と対立し最後にはクーデター(恵美押勝の乱)を起こし敗北する。そのあと、一度退位し、称徳天皇として再び皇位に就いた彼女は、道鏡を法皇にまで昇らせ、道鏡も皇位に就こうと画策する(宇佐八幡神託事件)も、称徳の弟・和気清麻呂や式家・藤原百川らに野望を阻止され、天皇の死後、道鏡は追放される。
光明子は光明皇后として聖武天皇との間に孝謙(称徳)を生み、彼女は女性天皇として生涯独身を通したのですが、ここで天武・聖武系の血統は絶えたのです。

 次の天皇を選ぶにあたり会議が開かれ、左大臣藤原永手(北家)、参議の藤原良継(式家)等の推す、天智天皇の孫白壁王(公仁天皇)が選ばれ、一見、天武系から天智系への転換とみられたが、どっこい公仁天皇は自身が天智系であることをアピールしたものの、その実聖武天皇の子である井上内親王(聖武天皇の子)を皇后として、二人の間に生まれた他部親王(おさべしんのう)を時期天皇にして、天武(聖武)系の復活をもくろんでいた。
左大臣・藤原永手(北家)が亡くなるとすぐに、井上皇后が公仁天皇を呪詛したとの罪で追放され、その子の他部親王(おさべしんのう=公仁天皇が次期天皇に押そうとしていた)も廃太子とされ公仁天皇の目論見も消された。式家の藤原良継(宿奈麻呂)や百川の陰謀と言われる。そこで本来家柄的に氏族出身の母を持ち、皇太子になれない山部親王(桓武天皇)に皇太子の座が転がり込んできた。母の高野新笠は百済系渡来人の娘(公仁天皇の夫人ではあったが)だった。
桓武は、式家の良継に恩義を感じていたようだが、南家の藤原吉子との子であり、豪放な性格の伊予親王をかわいがった。又南家を優遇した。未だ桓武に対する反発も強く、自身の出自を正当付けようと、長岡京(山背の国であり、母方の渡来系氏族ゆかりの地)遷都を始めとし、様々な変革を印象付けようと動いた。桓武が絶大の信頼を寄せていて、長岡京造営に当たっていた藤原種継も式家の人間だが、又母が新羅系の渡来人秦氏(古くから土木技術に優れていた)の出身でもあり親近感を抱いていた。その種継が暗殺された。桓武は怒りと共に、保守的で遷都や政策に反した考えを持っていた、大化から続く氏族や皇太子の早良親王にまで咎を追わせて葬った。しかし長岡京の立地が悪く水害や丘陵の段差などで工事は難航し、合わせて早良親王の怨霊への畏れから、再度、同じ山背の国である平安京への遷都が行われた。ところが桓武の可愛がったことがあだとなり、式家の藤原仲成の陰謀にあって伊予親王は母と共に幽閉され自殺した。この事件をきっかけに南家は没落する。
桓武の死後、即位した平城天皇は、式家の藤原良継の娘・乙牟濾(おとむろ)の子であり、神経質な男で、父の死に際しては一人で立つこともできず、幼少のころの早良皇子に続いて、吉子・伊予親王の霊にも悩まされ、すぐに譲位して上皇となった。弟である嵯峨天皇に即位させておきながら、平城上皇は、寵愛していた式家の藤原薬子(くすこ)と共に、平城京への遷都と天皇復位(「二所朝廷))を企むが、天皇側の迅速な対応で、上皇は出家、仲成は射殺、薬子は自殺し、ここに、桓武に重用され長岡京で暗殺された藤原種継以来の式家も没落し、嵯峨天皇に近づき、即位後、初代蔵人頭に就任し、後の繁栄の基礎を作った藤原冬嗣を始めとした北家の台頭を許す結果となった。
 このような事件が起きる政治的システム上の欠陥は、当時の儒教的家父長的権威に原因があった。奈良時代までの王権は、天皇だけに権力が集中するのではなく、上皇や皇后もそれぞれ政治権力を分け合っていた。それが、皇后については時代末からそれまで宮城外に独立していた皇后宮も内裏の内に取り込まれ、唐風文化の広まる中儒教的男尊女卑の風潮に押し込まれ、徐々にその地位は低下していったのですが、上皇については依然として太上天皇(上皇)として家父長としての影響力を持っていた(ただ皇后は内裏に留まり、天皇と共に住んだが故の「母后」としての人事や政治に対する影響力は、女帝になるほどのものではなくとも、依然保持していた)。

【北家台頭・摂関政治開始期】
 9世紀になり、北家の冬嗣は、有能な官吏として嵯峨天皇の信認を得て左大臣まで出世し、娘の順子を仁明天皇の妃とし、道泰親王を生んでいた。冬嗣の子・良房は、その前に既に、仁明が皇太子に立てていて、前帝・淳和天皇の子である恒貞親王を謀反の疑いで廃し(承和の変)、妹順子の子道康親王(文徳天皇)を皇太子とした。
(薬子の変の反省から、実の兄との争いを避けたいとの嵯峨天皇の思いが込められた配慮で、実の子正良親王(仁明天皇)が生まれても、最初に決めていた弟の淳和(天皇)に皇位を譲っていたし、淳和も即位後すぐに嵯峨の子正良親王を皇太子として、淳和が譲位すると、即位して仁明天皇となった。彼も淳和の希望を尊重し恒貞親王を皇太子に立てた。この互いの甥を交替で皇太子=天皇とするというやり方が混乱を招いたわけです。というより他から付け入るスキを与えた。そこに割って入ったのが、良房でした)
この後皇位は、父子相続へ変化する。

 こうして良房は、天皇家以外で初の摂政となり、橘氏、伴氏(応天門放火の犯人とされる)など文人・有能官吏タイプの人間を次々に追い落とし、次の基経とともに、北家の外戚としての地位を強固なものとしていった。宇多天皇の強い意向で右大臣となった菅原道真も、良房の孫の時平に失脚のシナリオを実行に移され、大宰府に左遷された(901年)。時平は39歳の若さで死去し、道真の祟りと噂された(時平は左大臣止まりでその生涯を閉じた)。

【延喜・天暦の治】
 その頃からの後醍醐、村上天皇までの時代の60年余りは、摂関を重用せず、天皇親政の時代として延喜・天暦の治と呼ばれ、最初の荘園整理令や古今和歌集の編集、延喜式の完成など気を吐いたが、現実には律令体制の根幹が揺らいで解体に瀕していた時代だった。承平・天慶年間(931〜947年)に、東からは平将門、西からは藤原純友と、関東の独立や瀬戸内の覇を宣言した。各地から国家への反乱が起こっていたのです。しかし、彼らは落ちぶれた軍事貴族で、地の武士集団は専門的な武士団と呼べる内容ではなく、主従関係も緩く、普段は農業に従事する兵に過ぎず、あえなく中央や大宰府から派遣された武士団に鎮圧されました。
この間も、藤原氏は時平、忠平と政治の中心からは離れず、捲土重来を期していた。

【幼帝の誕生と摂関政治の確立】
 藤原摂関家の最盛期は、藤原北家内の権力闘争を勝ち抜いた道長が築き上げました。兄弟が病死したり、娘に恵まれるという運も手伝って、権力の中枢に入った道長は、藤原家得意の娘を天皇家へ輿入れさせ(子が生まれなくとも、抜け目のない藤原氏は、敵側にも布石は忘れず、何段階にも次の手を打っておく周到さを持ち合わせていた)、生まれた子は妻の父が養育するという貴族社会の慣行を利用し、権勢を確実なものとしていった。

 まず、忠平の孫の伊尹(これまさ)・兼家は、奇行のあった冷泉天皇の皇太子(次期天皇)を決めるにあたり順当な弟の為平親王が決まれば(醍醐天皇の子である源高明の娘婿であるため)、源高明が外戚になる恐れがあり、これを退けたい思いから為平謀反の陰謀を巡らせ源高明を左遷させ(安和の変)た。そして冷泉の弟であり村上天皇と藤原安子(伊尹・兼家の妹)
との子である守平親王(円融天皇)を皇太子に立てた。
天皇の血を引く賜姓(しせい)源氏が、強かで権謀術数の藤原氏の執念に敗れた瞬間でした。未だ政治の実権を握るには叔父の関白実頼がいたものの、970年実頼が没するや伊尹は摂政、翌年には太政大臣となり、以降、外戚の摂政の控室(直廬)は内裏に置かれることになり天皇に一歩近づいた。

 円融天皇が元服すると伊尹は没し、弟の兼通が関白にまで上りつめ、このとき円融は藤原摂関家の後押しが政権運営には必須と感じ、元服後も関白を廃さず、以後摂政・関白は常置となった(兼通を関白に推したのは、円融天皇の母后であった、兼通の妹・中宮安子でした)。
その後兼通は病気で関白の職を辞したが、仲の悪い弟兼家(道長の父)を差し置いて、従兄弟の頼忠(実頼の子)に関白を譲った。兼家は娘の詮子(あきこ)が円融天皇の子・懐仁(やすひと)親王を生んだにもかかわらず、円融が詮子を差し置いて頼忠の娘遵子(じゅんし)を中宮としたことに危機感を感じていた(兼家は、娘の超子(とおこ)を冷泉天皇に、詮子(あきこ)を円融天皇の方に入れてチャッカリ両天秤を賭けていたが、結局、超子が早く死んだため、詮子の産んだ一条天皇が皇位につくことになります)。
984年円融が譲位し、冷泉天皇と藤原伊尹の娘・懐子(かいし)の子である師貞親王(花山天皇)を即位させると、懐仁親王は皇太子にはついたものの、その危機は強まった。兼家は外孫である皇太子を早く皇位に就けるため、花山天皇寵愛の女御が身籠ったまま没したことを口実に、天皇を出家に追いやり、7歳という若さであるにもかかわらず懐仁親王(一条天皇)を即位させる。頼忠は関白を辞し、兼家は右大臣でありながら念願の摂政となった。その後摂政の地位を太政官から独立した地位とし、権勢を振るい、息子たちの官位を上げていった。兼家は一条天皇が元服したので関白となり、その後間もなく出家し、長男の道隆を関白とすることで、摂関の地位の世襲化を図った。
 999年一条天皇が元服した機に、道隆の娘・定子(ていし)が入内し女御となった。
兼家は病没し、その年10月には中宮遵子は(円融天皇の)皇后となり、女御定子が(一条天皇の)中宮(75)となった(中宮定子には、「枕草子」を書いた清少納言が仕えていた)。定子はその後一条天皇の皇后となっていたが男子を生むことなく他界した。
995年道隆が病気となり、異例のスピード出世をしていた息子・伊周(これちか)に関白を譲ろうとしたが、一条天皇は許さず、道隆の弟・道兼に関白の詔を下した。ところが、この道兼、更には道隆、左大臣源重信など重要な臣下が次々と大流行の「はしか」にかかり死んでいった。残されたのは一条皇后定子の兄・伊周と、道兼の弟・道長のライバル二人だった。
結局、道長に内覧の宣旨が下った。道長を高くかっていた一条天皇の母后・東三条院詮子の強い推薦によるものだった。憤懣やるかたない伊周は、女出入りの誤解から、女好きの花山法皇に脅しで矢を射かけるという勇み足をして、戦いの場から退いていく。皇后定子は、伊周が失脚すると髪を切り出家した。それでも一条天皇の寵愛は途切れなかったという。

 この事件後道長は左大臣にも任命され、名実ともに頂点に立つ。道長は娘の彰子(あきこ)を入内させ、翌年には一条天皇の中宮とし(定子は皇后とされた)万全の体制をとった。
長女・彰子の家庭教師が、道長の愛人でもあった紫式部だった。その子の頼通迄30年にわたり栄華を極めた。頼通の娘に息子が生まれなかったことから、外戚関係のない後三条天皇の即位と共に藤原氏の力は衰えていきます。ここに天皇一族は、200年にわたる、藤原一族に支配される摂関政治から解放され、院政という変則な形ながら、藤原氏から政治を取り戻します。
とはいえ、摂関・内覧(76)政治は単に藤原氏の権力への野望だけから発したものではなく、天皇の側から命じたものであり、奈良から続く、律令国家の政治的中心であった太政官(公卿たち)の機能をそぎ、彼らを政治の決定過程から外していくのに、更には奈良時代にあっては、王権を分有していた皇后や、儒教的家父長的権威を振りかざした太上天皇(上皇)などの地位も低下させ、天皇が唯一の大権掌握者となるために、寧ろ天皇側から必要とされた制度であったことに変わりはないのです。又、上皇のいない時代の幼帝(清和天皇)の後見人の必要性が、清和天皇の外祖父に当たる藤原良房を摂政に任命させたのが摂関政治の本格的な始まりだったのです。
それは、文徳の早すぎる死という偶然もあるが、良房以降の政権基盤の盤石化故だった。もはや天皇個人の能力や資質は問題でなく、血筋さえ引いていれば可能という時代になっていった。このことは更に幼帝でやっていければ、女帝の出番はなくなるということでもあった。称徳以来、近世まで女帝は出ていない。

【道長の「この世」】
 道長は僅か1年で摂政の地位を息子の頼通に譲り、「大殿(おおとの)」として役職は保持せず、周囲の人間を操り、実権を握っていった。さらに、「奏事」と言って、今までの「官奏」の様な公卿を含む太政官が間に立った政務を排除して、摂関・内覧だけで実行してしまう改革を行ったり、東寺・西寺以外に寺を京内に建てられない原則を意識しつつ、平安京の外側の東京極大路と鴨川の間に法成寺を造営し阿弥陀堂も建てたりもした。
 本来の朱雀大路に対して、左京が中心となった中での中心的な東朱雀大路を北へ上る地点に法成寺が建てられていた。法成寺は池を中心とした寝殿造形式で、御所的な性格を備えていた。道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、娘彰子と共に御簾(みす)の中にいる。道長は拝礼を受ける側に回ったわけです。
 娘威子(けんし)が、後一条天皇の中宮に昇る儀式を済ませ、中宮からは道長以下参列者に禄を賜った。祝いの二次会の席で、上機嫌の道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と顔をほころばせた。そして和歌を詠もうと思うとして、

「この世をば我が世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思えば」
を口ずさむ。「得意そうな歌だが」と謙遜を楽しむ余裕だった。
道長の「我が世」とは、天皇(王権)に限りなく近づいた世(頂点)を指したのです。

そこからの下り坂は、既に道長の胸の内にも、取り巻きの胸の内にも巣食っていて、「我が世」と発した瞬間から、はっきりとした「台風の目」をもって動き出していたことでしょう。その不安は、あの、世界を「我が世」とした道長をさえ、自ら造営した法成寺の阿弥陀堂で、金色に輝く9体の阿弥陀如来像の手から伸びた蓮の組糸にすがりながら息を引き取らせたのです。

藤原氏は、この後武家である源平両氏の台頭も加わり後退を余儀なくされ、鎌倉前期には「近衛」「九条」「鷹司(たかつかさ)」「一条」「二条」の5家に分裂しますが、歴史の外には締め出されたとはいえ、常に公家社会の中においては、最高の家格を誇り、交互に摂政・関白を輩出し幕末期に至りました。



注73) 松岡正剛「にほんとニッポン」工作舎2014年10月P68

注74) 律令
律は刑罰法、令は国家の統治組織や官人の服務規程、人民の租税・労役などを定めた行政法のこと。未だ馴染んでいない為の教令法といわれる。この為律は唐の制度を引き写した程度で、令の方に重点が置かれ、国情に合うように修正を加えたりした

注75) 中宮
平安中期以降、複数の皇后が並立するようになると、先に建てられた皇后に対し、新立の皇后には、中宮職が設置された。本来、中宮は皇后の別称だったが、このとき初めて別の地位となった。

注76) 摂政・関白・内覧・令外官 
・摂政・・
幼い天皇に代わって「政を摂る」、天皇を補佐し政務を行うことで、神事や元日朝賀などの重要な儀礼をおこなうことはできなかった。総覧者としての地位ではなかった。
・関白・・
政務に「関(あず)かり白(もう)す」の意味で、成人した天皇に代わって、政務を取り仕切る職能ではあるが、天皇の代行ではなく臣下として、天皇側に立って補佐する役割。陽成天皇のように成人しても素行に問題あり、退位させられた後の光孝天皇も、即位に力を貸した基経に恩義を感じ、関白の役職を与えたのがきっかけとなっている。関白に同じ職能で総覧者ではない。
・内覧・・・
天皇に奏上、天皇から下される文書を事前に内見すること又は行なう者。関白に準じた職務。平安中期以降に使用された。

・令外官(りょうげのかん)  
官僚制の外にあって、天皇との間に特別な役割を持つ官職。現代でいえば、ラインから外れた、社長直轄のスタッフ。監査や各種プロジェクトや経理・総務など。
藤原京時の中納言(天皇に近接し奏上・宣下を司る)、平城京時の参議(中納言に次ぐ公卿)、内大臣(左右大臣に次ぐ重職)、平安京に入っての征夷大将軍(蝦夷征討軍を率いる臨時最高指揮官)、勘解由使(国司交代時の不正防止の為の引継ぎ文書の審査)、蔵人頭(上皇に対し、天皇の機密を守る蔵人所の長)、検非違使(犯罪謙虚・訴訟・裁判も扱う)、関白(天皇の政務上の補佐、天皇の前に奏上を内覧する)などが該当する。


2016年12月01日
第2回 歴史第3部 中世10【日本古代〈日本書紀(漢文)と古事記(万葉仮名〉】
〈日本書紀(漢文)と古事記(万葉仮名)〉

 712年にできた「古事記」は天武天皇が古くから宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」を基に稗田阿礼に暗記させ、これを太安万侶に文章化させたもので、口頭で行われていた日本語の伝承を音や訓を用いて漢字で表記した苦心作で、天地創造から推古天皇に至る神話を3巻にまとめたもの。漢字を強引にとはいえ音読みして、日本語に文章化した功績は大きい。後に江戸時代、本居宣長は「古事記伝」を表し、「古事記」の漢字の中に封じ込まれている、そして後の「源氏物語」に脈々と繋がっていく「もののあはれ」のわかる「やまとごころ」というものの源泉を34年かけて解明して見せた。大変な労作でした。彼は稗田阿礼が発音したであろう例えば「あめつち」が、何で「天地」に置き換えられたのか。わが国のアメとは単なる漢字の天(テン)ではない。天上界を指すとして、万葉など過去の膨大な資料を引いてその本来の意味するところを探っていく。「成る」は、無かったところに生まれ出ること、変身すること、為し終わったことへと、別々の意味に分離させるのではなく、3つが合わさった分離以前の意味だった(68)として、何かの制約に捻じ曲げられる前の本来に立ち返った意味を追求します。
こうして「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は・・(あめつちのはじめのとき、たかまのはらになりませるかみのなわ・・)」から始まる一字一句を、漢字に表記する(翻訳する)ときの隙間から零れ落ちる日本語の感性を、漢字という儒教的にオブラートされた固定観念から、抜け落ちた古代の闇からすくい上げるという推理を34年もかけてやり遂げたのです。

何という執念でしょう。このおかげで、日本の魂は忘れ去られることなく、生き残ったのです。
それにしても、日本語で音読みしたとはいえ、漢字だけから構成されていた万葉仮名から、「てにをは」をつけ、更に漢字の形を崩して、仮名を発明したのは誰だろう。平安時代の初め頃といわれるから弘法大師(空海)や、真言密教僧たちによる「いろは歌(69)」も貢献しているだろうが、「いろは歌」に遡って平安初期に、「あめつち」という、作者不詳の仮名一覧表も残されている。写本した宮廷の女房たちのくずし字から生まれた可能性も十分考えられます。詮索はこのぐらいにして、このアルファベットの発明に比しても劣らない大発明は、「生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級にまで普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのです。日本ではその後も遂に中国のような士大夫(70)階級を発生させないで済んだのは、ここにその一原因が求められる(71)」と言われるように本当に大きな発明でした。

 国や宗教の戦いは、言語や文字の戦いでもあったのです。勧善懲悪と道徳臭の強い儒教とではなく、普遍的な仏教と共に漢字が入ってきたことはまだ幸いだった。それでも、漢字の持つ男性的で儒教的な心意気に、或いは仏教の持つ哲学的な悟りの感覚に、古来日本の持つ、「もののあわれ」という感覚が潰されそうになった。日本がもし、そのまま漢字だけの世界に代わっていったとしたら、今日の日本はなかったでしょう。中国のものまねに終始していた古代にあって、ようやく日本というこころを救うキッカケとなった古事記、その解明の後に掴んだ確信、「やまとごころ」というものを、「もののあはれ」のことであると喝破し、それを「勇ましさ」なんかではなく、何と「〈めめしさ〉を価値として、〈ををしさ〉を反価値とする主張(72)」
の中に発見し、ためらいなくそれを示した宣長に敬意を表したいものです。守るものは「女々しさ」の中にこそ、無私に、ひっそりと隠れているのです。この守るものを知らずして何が勇ましさでしょう。そんなの唯の権力志向でしょう。これは失礼ですが、家族止まりの儒教的中国人にはわからないでしょう。わかるヒトもいるでしょうが、発見されているものは、陶淵明、杜甫、李白、司馬遷、白居易、蘇東坡などまだしも幸運に生き延びた僅かであり、たいていは、戦乱に紛れて日本に亡命したり、非業の最後を遂げるかだった。何も恋愛だけが「もののあわれ」の発露ではありませんが、それでも「人の情(こころ)ふかくかかること、恋にまさるはなければ成(宣長)」であって、「もののあわれ」を知る資料として源氏に代表される恋愛文学は人類にとって欠かせない文化として引き合いに出されるだけです。しかし中国では恋愛文化は下賤として、下位に置かれたのです。単に好色だけではない「ものにも事にもこころ動かされる気持ち」の機微などというものは、とても理解できないでしょう。

