2017年10月16日

最上家歴代当主の居城 山形城

最上義光の居城を訪ねました。「よしみつ」なんて読まないで下さいね。「よしあき」です。戦国武将ファンの間では有名ですが、世間一般の人気ではどうしても甥の伊達政宗に負けてしまいますね。知れば知るほど味があり、心が熱くなってしまう武将。そのなごりを感じるために山形市へやってまいりまた。

<本丸と堀>
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10月中旬の訪問となりましたが、紅葉の見ごろはもうちょっと先ですかね。でもいい感じです。本丸は一度埋められてしまったそうですが、調査をしながら復元中です。

■最上氏の居城■ 初代から続く当主の城
この地に最初に城が築かれたのは1357年頃。羽州探題として山形へやってきた斯波兼頼(しばかねより)が城を構えたのが始まりとされています。斯波氏はのちに最上氏を名乗り、ここ山形城は最上氏宗家の城として歴代当主に受け継がれてきました。最上氏の祖である斯波氏は、室町幕府の将軍足利氏の有力一門。つまり最上氏も、清和源氏の足利氏の支流ということになります。

■最上義光の登場■ 出羽の虎将
血筋は名門でありながら長らく衰退した最上氏。しかし第11代当主の義光により、最上氏は飛躍的に勢力を拡大します。現在の山形県のうち、置賜郡(米沢周辺)を除くほぼ全域を支配するに至りました。名実ともに出羽の覇者。関ケ原の戦い直後の最上家は57万石。これはこの時点で全国5位です。最上義光は大大名にまで上り詰めました。

<最上義光公騎馬像>
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こちらの銅像は絵として有名ですね。ここは二の丸跡。背後に見えているのは東大手門の裏側です。

繰り返しますが57万石で全国5位ですよ!実高は100万石とも言われる北の王国です。そしてあの有名な伊達政宗の叔父(妹の義姫が政宗の母)。もっと知られていても良いはずですよね。弱小と言っては言い過ぎですが、由緒正しいながらもあまり振るわなかった家の地位を、一気に押し上げた名将なのです。プロセスにおいてはかなりラフな(非道と思ったこともあります)側面もありますが、それが故に人情味のある部分が際立ち、なんとも魅力的な戦国武将です。英雄にして豪傑、、、、 (長くなりそうなので次の投稿にてまた・・・)

■広大な平城■ 輪郭式平城
現在の城跡は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。最上氏が転封された後、鳥居忠政により改修がなされ、ほぼいまの形となりました。遺構として面影を残す二の丸の堀・土塁・石垣は、鳥居忠政時代のものと推定されています。輪郭式平城としては全国有数の規模。いわゆる日本100名城に選ばれています。

(城用語の補足)曲輪の配置
輪郭式(りんかくしき)は二の丸や三の丸が本丸を囲むように配置される縄張り。本丸・二の丸・三の丸といった曲輪が並べて配置されるのが連郭式です。他にも種類はありますが、この二つがメジャーです。

■霞城公園■ 城址公園
城の遺構を保護しつつ、美しい公園として整備されています。城跡及び周辺には、山形市郷土館や山形県立博物館、山形美術館などなど。城下町として発展した市街地の中心に位置する城跡は、現在では文化の中心地となっています。また戦国武将ファンには嬉しい「最上義光歴史館」もすぐそば。上杉軍の銃弾で歪んでしまった最上義光の鎧も展示されています。

<水堀>
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二の丸と三の丸を隔てる水堀。山形城は石垣も立派ですが、地味に土塁などを楽しみながら城跡散歩。

<南門>
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今回はここから二の丸へ入りました。手前は三の丸跡ということになりますが、完璧に市街地化されているので遺構という感じはしません。駅から徒歩できましたが、実は駅もかつての三の丸のなかにあります。相当広い城だったことが分かります。

<堀と電車>
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東京の四谷(真田濠付近)を思い出します。

■つわものどもが夢の跡■
<空堀>
sirononagori Yamagatajo (1).jpg

隆盛を極めた最上義光ですが、最上家では義光亡きあと家督をめぐるお家騒動が勃発。その結論、幕府の命により最上家は改易されることとなりました。先祖代々の城も所領も没収。残念な結果です。1622年、義光が亡くなってから8年後のことでした。

-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(か じょう)
築城年:1357年
築城者:斯波兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上家歴代・鳥居氏他
廃城年:1871年(明治4)

[山形県山形市霞城町]


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2017年10月14日

三戸城 南部宗家の夢の跡

<三戸城>
SN sannohejo.jpg

陸奥北部に勢力を誇った南部一族。ここ三戸城は南部氏の宗家・三戸南部氏の本拠でした。場所は岩手県との県境。青森県三戸郡三戸町です。城跡は城山公園として整備されています。別名は留ケ崎城(とどめがさき)。ちょっと季節が違いますが、桜の名所とのことです。

--------( 南部氏 )--------

■南部氏の起源■甲斐源氏の一族
甲斐源氏は甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門(八幡太郎義家の弟・源義光から始まる)。なんとなくピンとこなくても、その代表格が「武田氏」と聞けば「ああ」と納得して頂けるのではないでしょうか。今回登場の南部氏も甲斐源氏から枝分かれした家筋。清和源氏の流れをくむ一族です。
南部氏の始祖は南部光行。源頼朝から甲斐国の南部郷(現在の山梨県南部町)を与えられ、館を構えて拠点としました(この時に南部三郎と名乗りました)。

それ山梨の話だろ?

