2016年11月20日
第2回 歴史 第3部 中世9【日本の古代から中世へ】
7.日本・古代(続き)
〈白村江の戦い663年〉
日本列島の統一が進むころ、朝鮮半島では655年高句麗と百済が連合して新羅に侵攻したわけですが、新羅は、隋のころから高句麗侵略を図っていた唐に助けを求め、その矛先をまず百済に向けさせ、唐は百済を攻め、滅亡させました。そこで百済の遺臣たちは、日本との友好関係の証に、人質として倭国に滞在していた百済の王子の送還と援軍を依頼します。斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島での影響力を保持しようと、救援の大軍を派遣しますが、663年唐・新羅の連合軍に大敗します。その差は律令制のもとに組織化された唐軍と、寄せ集めの豪族軍との差だったといわれます。その後連合軍は高句麗を滅ぼしたものの、新羅は唐の勢力を駆逐して676年朝鮮半島を統一しました。新羅はなかなかしたたかですね。
日本も敗戦のショックは隠せませんでした。何が問題だったのか、先ずは、国内の体制固め(律令国家建設)に方向転換したのです。そうは言っても律令国家そのものが中国のものであり、アイデンティティーを意識するといっても、物真似から始めなければ、そしてそれを何百年も続けなければ自分のものといえるものなど出来ない、それほど遅れていたこと(くどいようですが、遅れていることが悪いことだなんて一言も言いません。ただ競争社会生活上、必然の方向に先に進んでいたか否かの事実だけを言っています)は事実なんです。
ようやく、ここから日本も、朝鮮も自らのアイデンティティーを意識し始めるのです。それまでは、どちらにも独自の文化と呼べるようなものは無く、言語すらバラバラで共通の文明や書き言葉といったら中国文明であり漢字しかありませんでした。話し言葉に至っては、中国人同士すら、漢字とは別にそれぞれの部族内の話し言葉を持ち、部族同士の必要な意思疎通は漢文で筆談だったという。それは朝鮮半島でも同じで、文法のない漢文で、違う部族とは意思疎通を図り、内部ではバラバラの話し言葉で何とかやっていた。それが日本でいえば、ようやくこの敗戦を機に、日本という意識が強まり、漢文を基に様々な工夫をして、日本の話し言葉との合体(併存)を図っていくわけです。勿論政治的にも「日本」を意識します。これは岡田英弘さんの意見ですが、中国に至っては話し言葉を漢文に統一できておらず、1930年の毛沢東の大長征の時代にすら、話し言葉は地方ごとにばらばらで、漢文を使って意思を図ったりしていたそうです。共通の話し言葉がなかったなんて信じられないですね。
でも考えてみれば明治の日本だってラジオができて、標準語が放送されるまでは、通じないことはなくとも、別々の方言は使っていましたね。統一してしまうことがいいことなのかは判りませんが。感覚で捉えていた芯の部分が欠落してしまうわけですから、そして民族の伝統や親身な感情を基礎にした心情をしっかり持ったうえでのスマホは、非常にありがたいし文明の利器ではあるのですが、その基礎の部分が何だか分からなくなってきて、スマホが基礎部分にとってかわると、使う方の人間は、利器に使われる単純ロボットになってしまうわけですね。それぞれの地域の言葉に隠された、たいそうな智慧や機微がゴミ箱に捨てられて、わかりやすい共通のモノだけが残っていくわけです。幸福の秘密が刷り込まれていたというのに、とても簡単には表せるようなものではないということから、さっぱりと捨ててしまい、共通部分だけを取り出して見せる。これしかないんだと。それが「見える化」というものです。自分の側の目的の方からその情報を組み直してしまうんですね。多勢に無勢です。時代の趨勢に逆らうことはできません。せめて「結び」とかの痕跡で残すことぐらいしかできません。
「結び」は既に紹介したように、日本人が大好きな」おまじないですが、そこには過ぎた激烈なドラマが封印されています。戦いの後の蓋であり、鎮魂の形でもあり、物事の定義でもあり、もっと言えば「墓」なのです。そこには敗者の、或いは勝者の手打ちの形が隠されているものです。
勿論、たとえそれで滅亡しようと、時間はたっぷりあり、次の新しい命はいずれ生まれてくるのですから、又想像力という素晴らしい贈り物もある訳ですから、自分の手で見つけ直せばいいわけで、それでこそ価値も実感されるのでしょうが。それにしても長い。次は何千年先になるのか。或いはもうこないのか。
〈漢風の帝王から和風の天皇へ〉
白村江に敗れてから、668年倭国は中大兄皇子が正式に即位し、天智天皇と名乗った。
天智は国土防衛と国制の整備に専念し、わが国最初の戸籍制度である庚午年藉(こうごねんじゃく)を作成した。これにより徴税や徴兵が容易になった反面、公地公民が不徹底の時期の中央からの徴税強化は地方豪族の不満を高め、後の「壬申の乱」での大津宮・近江朝廷(大友皇子側)の敗北の要因となった。