しかも日本の好色とは「男女の情も、ひとえに逢いみるものをば言うものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとりあかし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ(徒然草・第137段)」なのです。
これが判らないのは、それは必要以上に好色であることの裏返しなのです。これ以上書くと怒られますので、やめておきます。

 唯、これだけは承知しておいていただきたいことがあります。このような考えは、自分の国の美しさが世界で一番なんだという驕りを持ちやすいということです。そうではありませんのでそこは、相対化しておいていただきたい。前回、日本が「爽快なニヒリズム」を持った国であり、外国から略奪や本格的な侵略を受けたことが無いゆえに、このように素晴らしい文化やこころを育むことができたことを、書きましたが、それは反面では、それだけ世界から相手にされなかったことでもあるのです。いわゆる「島国根性」とはそのことで、誤解を恐れずに言えば、それ故日本人全員が、ある種「自閉症」でもあるということでもあるのです。ですから、ここを克服できなければ、岸田秀さんが言われたように、外国からの侵略に対し、内的自己を優先し、現実的な適応を無視し、退行し、小児的・誇大妄想的になっていった吉田松陰止まりになってしまいますよということです。そこを自覚したうえで、本当に日本のこころを守る術を臨機応変に考えていかなければならないのです。

一方日本書紀はといえば、天皇中心の歴史を、中国の編年体を真似て漢文で書かれている。物真似ではあっても、漢文しか文字はなかったし、その点で日本より優れていたのは事実だからしょうがない。一生懸命真似から入るのも重要なことです。誰だって、学ぶは真似るがスタートですから。甲骨文字だって最初は、自然界のコトやモノのまねから入った筈です(自己表現ではなく、現実入手だったはずです)。そこからモノの気配を捉え、これを徐々に組み合わせで、内面の表現に向かっていったはずです。実はこれは日本独自というものではなく、人類共通の「始まり方」なんです。古代の日本人たちは、そこまで遡って無我夢中で、漢字的表現の陰で、忘れ去ろうとしていた日本を守ろうとしたわけです。

これ以降日本は常に、一方にグローバル(世界標準)として漢風を置き、片方に(何とか文字化にこぎつけた)和風を併記しながら、中国を否定しすぎず、且つ中国からの離脱を、独立を目指していきます。国の正史としての国外向けで漢文の日本書紀と、天皇家のルーツを残す国内向けの倭語の古事記を併存させたように。
室町時代にようやく和風が完成するまで。政治的には、江戸時代にようやく中国離れができるようになるまで。常に両者の「間(あいだ・ま)」にこころを砕いてきたのです。
ダブルスタンダードですね。


注68) 松岡正剛「日本という方法」NHKブックス2006年9月P207

注69) いろは歌
作者は不明ですが、真言密教僧の中で長期間かけて練られ、「涅槃経」の「諸行無常・是生滅法・生滅滅已(しょうめつめつい)・寂滅為楽(じゃくめついらく)」を参照したとも推測されています。9世紀初めの「あめつちの詞」の48文字から、「江」が抜けて47文字となっている。

色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
(生きとし生けるものはいきいきと生まれてはまた、無かったかのように消えていくが)

我が世誰そ常ならむ(是正滅法)
(世の中のモノは誰のものでもないけれど、例えば今ここには一杯のお茶がある。それはすぐになくなってしまうが、それだけでいい。)

有為の奥山今日越へて(生滅滅已)
(因果で生じた現象を実感した今だからこそ、接しているこの向こう側が見える)

浅き夢見じ酔いもせず(寂滅為楽)
(時などに囚われ、束の間の夢に向かうのでなく、覚めていてこそ、今ここに、永遠である本当の夢は見える)

注70) 士大夫(したいふ)
 儒家の古典的教養を身に着けた東アジアの政治的・社会的指導者で文人官僚を指す。君の臣であり、庶民に対しては支配者。時代によって異なるが、通じて社会の指導的役割を担った(角川・日本史辞典)。その一方で「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた(ウイキペディア)

注71) 宮崎市定「アジア史」中公文庫1987年2月p416

注72) 吉川幸次郎「日本思想体系・本居宣長」解説「文弱の価値」1978年1月 岩波書店
    子安宣邦校注「排蘆小舟・石上私淑言」岩波文庫p63〜66  



2016年11月20日
第2回 歴史 第3部 中世9【日本の古代から中世へ】
7.日本・古代(続き)

〈白村江の戦い663年〉
日本列島の統一が進むころ、朝鮮半島では655年高句麗と百済が連合して新羅に侵攻したわけですが、新羅は、隋のころから高句麗侵略を図っていた唐に助けを求め、その矛先をまず百済に向けさせ、唐は百済を攻め、滅亡させました。そこで百済の遺臣たちは、日本との友好関係の証に、人質として倭国に滞在していた百済の王子の送還と援軍を依頼します。斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島での影響力を保持しようと、救援の大軍を派遣しますが、663年唐・新羅の連合軍に大敗します。その差は律令制のもとに組織化された唐軍と、寄せ集めの豪族軍との差だったといわれます。その後連合軍は高句麗を滅ぼしたものの、新羅は唐の勢力を駆逐して676年朝鮮半島を統一しました。新羅はなかなかしたたかですね。

日本も敗戦のショックは隠せませんでした。何が問題だったのか、先ずは、国内の体制固め(律令国家建設)に方向転換したのです。そうは言っても律令国家そのものが中国のものであり、アイデンティティーを意識するといっても、物真似から始めなければ、そしてそれを何百年も続けなければ自分のものといえるものなど出来ない、それほど遅れていたこと(くどいようですが、遅れていることが悪いことだなんて一言も言いません。ただ競争社会生活上、必然の方向に先に進んでいたか否かの事実だけを言っています)は事実なんです。

ようやく、ここから日本も、朝鮮も自らのアイデンティティーを意識し始めるのです。それまでは、どちらにも独自の文化と呼べるようなものは無く、言語すらバラバラで共通の文明や書き言葉といったら中国文明であり漢字しかありませんでした。話し言葉に至っては、中国人同士すら、漢字とは別にそれぞれの部族内の話し言葉を持ち、部族同士の必要な意思疎通は漢文で筆談だったという。それは朝鮮半島でも同じで、文法のない漢文で、違う部族とは意思疎通を図り、内部ではバラバラの話し言葉で何とかやっていた。それが日本でいえば、ようやくこの敗戦を機に、日本という意識が強まり、漢文を基に様々な工夫をして、日本の話し言葉との合体(併存)を図っていくわけです。勿論政治的にも「日本」を意識します。これは岡田英弘さんの意見ですが、中国に至っては話し言葉を漢文に統一できておらず、1930年の毛沢東の大長征の時代にすら、話し言葉は地方ごとにばらばらで、漢文を使って意思を図ったりしていたそうです。共通の話し言葉がなかったなんて信じられないですね。
でも考えてみれば明治の日本だってラジオができて、標準語が放送されるまでは、通じないことはなくとも、別々の方言は使っていましたね。統一してしまうことがいいことなのかは判りませんが。感覚で捉えていた芯の部分が欠落してしまうわけですから、そして民族の伝統や親身な感情を基礎にした心情をしっかり持ったうえでのスマホは、非常にありがたいし文明の利器ではあるのですが、その基礎の部分が何だか分からなくなってきて、スマホが基礎部分にとってかわると、使う方の人間は、利器に使われる単純ロボットになってしまうわけですね。それぞれの地域の言葉に隠された、たいそうな智慧や機微がゴミ箱に捨てられて、わかりやすい共通のモノだけが残っていくわけです。幸福の秘密が刷り込まれていたというのに、とても簡単には表せるようなものではないということから、さっぱりと捨ててしまい、共通部分だけを取り出して見せる。これしかないんだと。それが「見える化」というものです。自分の側の目的の方からその情報を組み直してしまうんですね。多勢に無勢です。時代の趨勢に逆らうことはできません。せめて「結び」とかの痕跡で残すことぐらいしかできません。
「結び」は既に紹介したように、日本人が大好きな」おまじないですが、そこには過ぎた激烈なドラマが封印されています。戦いの後の蓋であり、鎮魂の形でもあり、物事の定義でもあり、もっと言えば「墓」なのです。そこには敗者の、或いは勝者の手打ちの形が隠されているものです。

勿論、たとえそれで滅亡しようと、時間はたっぷりあり、次の新しい命はいずれ生まれてくるのですから、又想像力という素晴らしい贈り物もある訳ですから、自分の手で見つけ直せばいいわけで、それでこそ価値も実感されるのでしょうが。それにしても長い。次は何千年先になるのか。或いはもうこないのか。

〈漢風の帝王から和風の天皇へ〉
 白村江に敗れてから、668年倭国は中大兄皇子が正式に即位し、天智天皇と名乗った。
天智は国土防衛と国制の整備に専念し、わが国最初の戸籍制度である庚午年藉(こうごねんじゃく)を作成した。これにより徴税や徴兵が容易になった反面、公地公民が不徹底の時期の中央からの徴税強化は地方豪族の不満を高め、後の「壬申の乱」での大津宮・近江朝廷(大友皇子側)の敗北の要因となった。

天智天皇が671年に死去すると、吉野に出家していた弟の大海人皇子と、天智天皇と地方豪族の娘との子であるから大友皇子とで王位継承が争われた。直系の大海人皇子には、東国の兵や、白村江の戦いで疲弊した地方豪族らが味方に付き、673年天武天皇として即位した。実はそれまで「大王・おおきみ」とされていた君主号に代わる「天皇」という号が制定されたのも、倭に代わって「日本」という名に換えたのも天武朝であったとされます。又律令の制定や国史の編纂に着手します(後の古事記)。それだけ日本国家意識が高まった。更に天武天皇は国内最古といわれる富本銭を鋳造し、藤原京の造営にも着手するとともに、カミの来迎する場所を集め、伊勢神宮(内宮)を作るとともに仏教も保護します。

ここが外国と違うところです。仏教か神道かどちらを選ぶにしても、「どっちなんだ!」と二者択一を迫らないんです。これが日本の特徴です。生き方なんです。これは現代まで続く日本の伝統です。つまり宗教といえども、そこからの自由は担保するやり方です。なぜ日本はこうなんでしょうか。対立する他を排除しないで取り込み、その間で(あわいで)独自のものを徐々に編み出していくという方法をとるのでしょうか。
私はそれは日本全体が激烈な侵略や虐殺を受けたことがなく、巨大な憎しみの連鎖に憑りつかれた経験が無いという幸運が一番大きいと思いますが、それだけではなく、日本人の心底にある、「爽快なニヒリズム」にあると思います。それは、聖徳太子(とされている人物)のお妃の橘の大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、侍女たちに縫い取りさせたといわれる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう=太子の往生した天寿国のありさまを記したもの)に記される「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」であり、又、敗色濃厚となり、戦はもうこれまでと、少しも騒がず、女房達に「今日より後は珍しきあずま男たちと関係なさることでしょう」と言ってからから笑い、「見るべき程の事は見つ」と言って死んでいく平知盛の潔さであり、「さようなら=さようであるならば(62)」であるわけです。

平家は滅びても女性は逞しく生き残る。そのことの真実も知盛は知っているわけです。そしてそれを認めているわけです。「貞女は二夫にまみえず」などという言葉は、生命というものはそんなものじゃないからこそ、男が負け惜しみに作った言葉に過ぎない。それは好色などという浅い見方で捉える問題ではない。慈円が述べたように、日本は「女人入眼(にょにんじゅがん)」の国だという、最後のところは女性の力が仕上げる(目を入れる)という深い歴史の力をいうのです。弟の道長を高く買って、息子の一条天皇の寝所まで押しかけて、道長を内覧に推挙した母后・藤原詮子、不倫・乱倫を極めても最後には清盛ばかりか平氏の魂を救って浄土に行った建礼門院、頼朝を継ぎ、国家の危機を凌いだ鉄の女・北条雅子など数えればきりがない。頭で考える「一代限りの」男たちと、身体で考える「死なない」女たちの違いでしょうか。現代は欧米化されて「一夫一婦制」などと狭い了見に洗脳され、低い次元での男女平等に満足して、女性たちは目先の権利ばかりに憑りつかれ、眠らされているので、腑抜けになっていますが、やがてそんな欧米型の縛りなどやすやすと突破して、「一代限りの思考」しかできない男どもを蹴散らす国母が現れるかもしれませんね。ま、政治などという枠に嵌まっているようでは期待はできませんが。

 また長くなりましたが、受け容れつつそれに囚われないという、この爽快なニヒリズムは日本独特の方法である「ダブルスタンダード」を生みました。これは現代にまで繋がっています。数え上げればきりがありません。
 天智と天武の争いであり共存でもある存続に始まり、平安時代の、820年嵯峨天皇の服装に関する詔で「貞観挌」に収められた「神事には、帛衣(はくのきぬ)を、その他の行事には袞冕十二章(こんべん)や黄櫨染(こうろぜん)の衣を用いることにせよ(63)」と、和風と中国風を使い分けたのもそうですし(それでも天皇家は、後醍醐天皇のような異形の王を除き、白木づくめの神道中心を崩しませんでしたが、上皇や摂関家は密教や浄土教の信者になってしまった)、
明治の文明開化期に神事の帛衣はそのままに、その他の儀式には軟弱でない軍服をまとい、その後軍服から再び唐風に戻し、現在ではスーツ姿となっている。外向きには欧米化(唐風化)、神事には和風を貫くやり方は変わっていません。
真名序と仮名序を並べた古今和歌集、神仏習合、天皇と上皇(院政)、天皇一族と藤原一族(中大兄皇子=天智天皇と中臣鎌足=藤原鎌足とのクーデター〈大化の改新〉以来の400年に及ぶ腐れ縁である摂関政治)、日本書紀と古事記、奈良天平文化と平安文化(左右対称と、ちらし書きの非対称)、漢字とかな、「みやび」と「ひなび」(「みや」は宮廷のことで都っぽいことであり、「ひなぶ(鄙ぶ)」は田舎ぶ・里ぶとも書き、都からはずれた感覚)、漢風の瓦葺き石畳式の建築(大極殿・朝堂院=早朝の政務・フォーマル)と和風の桧皮葺き高床木造式の建築(清涼殿=カジュアル)の使い分け、「あはれ」と「あっぱれ」(公家の「こころ動かされる感動の気持ち=「あっ、はれ」」と新興の武家の「潔く命のやり取りをする見事さ」=「天晴れ」との対比)、「あさ」と「あした」(昼を中心とした時間帯(あさ・ひる・ゆう)の始まりとしての「あさ」と、夜を中心とした時間帯(ゆふべ・よひ・よなか・あかつき・あした)の終わりとしての「あした」)の使い分け(64)など、数えだせばきりがありません。

伽藍の造営や維持費用を国が負担する大寺である薬師寺・飛鳥寺なども建立します。この時代の寺院で現在みられるのは法隆寺、薬師寺東塔などだが、いずれも再建されたもので、日本最古といわれるものは、桜井市にある「山田寺の回廊」が建築時のまま発掘されています。
山田寺東回廊 奈良文化財研究所飛鳥資料館.gif

寺院や鳥居などに塗る朱色は、中国のタオイズム(65)などの影響下で、不老長寿を祈願して朱や丹(66)が用いられたようです。
こうして神仏両方を国作りに利用します。漢風の帝王(天智)から和風の天皇(天武)へ向けて国作りが加速します。
天武天皇が死去し、後を継いだ皇后の持統天皇は、皇位を孫の文武天皇に譲り、大上天皇として藤原不比等と組んで701年大宝律令、702年養老律令をまとめ上げ、日本の独自性を意識し、752年30年ぶりに復活した「遣唐使」で、唐に対し独自の律令のある事、日本という名に換えたこと、天皇(67)という君主名を設けたこと、元号を「大宝」としたことを報告して許可を得ている。唐の冊封を受けていた新羅に対し、独自の暦や律令や君主号を持つことで「東夷の小帝国」として優位性を主張しようとしたといわれています。
この中国を真似た「小中華思想」は、都に対する地方という発想で、まつろわぬ民を成敗する征夷という思想を生みます。

真備2度目の遣唐使の際というからおそらく752年の第10回でしょうが、唐の賀正の儀式で、各国(新羅、1イスラム、チベット等)の使節が一同に会した際、席次をめぐって、日本側が唐にクレームをつけるという事態が起こった。その言い分は、新羅の席次が、日本の席次より上席になっているということでした。遣唐副使が、「日本は今も昔も新羅から朝貢を受けてきた国であり、その日本が新羅よりも下の席次というのは正義を欠いている。」として激しく抗議し、結果、席を入れ替えさたというものです。(政府は、一時、新羅討伐の計画を立てたほどです)。

〈続く〉

注62)「さようなら」という方法

「さようなら」が、「現実というものが左様なものであるなら、よく判った、潔く
この事実を受け容れて、互いに次に進もう」という意味であり、次の出会い・場面への「切り替え」のケジメなのです。知盛からすれば、あちらの世界に対する、こちら側・此岸からの線引きなのです。線が引かれてはじめて、領域は確定します。領域が確定して初めて、全体が定まり、意味も生まれてきます。つまり彼はこの言葉によって現世を・人生を・物語を確定したのです。終わらせたのです。これによって、(現代人にとっては或るかないかは判らないが)次のつまりあの世への、移行宣言をしたわけです。
現代人は、唯々事物や事柄の種明かしに終始し、出し抜いたことを誇るばかりで、それだからと言って、人生の大事(生・死)に対する何の「受容」の道も見いだせていない、心の貧困下にあることに変わりはないのです。歴史に論理の体系を見る事には寛容であっても、こと生死や形而上の事に関しては異常に疑り深く、執拗にあら捜しをして、あたかも悪魔の番人のように矛盾点を探しては、その思想の到達点から引きずり落そうとする。二言目には「科学的でない・根拠がない」と。いったいあなたの生き甲斐は何なのかと聞いてみたくなるほどです。それこそ見当違いの「科学的」という方法を武器に、人類の幸福の形を仕切ってしまっているんです。悪気が無ければ何をしてもいいというものではありません。
科学って何ですか?思い出してください。第U部の古代ギリシャの注22)で、「数学は人工言語なのである。だから数学の基本概念は(発見ではなく)発明なのだ」、従って「自然界が数学的なのではなく、我々が自然言語から抽出した(抽象化した)数学という言語を使って研究するから、自然界は数学的なのである」という結論になることを書きました。
まさに数学は人間的認識方法のパターンの集積なわけですね、という足立恒夫さんの言葉を紹介した後、これ程「日常的な概念の束縛を受けすぎず、自然の法則を綴るだけの自由さを持ち合わせ、「意味」という束縛を持たない、純粋で、自由な言語である数学(朝永振一郎)」でさえ、発明された言語であることにおいて人間的なものなのです。自然界の「発見ではなく発明」なのです。つまり我々に都合の良い勝手な解釈なのです。

それでも今のところ使いうる限り最も抽象化した言語である数学(数)を使って、非人間的(実は人間的なのですが)と思われている自然の事柄を表現したり利用しようとしているのが物理学であり科学であったわけです。今新しい量子という言語も探られています。とてつもない世界が拡がるでしょうが、人間が求めている真理に寄り添ってくれるかどうかは、わかりません。
いずれにしても、数をよりどころにする科学やコンピュータが、狭い因果律の世界で万能であったからと言って、人間のこころの問題や死の向こう側迄もを仕切ることなどできるはずもないのです。判断は預けるしかないのです。そこを法然さんは「他力本願」と言ったのです。
驚くべきことに、足立さんは「数学することとは、「集合」をいろいろな方法で抽象する能力と言い換えてもいい(「√2の不思議」p60)」と言う。何と数学は人生論だといっているのと同じことです。

この「集合」という捉え方こそ、「星を見るにしても、一つ一つの星をバラバラに見るのではなく、ひとまとまりの全体の物語(集合)のうちにおいて見ることによって、それぞれの星が意味を持ちうるように見ることです。同じように人生のバラバラな出来事を一つのまとまった物語として語ることによって、心の葛藤をまとめて、それを死の受容ということに適用しようというわけです(*)」という考え方に合致します。
これは河合隼雄さんが師であるユングの「出来事を全体論的(ホリスティック)に見ようとした」ことの説明でもありますが、こうした「集合」的な見方こそ自然と人間を繋ぐ架け橋になるのではないでしょうか。これは何もユングに始まったことではなく、我々の祖先の人たちが自然に培った智慧であり、「人生」という捉え方自体が集合論的なのです。

長くなりましたが、現代人は、要するに「判断を預ける」ということができない究極のエゴイズム(自我中心的思考)に陥っているとしか思えないのです。だからボランティアをやっても、人助けをしても、自分の履歴書のためにやっているわけです。死の向こうにまで、人を納得させる能力を持ち合わせない「科学的判断=しかも判らないという判断」とやらを当てはめようとする病に(これが、天才でも越えられない時代の「様式」なのでしょうか)陥っているとしか思えません。

竹内整一さんは、父君の胃がんによる死に当たって、告知しないという選択をし、終に最後まで「お別れ」という挨拶ができずに死に別れてしまったことの苦しい後悔を語られています。生きているうちにはっきりと線を引き、「もはやこれまでと」覚悟を決めて、互いに目を真っ赤にして命を見つめ合うという触れ合いを回避したことの後悔は、いかばかりのことかと、お察しします。実は私も同様でした。

