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第146回 中村狐月 [2016/05/06 22:37]
文●ツルシカズヒコ
大杉が野枝宅を訪れたのは、『青鞜』二月号が大杉のところに送られてきてから十日ほどだった、二月十日ごろだった(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
一日も早く彼女に会いたいと思いながらも、体調がすぐれず、急ぎの仕事もあった。
そして、漸く彼女を訪づれはしたものの予期したやうにTの前ではどうしても其の話を打ちだす訳には行かなかつた。
彼女も其の話に就いては一言も云はない。
『Tがゐなかつたら。』
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第145回 ゾラ [2016/05/06 22:30]
文●ツルシカズヒコ
大杉が野枝から受け取った手紙は、何か新しいものをもたらすものではなく、彼女の考えのことさらの表明にすぎなかった。
しかし、彼女のそのことさらの表明が大杉は嬉しかった。
特に著書の批評をするのに、これほどまでいろいろと神経質に言ってくるのが嬉しかった。
そして、野枝が谷中村の話にひどく感激させられたことを、自分に知らせてきたことで、大杉は野枝に内的親しみを持った。
僕は直に、彼女に何んと..
第143回 谷中村(八) [2016/05/06 18:21]
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)の谷中村行きは実行されなかった。
せっかく最終の決心にまでゆきついた人々に、また新しく他人を頼る心を起こさしては悪いという理由で、他から止められたからである。
渡辺は野枝のために、谷中村に関することを書いたものを貸してくれたりした。
野枝がそれらの書物から知り得た多くのことは、彼女の最初の感じにさらに油を注いだ。
その最初から自分を捉えて離さない強い事実に対する感激..
第142回 谷中村(七) [2016/05/06 13:23]
文●ツルシカズヒコ
こんなにも苦しんで、自分はいったい何をしているのだろう。
余計な遠慮や気兼ねをしなければならないような狭いところでで、折々思い出したように自分の気持ちを引ったててみるくらいのことしかできないなんて?
野枝はこんな誤謬に満ちた生活にこびりついていなくたって、いっそもう、何もかも投げ棄てて、広い自由のための戦いの中に飛び込んでゆきたいと思った。
そのムーブメントの中に飛び込んでいって、力一杯に手応えのあ..
第141回 谷中村(六) [2016/05/06 12:09]
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)が訪れた次の日も、その次の日も、野枝は目前に迫った仕事の暇には、黙ってひとりきりで谷中村の問題について考えていた。
Tの云つた事も、漸次に、何の不平もなしに真実に、受け容れる事が出来て来はしたけれど、最初からの私自身受けた感じの上には何の響きも来なかつた。
Tの理屈は正しい。
私はそれを理解する事は出来る。
併し、私には、その理屈より他に、その理屈で流して仕舞ふ..
第140回 谷中村(五) [2016/05/05 14:14]
文●ツルシカズヒコ
野枝は黙った。
しかし頭の中では、一時に言いたいことがいっぱいになった。
辻の言ったことに対しての、いろいろな理屈が後から後からと湧き上がってきた。
辻はなお続けて言った。
『お前はまださつきのM(※渡辺政太郎)さんの興奮に引っぱり込まれたまゝでゐる。だから本当に冷静に考へる事が出来ないのだよ。明日になつてもう一ど考へて御覧。きつと、もつと別の考へ方が出来るに違ひない。お前が今考へて..
第139回 谷中村(四) [2016/05/05 14:07]
文●ツルシカズヒコ
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻が辞し去ってから、机の前に坐った野枝は、しばらくしてようやく興奮からさめて、初めていくらか余裕のある心持ちで考えてみた。
けれど、その沈静は野枝の望むような批判的な考えの方には導かないで、なんとなく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民たちの惨めな生活を想像させた。
野枝の心は果てしもなく拡がる想像の中に、すべてを忘れて没頭していた。
『おい、..
第138回 谷中村(三) [2016/05/05 11:28]
文●ツルシカズヒコ
今まで十年もの間、苦しみながらしがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう。
村民の突きつめた気持ちに同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。
といって、手を束(つか)ねてどうして見ていられよう?
けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。
しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。
この自分の気持ちを少しでも慰めたい。
..
第136回 谷中村(一) [2016/05/04 10:05]
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年一月の末、寒い日だった。
渡辺政太郎(まさたろう)、若林八代(やよ)夫妻はいつになく沈んだ、しかしどこか緊張した顔をして、辻家の門を入ってきた。
辻は渡辺政太郎との親交について、こう書いている。
染井からあまり遠くない瀧の川の中里と云ふところに福田英子と云ふをばさんが住んでゐた。
昔、大井憲太郎と云々のあった人で自分も昔の新しい女だと云ふところから「青鞜」に好意..
第130回 山田わか [2016/05/01 21:47]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、 一九一四(大正三)年十二月に発行され発禁になった『平民新聞』三号を、野枝が隠匿してくれたことを大杉が聞き知ったのは、そのひと月後くらいだった。
一九一五(大正四)年一月二十日ごろ、大杉は『平民新聞』三号が入り用になり、お礼かたがたクロポトキンの『パンの略取』を土産に野枝を訪ねた。
大杉はこう書いている。
『ええ、うちぢや少し危いと思ったものですか..
第122回 根本の問題 [2016/04/25 20:01]
文●ツルシカズヒコ
野枝の胸中に今まで抑えに抑えていた辻に対する微細な不満が、頭をそろえて湧き上がってきた。
野枝が言いたいことを言い、したいことをすれば、家の中の人たちの不平や不満は、どれもこれも辻に向かうに決まっていた。
野枝はそういう経験をいくつもしてきた。
それを繰り返すのが嫌なので、辻から穏やかに話して欲しかった。
野枝が苦しんでいるのを知らないわけでもないのだし、そのくらいの話を義母や義妹にしてく..
第121回 小石川植物園 [2016/04/25 19:16]
文●ツルシカズヒコ
野枝が西原から金策をしてきた日の翌朝。
辻も野枝も義母の美津も、それぞれに不機嫌だった。
野枝は朝の仕事をひととおりしてしまうと、机の前に座って子供の相手をしながら読書を始めた。
野枝にとって読書が最も寛(くつろ)げるときだった。
書物に引きつけられた母親に物足りなくなった子供が、いつのまにか茶の間の方に逼(は)って行った。
「坊や、おとなしいね、母ちゃんは何してるの。また御本かい、..