はい。ちょっと青森からは遠いですね。ただこの時代の猛者たちは、ほんとうにフロンティア。東北のあちらこちらに源氏の末裔が根をはっています。南部氏もそんなフロンティア一族の仲間と言って良いのではないでしょうか。

■陸奥国へ■
鎌倉の源頼朝と奥州藤原氏との戦いにおいて、南部光行は頼朝に従軍(1189年)。この功績により、陸奥国糠部五郡の土地を与えられ(奉行を命じられ)、家臣とともに移住しました(1191年頃)。一族は陸奥北部に勢力を拡大します(移住については資料により異なっていますが、概ねこの時期)。

どういう感覚で突き進んで行ったのかわかりませんが、比較的安定を求める日本人の気質とはちょっと違いますね。ひとつの一所に留らず、流動的に次なる場所へと移って行く。現代でも、転職を繰り返してステップアップしていく人たちがいますね。身軽というか、考え方が流動的というか。リスクを受け入れて、新たな何かを手にしようとする姿勢。まぁ正直無茶するのもイヤなんですが、ちょっとは見習いたいですね。ちょっとは。

■三戸城■晴政
<石碑>
shirononagori sannohejo (1).JPG

三戸城を築いたのは24代目当主の晴政(はるまさ)でした。もともと拠点としていた平城(聖寿寺館:しょうじゅじだて)を家臣に焼かれ、新たに築いた山城です。
家臣に放火されるとは物騒な・・・。拡大し続ける南部氏でしたが、あまり統制がとれていないのが実情だったようです。新たに堅固な山城を必要としたのは、他国の侵入に備えるというより、領内の中央集権化を推し進めるための手段だったようです。この当主、やや問題ありといった話もありますが、周囲の助けもあって、とにかく勢力を拡大しました。

■南部氏の謎■
三戸城を築いた晴政。この頃、南部氏そのものが八戸系と三戸系に分裂していたようで、晴政が本当に宗家の三戸系の生まれかどうか疑問視する説もあります。つまり、八戸系でありながら宗家を乗っ取ったという説です。これだけでも話がこんがらがるのに、晴政には長らく男子がなかったことから、勢力拡大に尽力した家から養子(娘の婿)を迎える話がまとまっていました。家督相続の候補者は田子信直。のちの南部信直です。ところが、晴政に実子・晴継が誕生。晴政は信直を疎んじ始め、更には争い、ドロドロの世界に突入です(そうとういろいろあるので省略)。

晴政が病没すると、長男・晴継が第25代当主となりますが、相続した直後に死亡。まだ13歳でした。諸説ありますが、父の葬儀からの帰路に暗殺された可能性が高いようです。首謀者としては、家督を狙っていた南部信直とする説が有力。ただ対立する九戸政実とする説まであります。いずれにしても、三戸城を築いた南部晴政の実子は、暗殺により短い生涯を閉じました。

1582年
田子信直が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城。第26代当主・南部信直の誕生です。


------( 城探索 )------

■縄張り■
典型的な山城です。城は馬淵川と熊原川の浸食によって形成された細長い独立峰を利用して築かれました。「天然の要害」です。この言葉、当ブログで頻繁に使いますが、そういう城に興味があって訪問してるので、結果としてそうなります。

東西に長い城山。西側に大手口、東側に搦手口。最も高い所が本丸で、その他の随所に曲輪。構造そのものは予習した通りです。

<鳩御門跡>
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やや観光用に整備されているエリアもありますが、なるべく遺構と出会えるところを探索。

■広い・・・■予習不足
構造そのものは予習した通り。ただこの細長い山城、なんと1.5kmもあります。標高130m、比高で約90m。ネット検索して城の形に惚れ込んで訪問しましたが、思ったより広いです。

「これは結構疲れるかも」

shirononagori sannohejo (6).JPG
登城前に川沿いも歩き回ったので、城内全部を徒歩は厳しいか?などと思い始めました。が、ひたすら歩きました。

時代が時代なので、もう少し小さく、のんびり歩き回れば縄張りを実感できるという甘い期待で訪問してしまいました。壮大な規模を誇る大掛かりなお山城です。復元された石垣とは別に、何らかの目的で集められた大きな石があちらこちらにゴロゴロ。これらもどこかに積まれていたのでしょうね。

<現地説明>
shirononagori sannohejo (2).JPG
いまさら遅いですが、ちゃんと書いてありますね。

<網御門付近にて>
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復元された門より、土塁ばかり眺めていました。奥に「天地有情」の石碑。

<武者溜>
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ようするに城兵の詰所ですね。そのための曲輪です。

<糠部神社付近>
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この付近には太鼓櫓跡や樹齢800年を越す杉などなど

<糠部神社本殿>
shirononagori sannohejo (4).JPG
城内には模擬天守(歴史民俗資料館)などもありますが、この付近の方が重みがあっていいですね。他に武家屋敷跡や御馬屋跡などを徘徊し、探索を終了させました。