「海からの贈り物」のリンドバーグ夫人は、須賀敦子さんに、「あなたの国には「さようなら」がある」と言ったそうです。別れに際しての苦しさをごまかさない、この素晴らしい人生の区切り方を、先人の知恵を使いこなせなかったのです。その知恵の素晴らしさゆえに、戦時中悪乗りしすぎた田中秀光の例もありますが、概して我が先祖たちは、他に強要することなく、静かに自己の人生を区切ってきたのです。

(*)竹内整一「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」(ちくま新書)p36

注63) 川尻秋生「平安京遷都」岩波新書2011年6月PD
・帛衣(はくのきぬ)・・・白の練り絹
・袞冕十二章(こんべん)・太陽、月と共に竜の刺繍がある服と玉飾りが垂れ下がった四角形の冠
・黄櫨染(こうろぜん)・・櫨(はぜのき)と蘇芳(すおう)で染めた、黄色に赤みがかった色


注64) 「あさ」と「あした」
「あさ」の対義語が「ゆう」であれば、「あした」の対義語は「ゆふべ」になる。「あさ」も「あした」も同じ時間帯を指すが、後朝(きぬざね)の歌は、「あさ」では駄目で、「あした(=「ゆふべ」の終わり)」に詠まれなければならないわけです。

「君や来し我や生きけむ思ほえず夢か現か寝てか覚めてか」(伊勢物語69段)

翌朝に、後朝(きぬぎぬ)の歌を作らないと、昨夜の契りの実感が湧かないんですね。ケジメであり、定義でもあるんです。そうでなければ唯のけだものの行為に落ちてしまう。私たちも、何か大切な行事や思い出を残すために、写真を撮って保存しますね。ところが写真があまりに簡単で、リアルなので、肝心の現在を味わうことができなくなってしまっていますが(ハリーポッターを映画にしちゃって、しらけちゃうようなものですが)。

注65 タオイズム
タオイズム(道教)は漢民族の土着的・伝統的な宗教であり、道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な、時空を統一する真理を指す。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とした。

注66) 朱・丹
どちらも赤色顔料で、朱は硫化水銀で天然には辰砂として産出する。丹は鉛を加熱酸化して製造する。縄文以降ベンガラ(酸化鉄)と朱を遺骸への副葬や散布用に用い、古墳時代には墓の副葬・散布に用いられた。丹は寺院壁画などに初めて利用されたが、遣隋使・遣唐使の時代に製造技術を導入されたといわれる。

注67) 古代天皇制
古代天皇制については、専制君主であるとする見方や、貴族との共和制的なものとする説があるが、このような意見があること事体が、両面を併せ持ったものであることの証拠です。二者択一で考えないのが日本の方法なのです。又天皇制の唐への報告は、太陽神たる皇祖の子孫であるという正当性を求め、中国の易姓革命による王朝交代が興るような考えはとらないことを宣言したものでもあります。



2016年10月28日
第2回歴史第3部中世8【ヨーロッパ中世とは何か】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き2

〈皇帝と教皇1077〜12世紀〉
 8世紀から10世紀までのヨーロッパは、絶えずノルマンなどの異民族からの侵略に脅かされており、そこから土地と身を守るために城塞都市がつくられます。この城を中心として中世の町は作られます。最下部は農民(働く人)、その上が騎士(戦う人))、そして僧侶(祈る人)という縦社会の封建制度が作られていきます。修道院は祈る人だけでなく働く人で、優れた精錬技術や羊毛技術も持ち合わせ、荒廃した農業の立て直しにも多大な貢献をしています。その修道会や教会の、国を越えたネットワークのトップに君臨したのがローマ教皇であり、諸侯や国王よりも大きな権威を持っていました。
 そのことを証明したのが、有名なカノッサの屈辱と呼ばれる叙任権闘争です。
フランク王国が、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂し、「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)に」という3つの中心を持つユニークな文化圏となったことは既に説明しました。その神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ4世は、勝手にミラノ大司教や中部イタリアの司祭を任命してローマ教皇を無視する行動に出ます。これは彼の作戦(帝国教会政策)だったんです(53)。
 おりから教会改革運動の中心にいたグレゴリウス7世(クリュニー修道院出身)は、聖職売買の禁止の罪として、ハインリッヒ4世を破門しました。教皇は国を越えたネットワークの長ですから、皇帝の中央集権化に反対する諸侯も多くおり、その諸侯と皇帝の対立を利用したのです。その反皇帝派諸侯がもし破門が1年以内に解かれないなら、皇帝は廃位すると決議したため、困り果てたハインリッヒは1077年、教皇の滞在するイタリアのカノッサ城を訪ね、雪の積もる城門の前ではだしで3日間立ち尽くして、ようやく破門は解除された。これがカノッサの屈辱ですね。しかしこれで引き下がるハインリッヒではない。すぐに体制を整えて、反対諸侯を鎮圧し、その勢いでローマに入り、1085年、教皇を退位させた。こうしたいきさつから事は大きくなり、聖俗両権力の大闘争に発展しました。ようやく12世紀になり妥協は成立し、皇帝が俗権を、教皇が叙任権を保持することに決まった。以後皇帝の「帝国教会」支配は弱まり、聖俗諸侯勢力の台頭が顕著となり、皇帝の権力は後退することになりました。
ローマ教皇は、教皇権の更なる強化をもくろみ、セルジューク朝トルコの侵入により聖地エルサレムを奪われたビザンツ帝国から救援要請の来ていた機を利用して、1095年クレルモンで公会議を開き、熱狂的に聖地奪回を訴えた。この野心家教皇の名演説に乗せられて、1096年第1回の十字軍は出発した。5000人もの従軍慰安婦(娼婦)を伴った大遠征軍は、聖戦とは言えないような4万人のイスラム教徒の大虐殺と略奪を行った。その後エルサレムを互いに奪還しあい、結局第7回(1270年)迄続き、200年にわたった十字軍の熱狂は失敗に終わった。結局終わってみれば、ビザンツ帝国は衰退し、教皇権は失墜し、無理な遠征により諸侯・騎士は没落し、王権が回復し、兵士の輸送に携わったベネツィアやジェノヴァなどのイタリア諸都市が、イスラム商人との東方貿易などで成長する結果となった。
失敗続きで教皇の権威は地に落ち、カノッサの屈辱から220年、今度は教皇ポニファティウス8世が、サンピエトロ教会に詣でるものは贖宥 (罪の許し) を与えるとか、フランス国内の教会領への課税を巡ってフィリップ4世と対立するなど教皇権の絶対性を主張したが、1303年フィリプによりローマのアニーナで捕らわれた。これをアニーナ事件と言い、教皇権の失墜を象徴する出来事だった。正に「アニーナの屈辱」ですね。だがそれだけでは済まず、1309年、フランス王フィリップ4世は、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世がローマ教皇の時、圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことはバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」といわれる。英仏の百年戦争が長引いた原因の一つとされている。なぜなら、当時の国家間のもめごとは、ローマ教皇が調停するのが一般だったから。
ともあれ失敗ではあっても十字軍は、ヨーロッパという団結意識を芽生えさせたということは大きかったのではないでしょうか。

〈都市のネットワークとゴシック教会・11〜12世紀〉
 10〜11世紀ごろから、封建制度も安定し、荘園内の生産も増大し、開墾と移住が行われ、人口は増加し、各地に余剰生産物の定期市が開かれるようになった。ヴァイキングなどの商業活動などで貨幣の使用も進み、十字軍の遠征や、モンゴル帝国(後述)が作ったユーラシア圏の交易網とともに、内陸部には道路が切り開かれ、教会の儀式や貴族の生活に欠かせない葡萄酒や毛織物も取引された。又海のネットワークも広がりつつあり、中国沿岸から東南アジア・インド・ペルシャ湾に至る海の道を活用して中国・イスラム商人は活発な交易をおこなった。ヨーロッパでは南(地中海から黒海)、北(バルト海からロシア)のネットワークに乗って商業が発達し、各地に「都市」を生み出しました。「祈る人」「戦う人」働く人」に「儲ける人(商人・ブルジョワ)」が加わって、近世への道が開かれるのです。
商人が加わって何が変わったのでしょうか。
それは「商人が都市に定住し、〈上下の従属〉でなく、〈誓約〉や〈契約〉という概念により人間関係を横に開くことで、従来の身分の構造を変えていった(54)」ことが挙げられます。これら商人や職人たちが横に繋がり、親方たちに対抗し、「ギルド(商人や手工業者の組合・市場独占と相互扶助で都市の自治を支えた)」を組織し、幾重にも構造化された共同体のブロックを作り、やがては都市全体が領主に対抗する「都市同盟」にまで至るのです。根底に托鉢修道会や聖母マリア信仰を精神的支柱としながら、都市の母体を形成したのです。
地中海ではベネチア、ジェノヴァ、ピサなどで東方貿易が、内陸のミラノやフィレンツェでは毛織物や金融業が、北海・バルト海では北ドイツのハンブルク、ブレーメン、フランドル地方のアントワープ、イギリスのロンドンなどが、木材・海産物・塩・穀物などの生活必需品の商いで栄えた。北のリューベック・ハンブルグを中心とした都市同盟である「ハンザ同盟」は、最盛期には100以上の都市が参加した都市同盟で、皇帝や諸侯の軍事的圧力に対抗し共同利益を確保した。
 こうした中で、やがて12世紀から13世紀に入り異教文化プンプンのゴシック(55)時代が到来するのです。
「都市に立つ教会は大きく・高くなり、修道会は外に出て民衆の中に入り、キリストの教えを托鉢して説くように」なる。最後の審判で問われる罪を購っておきたい商人や農村からの移住者の免罪を求める意識と、その為に天国入りをとりなしてくれるはずである「赦し」の聖母マリア信仰も、本来のキリストの意志(父性)に反した異教から始まったにせよ、時代の恐怖がその勢いを増し、やむない教会の承認を得るまでになります(56)。同時に彼らは教会建設に惜しみなく富を寄贈しました。
又、十字軍の成果もはかばかしくなく、諸侯も力尽きて、教会の権威が危うくなってくるにつれ、司教も国王もそれぞれの思惑で、権威を欲しがり、且つそれが失われることへの恐れから、象徴としての荘厳な教会建築に熱心になっていったのです。こうして、「畏敬の内に待たれていた、世の終わり(ミレニアム)もついには訪れず、中世のルネッサンスという時代(57 )」に入っていきます。

〈百年戦争・1339〜1453年〉
 イギリス人とフランス人は互いに、フランスのオンドリ野郎、イギリスのブルドックとののしり合うほど、仲が悪い。14世紀初め、イギリスのプランタジネット朝の王はフランスの西半分を支配する(今のパリも含まれていた)大貴族で、フランスのカペー朝との対立が強まっていた。両国は毛織物の産地フランドル地方とワインの産地ギュイエンヌ地方を欲しがって対立しており、1339年イギリス王エドワードの母がカペー朝の出身であるとし、フランスに攻め込んだ。これが1453年迄続いた百年戦争の始まりです。フランス内部がイギリス国王派とフランス国王派に分かれた為、フランス本土を戦場とする戦争がイギリス優位に続いていました。もうイギリスの勝利が確信された最終局面で、神のお告げを受けたというオルレアンの17歳の娘が、フランスを救った。彼女の名前はジャンヌダルクといった。彼女は甲冑に身を固め、白馬にまたがり、聖母マリアに王室の花ユリをちりばめた軍旗を掲げ、フランス軍の指揮を高め、愛国心を鼓舞して形勢逆転させた。1430年ブルゴーニュ派に囚われ、イギリス軍に引き渡され、宗教裁判にかけられ「魔女」としてルーアンの広場で処刑されたが、フランス軍の勢いは衰えず、1453年イギリス軍がカレーを除いたドーバー海峡より北に撤退し百年戦争は終わりました。

〈ジャンヌダルク現象〉
このままでは、何かこのジャンヌダルクの話には、隠されたものがありそうで納得がいきません。どうやら、残された裁判記録から、ジャンヌダルクは普通の少女だったという、友人の言葉などから見えてきます。勿論軍事訓練など受けた様子もなければ、実際に戦いに加わったという様子も芝居がかってはっきりしません。この現象を理解するには「英仏百年戦争」という言葉から疑問を持つ必要がありそうです。この名は近代になって後からつけられた言葉であり、フランスという国とイギリスという国の戦いではなかったようです。あの場所に領地を持つ諸侯たちの領地獲得或いは継承戦争に過ぎず、フランス人同士の戦いであったようです。こうした争いの中から「愛国精神」「国民国家」の意識が芽生え、結果としてフランスという国が出来上がったのだと捉えるのが良いようです。中世の人間で幻覚を見ないものなどいなかったといわれるように、「神の声」は誰にでも聞こえていた。彼女が特殊なのではなかった。彼女が強かったのではなく、あちこちで戦いは起きていたが、それと同じ以上にあちこちで皆休んでいた。当時の騎士は1年に40日程度の従軍義務しかなかったし、そういう軍人を使って戦争をしていたのだから、近代戦から見れば、スカスカだったわけです(長期化した原因の一つもそこにあります)。村全体の、或いは領地全体参加の芝居の行列がすり抜けることもできたでしょう。噂が噂を呼び、「こうあってほしい」期待の方が、事実を上回って人々が動いた。危機に際して愛国心があのような形を作ったとしか考えられません。何の力もない田舎の少女という設定こそ、神がかりに真実味を加え、一気にドラマは作られていったでしょう。「国民国家」の発想をヨーロッパ中に植え付けたナポレオンが、ジャンヌダルクを発見したということもうなずけます。それまでは誰も特に取り上げてはいない。彼は自己を正当化するいい材料を見つけた。フランスでは、国家が窮地に陥ると、国民の中から救世主が出て必ず国家を救うものだとし、自分とジャンヌ・ダルクを重ねて、ナショナリズムに訴えた。結局情報を検証する通信網もろくなものがなく、都合のいい情報だけが独り歩きできるあの時代だからこそ、神話は、芝居は実演できたのであって、嘘でできていようが、何でできていようが、愛国心に一本化されたからこそ勝てたのです。操り人形にされた彼女の憐れさが残ります。勿論この戦いによって没落した諸侯や騎士たちや、何の仲裁もできず戦いを長期化させた教皇も権威を失墜し、国王による中央集権が強まり「国家」といわれるものが誕生するのです。戦場とならなかったイギリスも、貴族同士の内乱であるバラ戦争(1455〜85)が勃発し、最後に残ったチューダ朝の下で王権が強まりました。大砲が普及して、地方の領主は城塞補強程度では、身を守れなくなったことも大きかったようです。

〈ヨーロッパ中世とは何だったのか〉
 長くヨーロッパ中世を巡ってきましたが、結局のところ中世とは何だったんでしょうか。それはこれまでの話で、決して暗黒時代とひとくくりにできるような時代ではなく、まして世界史の発展段階としての中世などではなく、別のタイプの世界システムが存在していたことはお分かりいただけたと思います。
中世のこころは、一言でいえば「自己を低めようとした時代」だったと饗庭孝男さんは言います。それは、「クローデルが、アンドレ・ジイドに向かって「山は遠くにあるとき、人はおのれと同じ高さだと思うが、山に近づくに従って、おのれが如何に低い、小さな存在であるかを知ることができる」と述べたことばに例えられる(58)」という。
 神護寺だったろうか、学生のころ冬休みを利用して、京都の友人に案内されて山の寺(寺は皆、浜にあろうと山ですが)に向かったことがありました。曲がりながら上がる長い道を、黙々と踏みしめていく中で、覆い繁る木々の下で、自然との交感が為されたのか肉体的な疲労感も手伝って、先ほどまで思いめぐらしていた雑念は、山の真厳な霊気に洗われ、ただひたすら自分が物のように感じられ、何物でもなくなるという不思議な体験を味わいました。境内を過ぎて本堂に赴いたとき、唯々素朴で神々しい雰囲気に打たれるのみでした。翌日その友人の紹介で、お会いした司馬さんにそのことを話したら、真剣に聞いていただき、黙ってうなずいておられた。印象的な瞬間だった。そのあと、定かではないが、恐らくこのクローデルの言葉と推測されるお話をしていただいたように記憶している。

長くなりましたが、中世が自己を低めようとした時代であるならば、近世(ルネサンスから)は、(無邪気な)自己を高めようとした時代といえるでしょう。そして古代はといえば、未だ「こころ」が(自己というものが)なかった時代だといえると思います。

「自己を低めることは敬虔であり畏れである。その心が美しいものをつくるのである(59)」。中世の芸術家は作者個々の名前を作品に刻んでいません。「無名の自覚によって自己の術が生き、それが自ずから教会を支えることになる・・彼らは自分の名前が刻まれることを、後の世に残ることを望まなかった。人に呼ばれ(称賛され)、伝えられる名前が何であろうか。唯、夜と闇の中で、たった一人神と向かい合った時、神が彼を呼ぶ名前を持ちさえすればよかったのである(60)」
彼らはアルティスト(芸術家)ではなくアルティザン(職人)という意識で共同体の為に生きたのす。これらはみな中世の職人のこころを表した言葉ですが、農民たちのこころも神(光)や大地に対し同様の敬虔を持ち合わせていました。「祈る人」を含め、彼らがこのように教会や修道院を支え、社会や都市の底辺を固め、政治的には為すがままの服従でもなく、さりとて妙な色気を出すでもなく、聖なるものに心が向いていたからこそ、中世は政治的な主体に、思うがままにさせず(専制を許さず)、皇帝と教皇の2つの中心を巧みにコントロールし、多様性をもたらしたのでした。この多様性は、封建制の主従関係(べらぼうな数の主君に仕える家臣はよくいた)おいても、皇帝と諸侯との間(多数の王に仕える諸侯は珍しくなかった)においても、領主と司教と国王との裁判権においても(すべてが裁判権を持つと主張しあったり)見られた。政治的には中央集権の求心力ではなく、個々の多様性が力を持った遠心力の働いた時代だったと思います。

 近代的な見方、見える化になれた我々の目には、領土の境もはっきりしない、敵見方もはっきりしない、国家間の主権平等などという当然な考えも持たない、わかりにくく重層的な世の仕組みは曖昧で我慢できないのかもしれませんが、これが中世の仕組み(61)なんです。
世俗的な欲望を何重にも分散させているのです。戦いは、大規模であっても私戦であって、公私の区別はない。政治的に一言でいえば権威と権力の分離といってしまえばそれでおしまいなのですが、それすらも一律ではなく多様なのです。十字軍の失敗などを契機に興った教皇権の失墜、諸侯の没落、或いは商人の勢力拡大は、王の権力拡大につながり、中世は終わりを告げ、「自己を高める」アルティストや豪商(メディティ家)や国王の闊歩する「合理的で求心的な」近世が、ルネサンスが、国家が、公式の正当化された戦争が始まります。



注53) 帝国教会政策
 各地の豪族に対抗して帝権を強化するため,司教や修道院に領土,裁判権,関税権などを(皇帝が)与えてこれを皇帝権の有力な支柱にしようとした。

注54) 饗庭孝雄「知の歴史学」新潮社1997年10月P174

注55) ゴシック様式
 ゴシック様式は(ロマネスクのところで少し述べましたが、壁の厚さで重量を維持するロマネスク様式では、高さに限界があり、都市に、開墾されてしまった嘗ての森を建物で復活させることはできません)、ヨーロッパの、失われた森の象徴・石の森でもあります。ロマネスクの建築上の限界を克服したのが、「オジーヴ」と呼ばれる尖塔アーチと、「リブ・ヴォールト」と呼ばれるヴォールト(曲面天井)を補強する局面に沿った補材と、「フライイング・バットレス」と呼ばれる、ヴォールトを支える柱を強化し教会堂を力学的に支える為に建物外側に張り出した支柱構造の3つです。これらを基礎にしてゴシック建築は、天に向かって上昇していくのです。この上昇感がゴシックだといわれます。音楽においても、ノートルダム楽派の人たちが、上下2種のポリフォニー(*)が、対応し、下声が伴奏するその上を、自由なリズムを持った旋律が急速に上昇していく高揚感がゴシックらしさを醸しだします。こうして神秘的で天国にまで届こうかという高さとなり、そして薄く抑えられた壁面に作られた高窓(ステンドグラス)が、(ロマネスク時の)壁画の代わりになり、光を取り入れ、より美しく、装飾的になる。ステンドグラスにはあらゆる職業(ギルド)が教会建設の為に奉仕したことを示す、働く様子が描かれます。壁面の制約で窓を大きく取れなかった初期キリスト教やビザンツ建築では、ガラス・大理石・色のある石などをはめ込んで、セメントで固め、きらきらと光る石で「神の国」を表現・象徴したモザイクが、キリスト教の教義を教えるために多用されましたが、西ヨーロッパでは、ゴシック様式が発案されるとステンドグラスがこれに代わったのです。どちらも「光の形而上学」であり、土俗的にあった太陽信仰を、異なった物質により表し且つ思想的・宗教的に(キリスト教的に)変えていく絵画空間を作り出したわけです。
ゴシックの最も特徴的なことは、聖書の情報を建築上に立体化しようとしたことだと、ラスキンは述べました。またこれは思想上のスコラ哲学(**)に対応するとも言われます。まことにその通りなのですが、これらは知識人側から見た見解だと思います。実際のゴシック教会はもっと妥協的というかヨーロッパお得意の、2点を中心とする楕円構造を持つ思想でした。
1点はラスキンの言うように聖書の情報が詰められた世界のキリスト教の殿堂でありステンドグラスの光に代表される装飾や典礼が天井の神を肯定するのに対し、もう一方では、「大聖堂は在俗の布教機関であり、・・圧倒的多数の表面的キリスト教徒に妥協せざるを得なかった。・・聖母信仰、巨木(森)崇拝、苦悩のイエス像への偏愛、政体崇拝熱、道化の祭り、ポリフォニー聖歌、怪物図像、こうした異教とキリスト教の二重性を帯びた雑多な要素が共存していた。堂内の途方もない高みから降ってくる絶対的カリスマ的光輝に包まれており、キリスト教の非物質的神性と異教の物質的聖性の二重構造のうちにあった(***)」のです。中世の大半の人は、難しい理屈よりも、目の前に尋常でない高さから「神の似姿」を見せつけられ、ステンドグラスで視覚的効果をとることで、或いは「グレゴリオ聖歌に代表されるような単声音で世界を捉えるモノフォニーから、異なった音が同時に調和して発せられる数的比率で人体の動きや宇宙の調和(****)」を捉えるポリフォニーに変化して、神との遭遇体験をより効果的に高めることで、この世の支配者の存在を実感したのです。ポリフォニーの発想はやがてオーケストラに繋がります。中世の森に拡がる悪霊や野生動物たちの叫び声に対抗して鐘をガンガン鳴らしていた人たちが、又都市の住人となっては職人の仕事の歌や教会の鐘の音や物売りの声など様々な音がまじりあって交差する世界に暮らしていた人たちが、それぞれの階級にふさわしい天上の音の世界に憧れて「選別されたいい音」を作り出したのがオーケストラ(管弦楽団)の音でした。
又スコラ哲学にしても、大聖堂がこの哲学を具現しようとしたものというより、同時並行的に進められたもので、この時代が聖も俗も同じ方向を向いていたことの証ではないでしょうか。
フランスの大聖堂は1つとして完成したことがないと学者は言う。それは高さへの限りない希みにあり、調和に満足せず、より一層の高さを希求したことによる。それは現実の高さばかりか俗物的な物質性も同時に発展させて(二重構造)、当時「発狂したピラミッド」と揶揄されたパリのエッフェル塔や、眼球を頂くトウモロコシの塔とも、既に風化が始まっているにも拘わらず完成しない、醜悪で野暮ったいサクラダ・ファミリア聖堂に繋がっている。異教との混在は、多様性の容認と共に現代にまで続いているのです。

