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2019年05月14日

名城と呼ばれた城 川越城のなごり

つわものどもが夢の跡
深い歴史が刻まれた川越城跡を訪ねました。

<本丸御殿跡の石碑>
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宅地化の波が押し寄せ遺構の大半は失われましたが、貴重な本丸御殿が残る城跡。川越城は関東七名城のひとつであり、最近では日本100名城にも選ばれている歴史ある城です。

■扇谷上杉の城■ おおぎがやつうえすぎ
川越城(河越城)は、室町幕府に反旗を翻した古河公方の足利成氏に対抗すべく、扇谷上杉氏の持朝が家臣の太田道真・道灌親子に築城を命じたことに始まります。江戸城(千代田城)・岩槻城(岩付城)も、同じ背景で築城されました。江戸城を道灌に任せた上杉持朝は、自ら川越城主となり、当主として扇谷上杉氏の基礎固めに尽力します。しかし関東では既存の勢力間での争いが収まらず、混迷の中で生涯を閉じました(1467年)。家臣である太田道灌の大活躍により、関東での扇谷上杉の地位はその後ぐんぐんと上昇するものの、当主(上杉定正) が道灌を暗殺する事件が起きてしまいます(1486年)。

<川越の太田道灌像>
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川越市役所の前の太田道灌像。この付近もかつての川越城跡です。

長期的な視点で見ると、扇谷上杉の勢力下降は、太田道灌が暗殺された頃から既に始まっていたのかもしれませんね。相模から起こった新興勢力が関東への進出を果たし、やがてここ川越の地で、歴史に残る大勝利をおさめることになります。


■小田原北条氏の城■
扇谷上杉氏の支配下だった相模において、新興勢力として台頭したのがあの有名な北条早雲です。その実子であり、二代目当主となった氏綱は、関東の混乱を見逃さず武蔵へ進出し、江戸城・岩槻城を攻略してしまいます。そしてついには、扇谷上杉氏当主の居城・川越城をも攻略。扇谷上杉氏に壊滅的な打撃を与えます(1524年)。これ以降、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)まで、川越城は小田原北条氏の城として機能し続けました。その間の最大のピンチといえば、城の奪回を目論む扇谷上杉氏が古河公方・山内上杉氏と手を組み、総勢8万の連合軍となって川越城に迫った時と言えます。この窮地を逆転劇で切り抜けたのは三代目当主の氏康でした。約10倍という数的不利を覆した氏康の戦いは、河越夜戦(かわごえよいくさ)と呼ばれ、日本三大奇襲の一つとして語り継がれています。その名の通り、敵を油断させた上での奇襲で勝利しています。

こういった史実からも、当時の関東の覇権争いにおいて川越城がいかに重要な拠点であったかわかりますね。この戦いにより、当主・朝定が命を落とした扇谷上杉氏は滅亡。一方、山内上杉氏15代当主・憲政は上野国へ逃れ、やがて長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家と関東管領の職を譲ることになります。


■譜代家臣の城■
川越城は小田原北条氏の時代に大幅に修繕・拡張されました。大道寺政繁により、本丸からみて西側の守りが更に強化されたそうです。大道寺氏は北条氏家中にあって名門の家柄。政繁は城の修繕だけでなく、川越城下の繁栄にも尽力しました。
しかし豊臣秀吉の小田原討伐(1590年)により、北条氏は滅亡。関東に徳川家康が入り、関東八州を治めることになります。川越城は要衝として扱われ、酒井重忠から始まり、その後も譜代家臣が城主を務めることになります。城は1639年(寛永16年)に松平信綱によって更に整備・拡張がなされ、完成度の高い近世城郭となってゆきました。

<縄張り図>
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川越市役所で撮影した縄張り図です。典型的な平城、そして念入りに曲輪が配置されています。
この画像を撮影した市役所そのものがかつての城跡で、この縄張り図だと左手(西)の外曲輪付近になります。平面図だと分かりにくいですが、ここは武蔵野台地の北東端に位置し、東側は低地、南側は湿地帯でした。堀の役割を果たす川にも恵まれ、自然の要害に築かれていました。

<新河岸川>
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こちらは川越城の北を流れる新河岸川。かつての赤間川です。

<中ノ門堀跡>
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市役所からみて西(徒歩5分弱)にある中ノ門堀跡。川越藩主・松平信綱が城の大改修を行った時に設けられたと考えられています。

<本丸御殿>
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中ノ門堀跡から更に西へ進むと、いよいよ本丸御殿。こちらは1848年(嘉永元年)に建られたものです。つまり近世城郭としてのなごりですね。大変貴重な建造物ですが、かつての本丸御殿の一部に過ぎないそうです。もともとは1025坪の規模でしたが、現存は玄関と復元された家老詰所です。川越城に天守はもともとなく、本丸の南側の隅に富士見櫓、そして中心にこの本丸御殿が築かれていました。

<三芳野神社付近>
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本丸御殿のすぐそばです。この神社付近の「初雁公園」では、土塁跡を確認できます。

<初雁公園の土塁>
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公園として整備されていますが、盛られた土は遺構と考えて良いようです。

<蓮池門跡碑>
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市立博物館敷地内の城門のなごり。ここはかつての二の丸跡です。


■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡>
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戦国期から明治まで、ここに名城と呼ばれた城がありました。名だたる戦国武将、そして徳川幕府の譜代家臣たちゆかりの地です。

-------■川越城(河越城) ■-------
別 名:初雁城・霧隠城
築城年:1457年(長禄元年)
築城者:太田道真・道灌
改修者:大道寺政繁・松平信綱
城 主:扇谷上杉氏・北条氏
酒井氏・堀田氏・松平氏他
廃城年:1869年(明治2年)
[埼玉県川越市郭町]


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posted by Isuke at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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