とにかくたくさんの曲輪を巡って石碑を確認する。その間に土塁や堀切と出会う。そんな探索でした。ひとつひとつの曲輪が予想より広く、城のなごりを味わうというより、せっせと任務?をこなすような感覚で歩き回りました。一通り終わってから、改めて縄張り図を確認。後からじんわりと実感がわいてきました。


■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡>
shirononagori sannohejo (3).JPG
南部氏は後に本拠を九戸城(岩手県二戸市)、そして盛岡城へ移すことになります。やがて盛岡藩が成立すると、信直の長男で、南部氏27代目当主となっていた利直が初代藩主となりました。
長い長い南部氏の歴史のなかで、ここ三戸城が拠点だった頃は、内部的には大混乱、対外的には飛躍の礎を築く時期だったのではないでしょうか。何かが変わる瞬間というのは、そういうものなのかもしれませんね。陸奥の猛者たちが栄華を夢見たところ。そのなごりを味わうことができました。

[青森県三戸町梅内]



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2017年10月11日

銀河鉄道の昼(二戸駅から三戸駅)

「つわものどもが夢の跡」を訪ね歩く一人旅。北の猛将・九戸政実の居城の次は、南部宗家の居城を目指しました。

■いわて銀河鉄道■二戸駅から三戸駅へ
久しぶりの銀河鉄道です。前回は二戸駅から乗車して金田一温泉駅で下車。四戸城を訪ねました。といっても、九戸城で体力を使い切ってしまい、ほとんど動けませんでしたが・・・(大きな石だけ見て退散)。今回は前回の反省から、スケジュールにも余裕を持たせました。初めて訪問する三戸城に期待も膨らみます。いわて銀河鉄道、私は二戸駅からの乗車ですが、盛岡駅からずっと続いています。地元のみなさんの貴重な足ですね。言うまでもありませんが、宮沢賢治(岩手県出身)の代表作が名の由来です。

ところで、平日の昼ということもあるのでしょう。乗客は数人。最後は完全貸切状態となりました。

<いわて銀河鉄道>
SN IGR (3).jpg
メーテルも車掌さんも現れません(宮沢賢治で何か連想すればいいものを、銀河鉄道と聞くと999(スリーナイン)しか思い浮かびません)。

<滑走路?>
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なかなか飛び立ちませんね〜(昼から飲んでる訳ではありませんが、そんな気分で線路の行方を見守る)。

■IGR■アイジーアール
SN IGR (2).jpg
正式には「IGRいわて銀河鉄道」といいます。IGR?
Iはまぁ岩手としてGは銀河。Rは鉄道だから、ここだけ英語なのだろう。
Iwate Ginga Railroad
ですかね。などと漠然と思ってましたが、本日ブログにするため念の為、本当に念の為調べてみたら
Iwate Galaxy Railway
ええ?あ、まぁGはGalaxy、なるほどです。で、レールはあってたけどroadじゃなくてwayですか。納得しましたが、たった3文字しかないのに2文字も間違ってることに笑うしかありません。

■青い森鉄道■
岩手県内は「IGRいわて銀河鉄道」が運営。青森県内は「青い森鉄道」になります。まぁ直通運転なので乗っていても意識しませんが、、、。前回下車した金田一温泉駅を過ぎてしばらくすると目時駅(めとき)に到着。この駅がIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道の境目になります。この駅は既に青森県(三戸町)。県境を越えました。いよいよ目的地の三戸駅まであと一つです。

SN IGR (4).jpg

(やや余談)
■一から九(地名)■県を跨ぐ
一戸から九戸。全国的には「八戸」が一番有名ですかね。これはよく話題になりますが、一から九が岩手と青森に跨って存在しています。何度聞いても一部忘れてしまうので、改めて整理しておきます(郡は省略します)。

岩手県
一戸町・二戸市
青森県
三戸町・五戸町・六戸町・七戸町・八戸市
●もう一回岩手県
九戸村

現在の地名だと、四戸(しのへ)はないのですね。「四戸氏」は存在したんですがね。

■一から九(士族)■みんな同族
南部氏の始祖は「南部三郎光行」。この息子たちが枝分かれしてそれぞれの士族の祖となりました。長男は一戸氏の祖、次男は南部氏を継承、三男が八戸氏、四男が七戸氏、五男が四戸氏、そして六男が九戸氏の祖となりました。
南部光行さん、息子たちを独立させ立派ですが、まさか子孫たちが戦になるとは夢にも思わなかったでしょうね。

■目的地■南部宗家の城
SN IGR (6).JPG
無事に三戸駅に到着。念のため帰りの電車の時刻をチェックしてから城へ向かいました。

なんでわざわざ三戸に郷土の城
勤務先に三戸の出身の方がいて、私が九戸城まで行った話をしたところ、三戸にも立派な城があるのにと残念そうに言われてしまいました。そりゃまぁ「日本中に城跡はあるのだから」と思いつつも念のためネットで画像検索。目に飛び込んできたのは、これがまた絵に描いたような山城の姿でした。
「なんと理想的な立地」
城内の様子ではなく、地形が良く分かる航空写真に衝撃を受けました。自然の川に面し、まるで船のように縦長の独立峰。更に調べていくと、かつてはそこにぎっしりと曲輪が配置されていたようです。その縄張りも興味深い。
「事前に知っていれば・・・」
地元の人からは「城山」と呼ばれているそうです。名門南部宗家の居城。そしてあの九戸政実と争った南部信直の居城です。
「これはいつか行かねば」
どっちみち九戸城へはもう一度行くつもりでしたので、そう心に決めました。

