2019年03月21日

大宮城のなごり (栃木市)

つわものどもが夢の跡
北関東の名族・小山氏が築城と伝わる大宮城跡を訪ねました。

<大宮城の遺構>
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土塁と堀の跡です

■現地訪問■
大宮城のなごりは、大宮神社を訪ねることで感じることができます。県道に面した鳥居に気付けば、あとは北へ向かってまっすぐ進むだけ。参道を歩いて行くと、まず右手に不思議な土の塊が現れます。

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周辺は平らなのにここだけ。櫓台の跡でしょうか?

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更に進むと神社らしい光景。そして右手は明らかに人の侵入を拒む土塁。てくてく歩いてきましたが、やや速足になりました。

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土塁の手前の道、そして水路。昔は堀だったのでしょう。土塁と堀。ここから先が城内ということでしょうか?

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こちらが大宮神社です

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説明板によれば『大宮神社の創立は不明であるが、代々小山氏から社領五石を寄進されていた』とのこと。小山氏との関係が伺えますね。更に社殿の向きの説明として『小山氏が社の南に支城を築いたので』とも記載されています。城があったことは間違いないですね。南側?つまり歩いてきた参道が、既にかつての城跡ということですね。ということは、途中で土塁を見かける以前から、既に城跡に足を踏み入れていたのかもしれません。そういえば・・・

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ちょっと順番が逆になりますが、来る途中に見かけた水路です。その奥には南北にのびる水路。あれも堀跡だったのかもしれません。位置的には納得できます。

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再び境内です。神社の脇に堀の跡。むかしはもっと深かったのでしょう。来て良かったと思った瞬間です。

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境内の別の場所。やや地面が窪んでます。堀のなごりでしょうか?こちらは想像であって、確証はありません。

■小山氏による築城■ 下野の名族
当地に城を築いたとされる小山氏は、現在の栃木県小山市を拠点とした北関東の名族です。同市に遺構を残す「祇園城」を本城としていましたので、説明板にもある通り、大宮城はその支城として築かれたようです。ここは現在の栃木市。栃木市と聞いて思い浮かぶのは、小山氏の同族にして、強い同盟関係で結ばれていた皆川氏の存在です。現在の栃木市を基盤としていました。築城者は小山氏として、身内である皆川氏もこの地の城と何らかの関連があったのかもしれませんね(推定です)。

■下野大宮藩■ 2万石
時を経た1684年、当地には下野大宮藩2万石の藩主となった堀田正虎により陣屋が設けられました。私は小山氏の城跡として訪問しましたが、遺構の一部はその頃のものかもしれませんね(推定です)。
この堀田正虎、大老の次男という名門の出です。父である正俊は暗殺されてしまいますが、この時には兄が家督を継ぎ、正虎には2万石が分け与えられました。

福島藩10万石の藩主となっていた兄が没すると、正虎が養子となってその家督を相続することになり、大宮藩は廃藩となります。これが1694年の出来事。当地の陣屋も、その時に役割を終えたと考えられます。

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神社の雰囲気も良く、城の遺構とも出会えました。

栃木市の大宮城跡
満足な訪問となりました。

-------■ 大宮城 ■-------
別 名:大宮陣屋
築城年:詳細不明
築城者:小山氏
改修者:堀田氏
城 主:小山氏・堀田氏
廃 城:1694年頃
現 況:大宮神社
[栃木県栃木市大宮町]


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2019年03月20日

ひっそりと佇む将軍ゆかりの門 御成門

<御成門>おなりもん
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都営三田線に「御成門」という駅があります。駅名で○○門と聞くと、桜田門・虎ノ門・半蔵門といった「江戸城の城門」を想像しますよね(私だけ)?今回訪問の御成門は城の門ではなく、寺の門。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の門です。

<柵の中>
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やや置物のような佇まい。ひっそりと映るのは、門としては機能していないからでしょうか?様式としては、城門などでも良く見かける高麗門です。

<アップ>
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全体としては趣がありますが、細部においてはちょっと疲れた感が漂います。