天智天皇が671年に死去すると、吉野に出家していた弟の大海人皇子と、天智天皇と地方豪族の娘との子であるから大友皇子とで王位継承が争われた。直系の大海人皇子には、東国の兵や、白村江の戦いで疲弊した地方豪族らが味方に付き、673年天武天皇として即位した。実はそれまで「大王・おおきみ」とされていた君主号に代わる「天皇」という号が制定されたのも、倭に代わって「日本」という名に換えたのも天武朝であったとされます。又律令の制定や国史の編纂に着手します(後の古事記)。それだけ日本国家意識が高まった。更に天武天皇は国内最古といわれる富本銭を鋳造し、藤原京の造営にも着手するとともに、カミの来迎する場所を集め、伊勢神宮(内宮)を作るとともに仏教も保護します。
ここが外国と違うところです。仏教か神道かどちらを選ぶにしても、「どっちなんだ!」と二者択一を迫らないんです。これが日本の特徴です。生き方なんです。これは現代まで続く日本の伝統です。つまり宗教といえども、そこからの自由は担保するやり方です。なぜ日本はこうなんでしょうか。対立する他を排除しないで取り込み、その間で(あわいで)独自のものを徐々に編み出していくという方法をとるのでしょうか。
私はそれは日本全体が激烈な侵略や虐殺を受けたことがなく、巨大な憎しみの連鎖に憑りつかれた経験が無いという幸運が一番大きいと思いますが、それだけではなく、日本人の心底にある、「爽快なニヒリズム」にあると思います。それは、聖徳太子(とされている人物)のお妃の橘の大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、侍女たちに縫い取りさせたといわれる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう=太子の往生した天寿国のありさまを記したもの)に記される「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」であり、又、敗色濃厚となり、戦はもうこれまでと、少しも騒がず、女房達に「今日より後は珍しきあずま男たちと関係なさることでしょう」と言ってからから笑い、「見るべき程の事は見つ」と言って死んでいく平知盛の潔さであり、「さようなら=さようであるならば(62)」であるわけです。
平家は滅びても女性は逞しく生き残る。そのことの真実も知盛は知っているわけです。そしてそれを認めているわけです。「貞女は二夫にまみえず」などという言葉は、生命というものはそんなものじゃないからこそ、男が負け惜しみに作った言葉に過ぎない。それは好色などという浅い見方で捉える問題ではない。慈円が述べたように、日本は「女人入眼(にょにんじゅがん)」の国だという、最後のところは女性の力が仕上げる(目を入れる)という深い歴史の力をいうのです。弟の道長を高く買って、息子の一条天皇の寝所まで押しかけて、道長を内覧に推挙した母后・藤原詮子、不倫・乱倫を極めても最後には清盛ばかりか平氏の魂を救って浄土に行った建礼門院、頼朝を継ぎ、国家の危機を凌いだ鉄の女・北条雅子など数えればきりがない。頭で考える「一代限りの」男たちと、身体で考える「死なない」女たちの違いでしょうか。現代は欧米化されて「一夫一婦制」などと狭い了見に洗脳され、低い次元での男女平等に満足して、女性たちは目先の権利ばかりに憑りつかれ、眠らされているので、腑抜けになっていますが、やがてそんな欧米型の縛りなどやすやすと突破して、「一代限りの思考」しかできない男どもを蹴散らす国母が現れるかもしれませんね。ま、政治などという枠に嵌まっているようでは期待はできませんが。
また長くなりましたが、受け容れつつそれに囚われないという、この爽快なニヒリズムは日本独特の方法である「ダブルスタンダード」を生みました。これは現代にまで繋がっています。数え上げればきりがありません。
天智と天武の争いであり共存でもある存続に始まり、平安時代の、820年嵯峨天皇の服装に関する詔で「貞観挌」に収められた「神事には、帛衣(はくのきぬ)を、その他の行事には袞冕十二章(こんべん)や黄櫨染(こうろぜん)の衣を用いることにせよ(63)」と、和風と中国風を使い分けたのもそうですし(それでも天皇家は、後醍醐天皇のような異形の王を除き、白木づくめの神道中心を崩しませんでしたが、上皇や摂関家は密教や浄土教の信者になってしまった)、
明治の文明開化期に神事の帛衣はそのままに、その他の儀式には軟弱でない軍服をまとい、その後軍服から再び唐風に戻し、現在ではスーツ姿となっている。外向きには欧米化(唐風化)、神事には和風を貫くやり方は変わっていません。
真名序と仮名序を並べた古今和歌集、神仏習合、天皇と上皇(院政)、天皇一族と藤原一族(中大兄皇子=天智天皇と中臣鎌足=藤原鎌足とのクーデター〈大化の改新〉以来の400年に及ぶ腐れ縁である摂関政治)、日本書紀と古事記、奈良天平文化と平安文化(左右対称と、ちらし書きの非対称)、漢字とかな、「みやび」と「ひなび」(「みや」は宮廷のことで都っぽいことであり、「ひなぶ(鄙ぶ)」は田舎ぶ・里ぶとも書き、都からはずれた感覚)、漢風の瓦葺き石畳式の建築(大極殿・朝堂院=早朝の政務・フォーマル)と和風の桧皮葺き高床木造式の建築(清涼殿=カジュアル)の使い分け、「あはれ」と「あっぱれ」(公家の「こころ動かされる感動の気持ち=「あっ、はれ」」と新興の武家の「潔く命のやり取りをする見事さ」=「天晴れ」との対比)、「あさ」と「あした」(昼を中心とした時間帯(あさ・ひる・ゆう)の始まりとしての「あさ」と、夜を中心とした時間帯(ゆふべ・よひ・よなか・あかつき・あした)の終わりとしての「あした」)の使い分け(64)など、数えだせばきりがありません。
