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第93回 絵葉書 [2016/04/17 17:14]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月一日。
野枝は前夜の疲れと頭痛のために昼ごろまで寝ていた。
昼ごろ起きて机の前に座り、辻が帰るまでに自分の気持ちを書いておこうとしたが、なかなか書けなかったので、今宿の父のところに手紙を書いた。
机の上に見覚えのない絵葉書があったので裏返すと、奥村博と赤城山に滞在中のらいてうからだった。
長閑(のどか)な景色の絵を見ていると、緊張していた神経が緩んでボンヤリしてしま..
第92回 ヴハニティー [2016/04/17 16:49]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月三十日の夜十時ごろ、麹町区平河町の荘太の下宿を出た野枝は、半蔵門から市電に乗った。
早く帰って辻に話したいと思い、電車の走るのももどかしかった。
北豊島郡上駒込の家に帰ると、辻だけ起きていて何か書いていた。
野枝が部屋に入りチラっと見た辻の眼は、激しい怒りに燃えていた。
野枝は体が硬くなり、ひと言も口をきけなかった。
辻は今まで見たことのない憎々しい..
第91回 第二の会見 [2016/04/17 15:36]
文●ツルシカズヒコ
野枝は荘太の話に耳を傾けながら、自分が書いた最後の手紙について考えていた。
野枝は辻との関係を破綻させることなく、荘太ともう一度会いたいと願ったのだが、荘太は自分の思いよりずっと強い意味に解釈したのだろう。
野枝は態度が不明瞭で誤解を招く手紙を書いた自分が一番悪かったという自責の念に駆られたが、しかし、ありのままの感情を書くことを心がけているので、ああ書かずにはいられなかったのだ。
日を改めて三人..
第90回 牽引 [2016/04/16 22:38]
文●ツルシカズヒコ
「牽引」(p27~28)によれば、辻の家を出た荘太は巣鴨橋まで馳けた。
電車の中で荘太は辻の苦痛を想像したが、自分と野枝の牽引と結合は自然だから仕方がないと思うほかなかった。
神保町から青山行きに乗り、半蔵門で降りると、新宿行きの電車はなかなかやって来ない。
荘太はそこから三、四丁、下宿まで馳け出した。
息せき切って着いた荘太は、入口のガラス戸越しに中を覗いた。
土間には見覚えのあ..
第89回 自我主義 [2016/04/16 22:13]
文●ツルシカズヒコ
木村荘太「牽引」によれば、一九一三年(大正二年)六月三十日の夕方、辻の家を訪れた荘太に「私が辻です」と辻が名乗ったが、荘太はそれが野枝と共棲している男だとすぐには気づかなかった。
荘太が尋ねた。
「伊藤さんおいでですか?」
「いません、どなたです?」
辻がなんとも言えない表情をしているのを見て、荘太はハッとなり、名乗った。
「木村です」
「さ、どうぞお上がり下さい」
部屋..
第88回 アウグスト・ストリンドベリ [2016/04/16 18:39]
文●ツルシカズヒコ
木村荘太「牽引」によれば、六月三十日、荘太はこの日の朝早く目が覚めてしまった。
荘太は野枝を空しく待ち続けた。
時計が昼の十二時を打った。
いてもたってもいられなくなった荘太は、野枝が男に引き止められているさまや、急に過度の傷心のために身体を悪くして寝ているさまを想像した。
荘太は外に飛び出し、後先を考えず、野枝に電報を打った。
「ケフゼヒキテクダサイ」
この日の..
第87回 ピアノラ [2016/04/16 15:02]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十八日、午後四時ごろ、野枝はじっと座っていることができないので家を出た。
音楽会の切符は三枚あったので、保持を誘ってみようかと思った。
一枚は辻の妹の恒に渡し、後で青鞜社の事務所に来るように言った。
歩くのさえ嫌なので駒込から山手線で巣鴨まで行った。
五時すぎに保持と恒と三人で出かけた。
会場には野枝たちの方が早く着いたので、辻とは一緒の席ではなかった。
..
第85回 木村様 [2016/04/15 22:15]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十七日の朝、野枝が目覚めて一番最初に頭に浮かんだのは、そろそろ来るだろう荘太からの手紙だった。
締めつけられるような苦しい気持ちで、床の中から出た。
辻が出かけて二十分とたたないうちに、その手紙が投げ込まれた。
御手紙只今拝見しました。
元より予想してゐた事です。
併し何にも悪い事はありません。
あなたにも私にもちつとも悪い事はありません。
..
第84回 ドストエフスキイ [2016/04/15 18:57]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十六日、その日の朝、野枝は疲れていたのでかなり遅く目を覚ました。
野枝はこの日もまた校正かと思うとウンザリした。
しかし、今朝は手紙が来ていないのでのびのびとしたような気持ちになり、辻に昨日、岩野清子と築地や銀座を歩いたことなどを話した。
野枝は昨日と一昨日に書いた手紙を入れた封筒を持って出て、それをポストに入れた。
野枝は苦しい手紙を書いたことが遠い遠いことのよ..
第82回 校正 [2016/04/15 11:16]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十五日、その日は『青鞜』七月号の校正を文祥堂でやる日だった。
野枝は荘太に宛てた第二の手紙を書き直そうと思ったが、朝出る前に書き直すのは無理だと判断し、第二の手紙を包みの中に包んで仕度をしていると、また荘太からの手紙が来た。
荘太は二十三日夜に続けて書いた二通の手紙に番地を書き落としたから、野枝の手元へは届いていないだろうと思いますと、その手紙に書いているが、野枝は二通とも受け取..
第81回 第二の手紙 [2016/04/14 12:55]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月二十四日の朝、辻が出かけるとすぐに「京橋釆女町(うねめちょう)にて」と裏書きされた、荘太からの手紙が届いた。
それは荘太が前日の夕方に書いた手紙だった。
野枝は前夜、荘太への手紙を書こうとしたが疲れていたので書かなかったので、書き遅れてしまったと思った。
そして、何かしらその手紙を開けたくないような気もしたが、開封して読んでみた。
野枝は昨日、話すべきことを話さなかった..
第80回 高村光太郎 [2016/04/13 12:22]
文●ツルシカズヒコ
野枝は辻との関係を早く話してしまいたいとあせっていたが、なかなかきっかけがつかめないでいた。
そのうちに荘太は『中央新聞』の野枝の記事について話し出した。
「僕にはあなたがひとりの方ではないか(ママ)といふ不安があつたのでした。中央新聞 に出たとかいふ記事の事を聞いてからです。そしてさうだとすれば大変失礼な事をしたと思つたのです。けれども僕が手紙を書いた時には、ちッともさういふ事は知らなかつたの..