増上寺の門とご紹介しましたが、現在の増上寺からはちょっと離れた場所にあります。具体的には東京プリンスホテルの駐車場の北側。最初からここにあったわけではなく、もともとは現在の御成門交差点(駅付近)にありました。道路(日比谷通り)整備の都合で、明治25年に移設されました。

<御成門駅出口>
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<付近の地図>
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御成門交差点は右下。この付近まで増上寺だったということですね。そして、そこに御成門があった。なるほど。

この御成門、もともとは増上寺の「裏門」だったそうです。将軍家が参詣する際によく使用したことから、やがて御成門と呼ばれるようになりました。

<将軍が出入りした門>
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ということで
御成門は増上寺の門、そして将軍家ゆかりの門というお話でした。同じ景色も、知れば違った景色に映りますね。

■訪問:御成門
[港区芝公園]



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2019年03月10日

風さそふ 浅野内匠頭終焉の地

つわものどもが夢の跡
浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太の屋敷跡を訪ねました。

<浅野内匠頭終焉之地碑>
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■場所は新橋■
江戸城松之大廊下での事件のあと、拘束された浅野内匠頭の身柄は一関藩田村家の上屋敷へ移されました。屋敷は芝愛宕下、現在の住所だと港区新橋4丁目付近となります。

<説明板>
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藩主は田村建顕(たつあき)。官位として従五位下・右京大夫を任ぜられ、田村右京太の名で通っています。

■慌ただしい一日■
江戸城内での事件は午前。その後すぐ(午後2時頃には)、田村家へのお預けが決まります。田村右京太は急ぎ屋敷に戻り、藩士75名を身柄受け取りのために江戸城へ向かわせました。

夕方には浅野内匠頭が当地へ移送されています。その後間もなく、大目付の庄田安利らが田村家の屋敷に到着し、切腹と浅野家の改易を言い渡しました。

田村家では「しばらく預かる」つもりでいたようです。それが即刻切腹。間もなく、屋敷の庭で切腹が執行されました。

突然の事件、慌ただしいお役目、そして想定外の措置。田村家も大混乱だったことでしょう。

■田村家屋敷跡■
冒頭の石碑は日比谷通り沿いにあります。厳密に言うと、屋敷はもうちょっと奥(つまり現在の日比谷通りに面してはいない区画)のようです。石碑は目立つように、あえて人通りの多い場所に設置したのでしょう。まぁだいたい合ってます。

ところで
この付近で営業している和菓子屋さんがいま人気となっています。
<新正堂>
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こちら。新正堂さんです。

<看板>
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この看板の通り、このお店の名物は「切腹最中」です。お詫びの品としても人気があります。石碑から数百メートルのところ。田村家屋敷があった区画のようです。


■浅野内匠頭終焉の地■
さて
松之大廊下での刃傷から僅か半日で、浅野内匠頭には身分剥奪と所領の没収、切腹が言い渡されました。そして預けられた田村家屋敷でそのまま切腹。心の準備もなく、無念であったこと計り知れません。

<浅野内匠頭>
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官名から内匠頭(たくみのかみ)と呼ばれる浅野長矩(ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。この時35歳でした。

沙汰が言い渡された長矩は、幕府の役人に付き添われ、屋敷の庭へと移されました。切腹場は、朝廷から官位を任ぜられた五万石の藩主には似つかわしくない、とても簡素なものでした。お家断絶と切腹を言い渡した大目付ら立会いのもと、長矩は幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で果てました。これが1701年4月21日の出来事です。

■浅野内匠頭 辞世の句■
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん

<つわものどもが夢の跡>
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私の訪問は3月上旬。終焉之地の石碑の隣で、今年もまた春の花が咲き誇っていました。

■訪問
浅野内匠頭終焉之地碑
[港区新橋]4丁目


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2019年03月09日

高坂館跡 北条氏の土塁・加賀爪氏歴代の墓

つわものどもが夢の跡
関東の城好きの間ではよく知られている「高坂館跡」を訪ねました。場所は埼玉県東松山市です。

■始まりは高坂氏■
<高坂館跡>
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東武東上線の高坂駅を出て平坦な住宅地を北東へ向かうと、突然土塁が現れます。徒歩10分くらいですかね。江戸氏の流れをくむ豪族・高坂氏が、この地に館を構えたことに始まるとされています。