伽藍の造営や維持費用を国が負担する大寺である薬師寺・飛鳥寺なども建立します。この時代の寺院で現在みられるのは法隆寺、薬師寺東塔などだが、いずれも再建されたもので、日本最古といわれるものは、桜井市にある「山田寺の回廊」が建築時のまま発掘されています。
寺院や鳥居などに塗る朱色は、中国のタオイズム(65)などの影響下で、不老長寿を祈願して朱や丹(66)が用いられたようです。
こうして神仏両方を国作りに利用します。漢風の帝王(天智)から和風の天皇(天武)へ向けて国作りが加速します。
天武天皇が死去し、後を継いだ皇后の持統天皇は、皇位を孫の文武天皇に譲り、大上天皇として藤原不比等と組んで701年大宝律令、702年養老律令をまとめ上げ、日本の独自性を意識し、752年30年ぶりに復活した「遣唐使」で、唐に対し独自の律令のある事、日本という名に換えたこと、天皇(67)という君主名を設けたこと、元号を「大宝」としたことを報告して許可を得ている。唐の冊封を受けていた新羅に対し、独自の暦や律令や君主号を持つことで「東夷の小帝国」として優位性を主張しようとしたといわれています。
この中国を真似た「小中華思想」は、都に対する地方という発想で、まつろわぬ民を成敗する征夷という思想を生みます。
真備2度目の遣唐使の際というからおそらく752年の第10回でしょうが、唐の賀正の儀式で、各国(新羅、1イスラム、チベット等)の使節が一同に会した際、席次をめぐって、日本側が唐にクレームをつけるという事態が起こった。その言い分は、新羅の席次が、日本の席次より上席になっているということでした。遣唐副使が、「日本は今も昔も新羅から朝貢を受けてきた国であり、その日本が新羅よりも下の席次というのは正義を欠いている。」として激しく抗議し、結果、席を入れ替えさたというものです。(政府は、一時、新羅討伐の計画を立てたほどです)。
〈続く〉
注62)「さようなら」という方法
「さようなら」が、「現実というものが左様なものであるなら、よく判った、潔く
この事実を受け容れて、互いに次に進もう」という意味であり、次の出会い・場面への「切り替え」のケジメなのです。知盛からすれば、あちらの世界に対する、こちら側・此岸からの線引きなのです。線が引かれてはじめて、領域は確定します。領域が確定して初めて、全体が定まり、意味も生まれてきます。つまり彼はこの言葉によって現世を・人生を・物語を確定したのです。終わらせたのです。これによって、(現代人にとっては或るかないかは判らないが)次のつまりあの世への、移行宣言をしたわけです。
現代人は、唯々事物や事柄の種明かしに終始し、出し抜いたことを誇るばかりで、それだからと言って、人生の大事(生・死)に対する何の「受容」の道も見いだせていない、心の貧困下にあることに変わりはないのです。歴史に論理の体系を見る事には寛容であっても、こと生死や形而上の事に関しては異常に疑り深く、執拗にあら捜しをして、あたかも悪魔の番人のように矛盾点を探しては、その思想の到達点から引きずり落そうとする。二言目には「科学的でない・根拠がない」と。いったいあなたの生き甲斐は何なのかと聞いてみたくなるほどです。それこそ見当違いの「科学的」という方法を武器に、人類の幸福の形を仕切ってしまっているんです。悪気が無ければ何をしてもいいというものではありません。
科学って何ですか?思い出してください。第U部の古代ギリシャの注22)で、「数学は人工言語なのである。だから数学の基本概念は(発見ではなく)発明なのだ」、従って「自然界が数学的なのではなく、我々が自然言語から抽出した(抽象化した)数学という言語を使って研究するから、自然界は数学的なのである」という結論になることを書きました。
まさに数学は人間的認識方法のパターンの集積なわけですね、という足立恒夫さんの言葉を紹介した後、これ程「日常的な概念の束縛を受けすぎず、自然の法則を綴るだけの自由さを持ち合わせ、「意味」という束縛を持たない、純粋で、自由な言語である数学(朝永振一郎)」でさえ、発明された言語であることにおいて人間的なものなのです。自然界の「発見ではなく発明」なのです。つまり我々に都合の良い勝手な解釈なのです。
それでも今のところ使いうる限り最も抽象化した言語である数学(数)を使って、非人間的(実は人間的なのですが)と思われている自然の事柄を表現したり利用しようとしているのが物理学であり科学であったわけです。今新しい量子という言語も探られています。とてつもない世界が拡がるでしょうが、人間が求めている真理に寄り添ってくれるかどうかは、わかりません。
