つわものどもが夢の跡
北条氏が小田原城の西端に築いた土塁跡を訪ねました。
<新堀土塁>しんぼり
■三の丸外郭新堀土塁■
堀切が見事な小峯御鐘ノ台大堀切跡を訪問後、すぐ近くの三の丸外郭新堀土塁へ向かいました。
奥が大堀切跡の散策路入口です。矢印が示すとおり、逆方向へ(南へ)向うと見事な土塁跡と会うことができます。
土塁の前に
まずこんな景色が目にとびこんできます
相模湾か…
海を見慣れた人は素通りかもしれませんが、埼玉県民の私はしばし足を止めました。敵は海からもやってくるわけですよね。そんなことを考えながら、しばらくボーっと。
さて
こちらが三の丸外郭新堀土塁への入口となります。
説明板の写真で、相模湾だけではなく、石垣山も景色に含まれていることに気付きました。言うまでもなく、豊臣秀吉が一夜城を築いた山ですね。そう思うと、かなり近く感じました。
説明文を途中まで以下に転記させて頂きます。『』内は原文そのままです。
『ここは文献史料の記載から、天正15年(1587)には存在していたことが知られる「三の丸新堀」に伴う土塁を中心とした場所です。「三の丸新堀」は小田原北条氏の時代の堀の名称として、唯一確認出来るものです。総構が出来るまでは小田原の外郭線でしたが、総構が構築されたことで、一つ内側の堀となりました。
この場所は、総構構築後も総構との結節点にあたる重要な場所であり、小田原北条時代の三の丸土塁の形状がよく残されています。』
総構は「そうがまえ」と読みます。城そのものだけでなく、城下の町全体を堀や土塁で囲む構造のことです。この地点はそのもっとも外側の防衛ラインと重なる部分らしく、いかに重要だったかが伝わってきますね。
説明文の最後には、この地点が眺望に優れ、相模湾や伊豆大島を望み、豊臣秀吉が築いた石垣山城をも目の前に見ることができると記されています。立て籠る北条方の城兵は、どんな思いで眺めたのでしょうね。
公園として管理されていて、入って良い時間が決まっています。右手に進めば土塁に出られます。
急に現れる遺構
凄い…迫力の土塁
綺麗に整備されています
左手の四角い窪みは遺構ではなく、撤去された建物の跡だそうです。
土塁のなごり
周囲は宅地化が進んでいます。しかし、ここだけは濃厚な城のなごりが漂っていました。
来てよかった。
そんな思いで現地をあとにしました。
ということで
三の丸外郭新堀土塁のご紹介でした。整備された小田原城址公園も魅力的ですが、少し離れたところに、こんな凄い場所があることを共有できれば幸いです。復元も含まれますが、魅力的な場所でした。
つわものどもが夢の跡
■訪問:三の丸外郭新堀土塁
[神奈川県小田原市城山]4-13
■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)
お城巡りランキング
2022年12月29日
小峯御鐘ノ台大堀切のなごり(小田原城)
つわものども夢の跡
小田原北条氏が尾根筋を断ち切った跡を訪ねました
<大堀切>おおほりきり
散策路として堀底を散策でます
■小峯御鐘ノ台大堀切■こみねおかねのだい
小峯の大堀切は、難攻不落と言われた小田原城を居城とする北条氏が、本丸へと続く尾根を分断するために築いた防御施設です。
<入口>
ここから堀切のなかに入りました。
<説明板>
小峯御鐘ノ台大堀切東堀というタイトルで説明がなされています。部分的に抜粋させて頂きます。
まず冒頭は『小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。』とのこと。そのなごりということですね。ちなみに、御鐘ノ台という呼び名は、小田原征伐の時に陣鐘が置かれていたことに由来するようです。
つづいて小田原城全体について
『北条氏は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9Kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。』と記されています。
総構(そうがまえ)とは、城そのものだけでなく、町全体を堀や土塁で囲む構造のことで、総曲輪(そうぐるわ)とも言います。秀吉に従って小田原征伐に参陣していた徳川家康は、小田原城の総構を江戸の町造りの参考としたとさえ言われています。当時としては他に類をみない構造だったわけですね。
つぎに3本からなる堀のうち、東堀についてです。
『この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸の外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます』
堀切(ほりきり)とは、堀と同じ意味に受け止めて良いですが、山の尾根を断ち切るように溝を設ける場合などに使われる城用語です。結果的に山城で多く用いられる言葉です。この地の堀切は、1590年の秀吉による小田原攻め以前に存在していたということのようです。三代目当主である北条氏康の時に、その基礎が築かれたと考えられています。
<堀切>
先ほどの説明板によれば、幅は25〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)までは約12〜15mありようです。斜面の角度は50〜60度といいますから、かなりの急こう配です。
堀がカーブしているのは地形というより、横矢掛り(よこやがかり)を設けたのでしょう。侵攻者を側面からも攻撃するための仕掛けですね。
■つわものどもが夢の跡■
小田原城は上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった城です。ただ、本丸近くまで攻め込まれた上で、何とか凌いだというのが事実のようです。そういう経験が背景となって、大掛かりな堀切が整備されるに至ったのでしょう。北条氏康の時代に基礎が造られたようですが、氏政(四代目)・氏直(五代目)親子が豊臣秀吉の大軍を迎え撃つ際には、更に手が加えられたと思われます。いま確認できる遺構は、そのなごりということですね。
北条氏の思惑がいまも形として残っています
■訪問:小峯御鐘ノ台大堀切
(小田原城三ノ丸)
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)
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小田原北条氏が尾根筋を断ち切った跡を訪ねました
<大堀切>おおほりきり
散策路として堀底を散策でます
■小峯御鐘ノ台大堀切■こみねおかねのだい
小峯の大堀切は、難攻不落と言われた小田原城を居城とする北条氏が、本丸へと続く尾根を分断するために築いた防御施設です。
<入口>
ここから堀切のなかに入りました。
<説明板>
小峯御鐘ノ台大堀切東堀というタイトルで説明がなされています。部分的に抜粋させて頂きます。
まず冒頭は『小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。』とのこと。そのなごりということですね。ちなみに、御鐘ノ台という呼び名は、小田原征伐の時に陣鐘が置かれていたことに由来するようです。
つづいて小田原城全体について
『北条氏は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9Kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。』と記されています。
総構(そうがまえ)とは、城そのものだけでなく、町全体を堀や土塁で囲む構造のことで、総曲輪(そうぐるわ)とも言います。秀吉に従って小田原征伐に参陣していた徳川家康は、小田原城の総構を江戸の町造りの参考としたとさえ言われています。当時としては他に類をみない構造だったわけですね。
つぎに3本からなる堀のうち、東堀についてです。
『この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸の外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます』
堀切(ほりきり)とは、堀と同じ意味に受け止めて良いですが、山の尾根を断ち切るように溝を設ける場合などに使われる城用語です。結果的に山城で多く用いられる言葉です。この地の堀切は、1590年の秀吉による小田原攻め以前に存在していたということのようです。三代目当主である北条氏康の時に、その基礎が築かれたと考えられています。
<堀切>
先ほどの説明板によれば、幅は25〜30m、深さは堀底から土塁の上面(天端)までは約12〜15mありようです。斜面の角度は50〜60度といいますから、かなりの急こう配です。
堀がカーブしているのは地形というより、横矢掛り(よこやがかり)を設けたのでしょう。侵攻者を側面からも攻撃するための仕掛けですね。
■つわものどもが夢の跡■
小田原城は上杉謙信や武田信玄ですら落とせなかった城です。ただ、本丸近くまで攻め込まれた上で、何とか凌いだというのが事実のようです。そういう経験が背景となって、大掛かりな堀切が整備されるに至ったのでしょう。北条氏康の時代に基礎が造られたようですが、氏政(四代目)・氏直(五代目)親子が豊臣秀吉の大軍を迎え撃つ際には、更に手が加えられたと思われます。いま確認できる遺構は、そのなごりということですね。
北条氏の思惑がいまも形として残っています
■訪問:小峯御鐘ノ台大堀切
(小田原城三ノ丸)
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)
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2022年12月28日
毒榎平(小田原市)中世小田原城のなごり
小田原城の大堀跡へ向かう途中で、こんな石標を目にしました。
<毒榎平>どくえだいら
毒?