<高済寺>
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現在は曹洞宗寺院の高済寺となっています。創建は江戸時代です。

<城山稲荷と土塁>
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城山稲荷という名が、ここがどんな場所だったのかを物語っていますね。背後には土塁。もともと土塁の上にあったようですが、諸事情で土塁が削られた際に移設されたそうです。

高坂氏は、のちに河越氏当主の河越直重を中心とする一揆に加勢しますが、足利氏満に敗れ、領地替えにより当地を去ることになったようです。


■北条氏の足跡■
やがて戦国時代となり、北条氏松山城を攻める際に高坂に陣を置いたとされています。現在確認できる土塁や堀は、この時(1562年)に築かれたものと考えられています。

<北条氏の土塁跡>
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ということは、この土塁跡は、やがて関東覇者となる北条氏の足跡ということですね!

<土塁跡と堀跡>
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手前は堀跡。現役の時は、もっと深かったことでしょう。

実は、高坂氏の館は当地に隣接する別の場所(高坂弐番町遺跡)ではないかとする説もあります。これについて詳細は触れませんが、残された遺構が松山城を攻める北条氏により築かれたことは史実。それだけでも、見る価値が充分にあります。

<土塁の上>
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土塁の上から撮影。右手が堀跡です。

<堀跡>
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部分的に埋められてしまっています。このあたりが城好きの間で話題になっている点ですかね。つまり、この遺構は失われてしまうのではないかと。私の訪問は2019年の1月下旬です。貴重な歴史の痕跡、このまま変わらないと良いのですが・・・


■名族・加賀爪家■ かがつめ
<土塁の奥>
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土塁が一段と高くなっていますが、その付近に何かあるようです。行ってみますかね。

<加賀爪氏累代の墓>
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この先、土塁の北端には加賀爪家歴代の墓がありました。お墓の撮影は避けたいので、それと分かるものをいくつか貼っておきます。ちなみに、この土塁そのものが、もともとあった古墳を利用したものと考えられています。土塁で高い場所と聞けば、城好きならまず物見台を想像しますよね。この土塁の場合、古墳のなごりと考えられているようです。

<説明板>
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加賀爪家に関する説明です。

<土塁下>
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こちらは土塁の下になりますが、「加賀爪氏累代之墓」と刻まれています。

加賀爪家は上杉諸派のひとつ八条上杉家の流れをくむ名族加賀爪上杉家とも呼ばれています。

徳川家康が関東に入ると、ここ高坂に3千石を与えられた加賀爪政尚(6代当主)が高坂館の主となります。加賀爪政尚は若いころから家康に仕えてきた人物。小牧・長久手の戦いや、関ヶ原においても武功を挙げました。しかし1596年の慶長伏見地震の際に、伏見城の城門の下敷きとなり亡くなりました。

加賀爪家を継いだ忠澄は旗本となり、江戸町奉行や目付にも任じられていますが、江戸の火災で陣頭指揮をとっている最中に殉職。二代続けて災害により亡くなったわけですね。

忠澄の跡を継いだ8代当主・直澄は、武蔵国高坂藩初代藩主、そして1万1500石の大名になっています。関東で1万石以上、立派ですね。ただ1681年、直清の時に領地問題(隣地とのトラブル)があり、加賀爪家は家禄を断絶されてしまいます。高坂の地を治めた名族、ちょっと残念な幕引きですね。流罪となった直清は、土佐国の山内氏に預けられました。


■館跡の周辺■
<土塁の先>
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加賀爪家歴代の墓より更に奥は、急斜面になっています。ではそちら側(北側)を探索してみますかね。

<高低差>
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館跡の北側から撮影。土塁に加えて、もともとの高低差を実感できます。更に下へ行けるようなので、足を運んでみました。

<橋の供養塔>
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橋があった。つまりは水が流れていた。この付近で最も低い場所と思って良いですよね。

<館の築かれた丘>
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その低い位置から見た館跡がある丘です。左手の石碑が先ほどの供養塔です。