いずれにしても、数をよりどころにする科学やコンピュータが、狭い因果律の世界で万能であったからと言って、人間のこころの問題や死の向こう側迄もを仕切ることなどできるはずもないのです。判断は預けるしかないのです。そこを法然さんは「他力本願」と言ったのです。
驚くべきことに、足立さんは「数学することとは、「集合」をいろいろな方法で抽象する能力と言い換えてもいい(「√2の不思議」p60)」と言う。何と数学は人生論だといっているのと同じことです。
この「集合」という捉え方こそ、「星を見るにしても、一つ一つの星をバラバラに見るのではなく、ひとまとまりの全体の物語(集合)のうちにおいて見ることによって、それぞれの星が意味を持ちうるように見ることです。同じように人生のバラバラな出来事を一つのまとまった物語として語ることによって、心の葛藤をまとめて、それを死の受容ということに適用しようというわけです(*)」という考え方に合致します。
これは河合隼雄さんが師であるユングの「出来事を全体論的(ホリスティック)に見ようとした」ことの説明でもありますが、こうした「集合」的な見方こそ自然と人間を繋ぐ架け橋になるのではないでしょうか。これは何もユングに始まったことではなく、我々の祖先の人たちが自然に培った智慧であり、「人生」という捉え方自体が集合論的なのです。
長くなりましたが、現代人は、要するに「判断を預ける」ということができない究極のエゴイズム(自我中心的思考)に陥っているとしか思えないのです。だからボランティアをやっても、人助けをしても、自分の履歴書のためにやっているわけです。死の向こうにまで、人を納得させる能力を持ち合わせない「科学的判断=しかも判らないという判断」とやらを当てはめようとする病に(これが、天才でも越えられない時代の「様式」なのでしょうか)陥っているとしか思えません。
竹内整一さんは、父君の胃がんによる死に当たって、告知しないという選択をし、終に最後まで「お別れ」という挨拶ができずに死に別れてしまったことの苦しい後悔を語られています。生きているうちにはっきりと線を引き、「もはやこれまでと」覚悟を決めて、互いに目を真っ赤にして命を見つめ合うという触れ合いを回避したことの後悔は、いかばかりのことかと、お察しします。実は私も同様でした。
「海からの贈り物」のリンドバーグ夫人は、須賀敦子さんに、「あなたの国には「さようなら」がある」と言ったそうです。別れに際しての苦しさをごまかさない、この素晴らしい人生の区切り方を、先人の知恵を使いこなせなかったのです。その知恵の素晴らしさゆえに、戦時中悪乗りしすぎた田中秀光の例もありますが、概して我が先祖たちは、他に強要することなく、静かに自己の人生を区切ってきたのです。
(*)竹内整一「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」(ちくま新書)p36
注63) 川尻秋生「平安京遷都」岩波新書2011年6月PD
・帛衣(はくのきぬ)・・・白の練り絹
・袞冕十二章(こんべん)・太陽、月と共に竜の刺繍がある服と玉飾りが垂れ下がった四角形の冠
・黄櫨染(こうろぜん)・・櫨(はぜのき)と蘇芳(すおう)で染めた、黄色に赤みがかった色
注64) 「あさ」と「あした」
「あさ」の対義語が「ゆう」であれば、「あした」の対義語は「ゆふべ」になる。「あさ」も「あした」も同じ時間帯を指すが、後朝(きぬざね)の歌は、「あさ」では駄目で、「あした(=「ゆふべ」の終わり)」に詠まれなければならないわけです。
「君や来し我や生きけむ思ほえず夢か現か寝てか覚めてか」(伊勢物語69段)
翌朝に、後朝(きぬぎぬ)の歌を作らないと、昨夜の契りの実感が湧かないんですね。ケジメであり、定義でもあるんです。そうでなければ唯のけだものの行為に落ちてしまう。私たちも、何か大切な行事や思い出を残すために、写真を撮って保存しますね。ところが写真があまりに簡単で、リアルなので、肝心の現在を味わうことができなくなってしまっていますが(ハリーポッターを映画にしちゃって、しらけちゃうようなものですが)。
注65 タオイズム
タオイズム(道教)は漢民族の土着的・伝統的な宗教であり、道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な、時空を統一する真理を指す。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とした。
注66) 朱・丹
どちらも赤色顔料で、朱は硫化水銀で天然には辰砂として産出する。丹は鉛を加熱酸化して製造する。縄文以降ベンガラ(酸化鉄)と朱を遺骸への副葬や散布用に用い、古墳時代には墓の副葬・散布に用いられた。丹は寺院壁画などに初めて利用されたが、遣隋使・遣唐使の時代に製造技術を導入されたといわれる。
注67) 古代天皇制
古代天皇制については、専制君主であるとする見方や、貴族との共和制的なものとする説があるが、このような意見があること事体が、両面を併せ持ったものであることの証拠です。二者択一で考えないのが日本の方法なのです。又天皇制の唐への報告は、太陽神たる皇祖の子孫であるという正当性を求め、中国の易姓革命による王朝交代が興るような考えはとらないことを宣言したものでもあります。
