2018年10月16日

田村麻呂が陣を張った丘 赤羽八幡神社

つわものどもが夢の跡
今回はむかしむかし征夷大将軍が陣を張った丘を訪ねました。場所は東京都北区です。

<赤羽台>
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台地を貫通するJRのトンネル。左手奥の丘の上の鳥居、見えますでしょうか。神社の敷地の下を電車が通るという構造になっています。珍しいですね。

<丘の下の鳥居>
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冒頭の坂道を登っても良いのですが、探索も兼て別ルートから登ることにします。画像は丘の下にある鳥居。この先に境内へ続く階段があります。

<階段>
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ここですね。高低差、伝わりますでしょうか。赤羽は武蔵野台地の北端に位置し、ちょうど台地が途切れる場所です。北には荒川が流れ、川に向かって低地が広がります。まぁこれはおおまかな話で、具体的な地形はかなり複雑。現地を訪問すると、丘と低地があちらこちらで入り組んでいることを実感します。さて、登ってみますかね。

<赤羽八幡神社>
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階段を登りきるとこんな感じです。赤羽八幡神社です。坂上田村麻呂が東征の際にこの丘に陣を敷き、祭神を勧請したことに始まるらしいのですが、いろいろ情報があるので、由緒についてはウィキペディアさんの説明をそのまま転用させて頂きます。

『784年(延暦3)に坂上田村麻呂が当地に陣を張り、3柱を勧請したことにより創建された。その後源頼光、源頼政、太田道灌と太田一族により再興された。明治初期まで郷社(赤羽総鎮守)の扱いを受けていたが、明治5年に村社(赤羽村鎮守)に格下げされた。』
[出典元:Wikipedia 2018/10/15]


<境内>
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本殿には勝負事の神様が祀られています。他に境内神社として北野天満宮や稲荷神社、大黒主神社なども。ご利益の多い場所ですね。

坂上田村麻呂といえば征夷大将軍の二代目。初代の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が高齢であったことから、これを補佐する立場だった田村麻呂は早くから実質的な役割を担っていました。北区赤羽は、荒川を渡れば埼玉県戸田市。これからもっともっと北へ向かう軍勢が、この丘に布陣して態勢を整えたわけですね。
ちょっと話がそれますが、大伴弟麻呂も坂上田村麻呂も源氏ではありません。いつから「征夷大将軍は源氏じゃなきゃダメ」のような雰囲気になったのですかね?

ウィキペディアさんの説明にもある通り、ここ赤羽八幡神社は清和源氏の3代目の源頼光や扇谷上杉家の家宰・太田道灌とも縁のある神社です。数々のご利益も魅力的ですが、武人ゆかりの地として訪ねてみてはいかがでしょうか。

■訪問:赤羽八幡神社
[東京都北区赤羽台]4丁目


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タグ:太田道灌

2018年09月29日

荒城の月 若松城跡にて

若松城跡にて撮影しました。

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土井晩翠が作詞した「荒城の月」はとても有名ですね。この歌の舞台となった城はどこなのか?実は論争になっています。今回訪問した若松城もその候補地の一つ。しかも、一般的にはかなり有力な候補となっています。

[候補地]
青葉城 宮城県仙台市
若松城 福島県会津若松市
九戸城 岩手県二戸市
岡 城 大分県竹田市
富山城 富山県富山市

それぞれ歌碑が設置されています。


ここからは個人ブログなのでお許し頂きたいのですが、私は「荒城の月」と聞けば「九戸城」を思い浮かべます。ただ、そうでなくてはいけないとも思っていません。

どこかより、どう心に響くか

一般人はそれで良いのではないでしょうか?その方が、晩翠が思いを込めて作った詩の可能性が広がります。

荒城の月
作詞:土井晩翠
作曲:滝廉太郎
.
春 高楼の花の宴
巡る盃 影さして
千代の松が枝 分け出でし
昔の光 今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐

天上影は 変わらねど
栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

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栄枯は移る世の姿・・・


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東北屈指の名城 会津の若松城

つわものどもが夢の跡
東北屈指の名城を訪ねました。

<若松城>わかまつじょう
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近代城郭のなごり

<天守閣>
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再建された天守。深い歴史を刻んだ会津若松市のシンボルです