物騒なネーミングからして、戦と関係があるような予感がして説明文を読みましたが、まったく関係ありませんでした。
<説明文>
以下に転記させて頂きます。
『この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。』
この付近がもともとの小田原城の西端だったわけですね。外敵の侵入を拒むため、小田原城は外側へ拡張されました。現在天守がある本丸からはかなり遠い印象ですが、北条氏が居城とした時代の城の中心はここからほんの少し東側の地点(県立小田原高校付近)ですので、なんとなく納得です。
<周辺の様子>
戦没者慰霊塔です。明らかにこちら側より高い区画に建てられています。そして、更に奥は堀切で分断されています。
ちょっとした高低差もすべて遺構に見えてしまいます
こちらは配水所となっている区画ですが、石標のあった場所より更に一段低くなっています。区画ごとの段差は、山の斜面を幾重にも連続で平らに造成した帯曲輪のなごりと受け止めることにしました(裏付けを調べていないので想像です)。
<説明板>
写真付きの説明板がありました。少し長いので部分的に抜粋させて頂きます(『』内は原文)
まず『慰霊塔のある城山公園周辺や水道局小峰配水池は、小田原城のうち毒榎平と呼ばれた場所に位置しています。』とあります。先ほどの配水所なども含め、この辺り一帯はすべて毒榎平に含まれるわけですね。地形について『毒榎平から小田原市街地へは箱根火山から小高い丘が延び、その先端付近に小田原城天守閣が建っています。』と記されています。中世の本丸も、天守が築かれた江戸時代の本丸も、場所が違うだけで同じ丘の上にあると理解しました。
そして
『小田原城は15世紀以降、自然地形を巧みに利用し、天正18年(1590)の小田原合戦の際には、城下まで堀と土塁で取り囲んだ総構が造られ、中世最大級の城郭として発展しました。』
とあります。
中世最大級…
その全てを見て歩くのは大変ですね。ただ、小高い丘を登った甲斐あって、ほんの一部だけですが、そのなごりを感じることはできました。
気持ちも盛り上がったところで、良好な遺構で知られる大堀切跡へ向かうことにしました。次の投稿(小峯御鐘ノ台大堀切のなごり)に続きます。
<小峯御鐘ノ台大堀切>
■訪問:毒榎平
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
・毒榎平標柱説明文
・現地説明板
(小田原市教育委員会)
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<毒榎平>どくえだいら
毒?
物騒なネーミングからして、戦と関係があるような予感がして説明文を読みましたが、まったく関係ありませんでした。
<説明文>
以下に転記させて頂きます。
『この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。』
この付近がもともとの小田原城の西端だったわけですね。外敵の侵入を拒むため、小田原城は外側へ拡張されました。現在天守がある本丸からはかなり遠い印象ですが、北条氏が居城とした時代の城の中心はここからほんの少し東側の地点(県立小田原高校付近)ですので、なんとなく納得です。
<周辺の様子>
戦没者慰霊塔です。明らかにこちら側より高い区画に建てられています。そして、更に奥は堀切で分断されています。
ちょっとした高低差もすべて遺構に見えてしまいます
こちらは配水所となっている区画ですが、石標のあった場所より更に一段低くなっています。区画ごとの段差は、山の斜面を幾重にも連続で平らに造成した帯曲輪のなごりと受け止めることにしました(裏付けを調べていないので想像です)。
<説明板>
写真付きの説明板がありました。少し長いので部分的に抜粋させて頂きます(『』内は原文)
まず『慰霊塔のある城山公園周辺や水道局小峰配水池は、小田原城のうち毒榎平と呼ばれた場所に位置しています。』とあります。先ほどの配水所なども含め、この辺り一帯はすべて毒榎平に含まれるわけですね。地形について『毒榎平から小田原市街地へは箱根火山から小高い丘が延び、その先端付近に小田原城天守閣が建っています。』と記されています。中世の本丸も、天守が築かれた江戸時代の本丸も、場所が違うだけで同じ丘の上にあると理解しました。
そして
『小田原城は15世紀以降、自然地形を巧みに利用し、天正18年(1590)の小田原合戦の際には、城下まで堀と土塁で取り囲んだ総構が造られ、中世最大級の城郭として発展しました。』
とあります。
中世最大級…
その全てを見て歩くのは大変ですね。ただ、小高い丘を登った甲斐あって、ほんの一部だけですが、そのなごりを感じることはできました。
気持ちも盛り上がったところで、良好な遺構で知られる大堀切跡へ向かうことにしました。次の投稿(小峯御鐘ノ台大堀切のなごり)に続きます。
<小峯御鐘ノ台大堀切>
■訪問:毒榎平
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
・毒榎平標柱説明文
・現地説明板
(小田原市教育委員会)
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2022年08月21日
北条氏照が改修した北関東の城跡(小山市)改修工事中の祇園城にて
2022年8月
名族・小山氏の居城だった栃木県小山市の祇園城跡。昨年夏の訪問時には工事中だったので、どうなったか気になって再訪してみました。
<城山公園入口>
あらら
工事中です。立入禁止のエリアも増えたようなので、いよいよ工事が佳境に入っているという感じでしょうか?