〈白村江の戦い663年〉
日本列島の統一が進むころ、朝鮮半島では655年高句麗と百済が連合して新羅に侵攻したわけですが、新羅は、隋のころから高句麗侵略を図っていた唐に助けを求め、その矛先をまず百済に向けさせ、唐は百済を攻め、滅亡させました。そこで百済の遺臣たちは、日本との友好関係の証に、人質として倭国に滞在していた百済の王子の送還と援軍を依頼します。斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島での影響力を保持しようと、救援の大軍を派遣しますが、663年唐・新羅の連合軍に大敗します。その差は律令制のもとに組織化された唐軍と、寄せ集めの豪族軍との差だったといわれます。その後連合軍は高句麗を滅ぼしたものの、新羅は唐の勢力を駆逐して676年朝鮮半島を統一しました。新羅はなかなかしたたかですね。
日本も敗戦のショックは隠せませんでした。何が問題だったのか、先ずは、国内の体制固め(律令国家建設)に方向転換したのです。そうは言っても律令国家そのものが中国のものであり、アイデンティティーを意識するといっても、物真似から始めなければ、そしてそれを何百年も続けなければ自分のものといえるものなど出来ない、それほど遅れていたこと(くどいようですが、遅れていることが悪いことだなんて一言も言いません。ただ競争社会生活上、必然の方向に先に進んでいたか否かの事実だけを言っています)は事実なんです。
ようやく、ここから日本も、朝鮮も自らのアイデンティティーを意識し始めるのです。それまでは、どちらにも独自の文化と呼べるようなものは無く、言語すらバラバラで共通の文明や書き言葉といったら中国文明であり漢字しかありませんでした。話し言葉に至っては、中国人同士すら、漢字とは別にそれぞれの部族内の話し言葉を持ち、部族同士の必要な意思疎通は漢文で筆談だったという。それは朝鮮半島でも同じで、文法のない漢文で、違う部族とは意思疎通を図り、内部ではバラバラの話し言葉で何とかやっていた。それが日本でいえば、ようやくこの敗戦を機に、日本という意識が強まり、漢文を基に様々な工夫をして、日本の話し言葉との合体(併存)を図っていくわけです。勿論政治的にも「日本」を意識します。これは岡田英弘さんの意見ですが、中国に至っては話し言葉を漢文に統一できておらず、1930年の毛沢東の大長征の時代にすら、話し言葉は地方ごとにばらばらで、漢文を使って意思を図ったりしていたそうです。共通の話し言葉がなかったなんて信じられないですね。
でも考えてみれば明治の日本だってラジオができて、標準語が放送されるまでは、通じないことはなくとも、別々の方言は使っていましたね。統一してしまうことがいいことなのかは判りませんが。感覚で捉えていた芯の部分が欠落してしまうわけですから、そして民族の伝統や親身な感情を基礎にした心情をしっかり持ったうえでのスマホは、非常にありがたいし文明の利器ではあるのですが、その基礎の部分が何だか分からなくなってきて、スマホが基礎部分にとってかわると、使う方の人間は、利器に使われる単純ロボットになってしまうわけですね。それぞれの地域の言葉に隠された、たいそうな智慧や機微がゴミ箱に捨てられて、わかりやすい共通のモノだけが残っていくわけです。幸福の秘密が刷り込まれていたというのに、とても簡単には表せるようなものではないということから、さっぱりと捨ててしまい、共通部分だけを取り出して見せる。これしかないんだと。それが「見える化」というものです。自分の側の目的の方からその情報を組み直してしまうんですね。多勢に無勢です。時代の趨勢に逆らうことはできません。せめて「結び」とかの痕跡で残すことぐらいしかできません。
「結び」は既に紹介したように、日本人が大好きな」おまじないですが、そこには過ぎた激烈なドラマが封印されています。戦いの後の蓋であり、鎮魂の形でもあり、物事の定義でもあり、もっと言えば「墓」なのです。そこには敗者の、或いは勝者の手打ちの形が隠されているものです。
勿論、たとえそれで滅亡しようと、時間はたっぷりあり、次の新しい命はいずれ生まれてくるのですから、又想像力という素晴らしい贈り物もある訳ですから、自分の手で見つけ直せばいいわけで、それでこそ価値も実感されるのでしょうが。それにしても長い。次は何千年先になるのか。或いはもうこないのか。
〈漢風の帝王から和風の天皇へ〉
白村江に敗れてから、668年倭国は中大兄皇子が正式に即位し、天智天皇と名乗った。
天智は国土防衛と国制の整備に専念し、わが国最初の戸籍制度である庚午年藉(こうごねんじゃく)を作成した。これにより徴税や徴兵が容易になった反面、公地公民が不徹底の時期の中央からの徴税強化は地方豪族の不満を高め、後の「壬申の乱」での大津宮・近江朝廷(大友皇子側)の敗北の要因となった。