自分の故郷に、人に語れる城があるなんて羨ましいですね。城跡好きだからそう思うのでしょうか。いずれにせよ、名を馳せた士族が本拠としていた場所。そして歴史ある町です。教えてもらえたのも何かの縁。今回、やっとその時の思いが実現しました。

<三戸城>
SN sannohejo.jpg
馬淵川と熊原川の合流地点に位置する山城。今もなお残る余韻を求めて、探索開始です。
(次の記事へつづきます)


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2017年10月09日

再訪・九戸城 (また来ましたよ!)

<九戸城跡>
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秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実の居城です。二度目の訪問。前回は真冬の訪問でしたが、今回は冬まだ遠い10月上旬。天気に恵まれた上に、ボランティアの方からパンフレットまで頂きました。「荒城の月」を意識した素敵なパンフレット。ありがとうございます。

■最初の訪問記■九戸政実への思い
政実への思いは「北の猛将・九戸政実を訪ねて」と題して、最初の訪問記にすべて書き込んでしまった気がします。よろしければ覗いてみて下さい→記事へすすむ

自分でもう一度読み返して、やや説明が足りないなぁと思ったのは、南部氏の内部事情。まるで南部氏そのものを悪役の如く扱っているような雰囲気が漂います。南部氏は源氏の流れをくむ名門。ただ、その名門家の当主に強引になった上に、秀吉とも上手くやった南部信直さん。この方には、ちょっと反感を持ちました。まぁこれもものの見方で、26代当主となった信直を、南部氏発展に寄与した功労者と評価する意見もあります。

<とある虎口にて>
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最初の訪問時には素通りしてしまいましたが、これは枡形虎口のなごり?かもしれませんね。二度目ならではの発見もあります。

■九戸氏対南部氏■同族の争い
九戸氏も、当時三戸城を拠点としていた南部家宗家も同じ一族です。祖は同じ。一族の中で既に実力者であった政実は、宗家の家督相続に不満を募らせこれと対立。やがて1591年、当主となっていた南部信直に反旗を翻しました。と、こういう話は戦国期には良くある話ですね。ここに天下人となった秀吉が絡むことで、九戸政実は天下に背く反乱者の如き扱いとなってしまいます。

(ここから内容が重複しますが再び)

■九戸軍対天下軍■5千対6万
九戸軍は南部の精鋭。手を焼いた南部信直は、天下人に助けを求め、豊臣秀次を総大将とする6万の大軍(奥州再仕置軍)が九戸城に到着します。籠城する九戸軍は10分の1以下の5千ですが、城は三方を川に囲まれた天然の要害であり、城兵の士気も高く、大軍をもってしても攻めあぐねます。硬直状態ののち、天下軍がとった策は騙し討ち。和議を勧告しておきながら、開城とともに城へ突入。城兵は勿論のこと、女子供まで焼き殺され、政実本人も斬首となりました。

■あまり語られない日本史■偽りの和議
戦国ファンの間では当たり前に知られていることですが、世間一般ではあまり語られることもありませんね。日本史ではあまり耳にしない大掛かりな皆殺し(二の丸跡の発掘調査で明らかになっています)。私も高橋克彦さんの小説・天を衝くと出会うまで、その事実を知りませんでした。今回はやや客観的に城を眺めることができましたが、最初に訪れた時には、かなり感情が高ぶっていたような気がします。

■九戸城のその後■蒲生氏郷の居残り
秀吉の家臣・蒲生氏郷(がもう うじさと)により改修されます。最初は、決着してなおも蒲生氏郷の出番があることに違和感がありましたが、勢力を誇った九戸氏の残党を警戒した秀吉の指示だったようです。改修された城は、三戸城から移った南部信直に引き渡され、名前も福岡城と改められました。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続け、いまでもそう呼ばれています。

<本丸の空堀>
shirononagori kunohejo2 (6).jpg
この城跡には、九戸時代の城の特徴と、蒲生氏改修による西国の城の特徴があると言われます。この堀?どちらですかね。「政実の城」で充分なので、調べていません。

■つわものどもが夢の跡■
shirononagori kunohejo2 (2).jpg
天下統一を目前にした秀吉による奥州仕置。これに対する不満から、葛西大崎一揆、仙北一揆など、大規模な一揆が各地で勃発しました。「揆」の訓読みは「はかりごと」。一揆というと、何となくイメージが悪いですね。本人達にとってはあくまで決起です。天下人に都合の良い秩序を受け入れず、奥州の猛者たちは大軍を敵に回して闘いました。ここ九戸城は最後の舞台。後世に語り継がれる、いや、語り継がれるべき悲劇の城となりました。