周辺はだいたいこんな感じですかね


■つわものどもが夢の跡■
<土塁と高済寺>
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豪族・高坂氏から始まる古い歴史。小田原北条氏が築いた土塁。そして名族・加賀爪氏のなごり。地形にも納得し、満足な訪問となりました。願わくば、貴重な遺構がこのまま残って欲しいですね。

-------■高坂館 ■-------
別 名:高坂城 高坂陣屋
築城年:14世紀
築城者:高坂氏
改修者:北条氏
城 主:高坂氏・加賀爪氏
廃 城:詳細不明
[東松山市高坂]834


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2019年03月03日

松山陣屋跡 ちょっとした平城のなごり(東松山市)

埼玉県東松山市にある『前橋藩』の陣屋跡を訪ねました。

<石碑>
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東松山市役所の敷地内です。市指定史跡です。

なんで群馬の藩の陣屋が埼玉に?

時は幕末。武蔵川越藩の第7代藩主・松平直克は、居城を川越城からした前橋城に移し、前橋藩主となりました。これにより、当地を含む現在の埼玉県内の領地(比企郡・高麗郡・入間郡・埼玉郡周辺で約6万石)が飛び地となり、藩の出先機関として陣屋が必要になりました。

なんで前橋城へ移ったのか?

もともと松平氏は前橋城を居城としていました。しかし酒井氏の跡を継いで松平朝矩(とものり)が前橋に入ったころには、城は暴れ川の利根川の影響で崩壊寸前。これに対策を講じるだけの余裕がなく、松平氏は城の修繕を断念して川越に居城を移したのでした(1767年)。前橋は川越藩の分領となり、前橋城は一旦廃城となっています(1769年)。

それから約百年もあとの話になりますが、前橋城は再び城郭として整備されることに。1867年には直克が入城し、前橋藩の再興が実現しました。

<松山陣屋>
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これにより、この地に統治のための出先機関が必要となったわけですね。逆に川越藩時代は、前橋には前橋陣屋が設けられていたそうです。

<説明板>
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現在遺構はありませんが、かつては陣屋の周りに土塁、そして堀が設けられていました。広さも陣屋としては大規模(約87,000m2)。説明板の左側に配置図がありますが、かなり立派です。前橋城の支城のような存在だったそうです。

ただ、築かれたのが幕末。わずか5年で廃藩置県となり、役割を終えたようです。

<陣屋跡>
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陣屋跡で間違いないのですが、ちょっとした平城の跡地とも言えますね

■訪問松山陣屋跡
[東松山市松葉町]

-----補 足-----
利根川に悩まされた前橋城と前橋藩について、別途投稿しています。拙文ですが、よかったら覗いてみて下さい。
『群馬県庁の土塁 前橋城のなごり』
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城用語 曲輪・郭(くるわ)

お城関係の話でよく耳にする「くるわ」という言葉。漢字だと曲輪、またはと書きます。堀や土塁と並んで最も基本的な城用語の一つですが、今回あえて説明させて頂きます。

■曲輪■ くるわ
まず簡単に言ってしまうと「平らに造成された区画」と思って下さい。
<曲輪>
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[膳城跡]ぜんじょう
こちらは膳城の曲輪。なにこれ?と感じられると思いますので、こくの平らな区画の隅の方を見てみましょう。

<曲輪の隅>
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右手が曲輪の上。曲輪の外側は堀になっています。平らに造成した場所は、建物を設置したり兵が詰めたりする区画。いわば自分の家の中。ここへの侵入を防ぐために堀が設けられているわけですね。

<堀>
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曲輪への侵入を拒む堀

<曲輪の入口>
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曲輪を外側から撮影。周辺より高くなっていますね。もともとの地形を巧みに利用し、ここぞという場所を平らに造成し、曲輪とします。ちなみに、曲輪への入り口のことを、城用語では虎口(こぐち)といいます。

<堀の底の案内板>
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先程の曲輪は、実はここ膳城にとっては一番大切な曲輪。よく知られる言葉で表現すると本丸ということになります。主郭(しゅかく)ともいいますね。この一番大事な曲輪の周りには、これを補う曲輪がたくさん設けられるのが普通です。勿論、防衛上の理由を意識して。それらの曲輪はその重要度から、二の丸・三の丸というふうに呼ばれます。つまり「丸」は曲輪のことです。上の堀は、二の丸と本丸を隔てるための堀ということになります。