■黒川から若松へ■
歴史が長すぎて、どの時代を意識して城探索をして良いのかわかりません。私は戦国武将好きなので、意識としては主に黒川城時代ということになります。つまり会津の覇者・蘆名氏歴代の城。この印象が一番強いですね。第7代当主の直盛が東黒川館を築いたのが始まりと考えられています。
その蘆名氏を滅ぼした伊達政宗、そして秀吉の命を受けてこの地へやってきた蒲生氏郷の城。氏郷の時に城や城下町の整備が更にすすみ、地名が黒川から若松と改められました
あとはやはり上杉ファンですので、徳川家康も警戒した会津120万石・上杉景勝の城ですかね。登場するのは大物ばかり。凄い城です。

ここまででもう充分歴史の重みがありますが、若松城は江戸時代を通じて存在。1643年(寛永20年)には幕府の中枢として活躍するあの保科正之が23万石で入封し、以降は正之の子孫である会津松平家の居城となります。幕府にとっての重要拠点であり続けたわけですね。保科正之は徳川秀忠の子(ストレートに言うと隠し子)ですが、自身を育てた保科家の名を変えることはありませんでした。保科から松平への改名は、正之の亡くなったあとの話になります。

<歴代城主>
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これを見るのが一番早いですね


■戊辰戦争■1868年
歴史の長い若松城。江戸末期には戊辰戦争に巻き込まれます。会津は戦いの舞台となり(会津戦争)、城は新政府軍から激しい攻撃を受けました。惨劇ですから軽々しく言いたくありませんが、この戦いにより、若松城は後世に語り継がれ、全国的に知られる城となりました。

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1868年10月、新政府軍の猛攻が開始されますが、若松城はひと月もち堪えました。そう簡単に落とせる城ではないということですね。しかし孤立した城内は食糧も絶たれ、負傷者や死者も多数。衛生面も含めて悲惨な状況でした。
壮絶な現実は城の外も同様です。白虎隊の悲劇は有名ですね。更には戦闘と関係ない人々、子供までも犠牲になりました。資料などを読むと、眉間にしわがよります。会津の地は、とてもこのような拙ブログでは表現できない惨劇の場と化しました。

粘っても、もはや勝ち目はありません。新政府軍からの勧告もあり、会津はついに降伏。1868年11月6日、若松城には白旗が掲げられました。

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現地で撮影。明治5年頃の写真です


■現地訪問■
北出丸から城内に入りました。

<名称>
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今回の訪問まで、私はずっと会津若松城と呼んでいました。公式名は若松城。会津の皆さんは鶴ヶ城と呼ぶようです。

<内堀>
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<大手門跡>
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いわゆる枡形の構造ですね

<枡形の内側>
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<説明板>
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石垣は加藤時代とあります。大手門が城の北側に移される時、もともとの馬出を出丸として整備したようです。この北出丸、仮に敵兵に占拠されても周囲から攻撃できるような構造になっています。別名は「みなごろし丸」というそうです。すごい呼び名ですね

<内側から見た石垣>
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<城内各所の石垣>
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石垣は近代城郭の魅力の一つ


<土塁>
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城内の石垣があまりに立派なので、逆にこういう方に目がいきます。

<土塁の上>
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外側は石垣

<横矢掛り>
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死角を少なくするための工夫。敵を正面と横から攻撃できます

<天守閣>
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幕末の姿に復元した5層の天守閣

<天守台>
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この石垣は蒲生氏郷が築いたとされています。城内の他の石垣と比較して、自然な感じの石だと思いませんか?石をあまり加工せず、組み合わせを考えて積み上げる野面積みです。1611年の会津地震で天守が倒壊した時も、この石垣は崩れなかったそうです。ちょっと見どころですね。

<御三階跡>
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戦火を逃れた建物は、市内の阿弥陀寺に移築されているそうです。

<武者走り>
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言うまでも無く、兵が登り降りするためです。太鼓櫓門への移動用です。


<本丸から二の丸方面へ>
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二の丸へ渡る手前。美しさに足が止まりました。勿論、過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・

<高石垣と堀>
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<高石垣と廊下橋>
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<廊下橋と堀>
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橋を落とせば敵の侵入を防げますね。

<茶壺櫓跡から見た堀>
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茶器類が納められていた櫓

<月見櫓跡>
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櫓で月見?

