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第77回 拝復 [2016/04/12 14:03]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年六月十四日の朝、野枝は気持ちよく辻を送り出し、机の前に座った。
木村荘太への手紙の返事を書こうと思った。
なんと書いていいかちょっと困ったが、とにかく会ってみることにして、思い切って書いた。
拝復、御手紙はたしかに拝見致しました。
暫く社の方へまゐりませんでした為めに御返事が後れました申訳が御座いません。
どうぞあしからず御許し下さい。
それから先日..
第76回 中央新聞 [2016/04/11 21:49]
文●ツルシカズヒコ
野枝が木村荘太からの手紙を、青鞜社事務所で受け取ったのは、六月十三日の朝だった。
野枝がこの日、青鞜社事務所に来たのはこの日が金曜日であり、金曜日は読者と交流を持つ日だったからであろう。
野枝はこの日のことを、らいてう(R)に宛てる手紙文スタイルで、こう書いている。
R様 こないだの金曜日はゐらつしやるかと思つて待つてゐました。
私は午前から行つてゐました。
小母さんといろい..
第64回 神田の大火 [2016/04/02 12:50]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年二月二十日、午前一時二十分ごろーー。
神田区三崎町二丁目五番地(現在の千代田区神田三崎町一丁目九番)の救世軍大学植民館寄宿舎付近より出火した火の手は、折りからの強風に煽られながら朝八時過ぎまで燃え続けた。
全焼家屋は二千三百以上、焼失坪数は四万二千坪以上の被害を出した「神田の大火」であった。
このころ、辻潤と野枝は染井の家を出て、芝区芝片門前町の二階家の二階に間借り住まいをして..
第60回 相対会 [2016/03/31 14:09]
文●ツルシカズヒコ
この発禁になった『青鞜』一九一三年二月号で野枝が月刊『相対』創刊号を紹介している。
今度かう云ふ雑誌を紹介致します。
小さい雑誌ですが極めて真面目なものでかう云ふ種類の雑誌は他にはないさうです。
本誌は小倉清三郎氏が単独でおやりになつて居ります。
材料も非常に沢山集めてあるさうです。
私共はかう云ふ真面目な小雑誌の一つ生まれる方が下だらない文芸雑誌の十生まれるよりはたのもしく思..
第59回 新らしき女の道 [2016/03/30 19:20]
文●ツルシカズヒコ
『青鞜』一九一三年一月号の附録(特集)は「新らしい女、其他婦人問題に就いて」だった。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p422~423)によれば、この特集を組んだ目的はまず対外的なもので、ジャーナリズムや世間の「新しい女」攻撃に対する反撃だった。
そして対内的には「私は新らしい女ではない」という逃げ腰の社員に対する、自分たちの覚悟の表明だった。
この特集には八人が寄稿しているが..
第57回 東洋のロダン [2016/03/29 20:55]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年十二月二十七日、忘年会の翌々日、らいてうから野枝に葉書が届いた。
昨夜はあんなに遅く一人で帰すのを大変可愛想に思ひました。
別に風もひかずに無事にお宅につきましたか。
お宅の方には幾らでも、何だつたら、責任をもつてお詫びしますよ、昨夜は全く酔つちやつたんです。
岩野さんの帰るのも勝ちやんのかへるのも知らないのですからね、併し今日は其反動で極めて沈んで居ります。
..
第38回 椎の山 [2016/03/22 16:48]
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p404~405)によれば、野枝から手紙を受け取ったらいてうは、まず辻潤に相談することにした。
小耳に挟んでいた染井という住所を頼りに、らいてうは辻の家を探し当てたが、辻は滝野川に引っ越していた。
その足で引っ越し先に行くと、辻は不在だった。
家人に用件を告げ名刺を置いていくと、翌日あたりに辻がらいてうを訪ねて来た。
野枝の上京後に..
第37回 野生 [2016/03/22 13:27]
文●ツルシカズヒコ
出奔した野枝に対する親族のフォローが気になるが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p74)によれば、代準介とキチが上京し野枝に翻意を促したが「ノエと辻はすでに深い関係となっており、しばらく間を置き、熱の冷めるのを待つことにした」とある。
平塚らいてう宛てに、九州の未知の少女から長い手紙が届いたのは、 一九一二(明治四十五)年晩春のころだった。
切手三枚を貼ったペン字の重たい封筒だった。
差出人は「福岡..
第36回 染井 [2016/03/22 10:25]
文●ツルシカズヒコ
辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。
僕はその頃、染井に住んでゐた。
僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。
山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。
僕のオヤヂは染井で死んだのだ。
だから、今でも其..
第35回 出奔(七) [2016/03/21 21:33]
文●ツルシカズヒコ
野枝が出奔したのは一九一二(明治四十五)年四月だったが、その二年後『青鞜』に「S先生に」を寄稿し、出奔したころの上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)の言動を痛烈に批判している。
佐藤に対する批判の要点を現代の口語風にまとめてみた。
先生は倫社の講義中、興奮すると腐敗した社会を罵倒しました。
先生の講義によって、半眠状態だった私の習俗に対する反抗心が目覚めました。
私は先生に教わった..
第34回 出奔(六) [2016/03/21 19:12]
文●ツルシカズヒコ
野枝は上野高女のクラス担任だった西原和治が送ってくれた、電報為替で旅費を工面し上京した。
上京したのは「十五日夜」に辻が書いた手紙が福岡についた後であるから、一九一二(明治四十五)年四月二十日ころだろうか。
とにかく、野枝としてはぐずぐずしていると拘束されてしまうので、できるだけ迅速に東京に旅立ちたかっただろう。
上京した野枝は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入った。
辻はその家で..
第33回 出奔(五) [2016/03/21 18:46]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。
然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。
どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。
俺は少くとも男だ。
汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。
(「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_..