ちょっと別な城も見てみますかね

<山城>
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[茅ヶ崎城跡]ちがさきじょう
山に築かれた城。自然の山の中に、真っ平な場所なんてありえませんよね

<曲輪>
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でも平らな場所があります。人が城として造成した区画です。

<土塁で補強>
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膳城を例に曲輪の内側と外側を堀で隔てる例をご紹介しましたが、こちらは曲輪の周囲を土塁で囲んでいる画像です。堀を設ける時に出た土を、曲輪に盛るケースが多いですね。堀の深さと土塁の高さが、すなわち高低差ということになります。攻める側はこれを克服しながら戦わなくてはなりません。

■曲輪の配置■
もともとの地形や外部環境を意識して、この曲輪をどのように配置するのか。そして堀や土塁でどう補うのか。これは築城者の腕の見せ所です。軍事的な意志をもって、なるべく守る側が有利になるようにそれらの配置を決め「城の形」を決める。この設計のことを「縄張り」と呼びます。
※曲輪が軍事的な意味とは無関係の配置となるケースもありますが、今回は省略します。


ということで「くるわ」のご紹介でした。ただ平らな区画にも築城者の思惑がある。それを共有できれば幸いです。

最後に、蒲原城跡で撮影した絵図を貼っておきます。独立峰に築かれた典型的な山城です。山頂の本丸を中心に、外側へ向かって、高低差を意識した城の仕掛けが散りばめられています。平らな区画は全て、今回のテーマ『曲輪』です。

<蒲原城址鳥観図>
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拙い説明にお付き合い頂き、ありがとうございました。


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■お勧め本(入門者向き)■
当ブログ内でも『枡形』とか『野面積み』『狭間』といった城用語をときどき説明させて頂いてますが、この本ではもっとわかりやすく、そしてなにより「実感」がわくような説明がなされています。科学というとひいてしまう方?いますでしょうか。いえいえ、本当に分りやすい。私自身も愛読者のひとりです。


タグ:城用語
posted by Isuke2020 at 21:01| Comment(0) | TrackBack(0) | その他

2019年02月27日

浦和にもある戦国武将ゆかりの地 廓信寺 (浦和郷と高力清長)

岩槻や川越と比べると、戦国武将との縁が少ないめの浦和。いわゆる城下町だった訳ではなく、中山道の宿場として発展した町ですからね。今回はそんな浦和で、家康の有力家臣だった高力清長と関係のあるお寺を訪ねました。

<廓信寺>かくしんじ
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北浦和の浄土宗寺院。 由緒ある古い寺として知られています。1609年、浦和郷の代官だった中村弥右衛門吉照により創建されました。

<仁王門>
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<金剛力士像(阿形・吽形)>
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さいたま市の有形文化財です

■高力清長と浦和■こうりき きよなが
高力清長は徳川家康の三河時代からの側近です。活躍を上げたらきりがありませんが、家康最大級のピンチだった伊賀越えに随行していたと言えば、その存在の重みが伝わるのではないでしょうか。更に、かなりの「正直者」だったそうで、家康からの信頼も絶大なものがありました。

浦和と何が関係あるのか?

家康に従って戦乱の世を駆け抜けてきた清長は、小田原北条氏滅亡後、岩槻に2万石の所領を与えられます。この時、浦和郷1万石も預けられました。

預かる?

