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第199回 私達の関係 [2016/05/20 19:54]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月九日。
麹町区三番町の下宿、第一福四万館で夕飯をすませた大杉に、堀保子からすぐ来てくれという電話がかかってきた。
大杉が四谷区南伊賀町の保子の家に行くと、何か用事があるわけではなかった。
保子は涙ぐんでいた。
大杉は野枝の生い立ち、気風、嗜好などいろいろ保子に語った。
保子に野枝に対する親しみを持たせたかったからだ。
大杉はすぐ帰るつもりだったが..
第196回 豆えん筆 [2016/05/20 14:07]
文●ツルシカズヒコ
大杉栄、堀保子、神近市子、伊藤野枝ーー当事者たちに会って、今回の騒動の真相を知りたいと考えたジャーナリストがいた。
『女の世界』編集長の安成二郎である。
安成の視点は新聞記事から一歩踏み込んだ、雑誌ジャーナリズムの視点だった。
安成は大杉が保子という正妻がありながら、神近という愛人を持ったことにはジャーナリストとしての関心はほとんどなかったが、野枝の出現にもかかわらず大杉と神近との関係が途絶えていな..
第195回 青鉛筆 [2016/05/19 16:10]
文●ツルシカズヒコ
大杉からの五月六日の手紙に、野枝はこう返信した。
停車場を出ると、前の支店でしばらく休んで、それから宿に帰へりました。
帰つてからも室(へや)にゆくのが何んだかいやなので、帳場で話をして、それから室にはいると直ぐあの新聞を読んで、中央公論を読んで仕舞ひました。
思つたほど何んでもなかつたので、すつかりつまらなくなつて室中を見まはしました。
何も彼も出かけた時のままになつてゐます。
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第192回 蓄音機 [2016/05/18 21:51]
文●ツルシカズヒコ
五月二日、野枝は大杉からの二通目の手紙を受け取った。
四月三十日、神近が大杉に会いに来て泊まっていったという。
●……神近が来た。
四五日少しも飯を食わぬさうで、ゲツソリと痩せて、例の大きな眼を益々ギヨロつかせてゐた。
社(東京日日新聞)の松内(則信)にもすつかり事実を打明けたさうだ。
●松内の方では、それが他の新聞雑誌の問題となつて、社内に苦情の出るまでは、一切を沈黙して..
第185回 別居について [2016/05/17 18:38]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年二月から四月にかけての野枝の心境はどうだったのか。
野枝が辻の家を出て別居を決行するのは四月末であるが、野枝はそこに到るまでの自分の心中を「申訳丈けに」に書いている。
五年間の結婚生活は自分に無理を強いるものだったと、まず野枝は書いている。
辻とふたりだけの生活ではなく、姑と小姑が同居している家庭は、たとえ彼女たちが寛大な人間であっても、野枝にとって忍従を強いるものだった。
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第181回 厚顔無恥 [2016/05/16 14:22]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉、神近、野枝の三人が会ったのは二月中旬ころだった。
大杉の書いた「お化を見た話」によれば、大杉は神近から絶縁状を受け取った。
「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合わせないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような、内容だった。
大杉はすぐに逗子から上京し、神近の家を訪れた。
彼女は大杉の顔を見るや、泣いてただ「帰れ、帰れ..
第180回 チリンチリン [2016/05/16 13:12]
文●ツルシカズヒコ
大杉が神近の下宿を訪れたこの日、神近は不意に原稿料が手に入ったので、夕方、東京日日新聞社を出ると銀座に出かけた。
神近は木村屋に行って、 パン類を一円余り買い礼子に送った。
礼子は神近と高木信威(たかぎ・のぶたけ)との間にできた女の子で、神近の郷里(長崎県)の姉のところに里子に出されていた。
高木が妻子持ちの身だったからである。
なお、礼子は一九一七(大正六)年に夭折している。
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第179回 日比谷公園 [2016/05/16 13:02]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年二月上旬、大杉と野枝はふたりだけのデートをし、夜の日比谷公園でキスをした。
二月のいつであつたか(僕は忘れもしない何月何日と云ふやうな事は滅多にない)三年越しの交際の間に始めて自由な二人きりになつて、ふとした出来心めいた、不良少年少女めいた妙な事が日比谷であつて以来、「尚よく考へてご覧なさい」と云つて別れて以来、それから其の数日後に偶然神近と三人で会つて、僕の所謂三条件たる「お互いに経済上独立..
第175回 婦人矯風会 [2016/05/15 11:12]
文●ツルシカズヒコ
「死灰の中から」によれば、大杉は七月末に野枝が出産のために帰郷したことは知っていた。
大杉は忙しかったので、野枝が帰郷する一ヶ月ほど前から彼女に会う機会はなかった。
十月、大杉は第二次『近代思想』を復活号として発刊した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、宮嶋資夫が調布に移転して発行人となり、編集人・大杉、印刷人・荒畑である。
しかし、『近代思想』は十一月号、十二月号と連続して発禁になっ..
第174回 御大典奉祝 [2016/05/15 11:04]
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年十一月四日、野枝は郷里の今宿で次男・流二を出産した。
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝は出産後、西職人町(現・福岡市中央区舞鶴二丁目)、福岡玄洋社そばにあった代準介・キチ夫婦の家に一ヶ月ほど滞在した。
十一月十七日、野枝は原稿用紙に向かい、らいてう宛ての書簡形式の原稿「らいてう氏に」を書いた。
それによれば、野枝は当初、流二を里子に出すつもりだった。
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第165回 フランス文学研究会 [2016/05/12 19:26]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』を出せなくなった大杉と荒畑は、そのころサンジカリズム研究会を発展させた平民講演会を主宰していた。
平民講演会は労働者を引きつけ新入会者を受け入れ、運動を前進させる橋頭堡だった。
大杉らは平民講演会の会場を確保するため、水道端の大下水彩研究所を借りて平民倶楽部と命名。
大杉が大下水彩研究所の家賃を稼ぐために始めたのが、「仏蘭西(フランス)文学研究会」だっ..
第62回 女子英学塾 [2016/03/31 22:06]
文●ツルシカズヒコ
「青鞜社第一回公開講演会」の翌日、『東京朝日新聞』は「新しき女の会 所謂(いはゆる)醒めたる女連が演壇上で吐いた気焔」という見出しで、こう報じた。
当代の新婦人を以て自任する青鞜社の才媛連は五色の酒を飲んだり雑誌を発行する位では未だ未だ醒め方が足りぬと云ふので……神田の青年会館で公開演説を遣(や)ることになつた
▲定刻以前から変な服装(なり)をして態(わざ)と新しがつた女学生や
之から醒めに掛つ..