天智天皇が671年に死去すると、吉野に出家していた弟の大海人皇子と、天智天皇と地方豪族の娘との子であるから大友皇子とで王位継承が争われた。直系の大海人皇子には、東国の兵や、白村江の戦いで疲弊した地方豪族らが味方に付き、673年天武天皇として即位した。実はそれまで「大王・おおきみ」とされていた君主号に代わる「天皇」という号が制定されたのも、倭に代わって「日本」という名に換えたのも天武朝であったとされます。又律令の制定や国史の編纂に着手します(後の古事記)。それだけ日本国家意識が高まった。更に天武天皇は国内最古といわれる富本銭を鋳造し、藤原京の造営にも着手するとともに、カミの来迎する場所を集め、伊勢神宮(内宮)を作るとともに仏教も保護します。
ここが外国と違うところです。仏教か神道かどちらを選ぶにしても、「どっちなんだ!」と二者択一を迫らないんです。これが日本の特徴です。生き方なんです。これは現代まで続く日本の伝統です。つまり宗教といえども、そこからの自由は担保するやり方です。なぜ日本はこうなんでしょうか。対立する他を排除しないで取り込み、その間で(あわいで)独自のものを徐々に編み出していくという方法をとるのでしょうか。
私はそれは日本全体が激烈な侵略や虐殺を受けたことがなく、巨大な憎しみの連鎖に憑りつかれた経験が無いという幸運が一番大きいと思いますが、それだけではなく、日本人の心底にある、「爽快なニヒリズム」にあると思います。それは、聖徳太子(とされている人物)のお妃の橘の大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、侍女たちに縫い取りさせたといわれる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう=太子の往生した天寿国のありさまを記したもの)に記される「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」であり、又、敗色濃厚となり、戦はもうこれまでと、少しも騒がず、女房達に「今日より後は珍しきあずま男たちと関係なさることでしょう」と言ってからから笑い、「見るべき程の事は見つ」と言って死んでいく平知盛の潔さであり、「さようなら=さようであるならば(62)」であるわけです。
平家は滅びても女性は逞しく生き残る。そのことの真実も知盛は知っているわけです。そしてそれを認めているわけです。「貞女は二夫にまみえず」などという言葉は、生命というものはそんなものじゃないからこそ、男が負け惜しみに作った言葉に過ぎない。それは好色などという浅い見方で捉える問題ではない。慈円が述べたように、日本は「女人入眼(にょにんじゅがん)」の国だという、最後のところは女性の力が仕上げる(目を入れる)という深い歴史の力をいうのです。弟の道長を高く買って、息子の一条天皇の寝所まで押しかけて、道長を内覧に推挙した母后・藤原詮子、不倫・乱倫を極めても最後には清盛ばかりか平氏の魂を救って浄土に行った建礼門院、頼朝を継ぎ、国家の危機を凌いだ鉄の女・北条雅子など数えればきりがない。頭で考える「一代限りの」男たちと、身体で考える「死なない」女たちの違いでしょうか。現代は欧米化されて「一夫一婦制」などと狭い了見に洗脳され、低い次元での男女平等に満足して、女性たちは目先の権利ばかりに憑りつかれ、眠らされているので、腑抜けになっていますが、やがてそんな欧米型の縛りなどやすやすと突破して、「一代限りの思考」しかできない男どもを蹴散らす国母が現れるかもしれませんね。ま、政治などという枠に嵌まっているようでは期待はできませんが。
また長くなりましたが、受け容れつつそれに囚われないという、この爽快なニヒリズムは日本独特の方法である「ダブルスタンダード」を生みました。これは現代にまで繋がっています。数え上げればきりがありません。
天智と天武の争いであり共存でもある存続に始まり、平安時代の、820年嵯峨天皇の服装に関する詔で「貞観挌」に収められた「神事には、帛衣(はくのきぬ)を、その他の行事には袞冕十二章(こんべん)や黄櫨染(こうろぜん)の衣を用いることにせよ(63)」と、和風と中国風を使い分けたのもそうですし(それでも天皇家は、後醍醐天皇のような異形の王を除き、白木づくめの神道中心を崩しませんでしたが、上皇や摂関家は密教や浄土教の信者になってしまった)、
明治の文明開化期に神事の帛衣はそのままに、その他の儀式には軟弱でない軍服をまとい、その後軍服から再び唐風に戻し、現在ではスーツ姿となっている。外向きには欧米化(唐風化)、神事には和風を貫くやり方は変わっていません。
真名序と仮名序を並べた古今和歌集、神仏習合、天皇と上皇(院政)、天皇一族と藤原一族(中大兄皇子=天智天皇と中臣鎌足=藤原鎌足とのクーデター〈大化の改新〉以来の400年に及ぶ腐れ縁である摂関政治)、日本書紀と古事記、奈良天平文化と平安文化(左右対称と、ちらし書きの非対称)、漢字とかな、「みやび」と「ひなび」(「みや」は宮廷のことで都っぽいことであり、「ひなぶ(鄙ぶ)」は田舎ぶ・里ぶとも書き、都からはずれた感覚)、漢風の瓦葺き石畳式の建築(大極殿・朝堂院=早朝の政務・フォーマル)と和風の桧皮葺き高床木造式の建築(清涼殿=カジュアル)の使い分け、「あはれ」と「あっぱれ」(公家の「こころ動かされる感動の気持ち=「あっ、はれ」」と新興の武家の「潔く命のやり取りをする見事さ」=「天晴れ」との対比)、「あさ」と「あした」(昼を中心とした時間帯(あさ・ひる・ゆう)の始まりとしての「あさ」と、夜を中心とした時間帯(ゆふべ・よひ・よなか・あかつき・あした)の終わりとしての「あした」)の使い分け(64)など、数えだせばきりがありません。