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2017年10月07日

雨の青葉山 仙台城訪問

<伊達政宗騎馬像>
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10月の雨のなか、仙台城を訪問しました。画像は言うまでも無く仙台藩初代藩主・伊達政宗の銅像。久しぶりに実物を見ましたが、大きいですね。立派です。
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映りが悪いですが、影だけでも威風堂々。

この城を初めて訪問したのは相当前です。まだ「城跡」に大した興味もなく、この銅像の前で会社の先輩と慌ただしく写真を撮った記憶しか残っていません(仕事中?)。
今回の訪問(純粋な旅です)もあまり時間は割けませんでしたが、城跡への思い、そして伊達政宗への思いは以前とは全く異なります。「行ったことがある」ではなく、自分なりに感じるものがあり、有意義な訪問でした。

築城者も城も有名なので、ネット検索すると情報が溢れていますね。まぁ自分なりに感じたこと、拘っているたところだけまとめると以下の通りです。

■天然の要害■戦国時代?
この言葉は良く使いますが、縄張りも含めて「険しい山城」といった印象を受けました。広瀬川に面した山に築かれ、本丸の東側と南側は断崖となっています。関ヶ原の戦い以後の築城でありながら、伊達政宗は山城を選択。戦国のなごり、周辺との緊張の度合いが伝わってくる城跡です。

<石碑>
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ちょっとビニールゴミ落ちてましたが・・・柵があって拾えず。そのまま撮影しました。

■上杉景勝を意識■強すぎるライバル
伊達政宗が徳川家康と「何とか」うまくやっている一方で、隣国の会津上杉は反徳川のまま。関ヶ原の戦いが終わっても、まだ緊張状態が続いていました。政宗が仙台城の建設に着手したのはそんな時期ですので、場合によっては会津120万石の上杉と一戦交える可能性もあったわけですね。和睦が成立して上杉家が米沢30万石へ減封となるのは、仙台城築城開始後です。

■千代城跡■せんだいじょう
青葉山には、鎌倉時代末期から既に城があり(陸奥守・島津氏の居城)、戦国末期には国分氏が居城していました。ただこの国分氏(国分盛重)は政宗と対立してこの地を去り、古くからあった城(千代城)は一旦廃城となりました。

出奔した国分盛重(こくぶん もりしげ)、実は政宗の叔父です。もともと伊達政重という名で、兄弟は政宗の父・輝宗や政景(後の留守政景)。兄である輝宗が当主の時に国分氏を継ぎました。国分氏はもともとこの地域(現在の仙台市含む)の有力者。仙台城の前身の千代城を居城としていました。当ブログでは天童氏との関係でちょっとだけ登場。やや話が横にズレますが、良かったら読んでみて下さい→『最後の城主・天童頼澄
その国分氏、伊達氏が当主となったところで血筋が途切れました。これは伊達輝宗の圧力によるものですね。しかしその当主も、輝宗の息子の政宗によって追い出されるのですから、なんだかドロドロの人間関係ですね。


■広いし不便■大規模な連郭式山城
仙台城跡はいわゆる市街地の西方に位置する丘陵地帯。車用の道は整備されていますが、もともと「本気で戦う」ことを想定して場所を選んでいるだけあって、くまなく探索するのは結構大変です。なるべく城跡周辺も含めて探索するようにしてますが、いろんな制約から「バス」を多用し、肌で感じるというより、なんとか目で確かめるという訪問となりました。
「まぁ来れただけでも有り難い」
縄張り図だと連郭式山城ということになります。しかし本丸だけが特出して高いところにあり、他の曲輪との高低差、そして行き来の悪さに愕然とします(バイクで城巡りする人が羨ましく思えました)。構造も私の目には特殊に見えます。ちょっと極端な言い方ですが、頂上だけが戦闘を意識した城で、他は付属施設。そんな感じです。

<城と城下町>
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現地の案内板を撮影

■城跡のいま■
山頂(本丸・西ノ丸)はもはや観光地といった感じですかね。眺めが良く、城の復元も進んでいます。そして麓の二の丸。これは二代目藩主・忠宗時代に造成されたもので、現在は東北大学になっています。城跡にして、緑豊かなキャンパス。人生のひと時をこんな環境で過ごせるなんていいなぁ。などと一瞬あたまをよぎりましたが、そもそもこんな難関大学に縁は無いので、ほのぼのとした諦め感で景色だけ眺めました。そして三の丸は仙台市博物館。次の予定もあるので、この付近の遺構はバスの中から眺めるだけでした。本来なら徒歩でゆっくり歩くべき場所。それだけの価値があります。いつになることやら、とにかくまた訪問したいと思いました。

■天守閣はなし■もともと
仙台空襲によって大半の建築物が焼失した仙台城ですが、天守閣はもともとありませんでした。諸説ありますが、徳川家康に対する遠慮(敵意はありませんという意志表示)から建造しなかったとも言われています。ただ、このことは太平の世には都合の良い結果となりました。険しい山の頂上は、戦には向いていても統治には不向き。そんな場所に莫大な費用で天守閣を築いていたら、不便な上に維持費もかかり、きっと藩政の重荷となっていたことでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸からの眺め>
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雨の仙台平野を見下ろす

