今回は川越の人気スポット『喜多院』の堀の話です。
<堀>
ここはもともと城跡だったのか?と思いたくなる見事な堀でした。
■ 喜多院 ■ きたいん
観光地として人気の喜多院。天台宗の寺院で、山号は星野山(せいやさん)。慈覚大師が830年創建し、当初は無量寿寺と号したそうです。
境内は全体として落ち着いた雰囲気で、重みがあります。
江戸時代の初期には、徳川家康のブレーン的な存在となった天海僧正が住職 (第27世住職) をつとめ、この時に寺号を喜多院と改めました。正式名称は星野山無量寿寺喜多院といいます。徳川幕府から手厚い庇護を受けたことで、江戸城から移築された建物や多くの文化財を所蔵する寺院として知られています。
建物の多くが重要文化財に指定されています。せっかく訪問したので、その一部だけご紹介します。
<山門>
門から既に国指定重要文化財です。
<喜多院本堂慈恵堂>
中央に慈恵大師、そして左右に不動明王が祀られています。
<慈眼堂>
こちらは慈眼大師天海をまつる御堂
<仙波東照宮>
<歴代住職墓所>
<多宝塔>
繰り返しますが、ご紹介はほんの一部です。
■堀の跡■
さて、重要文化財だらけのこと敷地内。見て回るうちにこんな光景と出会うことに。
<地面の溝に気付く>
地面のヘンな溝に気付き、その行く先を目で追うと、もっとヘンな光景を見ることに
<行く先もヘン>
周りと比較して低い位置を維持したままのヘンな道?
<堀と気付く>
そのまま進むと、城好きにとってはたまらない景色が。ここは城跡なのか?そう感じてしまった瞬間です。堀は右手に曲がっています。まるで敷地を囲んでいるかのように。
寺院の周辺に堀が設けてある例は珍しくありません。ただ、ここの堀は深さもあり、ちょっと立派すぎませんかね。しかもかつての川越城のすぐ近くです。この場では探索に専念し、詳細は帰宅してから調べることに。
<他の場所も調査>
堀は敷地の西側に設けられていて、南側では仙波東照宮を取り囲んでいました。目視で分かるのがそこまでというだけで、他は埋められた可能性だってあり得ます。あるいは、東側は低湿地であったことから、堀を設けず土塁の類で守りを強化できたのかも知れない。
<調査は続く>
堀に気付いてしまってからは、気もそぞろとなり、喜多院の周辺ばかりを歩き回っていました。
■城跡という記録はない■
<川越城の縄張り>
市役所で撮影した川越城の縄張り図です。喜多院の敷地は含まれていません。帰宅していろいろ調べたのですが、喜多院を城跡と断定する有力な情報は得られませんでした。
(ここより勝手な感想)
ただ、古くは城の南側の出城的な役割を担っていた?なんてことはないのですかね。太田道灌が父とともに川越城を築城した頃(1457年)は、まだまだ工夫の余地があったはず。主となる拠点の他にこまめに出城を築く道灌であれば、川越城へと続く街道に睨みをきかせる砦を築いていても何ら不思議ではありません。地図を見ると、それまで真っ直ぐだった街道が、ちょうど喜多院付近で折れ曲がっていることも気になります(街道が曲がっているのは、町の出入口に設けた枡形のなごりと受け止めていましたが、そのすぐ東側が喜多院という点が気になります)。
あるいは、河越城の戦い(上杉対北条)の時の陣城の跡ということは?
また、川越城は江戸期に近世に相応しい城として再整備されますが、この時に万が一の時のための出城的な役割を期待されて堀が設けられた!なんてことは?近世城郭のなかには、防衛戦略の一環として庭園を設けたりする例があります。兼六園や後楽園はそれに該当し、それぞれ金沢城と岡山城にとって、城外の曲輪という役割を期待されていました。また江戸の浜御殿(現在の浜離宮恩賜公園)も、同様ではないかとする説もあります。表向きの姿とは別の意味を込めて整備する。これは決して珍しいことではありません。
念には念を入れたなごりが、この堀跡なのではないのか
現地でそんな思いが込み上げてしまい、喜多院で最も記憶に残っているのが堀の跡となってしまいました。まぁ神社仏閣も好きですが、それ以上に城好きなので満足です。
ということで、最後までお読み頂きありがとうございます。城好き会社員のたわごとに近い内容ですので、その辺りはご理解をお願い致します。ただ、現地で似たような思いをする方がいたら嬉しいです。
<城好きにとっての喜多院>
■訪問:喜多院
[埼玉県川越市小仙波町]1-20-1
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