<堀切り>
こちらもです。ここは本丸と二ノ丸を隔てる堀切跡。城好きの人にとっては見どころのひとつです。よく見ると、二ノ丸(右側)は入っても良いようです。ということで二ノ丸へ
<堀切りと祇園橋>
二ノ丸側から堀切を挟んで本丸側を撮影しました。斜面の崩落を防ぐための工事が施されています
<祇園橋>
当然ですが本丸側へは渡れません
こんな感じですので、この日は本丸以外を眺めて現地を後にしました。
<橋の下>
堀切はそのまま進むと川原に出ます。祇園城は川に面した丘に複数の曲輪を配置した城です
<土塁跡>
曲輪を縁取るように設けられた土塁の跡
<空堀>
こちらは二ノ丸の内側に設けられた馬出しとの間の堀です
ところで
私は一般的な見解をそのまま採用して、それぞれの曲輪を本丸・二ノ丸と呼んでいます。しかし本丸の位置についても諸説あり、絶対にそうとは言えないようです。たったいま『馬出し』と呼んだ区画も、位置的に不自然さを感じてはいます。本丸がどにあるかで、それぞれの区画の意味も変わってしまいますからね。
<丘城>
帰りに城外から撮影した祇園城跡
ここ祇園城は、栃木県南部に勢力を誇った小山氏の居城でした。小山氏は鎌倉時代から代々嫡流が守護を務めた下野国の名族です。ただ、11代当主・小山義政の時に鎌倉公方と争うこととなり(小山義政の乱)、幕府軍に滅ぼされました。小山氏は祖を同じくする結城氏から養子を迎えて再興しますが、戦国の世に突入すると危機にさらされ続け、1575年には小田原北条氏により当主(小山秀綱)が追放され、城も失うことになりました。
北関東に進軍する北条軍を指揮していたのは、北条氏康の三男で、兄・氏政とともに北条屈指の猛将と称された北条氏照です。氏照は祇園城に手を加えて、北関東での勢力拡大のための拠点とすべく、改修工事を行いました。北条氏滅亡後、徳川家臣の本多正純が城主となり、更に城に手を加えていますが、現在城跡として扱われている城山公園付近に関しては、大筋の縄張りは氏照の時に出来上がっていたと推測されます。
<昨年撮影:現地説明板>
個人意見ですが、川に沿って曲輪を配置するこの連郭式の縄張りは、他の北条の城と共通点が多いと思います
<つわものどもが夢の跡>
仮の話ですが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされることがなかったら、その後もしばらくは北条氏照配下の城だったわけですね。城はその頃の形を留めてはいませんが、残された痕跡のどれかは、そのまま北条氏照が込めた思惑のなごりなのかもしれません。
ということで
名族・小山氏から始まる城ですが、改修工事中のため、大むかしに城を改修した北条氏照について触れさせて頂きました。改修の目的は異なりますが、既にある城を、修復してより良くしようという意味では同じですね。
ちょっと強引なまとめ方となりましたが、拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
-------■ 祇園城 ■-------
別 名:小山城
築城年:1148年
築城者:小山政光
改修者:北条氏
支 配:小山氏・北条氏・本田氏
廃 城 :1619年
現 況:城山公園
[栃木県小山市城山町]
■参考
現地説明板(小山市教育委員会)
■当ブログ過去記事■
投稿:2021年08月29日
タイトル:工事中の夏(祇園城跡)
『→記事へすすむ』
投稿:2017年07月15日
タイトル:名族小山氏波乱万丈の城跡
『→記事へすすむ』
お城巡りランキング
---------追 記---------
2024年3月
追加画像を貼っておきます。かなり工事が進み、曲輪も公開されていました。
<城山公園>
<本丸跡>
<堀切>
名族・小山氏の居城だった栃木県小山市の祇園城跡。昨年夏の訪問時には工事中だったので、どうなったか気になって再訪してみました。
<城山公園入口>
あらら
工事中です。立入禁止のエリアも増えたようなので、いよいよ工事が佳境に入っているという感じでしょうか?
<堀切り>
こちらもです。ここは本丸と二ノ丸を隔てる堀切跡。城好きの人にとっては見どころのひとつです。よく見ると、二ノ丸(右側)は入っても良いようです。ということで二ノ丸へ
<堀切りと祇園橋>
二ノ丸側から堀切を挟んで本丸側を撮影しました。斜面の崩落を防ぐための工事が施されています
<祇園橋>
当然ですが本丸側へは渡れません
こんな感じですので、この日は本丸以外を眺めて現地を後にしました。
<橋の下>
堀切はそのまま進むと川原に出ます。祇園城は川に面した丘に複数の曲輪を配置した城です
<土塁跡>
曲輪を縁取るように設けられた土塁の跡
<空堀>
こちらは二ノ丸の内側に設けられた馬出しとの間の堀です
ところで
私は一般的な見解をそのまま採用して、それぞれの曲輪を本丸・二ノ丸と呼んでいます。しかし本丸の位置についても諸説あり、絶対にそうとは言えないようです。たったいま『馬出し』と呼んだ区画も、位置的に不自然さを感じてはいます。本丸がどにあるかで、それぞれの区画の意味も変わってしまいますからね。
<丘城>
帰りに城外から撮影した祇園城跡
ここ祇園城は、栃木県南部に勢力を誇った小山氏の居城でした。小山氏は鎌倉時代から代々嫡流が守護を務めた下野国の名族です。ただ、11代当主・小山義政の時に鎌倉公方と争うこととなり(小山義政の乱)、幕府軍に滅ぼされました。小山氏は祖を同じくする結城氏から養子を迎えて再興しますが、戦国の世に突入すると危機にさらされ続け、1575年には小田原北条氏により当主(小山秀綱)が追放され、城も失うことになりました。
北関東に進軍する北条軍を指揮していたのは、北条氏康の三男で、兄・氏政とともに北条屈指の猛将と称された北条氏照です。氏照は祇園城に手を加えて、北関東での勢力拡大のための拠点とすべく、改修工事を行いました。北条氏滅亡後、徳川家臣の本多正純が城主となり、更に城に手を加えていますが、現在城跡として扱われている城山公園付近に関しては、大筋の縄張りは氏照の時に出来上がっていたと推測されます。
<昨年撮影:現地説明板>
個人意見ですが、川に沿って曲輪を配置するこの連郭式の縄張りは、他の北条の城と共通点が多いと思います
<つわものどもが夢の跡>
仮の話ですが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされることがなかったら、その後もしばらくは北条氏照配下の城だったわけですね。城はその頃の形を留めてはいませんが、残された痕跡のどれかは、そのまま北条氏照が込めた思惑のなごりなのかもしれません。
ということで
名族・小山氏から始まる城ですが、改修工事中のため、大むかしに城を改修した北条氏照について触れさせて頂きました。改修の目的は異なりますが、既にある城を、修復してより良くしようという意味では同じですね。
ちょっと強引なまとめ方となりましたが、拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
-------■ 祇園城 ■-------
別 名:小山城
築城年:1148年
築城者:小山政光
改修者:北条氏
支 配:小山氏・北条氏・本田氏
廃 城 :1619年
現 況:城山公園
[栃木県小山市城山町]
■参考
現地説明板(小山市教育委員会)
■当ブログ過去記事■
投稿:2021年08月29日
タイトル:工事中の夏(祇園城跡)
『→記事へすすむ』
投稿:2017年07月15日
タイトル:名族小山氏波乱万丈の城跡
『→記事へすすむ』
お城巡りランキング
---------追 記---------
2024年3月
追加画像を貼っておきます。かなり工事が進み、曲輪も公開されていました。
<城山公園>
<本丸跡>
<堀切>
2021年11月13日
黒川丸山城のなごり(川崎市)古代東海道沿いの丘
今回訪問の黒川丸山城は、歴史不詳の城です。いつ築かれたのか、誰の城かも分からない。更に、遺構も確認できず。かつてそこに城があったという伝承のみを頼りに足を運んでみました。
<現地到着>
ここは川崎市北部の多摩丘陵。城が築かれたと思われる山は比高だと20m程度と思われます。低層の丘に築かれた山城ということですかね。丘の上には鉄塔が見えます。あそこが頂上でしょうか?
