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第120回 毒口 [2016/04/25 18:54]
文●ツルシカズヒコ
「お前さんも、あんまり呑気だよ。用達しに行ったとき、遊びにいったときとは違うからね。子供を他人に預けてゆきながら、いつまでもよそにお尻をすえていられたんじゃ、預かった方は大迷惑だよ。もう少し大きくなれば、どうにか誤魔化しもきくけれど、今じゃ一時だって他の者じゃ駄目なんだからね、そのつもりでいてもらわなくちゃ」
ただ美津の不機嫌な顔を見るのが嫌なばかりに、ようやくの思いで金をもらいに行き、どうにか持って帰って、まだ座..
第119回 自己嫌悪 [2016/04/25 18:16]
文●ツルシカズヒコ
「ああ、またどうしても行かなければならないのか……」
上野高女五年時のクラス担任だった西原和治の家を訪れると、いつも西原は野枝が黙っていても察して金を出してくれるが、そういう用事で西原に会わなければならないことが、野枝はたまらなく苦痛だった。
辻は口もきかずにブラリと家から出て行った。
その後姿を見送りながら、野枝はまた西原のところへ行こうか行くまいかと迷っていた。
美津がどうしても都合して..
第118回 義母 [2016/04/25 14:17]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』一九一八(大正七)年十月号に「惑い」を寄稿している。
創作のスタイルで書いているので仮名を使用しているが、「谷」は辻、「逸子」は野枝、「母親」は辻美津(ミツ)、乳飲み子である「子供」は一(まこと)である。
「谷が失職してからもう二年になる」とあるので、時の設定は一九一四(大正三)年である。
辻一家はこの年(一九一四年)の夏に北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地..
第116回 世界大戦 [2016/04/24 21:43]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年、九月。
創刊「三周年記念号」になるはずだった『青鞜』九月号は、休刊になった。
『青鞜』の一切の仕事をひとりで背負うことになったらいてうは、疲れていた。
部数も東雲堂書店時代を頂点に下り坂に向かう一方だった。
堀場清子は『青鞜』の部数減と第一次世界大戦との因果関係を指摘している。
一九一〇年に始まった“女の時代”に、終りが来ていた。
それは“青鞜の時..
第115回 ヂョン公 [2016/04/24 20:30]
文●ツルシカズヒコ
辻一家が上駒込から小石川区竹早町に引っ越したのは、一九一四(大正三)年の夏だった。
野上弥生子「小さい兄弟」では、時間軸が一九一五(大正四)年に設定されているが、この辻一家の引っ越しについての描写もある。
「いやだな、野枝さん。なぜ引っ越さなきゃいけないの?」
素一は、隣りの若い叔母さんである、野枝の顔を見るたびに、そう言って不平を鳴らした。
いよ/\引越の日になるとN子さんの家の裏口ー..
第114回 三角山 [2016/04/24 17:03]
文●ツルシカズヒコ
辻と野枝が北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地から小石川区竹早町八二番地に引っ越し、辻の母・美津、辻の妹・恒(つね)と同居を始めたのは、一九一四(大正三)年の夏だった。
上駒込に住んでいた当時の野枝と野上弥生子の親交については、野枝は「雑音」その他で書いているし、弥生子も野枝を主人公にした小説「彼女」を書いている。
弥生子は「小さい兄弟」という小説も書いていて、その中にも隣人である野枝と辻について、あるいは野枝..
第112回 妙義神社 [2016/04/23 20:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。
青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。
野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。
野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。
らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。
そのころ..
第103回 少数と多数 [2016/04/20 12:37]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年、秋。
野上弥生子にとって野枝は最も親しい友達になっていた。
九月初旬、二番目の子供を出産するために駒込の病院に入院した弥生子は、二週間目に新たな小さい男の子を抱いて帰宅し、下婢から裏の家にも出産があったことを知らされた。
弥生子が子供にお湯などを使わせていると、裏の方からも高い威勢のいい泣き声が聞こえた来た。
「赤さんが泣いているわね、やっぱし男の子かしら」
「さあ、..
第101回 エマ・ゴールドマン [2016/04/18 18:24]
文●ツルシカズヒコ
大杉と荒畑寒村が編集発行していた『近代思想』八月号に、「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」が掲載された。
「夢の娘ーーエンマ・ゴールドマン」は、エマ・ゴールドマン『Anarchism and Other Essays』に収録されている、ヒポリット・ハヴェルによる「エマ・ゴールドマン小伝」を、寒村が抜粋訳したものだった。
寒村はその冒頭で青鞜社の面々を挑発する文章を書いている。
僕は此の一篇を、彼の..
第96回 あの手紙 [2016/04/17 21:11]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月二日の午前中に行なわれた、野枝と辻と木村荘太の面談。
荘太がリアルタイムで書いた「牽引」の記述に沿って、その経過を追ってみたい。
この日また下宿に来てくれと野枝に手紙を書いたのは、荘太だった。
午前九時頃、下宿の婢が「伊藤さんがいらっしゃいました」と荘太に来訪を告げた。
荘太が取り散らかしていた部屋を片づけていると、障子を開けて入って来たのは、思いがけず辻だった..
第95回 二通の手紙 [2016/04/17 20:49]
文●ツルシカズヒコ
一九一三(大正二)年七月二日の午前中、野枝と辻と木村荘太は三人で面談をした。
まずは「動揺」の記述に沿って、その経過を追ってみたい。
その朝、野枝は腫れぼったい目を押さえて目覚めた。
午前十時ごろ、野枝と辻は家を出た。
ふたりが麹町区平河町の木村の下宿に着くと、野枝は不思議なくらい心が静まっていた。
前夜遅くまで起きて書いたものを荘太に渡した辻は、きっぱりと言った。
..
第94回 筆談 [2016/04/17 18:28]
文●ツルシカズヒコ
辻が白紙に鉛筆で細かく書いたものには、こう記してあった。
私は今非常に苦しんでゐる。
もう落ちついて仕事なんぞしてゐられなくなる。
私は実際昨晩位おまへに対して深い憎悪を抱いた事は恐らくあるまい。
私は幾度も自分の心に湧き上つてくるあさましい嫉妬を消さうと試みた。
然しそれは無駄であつた。
私はそれに木村と云ふ人に対する第一印象があまりよくなかつた。
私は成るべ..