伽藍の造営や維持費用を国が負担する大寺である薬師寺・飛鳥寺なども建立します。この時代の寺院で現在みられるのは法隆寺、薬師寺東塔などだが、いずれも再建されたもので、日本最古といわれるものは、桜井市にある「山田寺の回廊」が建築時のまま発掘されています。
寺院や鳥居などに塗る朱色は、中国のタオイズム(65)などの影響下で、不老長寿を祈願して朱や丹(66)が用いられたようです。
こうして神仏両方を国作りに利用します。漢風の帝王(天智)から和風の天皇(天武)へ向けて国作りが加速します。
天武天皇が死去し、後を継いだ皇后の持統天皇は、皇位を孫の文武天皇に譲り、大上天皇として藤原不比等と組んで701年大宝律令、702年養老律令をまとめ上げ、日本の独自性を意識し、752年30年ぶりに復活した「遣唐使」で、唐に対し独自の律令のある事、日本という名に換えたこと、天皇(67)という君主名を設けたこと、元号を「大宝」としたことを報告して許可を得ている。唐の冊封を受けていた新羅に対し、独自の暦や律令や君主号を持つことで「東夷の小帝国」として優位性を主張しようとしたといわれています。
この中国を真似た「小中華思想」は、都に対する地方という発想で、まつろわぬ民を成敗する征夷という思想を生みます。
真備2度目の遣唐使の際というからおそらく752年の第10回でしょうが、唐の賀正の儀式で、各国(新羅、1イスラム、チベット等)の使節が一同に会した際、席次をめぐって、日本側が唐にクレームをつけるという事態が起こった。その言い分は、新羅の席次が、日本の席次より上席になっているということでした。遣唐副使が、「日本は今も昔も新羅から朝貢を受けてきた国であり、その日本が新羅よりも下の席次というのは正義を欠いている。」として激しく抗議し、結果、席を入れ替えさたというものです。(政府は、一時、新羅討伐の計画を立てたほどです)。
〈続く〉
注62)「さようなら」という方法
「さようなら」が、「現実というものが左様なものであるなら、よく判った、潔く
この事実を受け容れて、互いに次に進もう」という意味であり、次の出会い・場面への「切り替え」のケジメなのです。知盛からすれば、あちらの世界に対する、こちら側・此岸からの線引きなのです。線が引かれてはじめて、領域は確定します。領域が確定して初めて、全体が定まり、意味も生まれてきます。つまり彼はこの言葉によって現世を・人生を・物語を確定したのです。終わらせたのです。これによって、(現代人にとっては或るかないかは判らないが)次のつまりあの世への、移行宣言をしたわけです。
現代人は、唯々事物や事柄の種明かしに終始し、出し抜いたことを誇るばかりで、それだからと言って、人生の大事(生・死)に対する何の「受容」の道も見いだせていない、心の貧困下にあることに変わりはないのです。歴史に論理の体系を見る事には寛容であっても、こと生死や形而上の事に関しては異常に疑り深く、執拗にあら捜しをして、あたかも悪魔の番人のように矛盾点を探しては、その思想の到達点から引きずり落そうとする。二言目には「科学的でない・根拠がない」と。いったいあなたの生き甲斐は何なのかと聞いてみたくなるほどです。それこそ見当違いの「科学的」という方法を武器に、人類の幸福の形を仕切ってしまっているんです。悪気が無ければ何をしてもいいというものではありません。
科学って何ですか?思い出してください。第U部の古代ギリシャの注22)で、「数学は人工言語なのである。だから数学の基本概念は(発見ではなく)発明なのだ」、従って「自然界が数学的なのではなく、我々が自然言語から抽出した(抽象化した)数学という言語を使って研究するから、自然界は数学的なのである」という結論になることを書きました。
まさに数学は人間的認識方法のパターンの集積なわけですね、という足立恒夫さんの言葉を紹介した後、これ程「日常的な概念の束縛を受けすぎず、自然の法則を綴るだけの自由さを持ち合わせ、「意味」という束縛を持たない、純粋で、自由な言語である数学(朝永振一郎)」でさえ、発明された言語であることにおいて人間的なものなのです。自然界の「発見ではなく発明」なのです。つまり我々に都合の良い勝手な解釈なのです。
それでも今のところ使いうる限り最も抽象化した言語である数学(数)を使って、非人間的(実は人間的なのですが)と思われている自然の事柄を表現したり利用しようとしているのが物理学であり科学であったわけです。今新しい量子という言語も探られています。とてつもない世界が拡がるでしょうが、人間が求めている真理に寄り添ってくれるかどうかは、わかりません。
いずれにしても、数をよりどころにする科学やコンピュータが、狭い因果律の世界で万能であったからと言って、人間のこころの問題や死の向こう側迄もを仕切ることなどできるはずもないのです。判断は預けるしかないのです。そこを法然さんは「他力本願」と言ったのです。