<押し寄せる自然>
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<二の丸跡>
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<三の丸跡>
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<八重の銅像>
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新島八重の像。設置場所は三の丸跡になります。


■つわものども夢の跡■
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ながいながい歴史の若松城ですが、現在の姿から連想されるのは、やはり戊辰戦争ではないでしょうか。そんなに昔の話ではありませんよね。そして資料もある程度信憑性があります。歴史ロマンという言葉が似合わない、重みのある訪問となりました。

もっと自分の国の近代史を知らなくてはならない。そう感じました。

------■若松城■------
別 名:鶴ヶ城・会津城
旧名称:黒川城
築城主:蘆名直盛
築城年:1384年
改修者:蒲生氏郷・加藤明成
城 主:蘆名氏歴代・伊達政宗
    蒲生氏・上杉景勝
    加藤氏・保科氏松平氏
廃城年:1874年(明治7年)

[福島県会津若松市追手町]


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2018年09月27日

伊達家上屋敷跡 政宗終焉の地

日比谷公園の皇居よりの隅に、こんな説明板があります。

<説明板>
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伊達政宗終焉の地と書かれていますね。むかしは無かったはず。ちょっと目をひくタイトルですね。

<屋敷跡>
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要するに、この付近は仙台藩の伊達家上屋敷跡ということですね。

伊達政宗は米沢で生まれ、会津で覇権を争い、仙台に王国を築きました(仙台藩初代藩主)。その最期は、仙台ではなく江戸屋敷だった。そういうことです。
この地は1601年から1661年まで、伊達家の上屋敷(外桜田上屋敷)として使用されていました。

政宗が亡くなったのは1636年(享年70)。体調を崩した政宗を心配して、時の将軍である徳川家光が自らこの地にあった屋敷へ見舞いに訪れたそうです。政宗はかなり弱っていたようですが、身なりを整えて将軍を迎えました。その数日後、政宗はこの世を去っています。最後の最後まで「伊達」を貫いたのですね。その政宗が亡くなると、家光は江戸で7日、京都で3日の間服喪するよう異例の指示を出しています。徳川幕府の支配下にある諸大名の中でも、伊達政宗は特別な存在だったことがわかります。

政宗の亡骸は、大名行列により国元へ送られました。墓所は仙台にあります。


<日比谷見附跡>
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冒頭の説明板は、日比谷見附跡を通り過ぎてすぐの場所です。
この日比谷御門、かつては高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣で囲まれていましたが、現在は石垣のみが残っています。江戸初期の工事(1629年)において、桝形を請け負ったのは仙台藩でした。そう、伊達政宗の仕事ということです。

<日比谷見附から見た内濠>
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手前の石垣が日比谷見附跡の上部です。そして道路の向こう側に見えている濠が江戸城の内濠。実際に現地で眺めると、距離を実感できます。

<石垣の上>
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いい眺め。最高のベンチです。

<心字池>
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公園造成時に造られた池。ここはかつて水濠だった場所です。

<池と石垣>
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城郭だった頃の雰囲気が伝わってくるようです。

ということで
『伊達政宗終焉の地』そのものに遺構のようなものはありませんが、近くの日比谷見附跡も、いわば伊達政宗ゆかりの地。そして城のなごりが漂う場所です。当ブログがきっかけで、足を止める人がいたら嬉しいです。

同じ景色も、ちょっと思い入れがあるだけで違って映ります。


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旧古河庭園 伊達朝宗を祖とする伊達氏の流れ

とても有名な庭園を訪問しました。

<旧古河庭園>きゅうふるかわていえん
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大正時代に古河虎之助男爵の邸宅として整備されました。

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洋館と庭園、見事です。バラの名所としても有名です。

<車寄せ>
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これ博物館とかではなく、人が暮らしてたわけですよね。重厚です。やっぱり本物は凄いなぁ

<園内>
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洋館付近の高台から、広々とした庭園を見下ろせるようになっています。遮るものがないので、東京も平ではないことを実感します。洋館のまわりは洋式庭園、下の方は日本庭園となっています。

<日本庭園>
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見どころはたくさんありますが、当ブログではこの程度にします。

ここでちょっと順番が逆になりますが庭園の外側を

<土塀>
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<入口>
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こちらが入口。大人150円で入園できます。祝100年!邸宅となったのは1919年(大正8年)です。