これは正式な所領とは異なり、幕府の土地(蔵入地)を預かるという意味です。預り地は、実質領地のように扱われ、年貢も管理者が役得としてもらっても問題なかったようですが、浦和郷を預かった清長はこれを良しとせず、年貢は全て江戸へ運ばせたそうです。

戦国武将・高力清長は、役人としても立派だったわけですね。

清長が浦和郷の統治のために代官に任命したのが中村弥右衛門。浦和に陣屋(針ヶ谷陣屋)を構えて、その任務にあたりました。清長を慕っていた中村弥右衛門は、清長が亡くなるとその冥福を祈るため、今回訪問の廓信寺を創建しました。これが江戸初期のお話。廓信寺の長い長い歴史はここから始まります。

<廓信寺山門>
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立派な寺院。そして浦和郷を預かった高力清長のなごりです。

ということで、浦和にもある戦国武将ゆかりの地のご紹介でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■訪問
超勝院 廓信寺
[さいたま市浦和区北浦和]3丁目



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2019年02月26日

深井城のなごり (流山市)

つわものどもが夢の跡
今回は流山市にお邪魔しました。

<不動坊・地蔵堂>
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深井城跡される不動坊です。お墓の画像は極力避けたいので、ちょっと画像に手を加えさせて頂きました。この境内に遺構らしきものはありません。周辺も草木が鬱蒼としており、細部の確認は困難です。ただ、周辺との高低差は実感します。

<入口>
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不動坊の入口。ここをゴールに訪問しました。

<六地蔵>
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六地蔵が出迎えてくれます。素通りも失礼なので、一応は手を合わせました。奥に深井城に関する説明板があります。

<説明板>
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『戦国時代、小金城主高城氏の支城のひとつであった。』とのこと。小金城は現在の松戸市に位置する城。高城(たかぎ)氏は名族・千葉氏の流れを組む一族です。長らく相反する立場にあった関宿城(野田市)の支配領域が近いことから、前線基地のような役割を担ったものと考えられます。

この付近の台地一帯が城だったようです。つまり広範囲に及んでいたということですね。ということで、周辺を見て歩くことにしました。

<不動坊の周り>
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ちょっと分りにくい

<不動坊の入口付近>
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まぁこの辺りも城跡だったのでしょう

<土塁?>
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土が盛ってありますが、遺構なのかは不明

<谷>
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高台である証として

<高低差>
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北側に向かって突き出た台地をやや側面から撮影

<西深井休憩園地>
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この付近も城跡だったのでしょう

<西深井散策の森>
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この道のわきの林に、空堀らしき窪みをみつけました。

<空堀跡>
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ちょっと画像だと伝わりにくいですが

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木々の奥の地面が一定方向に向かって窪んでいます。やや迫力に欠けますが、むかしの空堀のなごりではないかと思われます。

<利根運河>
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城跡の北側です。堀の役割を担った天然の川なら凄いですね。でもこちらは明治時代に開削された運河です。

<運河の堤防>
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すごい高低差。今回訪問の深井城、この大規模な運河の工事により、主だった遺構は失われたと伝わります。それはそれで残念ですが、あまりの立派さにしばし見惚れました(水路好きです)。

周辺はだいたいこんな感じでした。


説明板にあった高城氏は、ここ深井城に重臣である安蒜(あびる)氏を送り込み守らせたと伝わります。秀吉の小田原征伐の際、高城氏(胤則)は北条方に加勢すべく小田原城にて籠城
安蒜氏は高城氏不在の小金城の守備にあたりますが、浅野長政の軍勢に攻められ開城。この時に、ここ深井城も廃城となったと考えられています。

遺構はわずかながら「城のなごり」を感じる場所でした。

-------■ 深井城 ■-------
築城年:詳細不明
築城者:高城氏
城 主:安蒜氏(高城氏家臣)
廃 城:1590年頃
[流山市西深井]


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2019年02月25日

山崎城のなごり (野田市)

つわものどもが夢の跡
城跡とされる野田市の寺院を訪ねました。

<海福寺>
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見事な山門です。

<境内>
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全部はご紹介できませんが、立派なお寺です。この寺一帯が、かつての城跡と考えられています。

<周辺との高低差>
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劇的な高低差というわけではありませんが、城跡は周辺より数mは高い台地上に位置しています。低湿地を望む微高地に築かれた。そんな感じでしょうか。それらしい雰囲気は漂いますが、決定的な遺構があるわけではありません。

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こちらは同じ台地上から撮影した海福寺。境内だけでも結構な広さですが、あるいはこの平らな区画も城の一部だったのかもしれません。

<石碑>
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こちらの石碑には『岸和田城主岡部長盛公開基』と刻まれています。