(*)ポリフォニー
 多声音楽あるいは複音楽と訳され,多声性の一形態を指す。古代ギリシア語のpolys(多くの)とphōnē(音,声)を語源とする。音楽は純粋な単旋律であるモノフォニーと,複数の音が同時的に鳴らされる多声的な音楽とに大別される。後者は多声性(あるいは多音性)という概念で総括されるが,これにはポリフォニー,ホモフォニー,ヘテロフォニーなどが含まれる。いずれも音の水平的連続(旋律)と垂直的な響き(和音)から成り立つことで共通しているが,ポリフォニーは,とくに複数の声部が互いに独立的に進行し,横の線的な流れに重点が置かれるような音楽あるいはその作曲様式をいう。(世界大百科事典)
13世紀前半にノートルダム大聖堂が、ゴシック様式に改築された時代にポリフォニーは発展し、民衆の押し寄せる祝日のミサ曲に歌われるようになった。後にノートルダム楽派と呼ばれるようになる。今、その楽派のマショーという作曲家の「ノートルダムミサ曲」を聞いています。以前ご紹介したモノフォニー(単声)のグレゴリオ聖歌などと違い、音価(音符や休符の支配する長さ)の分割を増やしたり、自由なリズムを採用したり、3度・6度を重視した和声、半音階の効果的使用など重層的に組み立てたものらしく(専門的なことは判りませんが)、より荘厳さを増す中、異様なというか自由な構成で、且つ一人で(個人で)通作し名を遺したことといい、後のルネサンスやバロックを予感させる曲です。

(**)スコラ哲学
 スコラ学は、信仰と知の調和を目指す学問だが、実際には勉学に裏付けられた民衆への説教活動に重点が置かれた。スコラ学の不滅の教典、トマス・アキナスの「神学大全」はアラビア語として辛くも保存されていたアリストテレスを翻訳し、その哲学的概念と推論形式を応用し、堅固な三段階論法(弁証法)によって、既存の神学上の知識を整理して見せ、権威ある結論を得た。
スコラ学で中心的な課題となったのが「普遍論争」というものだった。たとえば「ポチは犬である」といった場合、ポチは個であり、犬は普遍である。そのような、「犬」とか、「動物」といったものは実際に存在するのかどうか、という論争だった(「普遍」とは「個」に対する概念)。
 まずスコラ学の父・イギリスのアンセルムスは、「普遍は実在性をもち、個に先だって存在する」と主張し、実在論を説いた。これに対し「普遍はたんなる名辞に過ぎず、ただ個のみが実存する(普遍は個の後ろにある)」という唯名論(ノミナリズム)が主張され「普遍論争」が展開された。普遍って、プラトンの「イデー」のことですね。トマス=アクィナスは「実在論」の立場にたってスコラ学を体系づけ、神を普遍的な存在として実存するという思想としてローマ=カトリック教会における正統派とされた。しかし、14世紀にはウィリアム=オッカムなどの「唯名論」が復活し、観念的な思考を廃して観察や実験によって真理を探究する近代思想の萌芽につながっていく。中世の後退ですね。

(***)酒井健「ゴシックとは何か」講談社新書2000年1月P90〜91
(****)阿部勤也「中世賎民の宇宙」ちくま学芸文庫2007年2月P339
ステンドグラス・シャルトル大聖堂.jpg
シャルトル大聖堂(内部)

注56) 明治日本で、キリストの強い父性だけでは人間は救われない、と最初に気づいたのが、芥川龍之介でした。明治の知識人が目覚めた日本独特の「近代」というものの解釈の源泉は、内村鑑三に代表される禁欲的な人格主義と、親鸞の「歎異抄」解禁による人間(肉)解放の2つの大きな流れでした。親鸞には女犯を宿報として許容する思想(女犯偈)がありますが、通じるところは同じですがマリア信仰とは少し違います。
芥川は、同じ救済の思想でも、人を厳しい姿勢で引っ張ってくれるキリストだけではなく、聖母マリア・「赦す」存在としての慈悲のこころも無ければ人は救われないことに気付いたのです(*)。
ミケランジェロの遺作といわれる「ピエタ像」は、人類の生み出した彫像の最高傑作だと私は思っています。未完の作品ですが、ぴったり焦点は合っていると思います。これ以上何を加える(削る)必要があるのでしょうか。加えれば加えるほど、この奇跡のような「出現」から遠ざかってしまいます。
(ピエタはイタリア語:Pietà、哀れみ・慈悲などの意味です。またピエタ像とは、磔刑にされ十字架から降ろされた我が子イエス・キリストの亡骸を腕に抱き、別れを告げる聖母マリアを描いた彫刻です。)
ミケランジェロ・ピエタ スフォルツァ城.jpg
ミラノ・スフォルツァ城博物館

(*)饗庭孝雄「ヨーロッパとは何か」小沢書店p19

注57) 饗庭孝雄「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社p33
中世ルネッサンス〜
十字軍派遣によって、西洋文化とイスラム文化が交じり合ったことは以前説明しました。ですがビザンツ帝国・イスラムを通じて、ギリシャ文化も取り入れたことが12世紀ルネサンスといわれる所以なのです。(イスラムではビザンツ帝国やムセイオンを通じて、ギリシャ文化がもたらされていりましたが、そのギリシャ文化が、十字軍派遣を通してイスラム文化圏から西欧文化圏へと逆輸入されたということです。)
ギリシャ文化は、アレクサンドロス大王がアレクサンドリア市のムセイオンという大規模研究所で研究を進めさせました。後にアレクサンドリアはイスラム勢力に取り込まれますが、イスラムはギリシャ文化を保存したのです。西欧キリスト教はアンチ・ギリシャでしたね。ところが十字軍遠征がキッカケで、イスラム文化・ギリシャ文化に刺激されて西欧世界では、多数のギリシャ語文献がラテン語へと翻訳されました。こうして、「学ぶ」ことへの気運が高まり中世ヨーロッパで初の大学が生まれます。最古の大学はイタリアのサレルノ大学(医学)、他にも法学のボローニャ大学、神学のパリ大学が誕生します。更には、トマス・アクィナス(パリ大学)は、スコラ学の普遍論争を実在論(普遍的概念こそ真の実在とする)の立場から擁護し、この論争を終結に向かわせます(「神学大全」)。彼はアリストテレス的な自然現象と神(プラトンの「イデア」のような普遍的な存在)の両者を結びつけました。具体的には、「運動には必ず動かし手」がいる。そして、太陽や月が地球を中心に廻っているのは、天の彼方に「神」がいるからだ、と証明(?)した。理屈じゃないんです。人々の「希望」を代弁したんです。それは三位一体の考えと同じです。後には実在論に対抗した唯名論(個物だけが存在し、普遍概念は、それらの共通性に与えられた名前や記号としてのみ存在する)的考え方が、信仰と哲学・科学の分離を促し、自然科学の発達に繋がった。どちらが正しいなんて争うこと事体が間違いの始まりなんです。現代は後者に偏り過ぎて見えない不幸を数多く生んでいます。フランス革命を冷静に分析したバークリーの、どちらにも偏り過ぎない、バランスをとれるこころの自由をいつも忘れないようにしたいものです。竜樹の「中庸」も同じです。
この12世紀ルネサンスが14〜16世紀にメディチ家などの大商人たちのバックアップで、イタリア諸都市・市民の間に、ローマ文化を含めて広まったのがいわゆる「ルネッサンス」です。時代は中世を脱しつつあり、個人・市民の横のつながりが、主役に躍り出る近世に向かっていました。キリスト教から見れば、異教的によそ見(浮気)をした時代ということになります。

注58) 饗庭孝男「中世を歩く」小沢書店1994年3月P8
注59) 同p11
注60) 饗庭孝男「石と光の思想」平凡社ライブラリー1998年11月p96
注61) 中世の仕組み
それでも、問答無用の暴力は、直ちには防げません。犠牲を伴う、時間の解決に頼るしかないのです。小競り合いも、大規模な戦争もありました。宗教的恐怖もありましたし、何より暮らしは貧しかった。
「権力」を象徴する神聖ローマ皇帝と「権威」を象徴するローマ教皇が牽制しあっていた、といえば聞こえはいいが、それは制度上のことで実際はそれぞれに揺れ動いて浮き沈みを繰り返していた。権力や権威がしっかりしていなければ、個人は孤独と向き合い、しっかりとした人格を持とうとする。「敬虔」と「畏れ」を知る人間になりやすい。逆に、ナポレオンから始まる国民国家がしっかりしてきた近代では、市民が自己を高めると言えば聞こえはいいが、国家に心の不安(苦悩)を預けてしまい、飼い馴らされて、「敬虔」も無ければ「畏れ」も忘れた堕落人間に成り下がったともいえる。松岡正剛さんがどこかで言われていた「政治は議員に預け、法律は弁護士に預け、食事はレストランに預け、笑いはタレントに預け」、旅(巡礼)は、感動の仕方までも含めツアー会社に預ける近代はすぐそこに来ています。


2016年10月27日
第2回歴史第3部中世7【ヨーロッパの中世の原点・修道院活動】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世−続き1

〈大開墾時代(農業革命)と修道院活動・〉
 11〜12世紀に小さな温暖化を迎えた地球で、ブナ・カシの森に覆われた暗い森のヨーロッパが、修道院活動を中心とした大規模な開墾運動が展開され、明るく広い農地が出現しました。更に、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)という農具の普及がキッカケとなって、農業技術が進歩し、牛や馬を使って重い犂で広い畑が耕され、粘土質の土壌の深耕が可能となり、収穫量は蒔いた種の2〜3倍だったものが6〜7倍に増加した。又水車や風車を使った製粉や、3年に1度農地を休ませる三圃制(45)の発明などにより、農地の形状が変化し、農民の共同作業が進み、散村から集村化が進み、領主直営の多くは農民の保有地となり古典的な荘園制度は崩壊し、保有地からの貢納形式に、更には地代の金納化に進み、農奴の地位も向上していった。こうして、農業全体が飛躍的な成長を遂げ、人口も増加しました。この農業革命によって、ようやく辺境に過ぎなかったヨーロッパは、世界史の一画に顔を出すのです。
 シトー修道会は、開墾に主導的役割を果たしたばかりか、民衆に教育を施し、農作業を改善し、ワインの作り方を教える(古代ローマのワイン作りの技術は教会・修道院(46)に引き継がれていた)など経済的成長にも寄与しました。修道院活動は又、教会の腐敗と世俗化に対する内部批判の動きであり、最も早い「宗教改革」の動きでした。その先駆けとなったのはフランス南部のブルゴーニュに建てられたクリュニー修道院でした。6世紀のころの聖ベネディクトの精神(ベネディクトゥス戒律=祈り且つ働け)に立ち返ろうとする運動の大きな成果だった。「一切の世俗的支配を免れるべし」をモットーに、ローマ教皇のみに属し、国を問わない組織(国単位を越えて、小さな村に至るまで教区を設定した)でその力は、ヨーロッパの隅々に及んだという。世俗や他の権力の支配を受けないという「自由」を得たのです。この運動の背後にあったのは、間違いなくキリスト生誕1000年という「この世の終わりが近いことを告げる千年王国説(47)」だった。

裁きの日の到来によって、サタンが鎖から解き放たれ出現するという恐れと結びついて、丹毒の病の流行や1033年の大飢饉も語られた。人々はその日を前にして、「善を行い、悪と戦う」ことで来世の安穏を願った。こうした精神の高揚期・聖なる「熱狂」は、外に向けては「歩く熱狂」として十字軍に、或いはサンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼(48)に、内に向けては「隠れて生きる静かなる熱狂」として修道院生活に向かったのです。
 これらの熱狂は、気候の安定期・経済の好転と合わせて、多くのロマネスク(49)の聖堂を建て、善悪二元の劇的なテーマと、悪との戦いへの励ましを半円形の壁面に刻み、又「祈る祈祷所」に加え、建物の外側に、垂直に採光ができ且つ外の音と風の来ない空間である「回廊と中庭」を作り、瞑想や写本(印刷術の無かった時代に、聖書を写すのに、一人で1年3か月もかかる重労働だった)などの手仕事を行った。
こうして修道院生活の、神とかかわり求心性を持つ「ひとり隠れて生きる」ことと「共に労働に励む」という、背反するものの共存という特性が出来上がっていく。ヨーロッパでは修道院のような建物以外に、民家に回廊のようなものがあるのかはわかりませんが、日本には「縁側」という、内と外の橋渡しの素晴らしいアイディアがありましたね。暮らしの中に(こころの内と外を想う)瞑想と、(場の内と外を繋ぐ)辺境の工夫を取り入れるなんて、日本人の感性の素晴らしさを感じますね。でも今はもう忘れ去られてしまった。それと共に日本人のこころの縁側も消えた。懐の深さも、瞑想も消えたのです。

修道院は又、異教徒に対する・内部の「異端」に対する容赦のない対処も行った。「今日のような価値の相対化の無い時代において、キリスト教世界を絶対視する彼らの態度も、その時代に視点を戻して改めて考えるべき問題(50)」だと思います。
しかしクリュニー修道院は大きくなり過ぎた。法外な高さ、途方もない広さ、豪華な装飾は礼拝者の目を惑わし、祈りを妨げた。生活の贅沢さも徐々に身について、他の領主や諸侯のように奴隷を使い、典礼にほとんどの時間が費やされ、労働の時間は少なくなった。ミイラ取りがミイラになったのです。シトー修道会の批判はこのようなものだった。正に、シャルル・ペギーがドレフュス事件(51)に言及した有名な言葉「すべては神秘に始まり、政治に終わる」のです。

やがて13世紀頃になると教会も大きくなり、都市にも建てられるようになる。ドミニコ会・フランチェスコ会など、修道院から出て民衆の中、都市に入り説教をするものが多くなった。「働く人・戦う人・祈る人の三身分によって構成されていた社会は、やがて、働ける人(ブルジョア・商人)の身分を都市に組み込んで、新しい時代(ゴシック時代)が作られていく(52)」
のです。このブルジョアとカテドラル創建と贈与慣行については、既にお話ししました。「注36の贈与慣行」の項を参照ください。

又この大開墾も後に、大きな試練を招くことになる。
14世紀になると、中国雲南地方の風土病・ペストがモンゴル帝国の遠征でヨーロッパにもたらされたところに、森を破壊した結果、クマネズミを食べる小動物(オオカミ、キツネ、イタチ、フクロウなど)が激減し大繁殖したこと、マキの不足で、皮衣類の十分な乾燥ができず、ペストを媒介するノミの繁殖を防止できなかったことに加え、何よりも13世紀ごろから開墾運動も沈滞し穀物生産も伸び悩み、人口増による価格上昇も始まった(気候の寒冷化と小麦の高騰で十分な栄養がとれずに免疫力が落ちていた)ことなどから、ペストは大流行し、人口の三分の一が死亡する一大危機となったのです。都市の発達で人口が集中し、感染しやすくなったことも大きいでしょう。南フランスやライン沿岸の都市では、ペスト流行はユダヤ人の仕業として虐殺も行われた。絵画や彫刻にも頻繁に死が取り上げられた。
大開墾が悪いとは言いませんが、全ては繋がっており、ええとこ取りばかりすることには、目に見えない支えを破壊している部分があることに気付かないで、結果思わぬところで、えらい目に合うことがあるという、強烈な教訓ですね。
 ペストの終焉は、17世紀に入ってからだが、ジャガイモの輸入で食糧事情が好転したとか、木の家からレンガの家に変わり、ネズミが屋根裏に住みにくくなったことや、毛織物に代わって、木綿という乾きやすい素材でノミの繁殖が防がれたことなどが言われています。
〈続く〉


注45) 三圃式農業
中世ヨーロッパで広く行われた農業形態。畑作を主とするヨーロッパでは,連作による地力の消耗を防ぐために耕地を3つに区分し,1つを休閑とする輪作が行われた。耕地は夏作物 (大麦,燕麦、など) と冬作物 (小麦,ライ麦など) の作付けにあて,休閑地に家畜 (牛,馬,羊,豚など) を放牧,その糞尿により地力の回復をはかった。 (ブリタニカ国際大百科事典)

注46)修道院と修道会
 3世紀エジプトやシリアの隠修士によって独居・散住(「ひとり」住む)形式から始まり、東方に引き継がれた。一方で西方修道院では共住様式(「ともに」住む)がベネディクトによって発展した。共住と言ってもこの二通りを組み合わせたもので、個々の部屋ではひとりであっても、祈りや労働では共に働く。その為に回廊や教会ができるのです。アイルランド教会は、東方的で深い学問性を持ち、7世紀にローマ教会との確執が強まるまでは、西欧へ布教に行き多くの修道院を建てています。「アイルランド・ウエールズに布教に行ったのは、エジプトのコプト人(*)たちで知られる東方教会に属する人たちです。地中海を横切り、(ローマへは行かず、西欧の中心部も通らず)スペインを越えアイルランドに入りました(**)」。結局、教会では瞑想や修行・研究はできない。そこで生まれたのが修道院なのです。だから修道院の発想は、エジプトからの輸入なんですね。
一方で、修道会とは、修道院同志を、会則と会憲のもとに結合させ、権威を高めるために認可された団体のことで、政治化の一環です。宗教改革で修道会を無縁としたプロテスタントも結局19世紀には修道会を発足させている。

(*)ヘレニズム化したエジプト人と言われる。修道制、修道院を確立する。コプト修道院のネットワークはアフリカ・シリア・ヨーロッパからブリテン島に拡大。その文化はヘレニズム・古代エジプト・ビザンチンの混ざった美しい独自の文化で世界に影響を与えた。
コプト織4(柳宗玄「中世の美術」河出書房).gif
コプト織4(ナイル川で遊ぶ子供たち・柳宗玄「中世の美術」河出書房)

(**)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店1991年7月p40

注47)千年王国説(ミレニアム)
神によって悪魔サタンが捕らえられている一千年間に,再臨したキリストがまずよみがえった義人とともに地上に平和王国を創設し,それを支配する,その間一般の罪人も復活するが,その千年の至福の期間の終わりに最後の審判が行われるとする教説(大辞林)。終末論(*)です。この有名な根拠は、聖書の「ヨハネ黙示録」であり、反キリスト的なものの一掃が前提にあり、これが後々、民衆の変革思想となり、ピューリタン革命を始めとして形を変え様々な時代に・地域に現れる(三省堂・世界史辞典)。
あとで話しますが、ほぼ同時期に、日本においても「末法思想」がまん延し、権勢を誇った藤原道長すら、自宅の庭に作った阿弥陀堂の如来像に五色の糸を結び、その糸を握りしめながら往生を待ったそうです。一遍などはこの民衆の恐怖のエネルギーを集めて「時宗」を広めていった。ヨーロッパの「死の踊り」のような、「念仏踊り」を広げました。サンチャゴ・デ・コンポステーラの大巡礼のような、補陀落渡海(ふだらくとかい)の信仰や「蟻の熊野詣」と言われる巡礼ブームがおこります。
(*)終末論
現世の悪に対して、世界の窮極的破滅、最後の審判、人類の復活、理想世界の実現などを説く。