<案内図>
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入園してすぐに案内図があります。

ところで、現地での説明文によれば『この庭園の敷地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の別宅でした。その後古賀家が譲り受け・・・』とのこと。

宗光の次男・潤吉が古河家の養子(古河財閥の2代目)となった。古河家に所有が移ったのはそういう経緯ということですね。そして3代目当主の虎之助が周辺の土地を購入して、整備を開始した。なるほど。

で、この陸奥宗光という方ですが、紀州藩士伊達宗広の子として生まれました。伊達?そう、あの伊達氏です。伊達政宗の末子の後裔とも伝えられていますが、陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫というのが事実のようです。

ではあの伊達氏(仙台伊達氏)とは関係ないのか?

あります。

常陸国の伊佐氏を祖とする伊達一族は、但馬や駿河にも広がりました。駿河伊達氏は初代朝宗の二男・為家を祖とする家系。陸奥宗光は駿河伊達氏から分かれた紀州伊達氏の出です。つまり、異なる流れであっても元は同じ

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ちょっと仙台伊達氏とは関係が遠くないか?

はい。同じ「伊達」の流れでも、初代の朝宗まで遡らないといけないので、ちょっと遠いのかもしれませんね。

ただ、まったく関係ないわけではないのです!

そんな含みをもって見つめると、同じ景色も更に奥深くなりませんかね。まぁこんなブログをやっている戦国武将ファンならではの強引な結びつけかもしれません。ただ個人的にそう感じたので、ちょっとご紹介させて頂きました。

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■訪問:旧古河庭園
開園:9:00〜17:00
(入園は16:30まで)
[東京都北区西ヶ原一丁目]


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2018年09月18日

蝉坂 道灌が攻め上がった坂道 (上中里) 

久しぶりに北区の上中里付近を散策しました。

<蝉坂>せみざか
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既に江戸時代にはそう呼ばれていたそうです。この蝉坂という名は、かつて太田道灌が攻め上った坂、つまり「攻め坂」から転訛したものと伝わっています。

<平塚城跡>
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この地は道灌により滅ぼされた豊島氏の居城跡と考えられています。

<平塚神社>
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城跡は現在平塚神社となっています。源義家、源義綱、源義光が祀られています。そもそも平塚という地名の由来は、源義家から授かった鎧を城の守り本尊として埋めた低い塚とのこと。

<平塚城伝承地>
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豊島氏代々の居城であったが、太田道灌に攻められ落城とあります。

道灌が攻め上がった坂。なんとなく納得ですね。

<攻め坂>
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以前ここ平塚城を散策した際、この坂は城の脇を流れる川であったのだろうと感じました。つまり天然の堀ということですね。しかし道灌がまさにここを攻め上がったとしたら、川なんてことはあり得ませんね。

蝉坂の存在を知り、長らく信じてたことが吹き飛ばされてしまいました。まぁ趣味で城跡巡りをしている素人の妄想なんて、そんなものなのかも知れません。

ということで
道灌ゆかりの蝉坂のご紹介でした。


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-----追 記-----
豊島氏の平塚城跡については、以前投稿させてもらっています。良かったら覗いてみて下さい。太田道灌vs豊島氏について、もうちょっと言及させてもらっています。
→『記事にすすむ
タグ:太田道灌

街の狭間 真夜中の暗渠

当ブログで時々登場する暗渠。このマニアたちの宴に参加したあと、街に埋もれて見向きもされない夜の路地を探索しました。

<真夜中の暗渠>
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暗渠(あんきょ)
地下に埋設された川や水路

個別に場所は説明しませんが、ご紹介する画像は新宿区と中野区です。都会のなかの都会ですね。過密に凝縮された人の暮らしの狭間で、ひっそりと流れる水の道。街というものに深く足を踏み入れれば、こんな姿もある。そんなことを共有できれば幸いです。

