記事
第220回 私は何もしない [2016/05/27 21:18]
文●ツルシカズヒコ
日蔭茶屋の道に面した棟に到達した神近は、その一階から二階に通じる階段を駆け上がった。
日蔭茶屋の出入口はこの棟の二階にあったからである。
とつ付の部屋には二三人で飲食したらしいチヤブ台が、その儘(まま)残してありました。
その台を隅に楯に取つて、私とあの男とは始めて正面に顔を合わせました。
若い女中達が二人、その廊下をけたゝましく叫んで、無意識に袖屏風を私達の方に造り乍ら、奥から階..
第219回 陽が照ります [2016/05/27 20:01]
文●ツルシカズヒコ
神近は大杉と誠実な話し合いをしたかった。
その希望が断たれた彼女が床の上に起き上がっていたのは、一九一六(大正五)年十一月九日、零時ごろだったろうか。
眠ることによってすべてを忘れようと努めたが、どうすることもできなくなって起き上がったのだった。
カッと炎のような怒りが室内をグルグルと廻っていた。
あの男はほんとにようく寝て居りました。
少し熱があったやうでしたが、その..
第218回 お源さん [2016/05/27 16:28]
文●ツルシカズヒコ
前回に引き続き、神近市子『引かれものの唄』の記述に沿って、神近が警察に自首するまでを追ってみたい。
一九一六(大正五)年十一月八日、日蔭茶屋のある神奈川県三浦郡葉山村字堀の内の光景について、神近はこう記している。
秋の末頃の太陽は、どこか底冷たくキラ/\と、今にも色を変へ様としてゐる海の水に戯れてゐました。
冬前の悲しい小鳥達は、騒ぎつれ乍(なが)ら慌しさうに紅葉(もみぢ)しかけた葉陰の蟲..
第217回 キルク草履 [2016/05/26 19:44]
文●ツルシカズヒコ
神近市子が日蔭茶屋事件について言及している、以下の三つの資料に沿って、この事件に迫ってみたい。
●『引かれものの唄』
●「豚に投げた真珠」(『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』)
●『神近市子自伝 わが愛わが闘争』
逗子の警察に自首した神近は横浜根岸監獄に収監されたが、一九一七(大正六)三月七日に保釈になった。
神近の控訴審判決が出たのは、同年六月十七日だった..
第216回 午前三時 [2016/05/26 16:47]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月九日、日蔭茶屋のどこかの時計が午前三時を打った。
ふと、大杉は咽喉のあたりに熱い玉のようなものを感じた。
「やられたな」
と思って、いつのまにか眠ってしまった大杉は目を覚ました。
「熱いところをみると、ピストルだな」
と思った大杉が前の方を見ると、神近が障子を開けて部屋の外へ出て行こうとしていた。
「待て!」
大杉が叫んだ。
神近..
第215回 だけど [2016/05/26 13:09]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月八日、夕食をすませると大杉はすぐに寝床を敷かせて横になった。
神近はしばらく無言で座っていたが、やがてそばの寝床に寝た。
大杉は長年の病気の経験から、熱のあるときは興奮を避けてできるだけ何も考えないようにして、ただ静かに眠ることにしていたが、なかなか眠れなかった。
大杉は前夜の神近の恐ろしい顔を思い出した。
「ゆうべは無事だったが、いよいよ今晩は僕の番だ」
大杉はそ..
第214回 寺内内閣 [2016/05/25 16:47]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月八日、大杉が目を覚ましたときには、もうかなり日は高かった。
神近も野枝も無事でまだ寝ていた。
朝食をすますと、野枝はすぐ日蔭茶屋を出て帰京した。
神近は野枝の帰京を疑っている口ぶりだった。
野枝は近くに潜んでいて、自分が帰ったら日蔭茶屋に戻って来るのではないかーー。
神近は割合に人が好くて人を信じやすいかわりに、疑い出すとずいぶん邪推深い女だと、大杉は..
第213回 大崩れ [2016/05/24 19:38]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月六日、大杉と野枝は神奈川県三浦郡葉山村字堀の内の日蔭茶屋に泊まった。
部屋はお寺か田舎の旧家の座敷のような広い十畳に、幅一間ほどの古風な大きな障子の立っている、山のすぐ下のいつも大杉が宿泊する部屋だった。
翌十一月七日、もう秋もだいぶ進んでいるのに、ぽかぽかと温かい小春日和となった。
「今日一日遊んでいかない?」
宿の朝食をすませた大杉が野枝に言った。
もう帰り支度..
第212回 抜き衣紋 [2016/05/24 14:39]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)十一月六日、大杉と野枝は茅ケ崎経由で葉山に向かった。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、この日の野枝は近くの髪結で銀杏返しに結い、縞のお召の着物を着て白粉も濃く、何やら浮き浮きしたようすだったので、菊富士ホテルの女中はびっくりしたという。
後藤新平から金を入手できたが、それだけでは雑誌を始めるにはまだ少し足りない。
大杉は単行本の翻訳をひとつと雑誌の原稿をふたつ抱えて、一..
第206回 野狐さん [2016/05/22 17:34]
文●ツルシカズヒコ
……永代静雄のやつてゐるイーグルと云ふ月二回かの妙な雑誌があるね。
あれに面白い事が書いてある。
自由恋愛実行団と云ふ題の、ちよつとした六号ものだ。
『大杉は保子を慰め、神近を教育し、而して野枝と寝る』と云ふやうな文句だつた。
平民講演の帰りに、神近や青山と一緒に雑誌店で見たのだが、神近は『本当にさうなんですよ』と云つてゐた。
青山は、あなたが僕に進んで来て以来、僕等の問題に就いては..
第203回 二人とも馬鹿 [2016/05/21 19:10]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月末、『女の世界』六月号を読んだ野枝は、大杉にこう書いている。
あなたは本当にひどいんですね。
あんな余計な処まで抜き書きをしなくつたつていいぢやありませんか。
本当にひどい。
でも、あなたが怒る/\つて云つてらしたほど怒りはしませんけれどね。
大好きなあなたがお書きになつたのですものね。
三人のあれを読んで分らない人は到底救はれない人達ですね。
..
第201回 ララビアータ [2016/05/21 14:33]
文●ツルシカズヒコ
大杉が御宿から帰京したのは、一九一六(大正五)年五月二十七日だった。
今日は私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の我儘(わがまま)をお詫びして許して頂かうと思ひましたの。
それで、幾度もあなたの処へ行くのですけれど、何んだか自然であなたに話しかける事がどうしても出来ませんでしたの。
さうして、とうたう叉あなたの方から口をお切りになりましたのね。
さうして、私があなたに向つ..