注48)サンチャゴ・デ・コンポステーラへの大巡礼
十字軍が聖地エルサレムへの巡礼であれば、(スペイン・ガリシア地方の端の岬にある)サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼は聖ヤコブという聖人の遺骨に参る巡礼です。エルサレム・ローマと並ぶ中世ヨーロッパ三大巡礼の一つ。病気治癒や来世での救済に効験ありとされた。
神は本来表現してはならないという考え方は根強く、教会の半円形の壁面では右手だけで表すのが慣例でしたが、どうしても神そのものを表したいという願いは強く、こういう願望はヘレニズム的発想であり、してはならないというのはユダヤ教的発想です。ここにも二者を対立・発展させる西欧的構造があります。既に見ましたが8〜9世紀のビザンチンでの偶像崇拝禁止と共に古いイコン(*)が破壊されました。イコンとはキリスト、聖母、諸聖人の偉業などを木版に描いた聖画像で、これを所有し崇めると効力があるとされました。ロシア大聖堂では壁面に大型のイコンが飾られ、家庭では小型のイコンが崇拝の対象となった。東欧やビザンツでも同様だった。モザイクはこれをガラス・大理石・色のある石などを壁面にはめ込んで表したものです。これに対し西欧では、聖遺骨・聖遺物が「表された神」として崇められていたのです。
制度としてのヨーロッパを作ったのが、英米やわが国のような判例法ではなく、ユスチニアヌス帝が受け容れた、制定法(コモンロー)である「ローマ法大全(*)」であり、精神的な共同体としてのヨーロッパを作ったのが修道院であれば、経済文化圏のネットワークとしてのヨーロッパを作ったのはサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼を始めとした三大巡礼でした。何しろ旅はカネがかかるし、先々でカネを落としてくれる。経済効果ですね。
勿論ヨーロッパを作ったのには、それらすべて(特に聖書)を繋ぎとめる文字であった「ラテン語」に聖書を訳したヒエロニムス(347〜420)、ゴート人でありながら、キリスト教の本質を見抜き、長年ローマの要職を務めた後、550年故郷の南イタリアのペレナ川のほとりに修道院を設立,文献の収集・翻訳,写本の製作や修道士の教育をなし,中世修道院の学問活動の模範を提示したカッシオドルス(480〜583)、530年にヨーロッパ初のモンテ・カッシーの「修道院」を設立し、ベネディクト会則を制定し、12世紀に至るまで修道生活の唯一の基準となったベネディクトなど忘れてはいけませんね。

(*)「ヨーロッパでは社会生活を法的ルールで守ろうとする意識が強い。それは取りも直さず、(荘園領主に対する農民の、支配権力を受け止める横の関係や、中世都市の領主権力に対する市民意識など)一方的な支配というものに対する抵抗の姿勢であり、団体意識の源泉である」(増田四郎「ヨーロッパとは何か」岩波新書p191)

注49)ロマネスク
ロマネスクは「ローマ風の」の意味で、まさしくローマの建築スタイルを踏襲したものだった。クリュニー修道院を始めとしたこの時代の教会建築様式であるロマネスクは、ラテン十字形(バジリカ方式)の平面とローマ風の半円形アーチを用いた天井と厚い壁面を持ち、重量感を感じさせます。「半円形のドームは、夜、砂漠を歩いていると、世界が星の輝く宇宙として見えることから来ている(*)」といいます。まさにキリスト教は本来、地中海(イタリア)やゲルマンの森ではなく、エルサレムという砂漠から生まれた宗教であることが判ります。ユダヤは、究極には反ヘレニズムなんです。
ロマネスクは人跡少ない山野や森や泉のほとりに建てられた「祈り且つ働く」修道院時代です。これがヨーロッパ中世であり、これに対するゴシック(ゴート人っぽい、つまりドイツ風)は、外に出て都市を目指すカテドラルの時代です。カテドラルは、開墾された森の復活のイメージでもある大聖堂なのです。それは既に近世を孕み異教的な臭いを残す(つまりヘレニズムに向かう)ルネサンスの始まりなのです。
 ロマネスク教会は上から見ると通常十字架の形をしている。十字のまじわったところにある高い塔は採光塔で、こちらがわに突き出している十字架の頭にあたるところが後陣です。腕に当たる部分は翼廊。身体にあたるところは身廊と呼ばれる。足にあたるところにも塔がたっていることが多い。この塔の下の空間をナルテックス(**)といい、本来は未洗礼者に洗礼をするところである。壁と柱で自重を支えるだけの単純な構造です。ですから壁は厚く窓は小さくなります。それでロマネスク教会は壁画が多いのです。又高さを得ようとすれば壁を厚くしなければならず、厚くすれば更に自重が増すという悪循環に陥ってしまうので低い建物になります(ゴシックはこの欠陥を、飛翼とアーチで自重を分散させ、高さと壁の薄さが可能となり、天に届く飛翔と、天を魅せるステンドグラスを獲得するのです)。又閉ざされた空間の中で、瞑想と共同作業のための回廊(***)も9世紀頃から中庭に付け加えられるようになった。
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院.jpg
マリーア・ラーハのベネディクト会大修道院教会堂

(*)饗庭孝男「ヨーロッパとは何か」小沢書店p143
(**)キリスト教聖堂の正面入口の前に設ける広間。聖堂建築において正面入口と身廊本体の間に設けられる広間。玄関の間ともいう。本来は聖堂内の儀式に参加できない未洗礼者,あるいは一時的に信徒の資格を停止された悔悟者の場所であった。厳密には外気から閉鎖されたものをいい,外気に開放されたものはポーチとよぶ(世界大百科事典第2版)。
(***)回廊
「ひとり」と「ともに」を両立させる形が修道院の元型を形作った。
キリスト教建築では,修道院内の中庭を囲む屋根付き列柱歩廊をさす。西洋では〈閉ざされた場所〉を意味するラテン語のclaustrumから発展し,修道士の住居を中庭でつなぎ,さらにこの中庭を列柱廊で囲んだもの

注50)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P22

注51)ドレフュス事件
 フランスで起きたユダヤ人のドレフュス大尉に対する冤罪事件。
1894年彼はドイツのスパイとして逮捕され、南米ギニアに流刑になったが、ゾラや歴史家モノーらの救援活動で、99年再審を勝ち取り、1906年無罪となり名誉回復した。フランス世論は「ナショナリズム・軍国主義・反ユダヤ主義」対「国際主義・平和主義・民主主義」に二分され、危機に陥るが、再審と共に共和化や政教分離が進んだ。

注52)饗庭孝男「ヨーロッパ古寺巡礼」新潮社1995年5月P34


2016年10月14日
第2回歴史第3部中世6【ビザンツ帝国の盛衰】
〈東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の盛衰395〜1453年〉
 キリスト教の歴史のところで、コンスタンチヌス帝の改宗について述べましたが、その後東ローマ帝国はどこに向かったのでしょうか。東ローマ帝国は、この名前が示す通り、「ローマ」という建前(伝統)が何より大切な国であり、その実はギリシャ人であり、ギリシャ語を用いていた。あたかも中世ドイツが、ローマという名(神聖ローマ帝国)を欲したように。それが1000年を生き抜くプライドでした。
 968年、神聖ローマ皇帝オットー一世の使節としてコンスタンティノープルを訪れたリュートプラントは、ローマ教皇から帝冠を受けたものの、自分にもローマ皇帝の称号を認めてもらいたいというオットーの申し出を持って東ローマ帝国のニケフォロス二世を訪ねたが、ローマ皇帝は一人という信念に難色を示された。オットーはローマ帝国の伝統を真に継いでいるのはビザンチンであることを認めているからこそ訪ねたのに。その時、とりなしに入ったローマ教皇が、ニケフォロス二世のことを(本当のこととはいえ)「ギリシャ人の皇帝」と呼んだから大変。申し出は却下され、わざわざ慕って来たにもかかわらずリュートプラントも、今後ローマ人の皇帝と呼ぶことを約束されてはじめて帰国を許される始末で、土産の高級絹織物も持ち出しを禁止され、コンスタンチノープルに来る人の最大の楽しみをも奪われた。 (神聖)「ローマ皇帝」オットーの使者と名乗ったことが怒らせたのだという。彼は「ギリシャ人を信じるな」という詩を作って憂さを晴らすしかなかったという。これほど「ローマ」という建前は互いに重要だったわけです。
 この国家イデオロギーは、コンスタンチヌスにふさわしく2つの顔を持った矛盾したものであり、「支配者たちのものである〈ローマ理念〉に、民衆の心を深く捉えた〈キリスト教〉を融合させた(38 )」もので、国家と宗教が一体となった文明は人間の自由と発展は阻害されるであろうと、マルクスに「最悪の国家」と呼ばせたものでした。しかし、現実は必ずしもそうではなかった。市民は気に入らなければ過去の皇帝を引き合いに出して、間接的にではあるが、容赦なく批判した。過去の皇帝に対する批判は珍しくなかった。マルクスもそうですがどうもこっち系統の人たちは、形(制度)ばかりにこだわって、肝心のその中での暮らしやその機微についてはどうでも良いと、たかをくくっているきらいがあるようです。お決まりのものを与えておけばいい。どっこいそこが人生なんで、「配給された平等」なんて糞くらえなんです。そりゃー形(制度)がいい方がいいに決まってます。だけど、中身が退屈なものではそんなもの願い下げなんです。しかも「ところ変われば品代わる、難波の葦も伊勢の浜荻」であって、一律じゃないんです。自由だろうが不自由だろうが、押し付けじゃなく自分で選べることが重要なんです。それが無い国はまずい。何でも平等にしたがる人間は、「自分だけいい思いをしたい」或いは「お前はずるい、俺にもやらせろ・よこせ」の裏返しに過ぎない。だから本末転倒で、その形を守ることが生きがいになってしまうんです。それは正義なんだから、正義のためなら何をやってもいいという話になってしまう。おまけに、他所の国にまで押し付けようとする。でも「これが正しいから従え」は、反対勢力も同じですがね。以前紹介した山極寿一さんの、人間だけができる生き方「抑制と同調」は、「私はあなたを殺害することもできる力を持っている。でもそれをしたくない。あなたと仲良くしたい。場合によってはあなたに従いたい。」であって、「強いものに従え(縄張り意識)」ではないわけです。そして「より良い選択ができる教育」が保証されればいいわけです。自由が守られればいいのです。ただしその自由も、「自由も度が過ぎれば、社会という船を一方ばかりに傾け、転覆させてしまう危険を孕む。そんなときは、わが理性の錘を反対側、即ち秩序の方に移したい。この錘はささやかなものに過ぎないが、ゆらぎ掛けたバランスを少しでも回復したい(39)」という、自己をコントロールできる自由が大切なんです。

その批判精神が、バランス感覚が持てず、一方にばかり傾き過ぎて、極論、(滅亡なんてしたくはありませんが)その結果が人類滅亡であってもしょうがないわけです。自業自得なんです。何百億年の宇宙の暦のなかで、そんな変わった生き物がいたということだけで充分でしょう。ミミズの岩石砕きではありませんが、何のためにこんな行動をとっているかなんて、とても人類などにわかるものではないのですから。自分たちだけが抜け目なく生き残ろうなんて、それこそ、人類の欲望のために犠牲になってきた数多の微生物から始まる亡くなった人間を含めた犠牲者、生物や地球や月や太陽に失礼極まりない。「存在」なんて、人類滅亡くらいで揺らぐような、そんなものじゃない。

キリスト教を公認したコンスタンチヌスの死後、ユスティニアヌス1世が、古代共和制との決別を果たしたものの、後継者はその威光を守れず、国家の危機は続いていた。610年カルタゴの将軍ヘラクレイオスは難なくコンスタンチノープルを攻め落とし、皇帝に即位した。彼は当初、宿敵ペルシャに後れを取り、一時は逃亡も図ったものの、戦場で泥にまみれ祖国のために命をかけて戦い続け、ついには宿敵ペルシャを倒した。彼は、宮殿の中で快適な生活をしており何の戦いもしていないユスチニアヌスが大帝と呼ばれるのに比して、後継者問題にしくじったというだけで厳しい評価を下されたのです。いくら一生懸命に古代ローマの皇帝の栄誉を復活させようとしても、時代は既に中世に向かっていたのです。
又対イスラム戦争の功績者でもある優れた軍人皇帝コンスタンチヌス5世は、偶像崇拝を禁止し、反対する者は修道士であろうと弾圧・処刑した。彼は「サラセン好み=偶像崇拝を禁止するイスラム教風という意味で」とそしられ、「糞」とさげすまれた。
コンスタンチヌスの甥である、背教者ユリアヌスのように、コンスタンチヌスの2つの顔を嫌い、ローマ古来の信仰に戻った皇帝もいた。ビザンツ人は、あんな専制皇帝の下でもしっかり批評していた(選んでいた)のです。そんな「やわ」じゃ無かった。

ビザンツ帝国は、建前と現実を使い分け、ある時は強靭な国家となり、ある時は創造性ある文明を開化させたのです。
 国の威信をかけて5年5万人の労力を動員し完成させた巨大なドームを持ち、壁画やモザイクで飾られた「聖ソフィア大聖堂」は、ロシア人がキエフを首都とした頃、イスラム・ユダヤ・カトリック・ギリシャ正教のどれを国家宗教にしようかと迷っていたウラジミル公に、宣教師の勧めるギリシャ正教に引かれつつ調査団を派遣し、その報告する、「他の教会で行われている典礼はさっぱり美しさを感じないが、聖ソフィア教会での式典はこの世のものとは思われない美しさに満ちていた(40 )」という内容にギリシャ正教を選ぶ決意をさせたほどに強い魅力を持っていました。また、ビザンチンの美しい絹織物は「大英帝国にとっての石炭、アメリカの世界戦略の要の石油に当たるものが、ビザンチンの絹である(41)」とさえ言わしめました。

6世紀にはイベリア半島南部からエジプト、シリア、黒海沿岸、ドナウ川以南のバルカン半島、イタリア半島を配下に収めていたビザンツ帝国も、7世紀からのイスラム勢力の征服に後退し、穀倉地帯のエジプト、商業地帯のシリアを奪われ弱体化してくる。それでも「ギリシャの火」と呼ばれる石灰と松脂と硫黄、精製油などを組み合わせた武器や、バシレイオス2世など、3代の優秀な軍人皇帝時代の重装歩兵部隊を駆使して、不死鳥のように何度も蘇り、強大な帝国が維持されたのです。優秀な軍隊は、軍役につく代わりに税金を免除される、やる気のある兵士たちから構成されていました。
しかし、これも長期の遠い遠征が続けば、農作業も行えず、村を捨て、土地を捨て、有力貴族のもとに走るようになる。中国や日本の中世の荘園と同じですね。ここに進んでいた変化は、兵農分離でした。彼らと貴族たちは「戦う人」に、その貴族の土地で働く小作農民は「働く人」に分かれていきます。貴族たちは力をつけ、皇帝の家臣から、友人へ変化していきます。早い話が文明人に、変わり身の早い、すれっからしになっていくのです。
 11世紀のコンスタンチノープルはヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ十字路に位置し、国際商業都市として栄えていました。ビザンチン帝国の発行するノミスマ金貨は、国際通貨として使われ、「中世のドル」とも呼ばれました。しかし政府の中身は徐々に生産より消費に、働かずにうまいこと儲けようの気風が強くなります。彼らは「働く人」「祈る人」「戦う人」の他に「儲ける人(ブルジョワ)」がいなかったんですね。西ヨーロパがやったように(注36で述べたように、商人を贈与慣習の世間に加えてやり、富のやり場を、教会への寄贈によって彼らの来世の安泰を保証するという形で、作ってやることで、教会も商人も双方が栄えるという方法)、商人を教会や修道院のヒエラルキーやネットワークの活力に使うことをしなかった。商人を育てなかった・甘く見たんですね。結局ヴェネチアの商人たち或いは北海・バルト海の商人たちを蔑んで利用するだけの、身分外に置いた。これが最後には命取りとなりました。

安上がりだった農民兵はもう使えなくなって、外敵侵入に対し傭兵を雇うというローマ帝国が嘗て陥ったコースを辿ります。安易に増税すれば農民は逃亡してしまう。こうして「禁じ手」に手を染めるわけです。赤字国債です(わが国もこの病気にすっかり麻痺していますね。まだまだ大丈夫と・・)。即ちここでは「官位販売」という形をとりました。購入者の狙いは、年金付きというところです。一度手を染めたごまかしはなかなか止められません。こうして国家に寄生する連中はとめどなく増加していきます。国債を返還しようにも農村は兵農分離が進み、農民は減り、税収は増えない。困った政府は金貨改悪などで対抗しますが、これは実質的な給与の引き下げですから利にさといビザンチン人が黙っていない。より高い官位への昇進を求める。こうして寄生虫だらけとなった。日本でいえば円安政策と株や債券の投資家・輸出企業対策ですね。人の良い日本人は騙されていることも知らず、株が上がったから、景気も良くなるだろうと喜んでいる。或いは俺たちに関係ないと言い放っている。とんでもない大ありなんです。上がった分の金額はどこからか突然わいてきたんじゃないんです。関係のないはずの我々の金が、分捕られているんです(42)。

また逸れてしまいましたが、こうしてビザンチン帝国も財政の泥沼を掛け落ちたのです。
ここに救世主が現れました。優れた武将であるとともに貴族出身のアレクシオス1世コムネノスでした。何をしたかというと、国家破産を宣言し、寄生虫たちに支払いを停止したのです。彼は自分と同じ貴族たちを帝国を支える柱として、従来の貴族や古い官位を無価値にし、総入れ替えを行ったんです。過去の国債を紙くずにしたのです。ちゃぶ台をひっくり返したのです。新しい貴族たちには新しい官位を与えこの体制に協力させた。こうするしかなかったでしょう。日本もいよいよとなれば、これしかないでしょうか(43)。

こうして、大変な犠牲を出して、新たな船出をしたかと思えるビザンチン帝国ですが、相も変わらず侵攻するノルマン人、トルコ人(イスラム勢力)に手を焼き、ノルマン対策にはヴェネチア海軍の、トルコ対策には西ヨーロッパ軍・十字軍の援軍に頼ることになります。しかし、十字軍を擁する西ヨーロッパは、素朴で乱暴です。しっかり聖地エルサレムの回復という目標を持った融通の利かない田舎者達です。一方ビザンチン人はすれっからしで、ころころ提携先を変える、聖地回復などお題目に過ぎない「狡猾なギリシャ人」なのです。反りがあうわけがない。やがてこの不信感は、1204年第4回十字軍で表面化し、十字軍・ヴェネチア人がそこに(都で仲良くすみ分けていた)イスラム教徒に傍若無人の狼藉を働いたことに対し、ヴィザンチン人は異教徒イスラム教徒に同情して西欧人と戦ったことなどから、やがて十字軍からコンスタンチノープルが攻撃されてしまうことになります。その末路は哀れです。
国家は滅亡し、十字軍に占領されラテン帝国なるものが打ち立てられたり、その後もスキをついて再びヴィザンツ帝国を打ち立てたといっても名ばかりで、金はないし(ヴェネチア商人に持っていかれました)、艦隊も持たず、唯の人口10万程度の観光都市に落ちたコンスタンチノープルのビザンツ帝国は、最後まであがき続けた後1453年、オスマン帝国に滅ぼされます。コンスタンチノープルは破壊されずに、イスタンブールと改名され、オスマン帝国の都として現在に引き継がれています。

弱体化しながらも、ビザンツ帝国はキリスト教世界の、イスラム教世界からの防波堤の役割をしたことは事実です。ギリシャ正教をスラブ系民族にもたらし、彼らの文明の基礎を担った。ギリシャ・ローマの文化を保存しルネッサンスに影響を与えた。これもみな事実でしょう。しかし、彼らにもプライドがあります。そんなヨーロッパ中心の見方だけでは、西ローマ帝国がゲルマンの手に落ちたようには、異民族に屈せず、「ローマ」の理念を守った彼らからすれば、不満です。何といっても「自由と民主主義」とか言っている古代ギリシャ・ローマに比べ、「皇帝の奴隷」などと言って自己を卑下していたビザンチン人の方が、結果として女性の権利を始めとした人権の拡大も実現しました。しかも千年も持ちこたえたのです。彼らは知識人も含め、陰でではあっても、絶えず批判精神にあふれ、皇帝賛美と皇帝批判を併せ持ち続けたのでした。あの時代にそれは精いっぱいの抵抗だったでしょう。そして少しずつではあってもアヒルの水かき効果はもたらされたのです。

平等な制度ばかり整備したって、やる気のないものはやらないんです。民主主義といういい制度がつくられたって、怠惰をむさぼって自滅する者はするんです。どんな環境でもやるヒトはやるんです。だからと言って圧政がいいなどと言ってません。制度は腕力で正すものじゃないということです。個人個人の絶えることのない内なる革命の結果、後からついてくるものじゃなければ意味がないということです。
 「ビザンチン人は「改革」を嫌い「伝統」に信念を持った。彼らにとって「民主主義」とは、好き勝手な権利ばかり主張する、船頭ばかりの忌むべき政体であり、正しいのは皇帝による独裁政治であった(44)」。