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多少は人も通るであろう暗渠

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特定の人しか通らないであろう暗渠

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漏れひろがる街の明かりが照らす暗渠

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ほぼ闇につつまれた暗渠


誰も見向きもしない街の狭間の暗渠は、閉塞感極まりない世界にも映ります。

ただどうなんでしょう?そんな場所にも、命の躍動があります。

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かつての水辺にカエル

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かつての護岸に苔

神秘的です。人間の都合などまったく関係ない。

ただただ命を謳歌する。

街に便利さばかりを求める私たちより、ずっと力強いのかもしれませんね。

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タグ:暗渠

2018年09月17日

面影橋と山吹の里 道灌ゆかりの地

西早稲田に用事があったので、ついでといってはなんですが、太田道灌と関連する史跡を訪ねました。

<石碑>
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山吹の里」に関する史跡です。裏は現在工事中のようです。白い壁が無機質ですが、石碑には重みがありました。

<山吹之里>
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深く刻まれた「山吹之里」は良いとして、周辺の細かい文字が気になりましたが読めず

<半跏思惟像>はんかしゆいぞう
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思索にふけるお姿ですが、詳細わからず(弥勒菩薩?)

<説明板>
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えっとそうですか。この碑に使われている石は1686年に建立された供養塔の転用だそうです。ちょっと不思議な感じがしたのはその影響でしょうか。

<神田川>
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石碑の場所は神田川沿いです。新宿区には山吹町という地名がありますが、そこよりちょっと西側になります。上の説明板によれば『新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は通称「山吹の里」といわれています』とのこと。

<面影橋>
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面影橋の近く。川の北側です。都電荒川線・面影橋駅もすぐ近く。雨のせいか人影もまばらでした。

<面影橋の説明板>
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鎌倉街道沿いにあり、姿見橋ともいわれていました。歌人の在原業平が鏡のような水面に姿を映したためなど、その名の由来には諸説あるようです。いずれにせよ、この地にはむかしから橋があったのですね。


■山吹伝説■
ちょっとラフですが簡単に言えば

『鷹狩に出た道灌がにわか雨にあい、蓑を借りるべく農家を訪ねた。しかし出迎えた娘は和歌とともに山吹の一枝を差し出すだけで蓑は貸してはくれなかった。若い道灌はこれに腹を立てたが、あとになって和歌に込められた意味を知り、己の無知を恥じた。そしてその日を境に和歌を学んだ。』

といった感じですかね。和歌は
七重八重 花は咲けども山吹の 
実の一つだに なきぞ悲しき


(ヒント) 実の⇒蓑

山吹の花は七重八重に咲くのに
実が一つも結ばないのは不思議です


実はこの伝説に関する史跡はあちらこちらに存在しています。都内だと荒川区、横浜市の金沢区、そして埼玉県越生町など。当然ながら、どの場所も「ここが山吹の里ですよ!」と主張しています。

本当はどこ?

議論は尽きません。ただまぁ、自分がそうだと思う場所で良いのではないでしょうか。私個人は、道灌の出身地と思われる埼玉県越生町が一番相応しいと思っています。

ちょっといい加減?

そうともとれますね。ただ、そもそもこの伝説自体の真偽も曖昧で、生まれた場所にも諸説あるのです。大切なことは、太田道灌がそのような人物として語り継がれているということ。そこには「こんなステキな人がいて欲しい」という我々日本人に共通の美意識のようなものが込められているのではないでしょうか。

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この日はあいにくの雨。でもこの場所を訪れるには相応しい天気なのかも知れません。蓑はありませんが、しっかり傘をさして訪問しました。

[豊島区高田]1-18-1


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-----追記-----

<山吹の里公園>
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[埼玉県入間郡越生町西和田]‎

ヤナブキの花の時季をねらって、同じく山吹伝説の地である埼玉県越生町を訪問した時の記事です。宜しかったら覗いてみて下さい。
記事へ→『若き日の道灌の逸話
タグ:太田道灌

2018年09月16日

和田堀 館跡の伝承がある杉並区の公園

つわものどもが夢の跡
中世武士の館があったと考えられている公園を訪ねました。東京の杉並区です。

<和田堀公園>
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自然豊かな公園です。地元のみなさんの憩いの場ですね。

杉並区というと、深い歴史が刻まれエリアでありながら、いわゆる「城跡」とか「館跡」には縁がなさそうなイメージですね。今回も「遺構の類はない」と知りつつ、「和田堀の内」というキーワードと語り継がれるお話を頼りに、念のため足を運んでみました。