<もみじ広場>
麓は公園として整備されている様子。本当にここで良いのか不安もありましたが、説明板を見つけてちょっとだけ安堵しました。
<現地説明板>
説明文は長文で、上段には『古代東海道』に関する記述がありました。この付近を古代の東海道が通っていたという興味深い話ですが、下段の『丸山城』に関するところ(画像部分)を紹介させて頂きます。タイトルは『丸山城と烽火台』となっています。ほうかだい?どういうことでしょう。以下に抜粋させて頂きます。
『この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。
また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。』
とのこと。最後の地名のフリガナは「とびお」「とびひら」です。
城というより、物見や狼煙台があったと推定されているわけですね。それは相模と武蔵をつなぐ『古代の東海道』とも繋がる話。なるほどです。まぁ何であれ、現地ので来たのですから、とりあえず山へ入ることにしました。
<普通の道>
この道を行けば、しかるべき所へ着きそうな気もしましたが、山は低いし、迂回する必要などないだろうと思い…
<突入>
中途半端なところから山へ入りました。誰かが通った痕跡があるのですから、何とかなるであろうと
<鉄塔>
行き止まり。見上げれば鉄塔。まぁ山城探索では時々遭遇する構造物です。それは良いとして、何とかここを通り抜けたいのですが…
<柵>
鉄塔の敷地を通過することは叶わないようです。一旦戻ることにしました。
<登山道>
普通の登山道に戻りました。最初からこの道を行くのが賢い人です。
<坂の上>
平な場所が見えてきました
<頂上>
低層の山の頂上です。何かあります。
<諏訪ヶ岳>
国土地理院、そして144.3mと記された杭。比高はそれほどでもありませんが、ここが川崎市最高峰とのことです。
<道しるべ>
丸山城に関する表示はありませんが、ここが鎌倉街道から2q以内だということは分かりました。そして、よこやまの道というのが、いわゆる古代東海道ということですね。海沿いの東海道ではなく、相模の国府と武蔵の国府を多摩川や多摩丘陵を越えて繋がる内陸の道。よこやまの道という呼び名は、万葉集で「多摩の横山」と詠まれたことに由来するとのこと。
<よこやまの道>
この山には古代東海道のための烽火台があった?あるいは、鎌倉街道のすぐ東側なので、この山には街道を見渡すための物見台を兼ねた城があった?いろんな想像が膨らみますが、探しているのは城の痕跡なので、また動き始めました。
<古道>
またてくてくと歩き始める。そして
<黒川配水場>
どうやらここまでか。これ以上は進めない…
丸山城の中核があったと思われる場所は、現在は黒川配水場となっています。門が閉ざされ、当然関係者以外は立ち入り禁止です。仮に入れてもらえても、この様子だと遺構は無いでしょう。そもそも低層の山ですし、この付近のみを整備した単郭式の城だったと思われます。城というより、砦といった方がイメージが近いのかもしれません。
ということで
謎多き川崎市麻生区黒川の城跡のご紹介でした。
--------■ 黒川丸山城 ■--------
別 名:丸山城
(築城者・城主他:詳細不明)
現 況:黒川配水場
[川崎市麻生区黒川]
■参考及び抜粋
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/13
お城巡りランキング
------ 追 記 -------
城は謎でしたが、すぐ近くでのどかな景色と出会えたので、とても満足な訪問となりました。城とは無関係ですが、画像だけ貼っておきます。
<川崎市黒川地区の農地>
ここが川崎市とは思えません
<黒川池谷戸緑地>
[川崎市麻生区はるひ野] 3丁目
------ 追々記 -------
川崎市最高峰として諏訪ヶ岳をご紹介しましたが、下記2点を補足させて頂きます。
@諏訪ヶ岳頂上は多摩市
諏訪ヶ岳を川崎市最高峰とする情報が多く、私もそう信じていました。しかし正確に言うと、山頂点は多摩市になります。後方の「たきび禁止」の警告の下に、多摩市と記されていますね。この山は川崎市と多摩市の境界線上に位置するので、曖昧なまま伝わっているのでしょう。川崎市にとってもこの付近がもっとも標高が高い場所であることに変わりありません。
A最も標高が高い場所は配水場
丸山城の中核があったと思われる場所としてご紹介した黒川配水場(正式名:黒川高区配水池 )が、川崎市でもっとも標高が高い地点という情報を得ました。大まかに「この付近」であることに変わりありませんが、配水場の標高が最も高いというのも興味深い話です。
以上です。Twitter経由でご指摘頂いた川崎のKさん、ありがとうございました。私にとっては、ときどきご一緒させて頂いている街探索の師匠のような方です。下記にご本人のTwitterブログをご紹介させて頂きます。黒川地区を訪問された時のツイート集です。
タイトル:
黒川の「ふたつの里山アートをめぐる散策ツアー」に参加!
http://kawasakifp.livedoor.blog/archives/cat_139921.html
<現地到着>
ここは川崎市北部の多摩丘陵。城が築かれたと思われる山は比高だと20m程度と思われます。低層の丘に築かれた山城ということですかね。丘の上には鉄塔が見えます。あそこが頂上でしょうか?