政宗から始まる仙台藩。街づくりを含め、二代目の忠宗に引き継がれます。人の暮らしが豊かになる。街が栄える。若い頃から戦に明け暮れ、ギリギリのところで生き残ってきた伊達政宗ですが、晩年にはそんなことを夢見ていたのではないでしょうか。

-----■ 仙台城 ■-----
別 名:青葉城
築城年:1601年
築城者:伊達政宗
改修者:伊達忠宗
(政宗次男・ 第2代藩主)
城 主:伊達家歴代
廃城年:1871年

[宮城県仙台市青葉区川内]


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2017年09月09日

在来線の旅 猪苗代城訪問追記   

(猪苗代城訪問の追記です)
訪問記は→こちら

■お城巡り■
<猪苗代城跡>
shirononagori inawashirojo (5).JPG
中世においては猪苗代氏代々の居城。猪苗代氏が去っても、この場所は長らく城として機能し続けました。江戸期には会津若松城の支城という位置付け。その会津若松城が鶴ヶ城と呼ばれたのに対し、猪苗代城は亀ヶ城と呼ばれました。本城と支城、鶴と亀というコンビですね。

連続して配置された曲輪(くるわ)や石垣・土塁・空堀など、遺構がたくさんの山城です。特に尾根を削って作る「堀切」は見応えがありました。

<堀切>ほりきり
shirononagori inawashirojo (3).JPG
城用語では、山の尾根を削って造る堀を「堀切」と呼びます。堀は通行を妨害するもの。普段は橋を掛けていたのかも知れません。不便ですからね。

訪問記では「城跡」らしい画像を選んで投稿していますが、町が管理している公園ですので、整然と整備されたエリアもあります。若いお母さんが小さな子供を遊ばせている光景と出会いました。静かで良い所です。
SN120Inawashiro (4).JPG
SN120Inawashiro (5).JPG
[福島県耶麻郡猪苗代町古城町]

■現地在来線の旅■
<猪苗代駅>到着時
SN120Inawashiro.jpg
郡山までは新幹線。その先は在来線で移動。ここまでクルマで来れる自信がないので。磐越西線(ばんえつさいせん)の旅です。山あり川あり、水田ありの会津。ゆっくりと車窓を楽しむことができました。また、猪苗代まで来てしまえば、あと5駅30分強で会津若松です。

<野口英世>
SN120Inawashiro (3).JPG
ご本人及び猪苗代の皆様に失礼ながら、到着した時点では「なんでここに?」と思ってしまいました。そう、猪苗代のご出身ですよね。むかし三上博史さんが野口英世を演じた「遠き落日」という映画、そういえば舞台はここだったなぁ。などと、じわりじわりと思い出しました。まぁ現地ではその程度でしたが、帰宅してから調べたら、野口英世さんは子供の頃、猪苗代城跡でよく遊んでいたそうです。故郷に歴史の深い城跡があって、そこで遊んだなんて、大人になっても忘れられない思い出ですね。羨ましい。そして更に分かったのは、仙台藩士として伊達家に仕えた猪苗代氏の子孫にあたるそうです。ではご先祖さまと関係のある城なのですね。ご本人が意識してたかどうかは別にして。こういうことを事前に知っていれば、旅先でそういう見方もできたかも知れません。まぁ後からでも知らないよりいいや。※私は訪問しませんでしたが「野口英世記念館」が人気のようです。

<この日の相棒>
SN120Inawashiro (2).jpg
猪苗代城は駅から微妙な距離(約1.5km)。更に、城の周辺も見てまわりたかったので、レンタル自転車を利用しました。恒例により一人旅なので、とても頼もしく感じた相棒です。ありがとう。晴れていますが、この時既に、激しく雨が降るであろうことを風が教えてくれました。夕立が多い関東の田舎で育ちましたので、肌で分ります。そのイヤな予感も何となく懐かしく、子供のように必死にペダルをこいで駅へと向かいました。

<雨の猪苗代駅>帰り
SN120Inawashiro (1).jpg
たどりついたら雨降り。いつも、じゃないからこれもまぁいい思い出です。

猪苗代は自然豊かで観光スポットの多い町。私は目的が限定されていたので、「在来線」プラス残りは「自転車」で頑張りましたが、本格的な観光したい方はやはりクルマですかね?まぁどちらにしても、もっとゆっくりしたい町でした。


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2017年09月08日

猪苗代湖北岸の山城 猪苗代城

猪苗代湖の北に位置する山城を訪問しました。別名は亀ヶ城。中世から近代、長きにわたり城とし機能した場所です。

<堀切>
shirononagori inawashirojo (1).jpg

■猪苗代氏400年■それ以上長い歴史の城跡
築城の詳細については不明ですが、鎌倉時代初期(頃?)から長らくこの地を治めた猪苗代氏の拠点です。場所は猪苗代湖の北岸。構造としては典型的、というかやや古典的な山城。山上の本丸から麓までの間に、一定の間隔をおいて平らな区画を設ける縄張りです。凄く凝っているというところは見られませんでしたが、探索するのに丁度いい大きさ(比高で約30m)。全体をイメージしやすいので、歩いていて楽しい山城です。現在は「亀ヶ城公園」として整備されています。