その後ローマの亡霊(帝国理念や宗教)は、今度はロシアに受け継がれ、ロシアは第3のローマとして、東方正教会(ロシア正教)の中心を担っていきます。

ビザンチン帝国の盛衰はこれで終わりです。
さー、皆さんは、どう考えますか。

注38) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P59

注39) エドマンド・バーグ「フランス革命の省察」PHP研究所2011年3月P317

注40)井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P164

注41)同 P168

注42)円安政策
 どういうことかというと、円安政策でカネの価値を下げたのだから、株を買う代金も以前よりたくさん払わなければ買えない。だから、当然金額は高くなる、つまり株が上がるわけで、何も価値が上がったわけではない。金の価値が下がった分だけ修正が入っただけなんです。食料自給率が低く輸入品に依存する日本で、円安は商品の値上げに等しい。円が1ドル80円だったものが100円に成るということは、今80円出せば買えていたバナナが100円出さなければ買えなくなったということで(株価も同じで)、25%の実質値上がりです。全部輸入品で暮らすわけではないにせよ、理屈としては20万の給料をもらっていた人は、実質25%引きの15万に引き下げと同じです。そこに気付かない。じゃーその差額はどこに消えるのか。輸入元にじゃないですよ。過去に(円安になる前から))株を持っていた人間の株が上がったり、輸出企業の決済金額が跳ね上がったりつまり、そっちにカネが移されてしまったのです。態の良い略奪をされたともいえるわけです。つまり騙されたわけです。ミクロにズームインすれば、こういうことになります。今ロンドンでEU離脱に関わるポンドの下落が騒がれていますが、株は上がっているから悪いことばかりじゃない。輸出企業はもうかっているなどと報道されていますが。株は上がっているんじゃない、下落したポンドで換算しなおした修正が入っているだけです。その瞬間を跨いで株を保有していたり、輸出と決裁をした企業が差額を一時的に手にしただけです。差額はどこから来たのかは、日本と同じです。
日本の株高はそればっかりじゃない。日銀や年金基金があれだけたくさん買っていれば上がるのは当然。株式市場は既に(民間の)自由市場ではなく、(国が大株主ばかりの)統制市場になっている。マスコミも民間も政府の顔色ばかり窺っている。マスコミも批判ができなくなっている。それでも実効果は庶民には徐々に来るから実感がわかないで、なんとなく収支が苦しくなってくる。日銀にまで国債を買わせて、つまりますます大量に、裏付けのない、薄めて増やしたカネを増やし、見かけを大事にする。そうしておいて、人口比率も投票率も高い高齢者に対しては、陰でこそこそ物価スライドと給与スライドの両方を組み合わせた年金法案を通してしまう。物価が上がっても給与が上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)、だからと言って給与が上がっても物価は上がっていないからと年金は据え置き(又は下げる)という大変巧妙な仕組みで、何とも情けない。人口比率が少なく投票率の低い若者に対しては、怖くないから堂々と派遣改悪法を通して、若者潰しを平気でやった。安い給与でも親のすねをかじることができるうちは、大変なことという実感が湧かないから気付かない。その親も何時かはいなくなる。その時初めて、こんな給与や待遇では結婚もできないと慌てる。その時はもう遅い。いよいよ老人に矛先を変えたのでしょう。無理だったから下げますと正直に言えばいい。本当にカネを回したいなら、資産をしこたま貯め込んで動かさない老人たちに対し、相続税をゼロにすれば若い世代にカネは一気に向かい回り出します。怖くてできないですかね。そんなことできるわけがないだろうと、馬鹿にして笑うくらいしかできないんでしょうか。又本当に信用できる政府なら、増税にも耐えなければならないでしょう。批判もできない、バランス感覚も持てない国民なら、投票権など猫に小判でしょう。どう思いますか。ちょっとミクロに政治的に入り込みすぎました、すみません。

注43) 起死回生策は切り捨て御免のこと
 このままでは、いずれ、日本もビザンチン帝国が落ちったときのように、この現象がやってこないとは言えません。国債は紙くずになりかねない。確かにアメリカのように日本や中国から大量に国債を買ってもらっているということは無いかもしれない。又国民の預金残高が国債残高を上回っているから大丈夫だというでしょう。日本は世界最大の債権大国だというでしょう。しかしその根底である貨幣自体が、「信用」で成り立つものである以上、一たび不安に火が付けばそんな理屈は、全く通用しない。相手は素直な日本国民だけじゃないんです。既に世界とつながった時代なんですから。相互依存の「新しい中世」に入っているんですから。いい加減に目を覚ましましょう。実は我々はそんなに金持ちじゃー無いんです。俄か成金なんです。税収の何倍の暮らしをしているか考えただけで判ります。これは一面的な見方かも知りませんが。さー、皆さんはどう考えますか。話がまた政治的になってしまいました。これではGDPの大きさで国の格付けをするの愚に陥った人たちと変わりません。すみません。

注44) 井上浩一「生き残ったビザンチン」講談社学術文庫2008年3月P274


2016年10月05日
第2回 歴史 第3部 中世5【ヨーロッパ中世】
6・長く深く沈潜する西ヨーロッパ中世

〈ヨーロッパの風土と民族〉
 ヨーロッパ(28)は大きく地中海地方、西ヨーロッパ、東ヨーロッパに区分されています。地中海地方は、地形的によく似た我が国の瀬戸内海とよく似て夏季に雨が少なく温暖な気候です。それに加えて、石灰岩質の痩せた土地でオリーブなどの果樹栽培に適した半面、小麦不足の為交易や植民が欠かせず地中海・黒海沿岸に都市が発達した。一方でアルプス以北の西ヨーロッパは、陽光は少ないが、西岸海洋性気候の、南からの暖流である北大西洋海流や偏西風のおかげで、冬は緯度に比して温暖で降水量も平均しており広汎な農作物が栽培や酪農も可能な環境だった。唯当時は、内陸は広葉樹・針葉樹の森林におおわれて、寒冷で開発は遅れていた。ただ地味も肥えていた為、後の大開墾や農業技術の進歩(三圃式農法・後述)などで、有畜農業(29)が行われた。交通は道路が舗装されておらず、雨となれば通れたものではなく、勢い河川が動脈として利用され、そこに沿って都市が発達した。東ヨーロッパは、雨量は少なく寒暖の差の大きい大陸性気候で、草原地帯が広がり、黒海北岸は肥沃な黒土で地中海の穀倉として知られ、東方からの遊牧民の侵入に脅かされた。

一方、この広大なヨーロッパ(イベリア半島からアルプス以北)に古くから住み着いたのはケルト人(30)でした。彼らはイベリア半島やアルプス以北を活動の拠点としていましたが、北方のゲルマン系民族中、西ゲルマンと東ゲルマンがライン・ドナウ両川以北に拡がり、4〜6世紀にゲルマン民族移動により一部は自然の障壁アルモリカン山脈に守られたブルターニュ地方へ、一部は北方に追いやられ、アイルランドなどに駆逐されてしまいました(実はそのもっと前には、紀元前6000年〜1800年には巨石文化を持つ先住民族が住んでいました。巨大な石を太陽である神に捧げたと言われます。どうやって動かしたのかは不明のようですが、もしこれが花崗岩なら節理に沿って雨で割れた可能性もあります)。
ケルト文化は縄文の日本人と似て、文字を持たなかった民族なので、伝承や音楽や芸術的なものからしか推し量ることができないのですが、アイルランドなど一部の地域では(科学的な見地では当時の資料たりうる伝統は残りうるはずもないのですが)、僅かな言い伝えや遺跡やアイルランドの昔話などから、想像力を借りてのケルト世界の一端を垣間見ることは可能です。なぜケルト文化にこだわるのかというと、そこには、辺境ヨーロパの根っこの部分や、大陸からの辺境の地・日本との共通の風土が匂うからなのです。特に森の中の木の住居は我々に親しい。縄文土器に見られる観念の渦巻く模様は、ケルトの渦巻き模様思わせますし、昔話における変身譚において、グリム童話などのように呪文や魔法などの操作を挟まないで、ごく当たり前に変身は行われます。これは人間と動植物の境界が無いというか、隔たりの無い同等の関係にあるので、会話したり変身したり、特別な操作無く可能なんです。おそらくこれは日本とケルトだけということでは無く、原始の人類共通の能力であり、会話自体がもともとそういうものであり、認識や視覚自体も、現代の写真というものがクリアー過ぎて、覆ってしまっている向こう側まで見えたりするものだったのだろうと思います。つまり現代人が自分と切り離そうとしている、非合理な無意識やカオスとの連絡が取れているからこそ見える・感じられる豊かな世界を持っていたろうと思われるからなのです。「古代から渦は、偉大なる母の子宮の象徴と考えられてきた。それは、生まれてくるという意味と、そこに引き込まれて死ぬという二つの意味を併せ持っている。・・まさに輪廻転生を象徴するものなのだ。・・つまり母性の象徴なのである(31)」。これは後にヨーロッパを席巻するキリスト教の父性と対立するものなのです。遂には「赦す」存在、神へのとりなしをしてくれるマリアの必要性を認めたカトリックよりも更に父性の強い、プロテスタントと対立するものです。ヨーロッパの優れた文学でケルト文化に影響を受けた人たちはアイルランドのイエーイツ、ジョイス、フランスのマルセル・プルーストなど20世紀の代表的な作家がいますし、ワグナーの「トリスタンとイズー」伝説もアイルランドに源泉があります。墓の中から蘇る愛の「嵐が丘」の結末もアイルランド起源です。もっと言えば、ケルトの場所の一つであるアイルランドは、ノルマンの侵略から始まり、12世紀から続いたイギリスによる修道院文化の破壊、弾圧と圧政から、新大陸に避難したアメリカのルーツでもあるのです。今日でもアイルランドへの観光客の多くはアメリカ人です。自分のルーツを探しているのです。ケネディーもレーガンも同じルーツでした。

いずれにしても、ケルトは日本の縄文のように、ローマや古代ゲルマン族らによって(縄文人は弥生人たちによって)、跡形もなく破壊されてしまったのです。フランスのブルターニュやアイルランドに僅かに残るのみです。(ヨーロッパの)石の文化は残りますが、森(木)の文化は断片しか残りません。歴史家の木村尚三郎さんは、パリに行くといつも訪ねるところがあるといいます。それはサン・ジェルマン・アン・レイにあるフランス古代博物館の、銀でできたケルトの木々の葉のコレクションです。
病気や怪我の治癒に感謝して、ケルトの神々に捧げた奉納板であり、その空中に舞うがごとき美しい光からは森の歌が、大自然への畏怖と森の木々に神秘を見た彼らの豊かな情感がこみ上げてくる感動を覚えるといいます。曰くヨーロッパ版縄文の歌だそうです。
もともとローマ帝国の辺境だった西ヨーロッパは地中海と比べると寒冷で、森に覆われた未開の地だった。麦の収穫も少なかった。ローマ人がケルト人を森の人と呼んだのはその為だった。そこでは森が神々の住まう神域として敬われ、その神々は聖なる木・カシ(32 )の木に宿るとされたのです。カシは寿命は2000年に及ぶと言われ、新しい葉が生えるまで古い葉は残り、日本でも一族の繁栄のシンボルとして子どもの日にカシワ餅が食されます。銀の葉もおそらくカシワでしょう。実物を見てみたいものですね。

 長くなりましたが、ゲルマン人は征服民とはいえ、ヨーロッパという同じ風土で育ったという点でケルトの民と底では繋がっています(我々も大陸からの稲作や渡来人の弥生に染まっているとはいえ、地中奥深くには縄文の熱い血潮が渦巻いているのと同じです。土俗の盆踊りはその情念を「をどり」によって踏みしめ・吸収する行事です)。後に一神教であるキリスト教によって否定され変化を強要され、地中深く埋められたこの多神教の世界は、ゲルマンの神々と共に、ことあるごとに対抗の炎を燃やし各地で噴火するのです。(クリスマスツリーやハロウゥンの)ケルトはヨーロッパの底辺なのです。縄文が日本の底辺であるように。
こうしてヨーロッパは、中世前期に、地中海にラテン系民族、西ヨーロッパにはゲルマン系民族(33)、東ヨーロッパにはスラブ系民族(34)という分布が出来上がりました。唯、ハンガリーとフィンランドだけはウラル・アルタイ語系(アヴァール・マジャール・モンゴル・トルコ人)の言語を持ちます。彼らはアジア方面から移住してきた遊牧民の子孫だったのです。

〈ゲルマン民族大移動・375〜476年〉
 ゲルマン人は、ローマ人からすれば随分と素朴で荒々しい牧畜と狩猟と小規模の農業とで暮らしをたてていた部族集団だった。それでも、貴族・平民・奴隷の階級と民会という意志決定機関を持っていた。ゲルマン人の信仰していた神々の名は自然現象から来ていて、曜日の呼称として残っている。主神オーディンはWednesday、その妻フリッグはFridayなど。

 ゲルマン民族大移動とは、ローマから見ればそうなりますが、ゲルマン民族から見れば、農業進歩と人口増による土地不足と、匈奴の末裔・フン族からの逃走であり、フン族から見れば中国(鮮卑系の北魏)の圧力からの逃走でもあったわけです。
そして西ヨーロッパ世界の形成は、ローマから見れば、地中海世界に進出したイスラム勢力からの逃亡とゲルマン勢力であるフランク王国との提携でもあったのです。当時のイスラム勢力とフランク王国の力の差は、首都バクダードの人口150万人に対し、フランクの首都アーヘンは、僅かに3000人という差から見ても歴然としたものでした。ど田舎の農村から出発したヨーロッパは、イスラムの大征服圧力に、けなげにも連帯し、北方の「ゲルマン人のローマ帝国」を辛うじて確保したのです。両方から挟まれた西ローマ帝国は、攻撃的なイスラムよりも、素朴で一神教を持たない、比較的平和的な移住をしてきたゲルマン人との提携の方を選んだのです。ローマ人の都落ちですね(395年ローマ帝国は東西に分裂しました。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)は、古い伝統を受け継ぎ、皇帝と教皇一体主義の体制(帝権と教権の分離をしない)をとり、昔ながらの制度国家を維持しました。一方でゲルマン人と組んだ西ローマ帝国は、ゲルマンの諸王国が群雄割拠し、強大さを競う状態でした。
西部に建設された諸国の中でゲルマン人の人口比率は僅かなもの(3%程度)でした。にもかかわらず軍事的主導権を握った為、やがてゲルマン傭兵隊長オドアケルが、476年西ローマ帝国を滅ぼし、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の臣下となった。以降ゲルマン諸民族の王は東ローマ皇帝に従属し権威を利用した。ここに西ローマ帝国という国は滅亡したのです(ローマ教会は、東ローマ帝国とは別に生き残ります)。時に、倭王「讃」(仁徳天皇?)が東晋に使者を出し、中国では北魏と東晋がしのぎを削り、ビザンツ帝国と朝が対立する時代でした。
そうした中で西ヨーロッパ最大の勢力になったのがフランク王国(メロヴィング朝)でした。5世紀末のゲルマン部族は、カトリックではなく異端とされたアリウス派(35)を信仰していたが、フランク王国のクローヴィスは諸国に先駆けて496年に臣下と共に正統のアタナシウス派に改宗し、旧ローマ貴族やローマ教会の支持を取り付け勢力を伸ばした。その後次第に衰え宮宰(宮廷の家政を取り仕切る役人)一族に実権は移ったが、7〜8世紀にかけての、シリア・エジプト・ササン朝までもを倒したアラブ人民族大移動である「イスラム大征服運動(後述)」により、イベリア半島(現スペイン)まで征服され西ゴート王国も滅ぶに及び、危機感は一気に高まった。フランク王国宮宰でカロリング家のカール・マルテルは救援の要請に、国土の3分の1を没収し騎士に与えることで強力な重装騎兵を組織し、既にポワチエが落とされた後、キリスト教の聖地のひとつであるトゥールでイスラム軍と激突し、勝利した。マルタン修道院も守られた(トゥール・ポワティエ間の戦い)。しかし、イベリア半島と地中海一帯は長らくイスラムの支配に置かれたことを考えると大勝利などと言えるものではなかった。それでもこの勝利が無ければ、今のヨーロッパは無く、イスラム世界になっていたことは確実でしょう。

これをきっかけにカロリング家は台頭し、カール・マルテルの子ピピンはカロリング朝を起こした。ピピンは教皇領を寄進し、この機にビザンツ皇帝と対立していたローマ教皇は、カロリング朝と接近し権威確立に利用した。ピピンの子・カール大帝は800年ローマ教皇から、ローマ皇帝の帝冠を授けられた。こうしてローマ帝国は、ローマ人ではなく、「ゲルマン人のローマ帝国」として復活しました。

〈カール大帝の戴冠と西欧世界の誕生・486〜870年〉
カール大帝がキリスト教に戴冠(たいかん)したことが、なぜヨーロッパ世界の誕生につながるのでしょうか。その背景には、遡ること300年、メロビング朝のクローヴィス(クロードヴィッヒ)がカトリック(正統のアタナシウス派)に改宗し、塗油(油または脂を人または物に塗ってそれらのものが神聖なものとの新しい関係を得たことを象徴する儀式)の儀式によって、王がゲルマンの神々にではなく、キリスト教の神に贈り物をし、民衆の平和を祈らなければならなくなったことに象徴されます。つまり、従前の、家臣に戦利品を気前よく配ったり、生活の隅々まで浸透していた贈与慣行(36)
は保ちつつ、王がもっていた民衆の病を治し、収穫を増加させるという力の行使を教会に移し、もって民衆に対しては伝道を進めることに絞る代わりに、死者への贈与(生前・死後を問わず自己の幸運を保証してもらう為の取引)として財宝を地下に埋める慣習をやめさせ、教会に寄進させることで、つまり神への贈与に換えることで、天国で報われることを聖職者の祈りで保証する形に転換させた。
こうすることで、教会は寄進された財産で大聖堂を建て、権威を高め、王は名誉という社会的権威も、聖堂の周囲に立つ市の開催による収入も確保できた。貨幣は埋められて腐ることなく市井に循環し始めたのです。贈与経済体制から、売買による(利潤を目的とする)貨幣経済への移行期にいたのです。勿論、カトリックを信仰していた旧ローマ人との障害も少なくなったことは言うまでもありません。こうしてヨーロッパは教権と帝権のバランス(聖俗2つの中心を持つ楕円のような)のもとに一体となる独特の共同体を形成していくのです。これは後のヨーロッパ文化の特色であるバロック(ヴィヨンやヴェルニーニなどに見られる二律背反な「敬虔」と「猥雑」の2つの中心を持つ、楕円構造の持つダイナミックな)文化をも生み出すのです。それはやがて、現世での善行や教会への寄進は、天国での救いを約束するものではないと、教会の欺瞞を暴いたルターの登場まで続くのです。

フランク族には、子が財産を分割して相続するという慣習があり、843年のヴェルダン条約などを経て、カペー朝(フランス)、イタリア王国、神聖ローマ帝国(ドイツ)の3国に分裂しました。これが「帝権はドイツに、教権はイタリアに、そして学芸はフランス(パリ)にという3つの中心を持つユニークな文化圏となった(37)」のです。彼らはナショナリズム一辺倒ではなく、この時代から王侯貴族同士の通婚を認めたり、市民や農民も地域社会の特色を認め合い、国の如何に関わらず同一身分の同格性など相認め合う意識も持っていたようです。
少なくともヨーロッパ内に限って言えば、最初から異なった文化を認め合った上で統合していこうという国際的な自覚を持った集団でした(勿論ヨーロッパ連合の、外に対しては傲慢で、鼻持ちならない優越意識が、多くの犠牲を強いたことも事実ですが)。

〈カロリングルネッサンス〉
アーヘン(森の中の小さな町に過ぎない)を中心としたルネッサンスと言っても、同時期のバクダードや長安(両方とも100万都市)と比べたら、本当に月とスッポンぐらいみじめな差があったことは述べました。それでも、「ゲルマン人のローマ帝国」を復活させたカール大帝は、国造りの為のインフラ整備に加え、自らは文字の読み書きはできなかったものの文教政策に力を入れ、各地の修道院や教会に付属学校を設置させ、各地からアルクインなどの高名な学者を招き、当時の俗化したラテン語に対し、古典を模範にした正しいラテン語の復興や文化の研究に当たらせた。その結果修道院では、それまでの文字が「アンシャル体」という荘重なローマ字中心だったものを、カロリング小文字(アルファベットの小文字)という独特の書体で多くの写本が作成され、古典文化の継承がしやすくなった。
カール大帝の西ローマ帝国は、単なる古代帝国の復活ではなく、古代の古典文化に加え、キリスト教、ゲルマン的要素の融合した新しい世界の誕生を象徴するものでした。アルクイン(735〜804)は古典学芸とキリスト教信仰の調和につとめ、カロリングルネサンスの中心人物となりました。

〈ヴァイキングと東西ヨーロッパ9〜11世紀〉
9世紀から11世紀にかけては、ノルマン人・ヴァイキング(ノルウェーの入り江=ヴィークに住むところからこう呼ばれた)と呼ばれる北ゲルマン(スウェーデン人・ノルウェー人・デンマーク人=ディーン人)は、スカンジナヴィア半島やユトランド半島で農業に従事していたが、気候は悪く農地不足で、人口増を賄うことができず、彼らは巧みな航海技術で川や海を往来し、横波に強く、左右どちらからでも岸に付けることが可能で、帆で航海し河川をオールで遡るヴァイキング船を駆使し、交易や移住や略奪を行い、その勢力を広げた。
これを、ゲルマン民族大移動の落ち着いた後の、第二次民族大移動と言います。

スウェーデン系ヴァイキングは、バルト海から南下する川を遡り、ヴォルガ川やドニエプル川を下り、カスピ海・黒海に至る交易路を開発し、イスラムやビザンツ帝国との交易をおこなった。イスラム商人との交易ではアラブ銀貨が流入し、北欧から西欧にヨーロッパの貨幣経済をもたらした。トルコ系遊牧民がヴォルガ川下流の草原地帯を占拠すると、孤立したヴァイキングはスラブ人と混血し、森林地帯の集落を集めて毛皮の集散地だったノヴゴロドに、「ノヴゴロド公国」を建国、更に交易の中継都市キエフに南下して、「キエフ公国」を誕生させた。これがロシアの始まりです。