<もみじ広場>
麓は公園として整備されている様子。本当にここで良いのか不安もありましたが、説明板を見つけてちょっとだけ安堵しました。
<現地説明板>
説明文は長文で、上段には『古代東海道』に関する記述がありました。この付近を古代の東海道が通っていたという興味深い話ですが、下段の『丸山城』に関するところ(画像部分)を紹介させて頂きます。タイトルは『丸山城と烽火台』となっています。ほうかだい?どういうことでしょう。以下に抜粋させて頂きます。
『この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。
また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。』
とのこと。最後の地名のフリガナは「とびお」「とびひら」です。
城というより、物見や狼煙台があったと推定されているわけですね。それは相模と武蔵をつなぐ『古代の東海道』とも繋がる話。なるほどです。まぁ何であれ、現地ので来たのですから、とりあえず山へ入ることにしました。
<普通の道>
この道を行けば、しかるべき所へ着きそうな気もしましたが、山は低いし、迂回する必要などないだろうと思い…
<突入>
中途半端なところから山へ入りました。誰かが通った痕跡があるのですから、何とかなるであろうと
<鉄塔>
行き止まり。見上げれば鉄塔。まぁ山城探索では時々遭遇する構造物です。それは良いとして、何とかここを通り抜けたいのですが…
<柵>
鉄塔の敷地を通過することは叶わないようです。一旦戻ることにしました。
<登山道>
普通の登山道に戻りました。最初からこの道を行くのが賢い人です。
<坂の上>
平な場所が見えてきました
<頂上>
低層の山の頂上です。何かあります。
<諏訪ヶ岳>
国土地理院、そして144.3mと記された杭。比高はそれほどでもありませんが、ここが川崎市最高峰とのことです。
<道しるべ>
丸山城に関する表示はありませんが、ここが鎌倉街道から2q以内だということは分かりました。そして、よこやまの道というのが、いわゆる古代東海道ということですね。海沿いの東海道ではなく、相模の国府と武蔵の国府を多摩川や多摩丘陵を越えて繋がる内陸の道。よこやまの道という呼び名は、万葉集で「多摩の横山」と詠まれたことに由来するとのこと。
<よこやまの道>
この山には古代東海道のための烽火台があった?あるいは、鎌倉街道のすぐ東側なので、この山には街道を見渡すための物見台を兼ねた城があった?いろんな想像が膨らみますが、探しているのは城の痕跡なので、また動き始めました。
<古道>
またてくてくと歩き始める。そして
<黒川配水場>
どうやらここまでか。これ以上は進めない…
丸山城の中核があったと思われる場所は、現在は黒川配水場となっています。門が閉ざされ、当然関係者以外は立ち入り禁止です。仮に入れてもらえても、この様子だと遺構は無いでしょう。そもそも低層の山ですし、この付近のみを整備した単郭式の城だったと思われます。城というより、砦といった方がイメージが近いのかもしれません。
ということで
謎多き川崎市麻生区黒川の城跡のご紹介でした。
--------■ 黒川丸山城 ■--------
別 名:丸山城
(築城者・城主他:詳細不明)
現 況:黒川配水場
[川崎市麻生区黒川]
■参考及び抜粋
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/13
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------ 追 記 -------
城は謎でしたが、すぐ近くでのどかな景色と出会えたので、とても満足な訪問となりました。城とは無関係ですが、画像だけ貼っておきます。
<川崎市黒川地区の農地>
ここが川崎市とは思えません
<黒川池谷戸緑地>
[川崎市麻生区はるひ野] 3丁目
------ 追々記 -------
川崎市最高峰として諏訪ヶ岳をご紹介しましたが、下記2点を補足させて頂きます。
@諏訪ヶ岳頂上は多摩市
諏訪ヶ岳を川崎市最高峰とする情報が多く、私もそう信じていました。しかし正確に言うと、山頂点は多摩市になります。後方の「たきび禁止」の警告の下に、多摩市と記されていますね。この山は川崎市と多摩市の境界線上に位置するので、曖昧なまま伝わっているのでしょう。川崎市にとってもこの付近がもっとも標高が高い場所であることに変わりありません。
A最も標高が高い場所は配水場
丸山城の中核があったと思われる場所としてご紹介した黒川配水場(正式名:黒川高区配水池 )が、川崎市でもっとも標高が高い地点という情報を得ました。大まかに「この付近」であることに変わりありませんが、配水場の標高が最も高いというのも興味深い話です。
以上です。Twitter経由でご指摘頂いた川崎のKさん、ありがとうございました。私にとっては、ときどきご一緒させて頂いている街探索の師匠のような方です。下記にご本人のTwitterブログをご紹介させて頂きます。黒川地区を訪問された時のツイート集です。
タイトル:
黒川の「ふたつの里山アートをめぐる散策ツアー」に参加!
http://kawasakifp.livedoor.blog/archives/cat_139921.html
2021年11月08日
小沢小太郎の居城 小沢城のなごり
つわものどもが夢の跡
多摩丘陵に築かれた山城を訪問しました
<小沢城>おざわじょう
訪問したのは川崎市多摩区です
■多摩丘陵の山城■
小沢城は多摩丘陵の先端に築かれた山城です。多摩川の支流・三沢川が北側の麓を流れ、比高で50m程度はある天然の要害です。主に三つの峰にまたがる細長い城で、尾根の適所に曲輪を配置した比較的シンプルな縄張りです。現在確認できる遺構がいつの時代ものか全て分かっているわけではないものの、大枠は鎌倉初期に築城された時のものとする説が有力です。築城者については、鎌倉幕府の御家人となる稲毛三郎重成とする説、その息子である小沢小太郎とする説があります。
■小沢小太郎の居城■
稲毛重成は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、幕府の中枢にいた御家人です。同じく川崎市多摩区の枡形山城も、稲毛重成の築城と推定されていますので、小沢城築城者の有力候補ですね。ただ、異説として、重成の子である小沢小太郎を築城者とする説もあります。
まぁ親子ですし、大筋で稲毛氏がこの地域の支配にあたっていたことは伝わってきます。川崎市教育委員会さんのホームページには『鎌倉時代初頭の小沢城は、小沢小太郎の居城であったようです。』とありますので、ここでは築城者に拘らず、小沢城の初期の城主は小沢小太郎とだけ覚えておくことにします。
<小太郎の城跡>
父が武蔵国稲毛荘を領して稲毛氏を名乗ったように、この地を領して小沢氏を名乗たわけですね。
ところで
稲毛重成について調べると、嫡子は小沢重政とされ、通称は次郎又は小次郎となっています。
小太郎じゃないの?
私はこれを「同一人物であろう」と漠然と思っていましたが、今回ブログにまとめるにあたりもう一度考え直すと、別人である可能性も疑えなくなり、更に調べても明確な証拠にもたどりつかず戸惑っています。
長男と次男か?