<和田堀>
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この地には、鎌倉幕府の御家人だった和田義盛の館があったと伝わります。場所は善福寺川沿い。この川は台地との兼ね合いからあちらことらで蛇行しているので、どこに砦が築かれていても不思議ではありません。ここから北西に向かって1.5qくらい遡ったところ(杉並区成田西)の高台も、かつての城跡と考えられています(成宗城)。

<善福寺川>
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荒川水系神田川支流の一級河川。今でこそコンクリで固められていますが、杉並区内の善福寺池に源を発する自然の川です。

この川沿いの高台が館の推定地。地形的な説得力は充分です。問題は、確たる証拠が見つからないことです。和田氏の館に関する石碑とか、説明板もありません。伝承されているものの、しかるべき方々のお墨付きはないということですかね。

<散策中>
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土塁のようにも映りますが、ちょっと違うようです。

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起伏はあるものの、遺構とは無縁のものばかり。


<大宮八幡宮>
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和田堀公園に隣接する大宮八幡宮です。充分すぎるほど高台になっており、館を築くには最適の場所です。ここにもともとは館があった?などと期待してしまいましたが・・・

<大宮遺跡の石碑>
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発掘調査がなされ、ここ一帯が遺跡だということが分っています。。

<周溝墓>しゅうこうぼ
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都内で初めて「方形周溝墓」が発掘されたとのこと。読んで字の如く、埋葬する敷地の周囲に溝をめぐらした墓ということですね。

<三基>
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この図、城好きの人には本丸・二の丸・三の丸の連郭式縄張りのように映りますよね。でもそんな説明は一切ありません。方形の周溝墓が三基あった。そういうことです。

それにしても弥生時代末期ですか。そうとう古くから人の営みがあった場所ということですね。緑豊かな川沿いの高台。専門家ではありませんが、なんとなく納得です。

<鳥居>
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神社の歴史も古く、建立したのは源頼義。八幡太郎・義家の父といった方が伝わりやすいでしょうか。

<門>
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京都の岩清水八幡宮から分祀され創建されました。それが1063年ということなので、既に950年以上もたつわけですね。

<拝殿>
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立派です。武蔵国の三大宮の一つ。他は大宮区の氷川神社と秩父神社です。

城跡や館跡が神社になっている例はたくさんありますね。しかし、どうもここは違うようです。ということで、館跡に関する発見は何らございません。ただ、和田堀公園一帯の地形には納得。そして23区内とは思えない豊かな自然と、深い歴史の八幡宮を感じられただけで満足です。

<大宮八幡宮の竹林>
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風に揺らぐ竹を見上げる。

まだ暑さが残る9月上旬の訪問でしたが、風と木陰のおかげで気持ちの良い散策となりました。

訪 問:
和田堀公園大宮八幡宮
[東京都杉並区大宮]


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2018年09月11日

伊達氏のなごり 梁川城

つわものどもが夢の跡
政宗以前の伊達氏のなごりを求めて、福島県伊達市を訪問しました。

<梁川城跡>
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■梁川城■やながわじょう
伊達氏の先祖は関東武士伊佐氏。源頼朝の奥州征伐で功を立てて伊達郡を拝領し、地名の伊達を名乗るようになりました。今回訪問の梁川城ですが、正確な築城年はわかっていません。ただ掘調査の結果、伊達氏第3代または第4代当主の頃、既に拠点として使用されていたと推定されています。3代当主は伊達義広(1185年〜1256年)、4代当主は政依(まさより:1227年〜1301年)です。
ちなみに、初代の朝宗と第2代の宗村までは、伊達郡桑折郷の高子岡に築かれた城を本拠としていたようです。ですから、東北進出した伊達氏の最初の拠点はこの「高子岡城」であって、梁川城ではありません。ちょっと残念。ただ歴代当主の居城だった期間は、こちらの方がずっとずっと長いのです(約3百年)。この点において満足しますかね。また、伊達氏の伊達郡入りとともに朝宗によって築城されたという説もあるのです。


<とある坂道>
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天然の堀として機能していた広瀬川を渡ってすぐ。目的地まであと少しです。この坂を登り切れば右手に高校、左手に目印と定めた浅間神社が見えてくるはずです。8月下旬の訪問。まだ夏まっさかりです。汗だくで歩き続けました。