岡部長盛とは、「岡部の黒鬼」と称された徳川家の古くから家臣。小田原北条氏滅亡後、関東に入った家康により長盛には1万2千石が与えられ、ここ山崎の地に下総山崎藩を立藩するに至っています。山崎に入部した長盛は、こことは別の場所に城を移していますので、山崎城はそれまでの拠点ということになりますかね。その長盛がやがて丹波亀山藩に加増移封(3万2千石)されると、下総山崎藩は廃藩。家臣に番をさせていたと思われる山崎城は、この時に役割を終えたと考えられています。

ところで、石碑の『岸和田城主』ですが、長盛の長男・岡部宣勝が、のちに和泉岸和田藩の初代藩主となっています。藩主はあくまで息子の方ですが、父である長盛がその前に岸和田城主だった?ということでしょうか。刻まれた文字、私にはちょっと分りにくかったですね。ちょっと話がそれますが、和泉岸和田藩主となった宣勝は、それ以前の悪政に苦しんでいた領民を救う良き統治者であったようです。

<無量山海福寺>
shirononagori314 (4).JPG
海福寺は岡部氏の菩提寺です。長盛が山崎城跡に開基して、生母を葬った所と伝わります。山崎城そのものの情報は少ないながら、岡部氏とのつながりは充分理解できました。

<山崎宿>
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山崎城跡(海福寺)は東武野田線の梅郷駅から徒歩10分程度。途中で『宿場町のなごり』と出会いました。山崎は江戸の宿場として栄えたところ。どうせなら、そんな雰囲気も味わいながら城跡を訪問してみては如何でしょうか。

-------■山崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明
城 主:岡部長盛
廃 城:不明(1609年頃?)
現 状:海福寺
[野田市山崎]


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2019年02月11日

茅ヶ崎城のなごり 

つわものどもが夢の跡
横浜市の市街地に残る中世の城跡を訪ねました。緑豊かな城址公園でありながら、良好な遺構と出会える貴重な場所です。

<茅ケ崎城の空堀>
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いわゆる湘南の茅ヶ崎市ではありません。ここは横浜市都筑区の茅ケ崎。

<城址公園>
shirononagori313 (2).JPG
横浜市指定史跡。茅ヶ崎城址公園として整備されています。

■茅ヶ崎城■
この地に最初に城が築かれた時期については、あまりはっきりとは分かっていません。築城者は摂津源氏の流れを汲む多田行綱という伝承もありますが、諸説有り定かではないそうです。大筋では、城の始まりは14世紀末頃で、その後は関東管領の上杉氏が関わり、やがて小田原北条氏の支配下なったとされています。

■小机衆■
小田原北条氏が関東での勢力を拡大した頃、この地は小机衆の一員座間氏の所領でした。このことから、茅ヶ崎城は小机城の支城的な役割を果たしていたと考えられています。小机衆とは大小29の武士団で構成されていた北条氏傘下のネットワーク。各々が拠点を持ち、それらを束ねる中心地が、北条氏支配下の小机城でした。
<参考:小机城跡>
shirononagori294 (21).JPG
[横浜市港北区小机町]
茅ヶ崎城はこの城の支城として機能したわけですね

1590年、秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡。小机衆のネットワークの中心だった小机城同様、今回訪問の茅ヶ崎城もこの頃に廃城となったと考えられています。つまり、中世で幕引きとなった城跡ということですね。


■現地訪問■
最寄り駅は市営地下鉄のセンター南駅です。城跡はその東側、徒歩圏内にあります。

<駅の案内図>下方向が北
shirononagori313 (1).JPG
ちょっと紛らわしいですが、この地図は下方向が北です。

この地はもともと都筑群茅ケ崎村。地名の由来はわかりませんが、茅が生い茂る低湿地に、台地が岬のように突き出た地形を想像してしまいます。城はまさにそんな場所に築かれています。北側を流れる早淵川も、外堀のような役割を果たしていたのかもしれません。