血気盛んな稲毛重成は、長男に所領支配を任せ、次男には自分と行動を共にさせて更なる勢力拡大を目論んでいた?そう言い切れませんが、それもあり得ると感じています(素人のブログですのでこの程度の曖昧さでお許し下さい)。『小沢重政』の史実ははっきりしています。「重」の字は秩父氏一門の通字。この秩父一族の血を引く御家人たちは、源頼朝亡き後、北条時政によって次々に滅ぼされ、小沢重政も父親と同時期に鎌倉で殺害されています。これが小太郎の最後なのか、あるいは弟の最後なのかわかりません。ただ仮に小太郎が無事でも、この状況だと小沢城の城主であり続けることは難しかったのではないでしょうか。
ただ、稲毛重成・小沢重政の死後、所領は縁者に安堵されたという記録があるそうです。稲毛重成の妻、そして重政の母は、北条時政の娘であり政子の妹です。哀れんだ政子の働きかけだったようです。所領は小沢左近将監なる人物が支配したと吾妻鏡に記載があるようですが、小沢小太郎との関係ははっきりしません。そして、小沢城がどのような役割を果たしていたのかも不明です。
<山城>
竹林の斜面を下った先も城の一部です
■その後の小沢城■
かなり時を経た1350年(南北朝時代)、足利尊氏と弟の直義の対立に起因する室町幕府内の抗争のなかで、小沢城が焼失した記録があるようです。それから更に後の戦国時代、あの北条氏康が小沢城に陣を敷き、侵攻してきた上杉朝興の軍を迎え討ったとされています。結果は北条軍の勝利(小沢原の戦い)。当時16歳の氏康の初陣でした。 その後の詳細は不明ですが、小沢城は誰かの拠点となることもなく、廃城となったと思われます。
<富士講のなごり>
富士登山三十三度大願成就記念碑。城としての役割を終えた山は、江戸時代に富士講の舞台となったようです。人の出入りは続いていたわけですね。
■小沢城のなごり■
<案内板>
主な侵入口は2ケ所で、画像下の『▲仙谷入口』から入山する方が多いようですが、私は周辺の低地を散策してきた都合で画像左の『天神坂入口』から山を登りました。
<天神山>
表示にある穴澤天神社は城の北側、山の中腹に鎮座する古い神社です。小沢城が築かれた山は通称で天神山と呼ばれています。小沢城の別名は天神山城です。
<山道>
道は本当にあってるのか若干不安に思う山道
そして
やっとそれらしい場所に
<城址碑>
<遺構の説明板>
物見台と空堀に関する説明板
<物見台>
<空堀>
<曲輪>
<竪堀>
ちょっと画像では分かりにくいですが、下から見上げた斜面です。冒頭の画像は上から見下ろした斜面です。
<堀切>
<尾根道>
<道しるべ>
曲輪や堀の配置はシンプルですが、谷に面した細長い城内に複数の峰があるので、地形は複雑に感じました。
戦国時代にも城としての役割を担った実績はありますが、凝った技法で修復されたような跡はなく、築城当時の縄張りがほぼそのまま残っていると考えられています。そういう意味では、山に刻まれたこの形は、そのまま小沢郷を領した小沢小太郎のなごりなのかもしれませんね。
<つわものどもが夢の跡>
--------■ 小沢城 ■--------
別 名:小沢天神山城
築城主:稲毛重成
(又は小沢小太郎)
築城年:平安末期〜鎌倉初期
城 主:小沢小太郎・北条氏康
廃城年:不明
[川崎市多摩区菅仙谷]
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/11/8
・川崎市教育委員会ホームページ
文化財さんぽ→多摩区→小沢城跡
https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000108.html
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多摩丘陵に築かれた山城を訪問しました
<小沢城>おざわじょう
訪問したのは川崎市多摩区です
■多摩丘陵の山城■
小沢城は多摩丘陵の先端に築かれた山城です。多摩川の支流・三沢川が北側の麓を流れ、比高で50m程度はある天然の要害です。主に三つの峰にまたがる細長い城で、尾根の適所に曲輪を配置した比較的シンプルな縄張りです。現在確認できる遺構がいつの時代ものか全て分かっているわけではないものの、大枠は鎌倉初期に築城された時のものとする説が有力です。築城者については、鎌倉幕府の御家人となる稲毛三郎重成とする説、その息子である小沢小太郎とする説があります。
■小沢小太郎の居城■
稲毛重成は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、幕府の中枢にいた御家人です。同じく川崎市多摩区の枡形山城も、稲毛重成の築城と推定されていますので、小沢城築城者の有力候補ですね。ただ、異説として、重成の子である小沢小太郎を築城者とする説もあります。
まぁ親子ですし、大筋で稲毛氏がこの地域の支配にあたっていたことは伝わってきます。川崎市教育委員会さんのホームページには『鎌倉時代初頭の小沢城は、小沢小太郎の居城であったようです。』とありますので、ここでは築城者に拘らず、小沢城の初期の城主は小沢小太郎とだけ覚えておくことにします。
<小太郎の城跡>
父が武蔵国稲毛荘を領して稲毛氏を名乗ったように、この地を領して小沢氏を名乗たわけですね。
ところで
稲毛重成について調べると、嫡子は小沢重政とされ、通称は次郎又は小次郎となっています。
小太郎じゃないの?
私はこれを「同一人物であろう」と漠然と思っていましたが、今回ブログにまとめるにあたりもう一度考え直すと、別人である可能性も疑えなくなり、更に調べても明確な証拠にもたどりつかず戸惑っています。
長男と次男か?
血気盛んな稲毛重成は、長男に所領支配を任せ、次男には自分と行動を共にさせて更なる勢力拡大を目論んでいた?そう言い切れませんが、それもあり得ると感じています(素人のブログですのでこの程度の曖昧さでお許し下さい)。『小沢重政』の史実ははっきりしています。「重」の字は秩父氏一門の通字。この秩父一族の血を引く御家人たちは、源頼朝亡き後、北条時政によって次々に滅ぼされ、小沢重政も父親と同時期に鎌倉で殺害されています。これが小太郎の最後なのか、あるいは弟の最後なのかわかりません。ただ仮に小太郎が無事でも、この状況だと小沢城の城主であり続けることは難しかったのではないでしょうか。
ただ、稲毛重成・小沢重政の死後、所領は縁者に安堵されたという記録があるそうです。稲毛重成の妻、そして重政の母は、北条時政の娘であり政子の妹です。哀れんだ政子の働きかけだったようです。所領は小沢左近将監なる人物が支配したと吾妻鏡に記載があるようですが、小沢小太郎との関係ははっきりしません。そして、小沢城がどのような役割を果たしていたのかも不明です。
<山城>
竹林の斜面を下った先も城の一部です
■その後の小沢城■
かなり時を経た1350年(南北朝時代)、足利尊氏と弟の直義の対立に起因する室町幕府内の抗争のなかで、小沢城が焼失した記録があるようです。それから更に後の戦国時代、あの北条氏康が小沢城に陣を敷き、侵攻してきた上杉朝興の軍を迎え討ったとされています。結果は北条軍の勝利(小沢原の戦い)。当時16歳の氏康の初陣でした。 その後の詳細は不明ですが、小沢城は誰かの拠点となることもなく、廃城となったと思われます。
<富士講のなごり>
富士登山三十三度大願成就記念碑。城としての役割を終えた山は、江戸時代に富士講の舞台となったようです。人の出入りは続いていたわけですね。
■小沢城のなごり■
<案内板>
主な侵入口は2ケ所で、画像下の『▲仙谷入口』から入山する方が多いようですが、私は周辺の低地を散策してきた都合で画像左の『天神坂入口』から山を登りました。
<天神山>
表示にある穴澤天神社は城の北側、山の中腹に鎮座する古い神社です。小沢城が築かれた山は通称で天神山と呼ばれています。小沢城の別名は天神山城です。
<山道>
道は本当にあってるのか若干不安に思う山道
そして
やっとそれらしい場所に
<城址碑>
<遺構の説明板>
物見台と空堀に関する説明板
<物見台>
<空堀>
<曲輪>
<竪堀>
ちょっと画像では分かりにくいですが、下から見上げた斜面です。冒頭の画像は上から見下ろした斜面です。
<堀切>