ノルウェー系バイキングは、征服した国々の習俗・宗教には関心を払わず、村を焼き払い、墓をほりかえし、無防備な修道院の十字架などの貴金属を奪い、人々を虐殺し、残虐で荒々しい方法でアイルランドやスコットランド、フランク王国など沿岸各地を襲い、略奪の限りを尽くしました。カペー朝(フランス)は彼らに海沿いの領地を与え(西フランクとイングランドの間)、ノルマンディー公国とし、同族のヴァイキングの撃退に当たらせたが、飼い馴らし作戦はうまくいかず却って1066年ノルマンディー公は、イングランドに攻め入り、ノルマン朝を開いた(イングランドには、ゲルマン民族移動期にアングル人・サクソン人が住み着いていた。イングランドはアングル人の土地という意味)。その為14〜15世紀にわたる英仏間の百年戦争が終わるまでは、イギリスの公用語はフランス語だった。英語でフランス語由来の単語は多い。


注28) ヨーロッパ
 ギリシャ神話の、ゼウスが白い牡牛に変身して、恋に落ちたテュロスの王女エウローペーを誘惑した話にちなんで名づけられており(牡牛座もここから来ています)、そのラテン語形であるというのは有名ですが、セム語(アッカド語)の「エレブ」(夕暮れ=西方)が由来になっているとする説の方が信憑性が高いとされます。ヨーロッパは国の名前ではありません。各国の統合名称です。これが示すように、ある時は民族の自決を主張して分裂の力が強く、ある時は外圧(イスラムなどの強大な外圧や日本などの経済的進出の外圧)に逢って団結してこれに当たり、膨張力と求心力のダイナミックな力を持つ稀に見る自治統合体なのです。決して一つの領土国家ではなく、帝国でもないのです。EUが経済統合したからと言って、将来一つの国になろうなんて、これっぽっちも考えてなどいないのです。
世界の社会体制が、古代から中世にかけて、「世間」という集団体制を普遍としたとき、ヨーロッパだけは、11・12世紀を境に、そうした「人間が集団の中に埋没して相互に依存しあう、世間体制」から離脱し、「個人を単位としながら、結合する」という社会の実現に成功したのです。これを可能としたのは、(阿部勤也さんから学びましたが)カソリック・キリスト教の父性的性格や、個人に対する「告解(告白)」の強制です。これが「自分自身を見つめること」を覚えさせ、社会から孤独な「個人」の自立をもたらしたのです。やがて自意識を生み、身体から離れた客観主義や、自然を人間に奉仕する存在と見る「自然科学」の見方を生みます(これは、キリスト教の発生のところで、アウグスチヌスと共に説明しました)。これが様々な文化や技術を生み、産業革命も起こしました。18世紀から19世紀にかけての「ヨーロッパの優位」を生み出した要因です。勿論様々な副作用も生まれました。それが鬼子であるアメリカも、怨念のイスラム過激派も、パレスチナ問題も、そして魔法のような「自由と民主主義」も生んだのです。現代はその魔法が解け、新しい中世(豊かな中世)に向けての長く苦しい模索の時代に入っています。新しい古代ではありません。新しい古代(=近代国家・帝国主義・共産主義)を目指した動きは悉く自壊しています。せいぜい遅れてやってきた今の中国位でしょうか。中央政府を脅かす勢力などどこにも見当たりませんから。未だに日本以上に贈与の経済が民間では盛んで、人権問題など非難するのは、彼らには理解できないでしょう。その素朴に世界は振り回されているのです。やがて時間は、資本主義を経験している彼らに観念の中世をもたらすでしょう。

ヨーロッパとその子であるアメリカには新しい体制をリードする可能性があります。しかし彼らは嘗て、ひどく手を汚してしまいました。これが致命的な問題です。残念ながら、今のところ、素朴が先進文明を滅ぼすという、古代的な動きが優勢です。逆戻りですが仕方ありません。優越意識が墓穴を掘ったのです。日本も、それを覆す智慧もあるのですが、やはり過去に手を汚してしまいました。警戒心は根深いものがあります。辛抱しきれずに積極的平和主義などという訳の分からないことも言い出しています。何をビビってるんでしょうか。日本の本当の力はハードではありません。本当に平和を望むなら(リスクを潰すなどという安易な排除の論理では太刀打ちできないのです)、危機を逃げてはやってきません。そう、平和は掴むのではなく、やってくるものなんです。ソフトなのです。急がば回れです。
しかし、もっともっと巨大な問題・地球環境が既に取り返しの利かない状態になってしまっているという問題がのしかかっています。にもかかわらず、目を閉じて、これを見ようともせず、目先の豊かさばかりにうつつを抜かし、未だナショナリズムにあくせくこだわるのは如何でしょうか。地球温暖化が齎す環境の変化は、もしかしたら生物全体が望んでいたことなのではないか。もう20年も前に、松井孝典さんは喝破されています。人類のことしか頭にない身勝手な人類主義で考えれば、困ったことかもしれません。しかしそんな人類団結主義すら、もう通用しない時代なのです。ミミズが何億年もかけて岩を砕き土にしているのは、誰の為なのでしょうか。人間が利用して耕すため?とんでもない思い違いですよね。

注29)有畜農業
 作物の栽培と家畜の飼育を組合せた農業形態。ヨーロッパの三圃式農業より発展した。狭義では,家畜飼養が商品生産部門として未確立の段階にあるものをいう。混合農業や酪農はその代表的なもの。家畜の飼育はそれが現金収入をもたらすだけでなく,地力維持のための肥料を生産する(ブリタニカ国際大百科事典)。

注30)ケルト人
インド・ヨーロッパ語族のうち西方系の民族。ギリシャ語でケルトイ、ラテン語でケルタエ、ガリーとも。原住民は南ドイツ地方。紀元前8世紀頃、鉄製武器と戦車で前2世紀ごろまでにイベリア半島からブリテン諸島、小アジアまで広大な地が彼らの世界となったが、前1世紀からローマ人に、前5世紀からゲルマンに圧迫・征服された(角川世界史辞典)。ガリア人、ブリトン人、スコット人はケルト系民族。

注31)河合隼雄「ケルトを巡る旅」講談社α文庫2010年7月 P75



注32)カシとカシワとOAK

カシはカシの木で、カシワはカシの葉のことを指したが、いつの間にか別の植物のように使われることもあった。更にカシワはカシの葉ばかりか、食事の際に使う葉を総称して、カシワというようになったと、本居宣長の「古事記伝」にあるようです。

加之波(かしは)(かしは)といふは、もと一樹の名には非ず。何樹にまれ、飲食に用ひる葉をいへり。・・すべて上代には飲食の具に、多くの葉を用ひしことにて、・・・飯を炊くにも甑(こしき)(こしき)に葉を敷きもし、覆(おほ)(おほ)ひもして、炊きつるものから、炊(かし)葉(は)(かしは)の意にて加志波(かしは)とはいへるなり。

カシワは一樹の名前ではない。何の樹であれ、飲食に用いる葉をカシワといったという説です。
又明治のころ、oakを誤ってカシと訳していた頃があり、時に英和辞典にも未だその名残があります。正解は楢です。これは、昔日本では木材 としてのナラ(楢)の評価が低く、ヨーロッパでありがたがられている oak が楢であるはず がないとの思い込みから誤ってカシ(樫)と訳されたのが原因のようです。
冬になりカシの葉が落ちると、丸くボールのように固まった常緑の大きな寄生植物・「宿り木(ギイ)」が(鳥に実を啄ばんでもらうために)カシの枯れ木につく。その光景は灰色の空に浮かび上がった濃緑色のオブジェのように妖気漂う雰囲気を醸し出す。フランス人はこのギイを見ると、幼いころ祖父母から聞かされたケルトの伝承を思い出す。霊魂の不滅や輪廻転生を信じた太古のケルト人たちにとり、このギイは、枯れて死んだ木の命がそこに移り住んだ神の住まいであり、天からの贈り物と考えたという。フランス語には今も「木に触れる(トゥーシェ・ドゥ・ボワ)」という表現があり、お守りの意味だそうです(*)が、木肌に触れることで、そこに「気」を感じ取っているのでしょうか。
(*)木村尚三郎「成熟の時代」日本経済新聞社P202

注33)ゲルマン民族
 インド・ヨーロッパ語族で、ゲルマン諸派に属する言語(英語、ドイツ語、スウェーデン語、デンマーク語、アイスランド語、オランダ語など)を話し、オーディンを主神とする神話や習俗を持つバルト海沿岸を原住地としていた人々の総称。東(東ゴート、西ゴート、ヴァンダル人、ブルグント人、ロンバルト人)、西(アングロ・サクソン人、フランク人など)、北(ディーン人、ノルマン人)に大別される。ゲルマン系民族が支配する国はドイツ、オーストリア、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、またイギリスのアングロサクソン人、ベルギーのフランデン人などのゲルマン系の血を引いているが混血で、特に民族の意識は弱いようです。外見的特徴も、白色人種で、髪の色は金髪が一般的といわれていますが、ゲルマン系ドイツ人の過半数は黒髪や茶髪であり、必ずしも金髪が多いとは言えない。又長身、青い目、頬が角ばっているなどの特徴があるようです。

注34)スラブ民族
ゲルマン人と同様のインド・ヨーロッパ語族で、スラブ諸語(ロシア語・ポーランド語など)を話す人々の総称。外見では白色人種であり、髪型は薄い茶色・亜麻色〜黒、ゲルマン民族と比べて顔が丸く彫が浅く、身長は高くないとされるが、そうでない人も見られ、混血が進んでいるので、特に意識は強くない。宗教面で、東方正教会に帰依した東スラブ(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、南スラブ(ブルガリア人、セルビア人、マケドニア人)と、ローマ・カトリックに帰依した西スラブ(ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人)、南スラブ(スロヴェニア人、クロアチア人)に大別される。ゲルマン民族のうち移動せずにライン川以東に留まったものをスラブ人という大きな分類の仕方もある。

注35)アリウス派
子たるキリストは父なる神に従属するとする考え方。父と子は同質とし、後に
父と子と精霊の「三位一体説」を確立したアタナシウス派と争い、コンスタンティヌス帝が招集したニカイア公会議で異端とされた(よって東ローマ帝国内でも異端だった)。イエスも神と同格で無ければ、キリスト教の特徴はなくなってしまい、イエスの言葉である聖書も、神の言葉になり、他の一神教と変わらなくなってしまいますものね。神が身を借りて、この世に「出現」したというリアリティイーがなくなってしまう。ここは譲れないでしょう。

注36)贈与慣行
 贈与慣行は中世ヨーロッパに限ったことではありませんが、商業活動や貨幣経済の近代経済を理解する上でも重要なキーワードです。
古代から労働は徳ではなく、楽園から追放された罰として与えられた苦役とされ、富を蓄積するために労働することは罪人や奴隷のすることとして否定されていた。
それでも11世紀ごろから、都市も教会も多くの富を集積していた。これを正当化する理屈はどのようなものかというに、まずは当時の人たちの富に対する考え方を認識しておく必要があります。
当時の首長や戦士たちは略奪行を行い戦利品や財宝を手に入れても、これを自分の為に貯えずに、宴会を開き、戦利品を配り見栄を張り、自身の権威を高め、優越性・勇敢さを示すための手段と考え、吝嗇は軽蔑され、人間関係を破滅に導くものだった。金の切れ目が縁の切れ目ではありませんが、贈るものが無くなれば家臣たちは離れていった。又貨幣に換えたとしてもこれを支払い手段としてはあまり用いられず、寧ろ装飾品・財宝と捉えられ、自分の人格(魂)が籠った「モノ」として、他者の所有に帰するのを嫌い(幸運を他者に奪われないように)、死を予期した人は地中に埋めることが多かった。だから物を贈るという行為は、贈与自体に意味があるのではなく、相手と付き合いたいという希望表明であり、贈るものの人格が刻み込まれている物を受け取った場合は、相応のお返しをしなければならない。それができなければ贈り主に対し奉仕・隷属関係を結ばなければならなくなる。悪意をもってそれが為されることもあったという。
「贈与は単に財産・動産・不動産など物の交換であったばかりか、饗宴・軍事奉仕・婦女子・祭礼なども交換され、宗教・法・道徳・政治・経済の全制度を包含する全体的社会現象だった(*)」わけです。従って「人格的触れ合いを求めず(モノに籠った魂を抜き取った金銭で)物のみの交換に終始する商人とは、対等な人間関係を結べない( **)」として軽蔑された。
こうした背景を理解したうえで、正当化の理屈を見ていくと、まずは、商業は富を蓄積する為の便利な手段だったことが挙げられる。その貨幣経済は、貨幣の「匿名性」と「価値基準の一元性」により瞬く間に都市に浸透した(便利なのです。アシもつかない)。しかし世間や神の厳しい目に耐えられず、良心の呵責にさいなまれる商人たちもいた。こうした矛盾の橋渡しをしたのがカトリック教会だったと阿部勤也さんは言います。
どうしたかというと、贈与慣行を否定したのではなく転換したのです。労働という賤しい手段によって蓄えた富も、見ず知らずの人間関係を持たない人々への饗応を行うなどの手間のかかる(商人としての)贈与をしなくても、お返しするものの代表、つまり公的な機関・教会や聖所・巡礼の宿坊等に贈与することで、教会側からお返しなしに贈与が成立するとしたのです。これによって、冨者の贈与に対する教会からの=神からのお返しは、死後の救いが賭けられるものだから、彼岸によって成立するものとなる。よって現世においては何の見返りも求めないことになる。即ちこれが「無償の贈与」の成立になるというわけです(***)。こうした考え方が民衆まで浸透してくると、この贈答の慣習は、クリスマスと誕生日や復活祭以外はほとんど行われなくなっていく。この変化は経済的な話だけでなく、時空意識の変化ともつながっており、家(安心な小宇宙)の周囲の森に象徴される(危険・恐怖に満ちた)大宇宙の区別は取り払われ、神のもとに拡がる一つの宇宙のみの空間と、永遠に続く循環する時間でなく、始まりと終わりを持つ、即ち原因と結果を持つ「意味」を持つ直線的な時間に変わった。ここに今まで個人や村の為に大宇宙との橋渡しをしていた職業、迷信と言われる観念の上に成り立っていた職業、即ち死とかかわる職業(刑吏、墓掘人、塔守りなど)・動物とかかわる職業(皮剥ぎ、豚の去勢人など)・大地や水や火とかかわる職業(道路、煙突掃除人、煉瓦工、粉ひきなど)・性に関わる職業(娼婦)などの特殊な能力をもって畏敬のまなざしをもたれていた人たちは、徐々に仕事がなくなっていくのです(****)。会社が合併すれば、中間管理職はそんな何人も必要ないわけです。やがて残ったとしても賤しい職業として、賤民扱いに至り、差別発生に向かいます。普通じゃない人間はいらなくなってくるのです。もっと大切なことは、神という超越的な存在を証人とすることで、例え共同体や家や縁の介在なしの1対1の関係ですら、「公」的な意識が介在したということです。「打つならお打ちなさい、神様が見ていらっしゃるよ」と大きな鞭を持った番人に毅然と見合った少年時代のアンデルセンの、底冷えするほど孤独な心を一人一人が知るに至ったということです。自覚を持った「個人」の誕生です。
贈与経済から貨幣経済への移行は、(土地ごとに異なり、個々の人間関係で出来上がっている、癖のある)「文化」から、(地上の全てが神の視点から一義的に説明可能な)「文明」への移行でした。
日々の気持ちの籠った文(ふみ)や発声による挨拶から、贈与互酬を伴う、思い思われるいたわりの人間関係を過ごし、自然の姿に人間の立ち位置を日々確認して生きられる文化は、携帯やメールによる匿名性を持つ伝達手段や、神の視点でドラマをわがものとするテレビジョンによる「三人称的生活感」の占拠、時間の壁を限りなく破壊した交通手段、病気という病気を次々に排除の論理で撃破していく(その実ますますウイルスを強靭に鍛えているわけですが)医学、悩みや葛藤を引き起こす現実の人間関係をバーチャルに置き換え人工の幸福に満足してしまう科学技術などにズームインした「文明」に占拠・浸食されてしまうのです。焦点の合っていない周辺は気にしない。「いい悪いは別にして」のおまじないで、無かったことにしてしまうのです。

(*)阿部勤也「中世の星の下で」--カテドラルの世界−ちくま学芸文庫P256
( **)同P262
(***)阿部勤也「中世選民の宇宙」ちくま学芸文庫p121
(****)同p260

注37)増田史郎「ヨーロッパとは何か」岩波新書1967年7月 P196

2016年09月28日
第2回 歴史 第3部 中世4【隋・唐】
4.隋王朝
 後漢が滅亡後、実に380年もの長いトンネルを抜けて、581年に、北朝を統一した北周を外戚の楊堅(文帝)が奪い、隋が建てられ、一つにまとまった。589年には南朝の陳を滅ぼし、最終的に長い分裂を終わらせた。
文帝は統一国家の強化を図って北朝以来の均田制(17)・徴兵制を継承して、税制として租庸調制を確立するとともに、地方豪族の世襲的任官権を剥奪するため、貴族によって骨抜きにされていた九品中正を廃止し、後に科挙と呼ばれる学科試験による官吏登用法を始めた。科挙は清の末まで続けられ、皇帝の支配体制を支える重要な役割を担った。しかしこれが近代の資本主義の発達を妨げる要因ともなったと考えられる。
「科挙という高級官吏への登竜門は、言わば社会というゲームのカードの配り直しであり、恒常的な〈ニューディール〉であった。とはいえ、そうやって頂点に達したとしても、それは仮初めの位に過ぎなかった。それゆえそこで財産を築いたとしても、ヨーロッパで名門と呼ばれるような家族の礎となるには遠く及ばないものでしかなかった。他方、裕福すぎる家族、力を持ちすぎる家族は、政策上からも、国家から睨まれていた。というのも、土地所有の権利を持ち、農民から徴税の権限を持つのは一人国家のみであり、鉱業・産業・商業を厳しく監視するのも国家の役目だったからである。・・・中国の国家は、資本主義の拡大に常に敵意を示し、拡大傾向を見せるたびにある種の全体主義国家によって、最後には封じ込まれてしまうのだった(18)」少しでも蓄財に走ろうものなら、寄ってたかって潰しにかかる。
財ばかりか知恵や技術・家系すら継続して蓄積されにくい。いつでも横やりが入り、一からやり直しのガラガラポンの繰り返しに、階層や、寄生関係・従属関係が作られにくく資本主義は育たなかった。
これ自体は何も悪いことではないかもしれない。しかし、それでは外部世界というものがその眠り(自己充足)を許さないのです。眠っていないで起きろと言うのです。その前に無知につけ込もうとするのです。お陰で、今頃になってちょっかいを出された側が、方向転換し、異民族となって世界に牙をむき始めているのかもしれないのです。資本主義という武器をとりこんで、以前よりもっと強かになって。資本主義は、構造のことであり、頂点を目指した経済活動から生まれるものであることに変わりはないのです。それであるがゆえに、横並びの搾取のない構造ではなし得ない高度の生産性と市場性を作り出します。それは今日、高度な武器の代表である核兵器のように、人間の手に負えない影響力を持つ物質に姿を変えているのです。「北ヨーロッパは新しいものは何も生み出さなかった。アムステルダムはヴェネチュア(地中海)を模倣し、ロンドンはアムステルダムを模倣し、そしてニューヨークがロンドンを模倣する(19)」という形で世界経済の重心の移動が起こってきたわけです。そして世界経済の重心を移動させるだけの規模は無かったとしても日本はアメリカを模倣し、現在は、中国は日本のやってきたことを模倣してきているわけです。彼らは決してそのようなことは認めませんが。彼らは過去には既に言語の欧化で、日本を模倣している。
「中国も、太平天国の乱(1851年)以後、国民国家に衣替えしないと生き残れないということになった。その方向に踏み出すけれども、うまくいかないで日清戦争で惨敗する。そこで日本の文化をそっくりそのまま取り入れようと考える。日本人はみんなヨーロッパの文物を漢字に翻訳してくれている。それで手っ取り早く日本の明治の文化を取り入れた。」「清朝の日本への留学生というのはすごい数ですからね。」「魯迅がその一人ですね」「その留学生たちが明治の日本人の漢字で書かれた日本語をもって、中国に帰って伝えたらしい。」「日本から教師を呼んで、全国各地に学校が開かれる。日本語で教えていた。」「現在の中国語の語彙の60パーセントは日本語紀元なんです(20)」が、彼らは決してそれは認めず、我々が全て教えてやったのだと主張する。したたかさにかけては、あちらが二枚も三枚も上手なんですから。横道に逸れすぎたので、戻しますが、資本主義的要素の取入れに関しても、日本を参考にしたに違いないのです。何しろ日本の資本主義程、社会主義的なものは無いのですから、参考にしないわけがない。