<坂の途中>
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梁川城は分類だと山城(平山城)です。微高地と言った方がピンときますかね。厳密に言うと、もう城跡の中にいます。この斜面の上が本丸跡、下側が三の丸跡です。ちなみに、二の丸は先ほどの坂を登り切ったところにある梁川高校です。

<説明板>
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坂の途中で想定外の説明を目にしました。ここが大手門?ちょっと本丸から近すぎですね。川と逆側の北側が大手と思っていましたが・・・

これは松前藩の時代の話のようです。私は伊達氏の拠点として訪問していますが、梁川城は江戸時代も城として機能し、更に廃城後も一部が陣屋として使用されました。この位置が大手門跡というのは、そのなごりということですね。

<矢印>
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分かり易い。あっちに行けば良いのですね。わかっていても安心する瞬間です。

ここが本丸跡か・・・

キョロキョロしながら歩いていたら、体操着姿の小学生男子から「こんにちは!」と挨拶されてしまいました。勿論これに応じましたが、大人のくせに一本とられた感じです。

この本丸跡の区画、実はずっと小学校の敷地として利用されていました。震災が原因で別の場所に移転したそうです。


<浅間神社>
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到着しました。ここに限らず、この周辺が城の中心地です。

<境内>
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落ち着いた雰囲気

<土塁>
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城のなごり

<池>
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雑草に邪魔されてどこから降りて良いのか迷いましたが、立ち入り禁止でもなさそうなのでとりあえず降りてみました。

<中世庭園>
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普通の庭園と受け止めましたが、中世の庭園を再現した珍しい造りだそうです。

<心字池>
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近代城郭となる以前、つまり伊達氏の時代には既に造られていたと考えられています。


■伊達氏の拠点■
伊達氏の本城はのちに桑折西山城へ移されます。さらにあとには米沢城へ。しかしここ梁川城は、領内の重要拠点という位置付けから、引き続き伊達の血縁者や有力な家臣が城主を務めました。大切な支城でありつづけたわけですね。この構図は、豊臣秀吉の奥州仕置まで続きます。

■伊達氏の去った梁川■
伊達氏が去った梁川の地は、蒲生氏や上杉氏支配を経たのち、徳川家の息のかかった領地となります。松平義昌の梁川藩3万石を立藩に始まり、その後には幕府の直轄地などを経て、松前藩領となったところで明治維新を迎えました。
梁川城ですが、米沢藩の上杉氏が伊達郡を没収されるタイミングで廃城となったようです。ただし、その後も城の一部は陣屋として使われました。

<お寺>
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本丸跡から北側へ向かいます。画像はその途中で撮影した安養寺。このお寺より更に北側の遺構を目指しました。

<水堀>
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ありました。水堀です。

<土塁>
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そして土塁です。説明板だと、伊達氏と関係があるようですが・・・?

<長い土塁>
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土塁が約2百メートル続きます。これはきっと近世城郭として整備された頃のものでしょうかね。蒲生氏、あるいは上杉氏による改修のなごりかもしれません(はっきりとわからず)。

ここ北側もそうですが、梁川城は東側も西側も城外に劇的な要害性があるわけではありません。よって、人の手により念入りに堀や土塁が設けられました。南側ですが、低地に広瀬川が流れ、これはこれで城の「地の利」であったと思われます。東西南北、これで一通り守りが固められていたわけですね。

ただ、戦国の世が長引き、武器や戦い方まで変わると、城の防衛能力の評価も変わらざるを得ません。伊達氏は長年拠点としてきた梁川城を放棄し、地形の険しい山城(桑折西山城)に本拠を移しました。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸跡の土塁>
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かつての城そのものを想像するのは困難ですが、その名残りが漂う場所でした。私には遺構がいつの時代のものか正確には判りませんが、立派に残っています。

ここは武士の拠点として営みがあった場所。関東から旅立った伊達一族が、基盤を築いて奥州における政治的な地位を高めていった場所なのです。そう思うだけで満足。来た甲斐がありました。

-------■梁川城■-------
別 名:鶴ヶ城
築城年:詳細不明(鎌倉初期)
築城者:伊達氏(伊達義広?)
城  主:伊達氏歴代当主
     蒲生氏・上杉氏
改修者:須田長義(上杉家臣)
廃城年:1664年
    (松前藩時代除く)
[福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡]


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