<尾根道>
<道しるべ>
曲輪や堀の配置はシンプルですが、谷に面した細長い城内に複数の峰があるので、地形は複雑に感じました。
戦国時代にも城としての役割を担った実績はありますが、凝った技法で修復されたような跡はなく、築城当時の縄張りがほぼそのまま残っていると考えられています。そういう意味では、山に刻まれたこの形は、そのまま小沢郷を領した小沢小太郎のなごりなのかもしれませんね。
<つわものどもが夢の跡>
--------■ 小沢城 ■--------
別 名:小沢天神山城
築城主:稲毛重成
(又は小沢小太郎)
築城年:平安末期〜鎌倉初期
城 主:小沢小太郎・北条氏康
廃城年:不明
[川崎市多摩区菅仙谷]
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/11/8
・川崎市教育委員会ホームページ
文化財さんぽ→多摩区→小沢城跡
https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000108.html
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2021年11月05日
北条氏康初陣の軌跡(川崎市)小沢原の戦い
関東から山内・扇谷両上杉氏を追い払い、やがては武田信玄・上杉謙信といった戦国屈指の武将と対等にわたりあった北条氏康。その初陣となった古戦場跡を訪ねてみました。場所は神奈川県川崎市の北部になります。
<小沢城址碑>
まだ若武者だった氏康が拠点とした山城です
■小沢原の戦い■おざわはら
この戦は小田原北条氏と扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月)。北条早雲の意思を継いで関東進出を果たした第2代当主北条氏綱により、扇谷上杉氏は既に江戸城や岩槻城を奪われている状態でした。当主の上杉朝興は状況打破のために兵を率いて南下。これを迎え撃つべく、氏綱より出陣を命じられた若き氏康が小沢城に布陣しました。
<小沢城>
小沢城は鎌倉時代初頭には既に存在していた古い城です。天然の要害を利用した山城ですが、縄張りは比較的シンプルです。
■小沢城に籠った北条軍■
両軍の最初の激突は小沢城の麓とされています。麓?といっても、正確な場所は分かっていません。北条軍は初戦で敗退し、一旦小沢城に立て籠もりました。
北条氏康といえば、大軍を奇襲で破った河越夜戦などの戦歴から、勇猛果敢な武将というイメージですよね。成長した氏康は実際にそうだったかもしれませんが、もともとはかなり慎重なタイプだったようで、幼少期に至っては臆病で気弱な性格だったそうです。
氏康の初陣となった小沢原の戦いには、小田原北条氏家臣の清水吉政が同行しています。吉政(通称・小太郎)は、当主の嫡男である氏康を少時代から補佐し、教育係のようなこともしてきた人物。気弱だった氏康に、数々の褒め言葉で自信を持たせたことで知られています。今ふうに言えば、コーチングによって自己肯定できる力を身につけさせたわけですね。敵に押し込まれたこの状況で、16歳の氏康にどんな言葉をかけたのでしょうか?
この戦にはいろんな説があり、北条軍は負けたのではなく、城に逃げ戻ったように見せかけたのだというお話もあります。城に相手の注意を引き付け、別動隊で襲撃する策だったとする説です。ちょっと出来すぎのような気もしますが、この戦の結末を見る限り、これはこれで説得力があります。
事実がどうだったのかはか分かりません
■夜営する上杉軍■
北条軍が小沢城に籠ったところで、上杉軍は南西(現在の新百合ヶ丘駅方面)へ兵を移し、陣営を設けて夜を過ごすことになりました。正確な場所は分かっていませんが、川崎市麻生区の金程1丁目付近と推定されています。
<麻生川>あさおがわ
麻生区金程で撮影いた麻生川です。戦にちなんで陣川と呼ばれています。
なぜこの地が野営場として利用されたかは分かりません。現地を歩いた感じでは、交戦中の敵の城とある程度の距離は保ちたいとしても、ちょっと遠すぎるような気もしました。
陣内はどんな雰囲気だったのでしょうか。戦勝に興奮した状態?あるいは、戦に加えて野営の準備にも手間はかかりますので、疲れ果てて静まり返っていたのでしょうか?
いずれにせよ
上杉軍の危機はすぐそこに迫っていました。
■谷戸に隠れて夜襲■
<上麻生隠れ谷公園>かくれやと
氏康が兵を隠した谷とされている場所です。
<上麻生隠れ谷公園石碑>
石碑の奥は浸食によって形成された谷戸になっています。
北条軍は小沢城に籠城するのではなく、野営に対して奇襲を仕掛けました。負けで始まった戦いですが、その後の判断は前向きで、行動は機敏です。決して臆病者では真似できない戦いぶりです。氏康配下には、地形を良く知る地元武士も含まれています。夜の移動を苦としない条件が整っていたわけですね。あるいは、もともとそのつもりだったのでしょうか。
上杉軍は総崩れとなって敗走しました。
■つわものどもが夢の跡■
<勝坂>かちざか
こちらは氏康が「勝った!勝った!」と叫びながら駆け上ったと伝わる坂道です。当主であり父である北条氏綱の命で出陣した戦で大勝利。格別の思いが込み上げた瞬間だったのでしょう。この戦いが1530年、父の隠居により3代目当主となるのが1538年です。氏康の戦いはまだまだ続くわけですね。
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<小沢城址碑>
まだ若武者だった氏康が拠点とした山城です
■小沢原の戦い■おざわはら
この戦は小田原北条氏と扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月)。北条早雲の意思を継いで関東進出を果たした第2代当主北条氏綱により、扇谷上杉氏は既に江戸城や岩槻城を奪われている状態でした。当主の上杉朝興は状況打破のために兵を率いて南下。これを迎え撃つべく、氏綱より出陣を命じられた若き氏康が小沢城に布陣しました。
<小沢城>
小沢城は鎌倉時代初頭には既に存在していた古い城です。天然の要害を利用した山城ですが、縄張りは比較的シンプルです。
■小沢城に籠った北条軍■
両軍の最初の激突は小沢城の麓とされています。麓?といっても、正確な場所は分かっていません。北条軍は初戦で敗退し、一旦小沢城に立て籠もりました。
北条氏康といえば、大軍を奇襲で破った河越夜戦などの戦歴から、勇猛果敢な武将というイメージですよね。成長した氏康は実際にそうだったかもしれませんが、もともとはかなり慎重なタイプだったようで、幼少期に至っては臆病で気弱な性格だったそうです。
氏康の初陣となった小沢原の戦いには、小田原北条氏家臣の清水吉政が同行しています。吉政(通称・小太郎)は、当主の嫡男である氏康を少時代から補佐し、教育係のようなこともしてきた人物。気弱だった氏康に、数々の褒め言葉で自信を持たせたことで知られています。今ふうに言えば、コーチングによって自己肯定できる力を身につけさせたわけですね。敵に押し込まれたこの状況で、16歳の氏康にどんな言葉をかけたのでしょうか?
この戦にはいろんな説があり、北条軍は負けたのではなく、城に逃げ戻ったように見せかけたのだというお話もあります。城に相手の注意を引き付け、別動隊で襲撃する策だったとする説です。ちょっと出来すぎのような気もしますが、この戦の結末を見る限り、これはこれで説得力があります。
事実がどうだったのかはか分かりません
■夜営する上杉軍■
北条軍が小沢城に籠ったところで、上杉軍は南西(現在の新百合ヶ丘駅方面)へ兵を移し、陣営を設けて夜を過ごすことになりました。正確な場所は分かっていませんが、川崎市麻生区の金程1丁目付近と推定されています。
<麻生川>あさおがわ
麻生区金程で撮影いた麻生川です。戦にちなんで陣川と呼ばれています。
なぜこの地が野営場として利用されたかは分かりません。現地を歩いた感じでは、交戦中の敵の城とある程度の距離は保ちたいとしても、ちょっと遠すぎるような気もしました。
陣内はどんな雰囲気だったのでしょうか。戦勝に興奮した状態?あるいは、戦に加えて野営の準備にも手間はかかりますので、疲れ果てて静まり返っていたのでしょうか?