驚くべきことに、足立さんは「数学することとは、「集合」をいろいろな方法で抽象する能力と言い換えてもいい(「√2の不思議」p60)」と言う。何と数学は人生論だといっているのと同じことです。
この「集合」という捉え方こそ、「星を見るにしても、一つ一つの星をバラバラに見るのではなく、ひとまとまりの全体の物語(集合)のうちにおいて見ることによって、それぞれの星が意味を持ちうるように見ることです。同じように人生のバラバラな出来事を一つのまとまった物語として語ることによって、心の葛藤をまとめて、それを死の受容ということに適用しようというわけです(*)」という考え方に合致します。
これは河合隼雄さんが師であるユングの「出来事を全体論的(ホリスティック)に見ようとした」ことの説明でもありますが、こうした「集合」的な見方こそ自然と人間を繋ぐ架け橋になるのではないでしょうか。これは何もユングに始まったことではなく、我々の祖先の人たちが自然に培った智慧であり、「人生」という捉え方自体が集合論的なのです。
長くなりましたが、現代人は、要するに「判断を預ける」ということができない究極のエゴイズム(自我中心的思考)に陥っているとしか思えないのです。だからボランティアをやっても、人助けをしても、自分の履歴書のためにやっているわけです。死の向こうにまで、人を納得させる能力を持ち合わせない「科学的判断=しかも判らないという判断」とやらを当てはめようとする病に(これが、天才でも越えられない時代の「様式」なのでしょうか)陥っているとしか思えません。
竹内整一さんは、父君の胃がんによる死に当たって、告知しないという選択をし、終に最後まで「お別れ」という挨拶ができずに死に別れてしまったことの苦しい後悔を語られています。生きているうちにはっきりと線を引き、「もはやこれまでと」覚悟を決めて、互いに目を真っ赤にして命を見つめ合うという触れ合いを回避したことの後悔は、いかばかりのことかと、お察しします。実は私も同様でした。
「海からの贈り物」のリンドバーグ夫人は、須賀敦子さんに、「あなたの国には「さようなら」がある」と言ったそうです。別れに際しての苦しさをごまかさない、この素晴らしい人生の区切り方を、先人の知恵を使いこなせなかったのです。その知恵の素晴らしさゆえに、戦時中悪乗りしすぎた田中秀光の例もありますが、概して我が先祖たちは、他に強要することなく、静かに自己の人生を区切ってきたのです。
(*)竹内整一「日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか」(ちくま新書)p36
注63) 川尻秋生「平安京遷都」岩波新書2011年6月PD
・帛衣(はくのきぬ)・・・白の練り絹
・袞冕十二章(こんべん)・太陽、月と共に竜の刺繍がある服と玉飾りが垂れ下がった四角形の冠
・黄櫨染(こうろぜん)・・櫨(はぜのき)と蘇芳(すおう)で染めた、黄色に赤みがかった色
注64) 「あさ」と「あした」
「あさ」の対義語が「ゆう」であれば、「あした」の対義語は「ゆふべ」になる。「あさ」も「あした」も同じ時間帯を指すが、後朝(きぬざね)の歌は、「あさ」では駄目で、「あした(=「ゆふべ」の終わり)」に詠まれなければならないわけです。
「君や来し我や生きけむ思ほえず夢か現か寝てか覚めてか」(伊勢物語69段)
翌朝に、後朝(きぬぎぬ)の歌を作らないと、昨夜の契りの実感が湧かないんですね。ケジメであり、定義でもあるんです。そうでなければ唯のけだものの行為に落ちてしまう。私たちも、何か大切な行事や思い出を残すために、写真を撮って保存しますね。ところが写真があまりに簡単で、リアルなので、肝心の現在を味わうことができなくなってしまっていますが(ハリーポッターを映画にしちゃって、しらけちゃうようなものですが)。
注65 タオイズム
タオイズム(道教)は漢民族の土着的・伝統的な宗教であり、道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な、時空を統一する真理を指す。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とした。
注66) 朱・丹
どちらも赤色顔料で、朱は硫化水銀で天然には辰砂として産出する。丹は鉛を加熱酸化して製造する。縄文以降ベンガラ(酸化鉄)と朱を遺骸への副葬や散布用に用い、古墳時代には墓の副葬・散布に用いられた。丹は寺院壁画などに初めて利用されたが、遣隋使・遣唐使の時代に製造技術を導入されたといわれる。
注67) 古代天皇制
古代天皇制については、専制君主であるとする見方や、貴族との共和制的なものとする説があるが、このような意見があること事体が、両面を併せ持ったものであることの証拠です。二者択一で考えないのが日本の方法なのです。又天皇制の唐への報告は、太陽神たる皇祖の子孫であるという正当性を求め、中国の易姓革命による王朝交代が興るような考えはとらないことを宣言したものでもあります。