 中世に戻って、文帝の子、煬帝は、父も兄も殺害し第2代の皇帝となり、黄河と長江(揚子江)流域を結ぶ世界最長(1900キロ)の大運河を完成させ南北経済の大動脈とするのですが、相次ぐ土木工事と高句麗遠征の負担に耐え切れず農民の大反乱がおこるばかりか、科挙の制や府兵の制、均田制など、中央集権制を急ぐことを嫌った地方特権階級である豪族的官僚たちをも敵に回し、高句麗征伐の失敗を機に、地方に群雄が割拠する羽目に陥った。煬帝は自ら開いた運河の流域に離宮を連ね、金銀で装飾した4階建て・120部屋の龍舟など数千艘と言われる船を8万人もの農民に引かせたと言われるほど暴政を敷いた。江南の文明を好んで揚州に留まること多く、高句麗遠征でもそこを動かず、近衛軍に暗殺され618年、隋は滅亡した。政策は悪くはなかったのだが、外に厳しく、自己に甘すぎた。もう時代は始皇帝の古代ではなかったわけです。

5.隋を継承・発展させた中世の黄金時代・唐

混乱の間隙をついて長安に入って根拠地とした李淵・李世民父子が、一旦擁立した煬帝の孫・隋の小帝を廃し(禅譲)、李淵は唐を開き、高祖となりました。

〈名君太宗〉
高祖の唐建国にも功績のあった次男の李世民は、兄をクーデターにより倒すと2代皇帝として太宗を名乗り、群雄勢力を一掃し、中央アジアの遊牧世界をも含む天下を統一しました。太宗在位の貞観年間(23年間)は空前の太平の世とされたのです。背景として隋の時代からの戦乱による人口の激減により、却って人手不足で失業は無く、長く閉ざされた東西交通の復活で、特産品の絹を代価として西方の銀が押し寄せ好景気を生んだという事情もあったのです。統一のために力を借りた突厥(とっくつ・トルコ系)が、そこで通過税をかけて妨害するも、東突厥を破り、次の高宗の時代になり西突厥を平定しペルシャに至る地を支配下に置くことになりました。
太宗の時代には、娘の文成公主をチベットの皇子に嫁がせたが、皇子が馬から落ちて死亡すると、今度は義父のソンツェンガ王と再婚するなど、中国王朝としては考えられない道徳に反することを認めていることからも、皇帝は漢人で無かったことがわかる。その異民族的性格は、後の則天武后らの女性の政治介入という現象にも表れている、

〈則天武后の功罪〉
 太宗の子・高宗は、父の妾だった武氏を寵愛し皇后とし、晩年には代わって政務をとらせるまでになった。そして武氏は、太宗の皇后を出した外戚の長老である名家・長孫無忌(ちょうそんむき)を追放・殺害した。高宗の死後には自ら天子となり、国号を周と改めた(690年)。これが則天武后であり、中国史上唯一の女帝であり、反対勢力を取り潰し一族を殺害した彼女は、儒教的女性観からすれば、悪逆非道の天子と言われたが、長い目で見れば、唐王室にとって縛りとなる勢力のある功臣や有力貴族官僚などが一掃され、一方で科挙を重視して才能のある人材を登用するなど、中央集権化が推進され、皇帝権の強化と自由な政策の可能な体制ができたともいえます。日本の奈良時代の国分寺制度の範となった、仏教を利用した州ごとの大雲寺設置なども行われた。

〈玄宗の栄華と唐の衰退〉
 武后が高齢となった後、再び宮廷内で内乱がおき、これを鎮め、新たに即位した(712年)玄宗は、しがらみのない官僚を用い、経済的にも好景気を維持した。これは初期には自然物経済で絹や穀物を交換の媒介にし、特に絹は貨幣の代わりを果たすほど購買力を持ったが、それ以上に大きな発展をもたらしたのが、マホメットのサラセン帝国の樹立から逃れて来たペルシャ人やアラビア人の渡来でした。彼らは宝石・貴金属など動産資本の経済をもたらし、唐の循環交通路を、世界の交通路の中に組み入れた。この時代唐王朝が再興され国際貿易も盛んとなった。又鋳造された開通元宝銭は、標準の貨幣の重さとして、日本銭の見本ともなったという。その重さは一匁(もんめ)となった。匁は銭のだそうです。
 そんな玄宗も、経済の活発化とともに顕著になってきた貧富の差を前にして、農民たちは徴兵を嫌って逃亡するなど均田制も衰退し始めます。国境警備には異民族が雇われ、中央から節度使が、監視役として派遣されます。それでも、皇后に先立たれた玄宗は、自身の襟を正すどころか若い楊貴妃に狂い、寵愛を受けた楊貴妃とその一族の専横を許し、官僚・軍隊の綱紀を乱した。信頼された部下でソグド( ウズベキスタン・サマルカンド地方)系の節度使・安禄山もたまらず、楊貴妃の一族で宰相の楊国忠と対立し挙兵した。この争いは安禄山の死後も部将・史思明に引き継がれ安史の乱と呼ばれました。その間玄宗は蜀に逃れ、子の粛宗が立つが反乱鎮圧に割かれ、安史の乱は鎮圧されたものの、長安は占拠され、華北の秩序は乱れ、節度使は軍閥として各地に割拠しだします。朝廷の掌握する戸数は激減し華北からの税収は望めず、江南からのコメや塩の専売に依存せざるを得ません。

〈財政国家への変質〉
 安史の乱の後、武力国家として治安を維持し、法を施行し、租税を徴収して、兵役を課し、政府を維持していた唐は、この方式の時代遅れを痛感し、人民から、貨幣を介在させた税を取り立て、その税によって軍隊を養うことを考えた。そして塩の専売を始め、酒、茶、鉱山へと、できるものは何でも税金の対象として取り立てられたのです。徳宗のはじめ両税法(春夏2回治めるので両税)が施工され、土地私有は認められ、租庸調に代わり、金銭で納税することにした。均田法は廃止され、金銭収入を中心として財政運用をする変質だった。しかし最初からすんなりはいかず、官僚も混乱し不公平な課税もあったが、何よりも財政を優先し、これまで収穫物にかける税(祖)から消費する者にかける税(塩税)への移行は、所得税主体から消費税主体への移行のようなもので、農業体制の弱体化を物語ります。
平和も文化も金で購えるとする財政国家方式は、宋王朝に先がけて、見本を示した。同時に、こうした必需品の間接税の周囲には、闇商人が暗躍するスキが出やすく、これも歴史の常で、この国を滅亡に追い込んだ黄巣も又闇商人でした。

〈官僚と宦官の専横再び〉
 唐王朝も末期になると、中国的社会の弱点である相も変らぬ官僚と宦官の専横に向かった。朝臣は派閥争いに明け暮れ、宦官を利用する者もあった。それが却って宦官の専横を強め、宮中の事務を掌握する彼らは、天子をも擁立し、或いは殺戮し、天子は自暴自棄となり奢侈にふける。大臣は派閥争いに忙しい。そんな内部抗争にうつつを抜かしている間に世間では、軍人や農民や商人たちからの反乱がおきていたのです。なにしろ、闇商人を取り締まる秘密警察と闇商人たちの秘密結社である暴力団が、その意図は無くても結果的に人民を二重に追い詰めるのです。闇商人黄巣と仲間の王仙芝が決起した乱がその一例で、窮乏した農民や失業者たちを巻き込んで全国を揺るがした。これは単なる農民戦争でなく、異民族で辺境警備に当たっていた軍人も多く混じっており、その情報網も戦力も強大なものだった。907年、反乱軍から寝返って節度使となり乱の鎮圧に功のあった朱全忠によって滅ぼされ、五代十国の群雄割拠の時代に逆戻りしました。

〈均田法〉
唐の律令の中で、中原を中心に行われたとされる、均田法について確認しておきます。
注17)をご覧ください。この制度が、よく言われるように、土地私有を抑え自耕農民の創出、財源・兵員の確保を目的とし、府兵制・租庸調制と一体のものとして実施されたものであれば、これで王侯貴族や高級官僚の大土地所有の妨げとなったのでしょうか。祖先以来の永業伝や天子からの賜田で、給田の対象でない彼らは痛くもかゆくも無かった筈です。又商工業者は、土地の分配は受けず課税対象とならない。揚子江以南の地では、別の税法で、均田制は行われていない。なにしろ、「地を受けざるものは課せず」の大原則が
伝統的に貫かれていたから。
こういったバラバラな実施状況では絵に描いた餅になってしまいます。実際に応課戸といって、耕地の分配を受けたもので租庸調や府兵の義務を課せられたのは、均田制崩壊の間近となった755年の調査では、全戸比で30%に満たない。全人口比では5%にも満たない(21)。
唐の目論見は成功したとは言えないのですが、それでもこれら古代からの徭役制度の限界を抜け出ようと、「戸税」と言って、財産の多寡に応じて貨幣で徴収した資本主義的な税も徴収しました。荘園や大商人など課役義務のない経済的実力者にもメスを入れたもので、その比重は低かったが、徐々に増えました。ここが「中世的な徭役制度から脱却し、これに代わるべき新制度を模索した(22)」唐の、近世への萌芽と見ます。

〈中華の官尊民碑〉
 儒教的考え方では、親から貰った体を傷つける武人は、「孝」に反するとし卑しまれた。その為日本のように私的な主従関係が世襲化され、武士として階級化され、土地の支配権が世襲化される封建制度は育たなかった。ここに日本と韓国・中国との決定的な違いがあります。日本では武士をトップとする「封建社会の崩壊が緩やかに進行し、(その庇護のもと)商人の家系が安定して長く続き自力で貨幣経済に移行していった(23)」のです。こうして
「資本が蓄積され、家系が形成され維持され、貨幣経済に助けられついに資本主義が出現する」準備が整っていった。その為には、「封建制度のような安定した秩序と、それに寄生するブルジョアが長期に生き延びる必要があり、・・財産と社会的特権が比較的保護された社会(長きにわたる世襲財産の形成)」で且つ「社会的な平穏(24)」が無ければならなかったのです。東洋では知る限り、日本がヨーロッパ同様このコースを辿りました。日本では封建制度の完成された江戸期の産業革命(25)を通じて、決して豊かとはいえませんが自給自足の経済社会モデルを完成し、明治になっては列強の技術やシステムに襲われても、植民地化されず、独自の日本型資本主義革命が興せたといわれます(勿論、物理的には、日本が侵略に会わずに独立国としてやってこられたのは、アメリカの南北戦争、イギリスのボーア戦争などで欧米が日本侵略まで手が回らなかったというのが事実ではあるのですが、それだけでは生き残ることはできない訳です)。

この詳細は我が川勝平太氏の「日本文明と近代西洋」をご覧ください。
これは決して資本主義を肯定するものでも否定するものでもありません。ブローデルの言うように、資本主義とはこういうものだということです。そしてもし将来世界がグローバル資本主義の熱から覚めた時、人類が未だ生き残っていたとしたら、その先は江戸化するだろうというのも、鎖国を肯定も否定もするものではありません。神という世界政府に匹敵するものが台無しにされた以上、自ら「謙虚」を知る道としてのヒントになるのではないかと思われるからです。そして江戸という体制も目的ではないのです。そんなものは政治的なるものに過ぎないのです。我々はいつまでも条件の良し悪しばかりに時間を費やすわけにはいかないのです。日本化の本質は、宗教からの自由であり、ありもしない「自分」からの自由です(日本人は無宗教ではないのです。宗教から自由なのです。「自分」などというシンボル・幻想にとらわれていないのです。山川草木に触れる「感覚」から出発できるのです)。そしてその先にある文明(=普遍化=棲み分けの否定)からの自由を学び且つ生きることです。稲垣足穂はそこを「逆文明」とも言いました。この先は最終回でやりましょう。

戻りますが、中国は、武人の軍事力よりも、宗教的権威と伝統に基づく官僚の権力が圧倒的であり、官尊民卑はそれほど強いものでした。唐末には安史の乱や黄巣の乱による中央政府の弱体化に乗じて、武人による武断政治が、貴族の勢力を奪ったが、宋の代になるや、再び文治主義の政策をとった。
日本も最初はそうでしたが、そこに風穴を開けたのが、平清盛であり頼朝であり家康でした。

〈杜甫と李白の何がすごいか〉
 唐文化は、玄宗時代の杜甫、李白を代表とする形式にとらわれない大詩人が登場して、全盛期を極めた。では、その解説たるや詩仙と言われたとか、酒好きで自由奔放だったとか、誠実だったとか、いわゆる周辺情報ばかりで説明になっていない。我々が知りたいのは、当時の人たちが杜甫の、李白の(自覚していたかどうかは別にして))何がすごいと思ったかであり、その功績とはどんなものだったかなのです。
吉川幸次郎によれば、唐人の詩には酒が多く、宋人の詩には茶が多いらしい。言われることは、これも周辺情報に過ぎないかもしれませんが、「使命」を説く古代、「運命と悲哀」を語る中世、希望を残す(悲哀の止揚)近世です。戦乱に明け暮れ、生活のために士官もし、戦いにも参加し深く傷ついた彼らも、その心情を、過去の伝統・束縛(「四書五経」などの漢字配列に囚われない自由な配列と奔放な語彙の駆使によって表すことの挑戦を行い、表現の幅を大きく拡大することに成功したのです。「漢語には形而上的・思想的な目に見えないものを表す語彙は無いに等しい。漢字はもともと商売上の符牒のような表意文字であり、哲学や思想を伝えるのに向かないツール(26)」
なのですが、それに工夫を重ねて新しい表現を開発したわけです。
「唐代の知識人はほとんどが北方から来た鮮卑系の人々だった。・・(もともと)モンゴル語やトルコ語のような「てにをは」のある話し言葉を持っていた人々が、外国の文字である漢字によって自分たちの思いを(苦心惨憺して)表そうとした結果、表現を大きく広げることができた」ゆえ、「唐詩の完成は、異文化と漢字文化との融合であり、漢字にとって画期的な出来事だった(27)」と言えるのです。当時の人たちには杜甫や李白の詩は、今我々が感じる格調高き気概を持つネクラ詩人杜甫、リズミカルに月と影と遊ぶ孤高のネアカ詩人李白だったろうか。それもあったかもしれないが、何よりもこんなことが漢字で表現できることの驚きと新鮮さ、当時の人たちのこころが広がる驚きではなかっただろうか。今の私たちがいきなり読んでもそこが判らないのです。現代の表現と比較してしまう。そうなってしまうと、二人の何がすごいのかが判りにくい。それがわかるのが歴史の価値なんです。私たちが当然のように身に着けているものが、当時は無かったということ。それを開拓したのが彼らであったということを知るのが歴史の醍醐味の一つなんです。二人が外国人だったか、外国語を自由に操れる中国人だったかは、どうでもいいことです。

杜甫の七言律詩を一つ。
登高
風強く天高く猿の声哀し気に、
渚清く砂白く鳥は飛び巡る。
無辺の(はてしなき)落葉は蕭々(しょうしょう)として落ち、
尽くるなき長江は滾々(こんこん)として流れ来たる。
万里悲秋、つねに旅の身にあり、
生涯多病、ひとり高きに登る。
艱難(かんなん)を経て恨めしきはしらが多き髪、
うらぶれて今また廃す濁酒の杯。
(旧暦9月の重陽の節句の日、知友あい携え高い所にのぼり、酒を酌み交わす風習がある。
そんな冬に近い秋のとある日、老身の身を杖に託して一人高きに登った。天高く風は強く、風に乗って人の心をかきむしる猿の声が響き渡る。見下ろせば長江の岸辺の砂は白く水は澄んでいる。果てしなく広大な樹林の枯葉は、こころなく散り続ける。長江の水は
滾々と尽きる気配もない。故郷を離れ、幾たびもこの哀しい秋を迎えた。またしても百年多病の身をこの頂に運んだ。艱難に耐えてきた歳月にわが頭は白髪を増やし、病み疲れた身に親しんできた酒も近頃廃した。)
大自然の「永遠」と人間の「一瞬」との対比が、生きていくことの痛ましさ、淋しさ、それを知っていることの崇高さが入り混じり、時代を越えて、人の一生への共感が鳴り響きますね。

片手落ちなので、李白も一つ。
〈遊南清玲泉〉
かの落日の暮れを惜しみ、
この冷たき小川の清らなるをいとおしむ。
夕日の輝きは流れを追い、
旅のこころは水と共にゆれる。
むなしく歌うて雲間の月を眺め、
歌終わって松籟は長く続く。
(月に向かって一人歌をうたう。歌い終わると聞こえてくる松籟の音。
それは決して癒されない李白の孤独である。李白はこんな危うい位置で、酒を汲み、詩を創っていた。)
我々はいつも下世話な話題や忙しさに紛らわせ、この孤独を観ようとしない。そうして我々もそれに耐えている。そこに想い至ったときに李白は、今ここに「出現」する(*)。
(*)これらの詩と解説は、高島俊男さん「李白と杜甫」(講談社学術文庫)から引用させていただきました。唯、部分的に勝手に変えてあるところもありますので、文責は私にあります。




注17) 均田制
 均田制を語る前に、漢代から行われてきた「屯田制・とんでんせい」を押さえておきましょう。動乱が長引くにつれて、農民の死者・逃亡者が相次ぎ、このままでは軍民共倒れの危機が予想されるようになると、三国時代の魏の曹操は、初め所有者のいない荒れ地を根拠地に農民を招いて、自給策を講じた。やがて支流の水を引き、大規模に耕地造成し、軍人に耕させ且つ戦闘もさせるという兵農両面の奉仕をさせた。屯田兵は、軍役の奉仕をしていながら、且つ収穫の5割を地代として徴収されるという過酷なものだった。これは屯田の成り立ちが、「政府の荘園」に他ならないことの証であった。この経験を生かして北魏の孝文帝は、五胡十六国の戦乱で荒廃した華北の農業生産力の回復と税収を確保するを目的とし、土地を農民に支給し自作農を作ることを目指したが、奴婢や耕牛をも対象として土地が支給され、これらの所有者である豪族を喜ばせ、豪族・貴族の大土地所有の妨げにならなかった。隋の煬帝はこれ(奴婢・耕牛への給田)を廃止したが、実行力が欠如しており、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族と一般民との格差は開いていった。その制度が改善され、実行に移されるには、唐まで待たねばならなかった。

注18) ブローデル「歴史入門」中公文庫2009年11月P94

注19) 同 P88

注20) 岸田秀・岡田英弘対談「起源論」新書館1998年7月P95〜97

注21) 宮崎市定「中国史」(上)岩波文庫 P322

注22) 同P325

注23) ブローデル「歴史入門」中公文庫2009年11月P93

注24) 同P92

注25)
 川勝理論によれば、大(?)航海時代に発し、大西洋を挟む西欧地域に利権が集中した、商業資本主義経済がかまびすしいころ、東洋の片隅に一風変わった「物産複合」が起きていた。その発生の条件は
@ 最新かつ独自の外交路情報網の確保(西欧の覇者オランダとの情報交換)
A 麻から木綿への「繊維革命・自給自足体制」・・国際的に主流となる綿業の先進国となっていた。
B 世界一の鉄砲保有国だったが、鉄砲を捨て「軍縮革命」に向かっていた。
C 国内物産の調査・開発による生活レベルの向上。醤油(このおかげで香辛料競争から自由になれた)やお茶(コーヒーの代わりとなった。茶の風習は室町時代には既に日常茶飯事)などの普及、他肥労働集約型で中国を追い越した農業技術等による「物産革命」
D 石見銀山など国内産の銀で有数の「国の力に沿った」通過保有高を維持した「通貨革命」=江戸時代に既に貨幣輸入国から脱し、輸出国に。
E そしてイギリスの資本集約型の生産革命に代わりに、驚くべき労働集約型の「勤勉革命(この理論は速水融)」で生産革命を達成したというものです。

開国によって自由貿易体制に引き込み、アジアの隷属を狙った近代世界システムが一儲けしようと求めた、木綿と砂糖の需要に対しては、とっくに鎖国日本で自給自足体制が済んでいた。彼らの当ては外れたのです。産業革命でもたらした安価な綿にしても、日本の木綿産業を潰すような打撃には至らなかった。品質や用途・好みによって使い分けられ高価な国産品にも需要はあったのです。残念ながら、日本の繊細な感覚は、大雑把な西洋人の計算通りにはいかなかったのです。「なめんなよ。」ですね。勿論西欧列強に日本が侵略されなかった直接的な一番の理由は、アメリカや西欧が南北戦争やボーア戦争で日本どころではなかったことではありますが。
それでも、明治維新にやってきた西欧という台風にも、いち早く対応して、所有や資本にこだわらない、独自の「物産革命」を達成できたわけです。何も全て西洋流にやる必要はないのです。「文明開化」ではなく、「文明深化」を成し遂げたのです。技術ばかりか文化まで日本流に消化して、見せたんです。その時の文化は薄っぺらではあっても。そんなものは侵略が防げれば、あとからいくらでも深めることはできたのです。なぜなら既に日本は世界に誇る文化を・土台を持っていたからです。
近松を、芭蕉を、写楽を、北斎を、月岡芳年を見てください。
又日本は鉄砲は捨てたが、刀は捨てなかったということも特筆に値する選択です。武器も道具も、人から離れすぎて独り歩きをしてはならないという教訓を学んでいたのです。これがヒューマニズムの意味です。独り歩きした兵器は核に象徴され、人間の手に負える道具から離脱しました。医学も道具も皆人から離れ、解放されようとしています。それが人類ばかりでなく、ラスキンではありませんが、塵さえ含めた全地球の総意であるならば、受け容れるしかありませんが。

ウオーラーステインのヨーロッパ中心の近代世界システムの考えに(ヨーロッパしか資本主義は生み出せなかったとする彼の通説に)真っ向から挑んだこの仮説は、オックスフォード時代(1982年)ブタペストの国際経済史会議や、名古屋大学での(1993年)ウオーラーステインとの論戦で大喝采を浴びました。

注26) 岡田英弘「読む年表・中国の歴史」P149

注27) 同P148


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