いずれにせよ
上杉軍の危機はすぐそこに迫っていました。
■谷戸に隠れて夜襲■
<上麻生隠れ谷公園>かくれやと
氏康が兵を隠した谷とされている場所です。
<上麻生隠れ谷公園石碑>
石碑の奥は浸食によって形成された谷戸になっています。
北条軍は小沢城に籠城するのではなく、野営に対して奇襲を仕掛けました。負けで始まった戦いですが、その後の判断は前向きで、行動は機敏です。決して臆病者では真似できない戦いぶりです。氏康配下には、地形を良く知る地元武士も含まれています。夜の移動を苦としない条件が整っていたわけですね。あるいは、もともとそのつもりだったのでしょうか。
上杉軍は総崩れとなって敗走しました。
■つわものどもが夢の跡■
<勝坂>かちざか
こちらは氏康が「勝った!勝った!」と叫びながら駆け上ったと伝わる坂道です。当主であり父である北条氏綱の命で出陣した戦で大勝利。格別の思いが込み上げた瞬間だったのでしょう。この戦いが1530年、父の隠居により3代目当主となるのが1538年です。氏康の戦いはまだまだ続くわけですね。
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2021年10月25日
北条氏康ゆかりの谷(川崎市)上麻生隠れ谷公園
初陣を勝利で飾った北条氏康ゆかりの谷を訪問しました。谷といっても大自然に囲まれた山奥ではなく、地形のみが当時を偲ばせる川崎市の住宅地です。
<上麻生隠れ谷公園>かみあさおかくれやと
■新百合ヶ丘駅近く■
今回の目的地である『上麻生隠れ谷公園』は、新百合ヶ丘駅から徒歩圏です。かなり近いです。直線距離では・・・
<小学校裏門>
あら
現地への直進を小学校に阻まれました。しかも、学校そのものが丘になっています。
<現地撮影地図>
抜け道は無く、迂回して行くしかないようですね。まぁ『谷』を目指しているのですから、山もあるでしょう。この地図に従い、小学校の周りを半周する感じで坂を登りました。
<現地到着>
ここですね。右手は小学校の正門、左側が上麻生隠れ谷公園です。
■奇襲で勝利■
北条氏康といえば、自軍の10倍近い8万の連合軍に奇襲で勝利した河越夜戦が有名ですね。これは1546年、氏康が32歳の時でした。今回の訪問地で氏康が戦ったのは1530年、16歳の時の初陣です。父であり当主である北条氏綱より出陣を命じられ、関東での勢力回復を目論む上杉朝興と戦いました。
北条氏康は初戦こそ敗退するものの、拠点としていた小沢城に立て籠ったのち、軍勢を密かに動かして夜営している上杉軍に襲い掛かりました。結果は大勝利。この時に兵を隠した谷が、現在の『上麻生隠れ谷公園』と言われています。
<石碑>
立派な石碑です。気になる地形ですが、なるほど、既に丘陵地帯に足を踏み入れていますが、ここだけ窪地になっています。北条軍には地形を良く知る地元武士も含まれていますので、最適な場所を選んで身を隠し、その時を待ったわけですね。考え過ぎかもしれませんが、平地の川沿いに陣を敷いた上杉軍が万が一気付いたとしても、ここまで来るには丘陵地の斜面を登らなくてはなりません。高所に位置しているのはあくまで北条軍。一戦交えるにしても、交戦しながら退却するにしても有利といえます。
<公園>
住宅地のオアシスのような公園です。地元の方の迷惑にならないよう撮影はしませんが、遊具も沢山ありました。
<谷戸>
谷は公園の先の方まで続いています。公園の名も「タニ」ではなく「ヤト」となっていますので、水の流れが長年かけて丘陵地に刻んだ谷間なのでしょう。水の行き先は低地を流れる麻生川です。
<つわものどもが夢の跡>
北条氏康配下の兵たちは、どんな思いでこの地に身を隠していたのでしょうね。
■訪問:上麻生隠れ谷公園
[川崎市麻生区上麻生]3丁目
------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
[川崎市多摩区菅仙谷]
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<上麻生隠れ谷公園>かみあさおかくれやと
■新百合ヶ丘駅近く■
今回の目的地である『上麻生隠れ谷公園』は、新百合ヶ丘駅から徒歩圏です。かなり近いです。直線距離では・・・
<小学校裏門>
あら
現地への直進を小学校に阻まれました。しかも、学校そのものが丘になっています。
<現地撮影地図>
抜け道は無く、迂回して行くしかないようですね。まぁ『谷』を目指しているのですから、山もあるでしょう。この地図に従い、小学校の周りを半周する感じで坂を登りました。
<現地到着>
ここですね。右手は小学校の正門、左側が上麻生隠れ谷公園です。
■奇襲で勝利■
北条氏康といえば、自軍の10倍近い8万の連合軍に奇襲で勝利した河越夜戦が有名ですね。これは1546年、氏康が32歳の時でした。今回の訪問地で氏康が戦ったのは1530年、16歳の時の初陣です。父であり当主である北条氏綱より出陣を命じられ、関東での勢力回復を目論む上杉朝興と戦いました。
北条氏康は初戦こそ敗退するものの、拠点としていた小沢城に立て籠ったのち、軍勢を密かに動かして夜営している上杉軍に襲い掛かりました。結果は大勝利。この時に兵を隠した谷が、現在の『上麻生隠れ谷公園』と言われています。
<石碑>
立派な石碑です。気になる地形ですが、なるほど、既に丘陵地帯に足を踏み入れていますが、ここだけ窪地になっています。北条軍には地形を良く知る地元武士も含まれていますので、最適な場所を選んで身を隠し、その時を待ったわけですね。考え過ぎかもしれませんが、平地の川沿いに陣を敷いた上杉軍が万が一気付いたとしても、ここまで来るには丘陵地の斜面を登らなくてはなりません。高所に位置しているのはあくまで北条軍。一戦交えるにしても、交戦しながら退却するにしても有利といえます。
<公園>
住宅地のオアシスのような公園です。地元の方の迷惑にならないよう撮影はしませんが、遊具も沢山ありました。
<谷戸>
谷は公園の先の方まで続いています。公園の名も「タニ」ではなく「ヤト」となっていますので、水の流れが長年かけて丘陵地に刻んだ谷間なのでしょう。水の行き先は低地を流れる麻生川です。
<つわものどもが夢の跡>
北条氏康配下の兵たちは、どんな思いでこの地に身を隠していたのでしょうね。
■訪問:上麻生隠れ谷公園
[川崎市麻生区上麻生]3丁目
------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
[川崎市多摩区菅仙谷]
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