<城址公園入口>
shirononagori313 (7).JPG
あっという間に現地到着です。

<山城>
shirononagori311ad.JPG
標高32m、比高で20mの山城です。私はこの階段から城内へ入りました。

<高台>
shirononagori313 (4).JPG
住宅が山の麓まで迫っていますが、かなり遠くまで見渡せます。ほぼ独立した丘(厳密には丘陵の先端部分)ですので、四方に死角はありません。相模国と武蔵国を結ぶ道(のちの中原街道)が近いことから、道筋を牽制する役割を担ったのではないかと考えられています。

<縄張り図>
shirononagori313 (5).JPG
縄張りとしては、中央部に本丸(中郭)を設けて、あとは東西と北の三方に曲輪配置する構造。城址公園の入り口から入った私は、北側の曲輪から城内に侵入したことになります。城の南側に根古屋の文字。これは「ねごや」と読み、山城の麓に城主の館やら屋敷を設けるエリアのことです。あと、当ブログでは「くるわ」は「曲輪」で統一していますが、今回は城内の案内に合わせて「郭」も使わせて頂きます。同じ読み、同じ意味です。

<北郭>きたくるわ
shirononagori313 (6).JPG
北側の曲輪です

<公園内の道標>
shirononagori313 (8).JPG
次は中郭へ

<中郭>なかくるわ
shirononagori313 (9).JPG
一番大きな曲輪です

<中郭の土塁>
shirononagori313 (10).JPG
曲輪を取り囲む見事な土塁。

<土塁の説明板>
shirononagori313 (11).JPG
親切な城址公園です

shirononagori313 (16).JPG
繰り返しますが見事です。ここまでとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。

<遺構の説明>
shirononagori313 (13).JPG
発掘調査で中郭の建物の様子が明らかになった。そんな内容です。

<建物のなごり>
shirononagori313 (14).JPG
この位置にあった建物は倉庫だったようです。

<中郭の土橋>どばし
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中郭を出て回りこむと、隣の東郭との間に土橋跡が。これはいいですね。柵があって、これ以上は近づけませんでした。他の人のブログを見ると、草が刈ってあってもっとはっきり見えるのですが、まぁ仕方がないですね。

<東郭の説明>ひがしくるわ
shirononagori313 (19).JPG
この山城で最も高い位置にある曲輪です

<東郭>
shirononagori313 (18).JPG
コンパクトな曲輪です。縄張り図を見ると、先ほどの中郭が主郭(つまり本丸)のようにも映りますが、こちらが主郭のようです。

<東郭虎口>こぐち
shirononagori313 (20).JPG
主郭が中央ではなく奥にある場合、だいだいその向こうは崖とか川とか。要するに天然の地形に守られていたりします。ここも崖同然です。虎口は曲輪への入口という意味。つまりここが東郭への入口ということです。

<西郭沿いの堀>
shirononagori313 (25).JPG
右上が西郭

<空堀>
shirononagori313 (24).JPG
堀がそのまま道になっています。むかしはもうちょっと堀は深く、曲輪の位置も高かったようです。

<公園内の道標>
shirononagori313 (22).JPG
方向音痴なので助かりました

<急勾配>
shirononagori313 (23).JPG
この城が築かれた台地は急勾配が多いですね。あるいは崖です。降りた先が平らな区画になっていますので、腰曲輪と思われます。主要な曲輪の下に配置して、より守りを固めるための工夫です。

<中世の雰囲気>
shirononagori313 (21).JPG
復元も含まれると思われますが、決して過度ではなく、むかしに思いを馳せるには丁度良いのではないでしょうか。

本当に廃城が1590年頃とすると、この城のなごりはそれ以前のもの。大きな城ではないですが、築城には相当な労力が必要だったのではないでしょうか。関東の城では、北条氏の支配下で劇的な改修なされる事例が結構ありますが、ここ茅ヶ崎城もそれに該当するのかもしれません。

shirononagori313 ad2.JPG

公園化されたといっても見事な遺構。かつてこの地に本物の城があった。そのなごりが充分に漂う場所です。

期待以上の訪問となりました。

-------■茅ヶ崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明(北条氏)
城 主:詳細不明(北条氏)
[横浜市都筑区茅ヶ崎町]


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タグ:北条
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