城跡を管理する猪苗代町のホームページによりますと「猪苗代経連(いなわしろつねつら)が建久2年(1191年)、本格的な築城法によって築いた日本最古の平山城とあります。相当古いのですね。しかも戊辰戦争で「建物が全焼」したということは、とんでもなく長いあいだ城として機能していたことになります。平山城(ひらやまじろ)とは、周辺が平野になっている山城のことです。一般的な城用語ですが、このブログでは山城に分類しています。

shirononagori inawashirojo (7).jpg
整備し過ぎではないのがいいですね。

■猪苗代氏■蘆名氏と同族
猪苗代氏は三浦氏を祖とする一族。三浦氏といえば相模国(神奈川県)ですよね?むかしむかし、三浦氏の一族(佐原氏)が源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功績により会津に領地を得て、猪苗代氏を名の名のりました。これが猪苗代氏の始まり。同じ経緯で、やがて会津覇者となる蘆名氏と同族ということになります。ただ、猪苗代氏はいつも蘆名氏に服従しているわけではなく、一定の独立性を保っていました。
やがて伊達氏に寝返り、蘆名氏滅亡に関与しました。深くて長い歴史のなかで、私が猪苗代城と猪苗代氏を強く意識するのはこの瞬間ですね。

■伊達軍が猪苗代城に集結■ 摺上原の戦い
摺上原の戦い(すりあげはら)は、戦国時代の1589年7月17日、猪苗代において伊達軍と蘆名軍が激突した戦いです。この時、猪苗代城は伊達軍の拠点となりました。

話の前提として、 会津覇者の蘆名氏は既に絶頂期を過ぎ、身内の問題から衰退期にさしかかっていました。当時米沢を拠点としていた伊達政宗は、この機を狙って出兵。蘆名氏配下の城を次々と攻略し、更には蘆名氏の重臣であった猪苗代盛国を内応させ、その居城・猪苗代城へ入りました。
米沢の伊達氏にとって、猪苗代は会津攻略の足掛かりとして都合の良い場所ですね(方角的に中間に位置するため)。政宗に続き、伊達成実片倉小十郎(景綱)らも猪苗代城に入城。万全の体制で蘆名氏との決戦に備えました。 一方、黒川城(のちの会津若松城)を出た蘆名軍は猪苗代湖の北側に本陣を敷きます。猪苗代城の目と鼻の先ですね。蘆名軍は湖畔の民家に放火して挑発(一般人迷惑。ただ、こういう挑発はこの時代は多いですね)。これに反応し、伊達政宗は兵を率いて猪苗代城から出撃。両軍が激突しました。

戦いに有利な城を出て、野戦を選んだ伊達軍。単純に挑発に乗ったとは思えませんね。「勝てる」という思い、あるいは長年厄介な存在だった蘆名氏を「いま潰す」という決意でしょうか。蘆名軍16,000に対し、政宗は領内の兵をかき集めて23,000の軍を編成しました。単純比較で伊達軍の方が多いですが、圧倒的というほどでもありません。数の差以上に、蘆名軍の連携の悪さが際立つ戦となりました。この時の蘆名軍は諸氏の寄せ集め。かつての蘆名盛氏(もりうじ)のような、統率力のあるリーダーもいません。戦況不利と見るや、戦線から離れる隊が続出し、軍は総崩れとなりました。蘆名家はこの敗北で事実上壊滅します。

この戦い、よく「猪苗代氏の裏切りにより」という文言をみかけます。まぁ形としてはそうなりますが、実は猪苗代氏内部にも父子の対立という構図があり、伊達と蘆名に分かれて戦っています。この戦、よりによって両軍の先鋒が猪苗代氏。戦況不利を見て戦わずして逃げ出す蘆名軍の諸氏と比較すると、むしろ一戦交える前から態度が明らかな猪苗代氏は筋が通っているのではないでしょうか。勝手ながらそう受け止めています(「摺上原の戦い」には、ここに書ききれないほどの複雑な事情、人間ドラマがあります。戦国武将好きの方は別途検索することをお勧めします)。

<城内>
shirononagori inawashirojo (5).JPG
何となく中世の雰囲気が漂います。

shirononagori inawashirojo (4).JPG
江戸時代はあくまで会津若松城の支城ですから、中世の時のまま利用したエリアもけっこう多いのではないでしょうか・・・。こういう景色、とても好きですね。ぼっとしてると蚊に襲われますが・・・

shirononagori inawashirojo (6).JPG
このヘンは近代城郭のなごりでしょうか(すべて私個人の感覚です)。

■その後の猪苗代氏■
ついに蘆名を倒した伊達政宗でしたが、豊臣秀吉に会津を取り上げられてしまいます。この時、伊達氏に下っていた12代当主猪苗代盛国は先祖代々の土地に別れを告げ、伊達氏に従って陸奥国へ移ります。盛国(もりくに)には、五千石が与えられました。子孫も仙台伊達藩に仕えます。
蘆名軍として戦った猪苗代盛胤(もりたね)。盛国の息子にして、猪苗代氏13代目の当主でした。摺上原の戦いでは、城を父に乗っ取られた上に、奮闘むなしく破れました。激闘でしたが命は落とさず、落ちのびる蘆名氏と行動をともにします。しかし最終的には蘆名氏とも別れ、再び故郷へ。猪苗代で没しました。

■その後の猪苗代城■戦国で終わらない
猪苗代城ですが、秀吉の命により会津にやってきた蒲生氏郷によって改修されました。蒲生氏郷の次の会津領主は上杉景勝。徳川を敵に回した会津上杉120万石ですね。この時、城代として猪苗代城を任されたのは家臣の水原親憲(すいばらちかのり)でした(ここ飛ばしても良いところですが、水原さん、好きな戦国武将の一人なので)。
江戸時代、幕府の方針の原則は一国一城。しかし猪苗代城は例外としてとして扱われました(会津若松の支城として機能)。これにより、幕末の戊辰戦争(1868)で建物が焼失するまでの間、戦あるいは統治のための城であり続けました。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸へ向かう石段>
shirononagori inawashirojo (2).jpg
訪問にあたり、強く意識していたのは戦国期です。しかしこの城にとって、それも歴史の一部に過ぎないようです。時代を越えた沢山の武士たちの思いが込められている城跡です。

--------■猪苗代城■--------
別 名:亀ヶ城
築城者:猪苗代経連(つねつら)
築城年:1191年頃(推定)
城 主:猪苗代氏・蒲生氏ほか
廃城年:1868年

[福島県耶麻郡猪苗代町古城町]



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2017年08月29日

伊達政宗生誕の城は?(舘山城と米沢城)

伊達政宗といえば仙台というイメージが強いですね。しかし生まれは米沢。かつて米沢は伊達家の領地でした。政宗も多感な青年期を米沢で過ごしています。つまり故郷ですね。さて、ドラマや小説などでは「政宗は米沢城で生まれ・・・」とあり、私も長らくそう思っていました。ところが近年、新たな候補が現れています。

■舘山城■
<舘山城>
shirononagori tateyamajo (4).jpg
[山形県米沢市館山]
米沢市の南西部に位置する舘山城です。二つの川が合流する丘陵地に築かれた山城。米沢市の整備保存の働きかけにより、昨年(2016年3月)国の史跡に指定されました。最近ではこの城、あるいはこの付近が、伊達政宗誕生の地ではないかという説が有力視されています。

それってどういうこと?

伊達氏にとっての「米沢城」。これは上杉家が米沢に入って居城とした米沢城(つまり現在の米沢城跡)と同じものと考えられてきました。この解釈にメスが入り、議論となっています。

何で今頃になって?

本格的発掘調査は2001年。すぐに全てが分る訳ないですよね。粘り強くコツコツと調査し、大規模な縄張りが確認されていきました。

<現地>
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戦国時代の山城の面影を残す城跡。
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曲輪(くるわ)ですね。広い区画です。
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川沿いの台地上に築かれた城です。
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大樽川です。最上川源流と表示されていました。最上川はこの大樽川と米沢市内を流れる松川が合流して本流となります。相当な山奥に映るかもしれませんが、米沢城から西へわずか4km程度。城跡巡りと切り離しても素敵な場所です。
shirononagori tateyamajo (2).jpg
これはいつの時代のものか分かりませんが、人の営みのなごりを感じます。どんな人たちが、どんなつもりであの鳥居をくぐったのでしょうか。

調査をすすめるうちに、伊達時代と推定される出土品に加えて、石垣まで確認されました。ただ、のちに石垣の方は上杉時代のものと判明。ということは、この地は伊達時代にも上杉時代にも何らかの目的で使用されていた城跡のようです。

■現在の米沢城■
<米沢城跡>
nagori yonezawa date (1).JPG
[山形県米沢市丸の内]

<伊達政宗生誕の地>
nagori yonezawa date (2).JPG
松岬公園(米沢城跡)にある石碑。私が初めて訪問した時は木製でした。いつの間にか石碑になっています。立派、そしてかなり大きいです。

■二つの候補地■
同じ米沢市で、両方の城が「伊達政宗生誕の地」をアピールしている状態ですね。その道のプロの方々の間でも、意見は分かれているそうです。

伊達政宗は米沢の出身。これは間違いありませんね。では誕生の城はどちらなのでしょうか?

まぁ私は長らく「米沢城」と思っていたので、今後もはっきりするまではそう信じたいと思います。舘山城は、きっと昔からあった砦跡のようなものを上杉氏が何らかの目的(支城的な役割を担ってもらうためなど)で手を加えた。そう思うことにします。

ただ、米沢城は平地に築かれた平城。最近注目されている舘山城は最上川源流沿いの山城です。政宗がやがて仙台に難攻不落の山城を築き上げることを思うと、伊達一族には元々山城のためのノウハウがあった!なんて勝手に想像するのも面白いですね。


■つわものどもが夢の跡■
shirononagori tateyamajo (10).jpg
今年は伊達政宗生誕450年(1567年9月5日生)。生誕の地の議論はまだまだ続きそうですね。どちらにしても、ここ舘山城が中世の城跡だったことは間違いありません。そして、どうやら伊達・上杉とも関わりのあった山城。来た甲斐がありました。


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タグ:山形への旅
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