2018年07月16日

武田勝頼「素肌攻め」の城跡 膳城

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は群馬県の土の城「膳城」です。ややマイナーな城ですが、遺構は良好な状態で残されています。そして、有名武将の逸話が残る城跡です。

<堀跡>
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室町時代から戦国時代にかけて使用されたと思われる土の城。要所要所を整備しながら、遺構そのものを大切する配慮が感じられる城跡です。

■膳氏の城跡■ぜん
まずこの「膳城」という名前。地元の豪族・膳(ぜん)氏の城ということで、そのまま「ぜんじょう」と読みます。鎌倉初期の公家・三善康信の子孫である膳氏により、15世紀中頃に築城されたと推定されています。城は南西にかけて川に面し、東側も川が流れる丘の上。微高地という表現の方が良いでしょうか。すぐそば(北に約1キロ)のところに山上城があり、詳細は不明ながら山上氏とは近い関係にあったと思われます。現在残っているのはかつての本丸・二の丸付近で、もともとはもっと広い城だったようです。

■城跡訪問■
<膳城跡公園駐車場>
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この日は旧友に車で送ってもらい訪問。駐車場完備。トイレもあり安心しました。

ただ、この公園駐車場から城跡に接近する際、侵入口が分からず焦りました。見えているのに近づけない。しかし立ち入り禁止?とも思えた出土文化財管理センターの駐車場を抜ければ、あとは楽勝でした。本丸裏に出ます。

<歴史民俗資料館>
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併設されている資料館は入館無料のようですが、私の訪問時は「閉館中」の張り紙がしてありました。

<最初に見た堀>
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これは入口に迷っている時に撮影したものです。ここをどうやって越えようか、友人と真剣に悩みました。終わってしまえば笑い話ですが。

<外堀の中>
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降りられる雰囲気のところで堀の中へ。北曲輪と袋曲輪の間の堀ということですね。この時はあまり意味がわかりませんでしたが、後で縄張り図を見て納得しました。

<堀を進む>
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それらしくなってきましたね

<城跡っぽい>
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「城好き」というわけでもない友人につき合ってもらっていたので、魅力的な景色と出会えなかったらどうしようかと思っていましたが、このあたりで一安心です。中世の城跡らしい雰囲気に包まれ始めました。


■激戦区上野国■ こうずけのくに
現在の群馬県ですからね。当ブログで繰り返し言っていますが、戦国時代の激戦区です。地元豪族・膳氏は、唐沢山城の佐野氏に攻められ、一旦は城を追われます。その後は、金山城の由良氏の支援を受けて再び膳城に復帰。関東に進出した上杉氏配下を経て、小田原北条氏に城を攻め落とされたのち没落したようです。


■小田原北条氏の拠点■
膳氏は去りましたが、城はそのまま活かされ、北条氏から河田備前守か送り込まれました。そう、ここ膳城は北条氏の拠点となりました。もしかしたら、この時に更に整備が進められたかもしれませんね。

<良好な遺構>
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堀底が道として整備されている所もあります。過度な公園化ではなく、いい感じです。

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ここは土橋の跡ですね。手すりまで・・・まぁ訪問者に優しい城跡ですね。景観を損ねるとは思いません。

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複雑な折れを持つ堀は魅力的です。

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むかしはもっと深い堀だったのでしょうね。 


■武田勝頼の膳城素肌攻め■
謙信亡きあと勃発した上杉の後継者争い。この時、武田勝頼は上杉景勝に味方します。対抗馬の上杉景虎は北条氏の出身(北条氏政の弟)。その北条氏の勢力下にあった上野国へ勝頼は兵を進め、厩橋城(前橋城)を制圧。その勢いで山上城ほかの城を次々と攻略しました。

そのまま上野国に留まった勝頼の軍は、地元民の不安を煽らないように平服のまま各地を視察。ところが膳城で事件が起きてしまいました。

膳城はこの時点でまだ北条の支配下です。城内での宴がきっかけで、城兵同士が喧嘩を始めてしまい、付近にいた勝頼の軍にまで攻撃を仕掛けてしまいました。ちょっと軽率すぎますが、武田の兵がろくな武装もしないで城に近づいたことを、侮辱と取って激高したのではないかという説もあります。

いずれにせよ、勝頼軍は即時反撃。北条氏から膳城に派遣されていた河田備前守、城代の大胡民部左衛門らが討ち取られました。

さて、この時の勝頼の反撃は「膳城素肌攻め」として知られています。素肌?ちょっといまでは違う意味に取られてしまいますね。素肌はそもそも、なにもつけていないという意味。この場合、甲冑などを身につけていない無防備な状態という意味です。

軽装で城を落とした

これが語り継がれるポイントです。ここ膳城は、その舞台となった城として知られています。

<本丸跡>
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右手の階段を登ると本丸です。

<本丸>
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本丸そのものは、そんなに広くはありませんね。

<膳城祉の石碑>
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立派な石碑です。

<説明>
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城は南北5百m・東西3百mほどの広さだったようです。周辺の地形の説明に加えて、「膳城素肌攻め」についても言及されています。詳しい。あまり予習しなくても、現地でこれを読めば概要は理解できますね。

<縄張り>
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いま残っているのは、結構広い城だった膳城の本丸周辺のみということですね。

<本丸から見た空堀>
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二の丸の方を撮影


■廃城について■
これもまた詳細不明ですが、先述の武田勝頼による「膳城素肌攻め」のあとと考えられています。ただ、その武田も滅亡してしまい、また北条氏配下になったという話もあります。こちらの説だと、秀吉の小田原征伐後に廃城ということでしょうかね。

<膳城跡公園>
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遠くに赤城山が見えます。私は友人が運転する車で訪問しましたが、南に向かって600mくらいのところに上毛電鉄「膳」駅があります。ということで、一応駅から徒歩圏内の城跡です。


■つわものどもが夢の跡■
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古い歴史の土の城。こうやって遺構が確認できるのは有難いですね。実はこの城跡、先述の膳氏の末裔の方が自分で土地を買い取り、県に寄付したそうです。築城者の血筋が守った城跡ということですね。感謝します。

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そして良好に維持されている遺構。群馬県にも感謝です。素敵な城跡でした。

-----■膳城■-----
築城者:膳氏
築城年:(15世紀半ば)
城 主:膳氏ほか
廃城年:不明

[群馬県前橋市粕川町膳]


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2018年07月15日

赤羽の暗渠の果て 稲付川と空が出会う場所

今回はまた「暗渠」のお話。本日の暗渠探索です。

<暗渠>
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昔は川だった道です。石神井川から板橋区内で別れて、この付近を通過して隅田川に繋がる川です。

■稲付川が流れる街■いなづけがわ
当ブログで時々登場する東京北区の街・赤羽。まず、太田道灌築城と推定されている稲付城跡があります。城跡メインのブログですので、赤羽が登場するのは自然な流れです。
<稲付城跡>
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もう一つの理由は、ずばり「暗渠」です。毎回同じ説明ですが、これは「あんきょ」と読み、「地下に埋設された川」といった意味です。

<稲付川の暗渠>
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ただの道ではありません。かつては川でした。住所だと北区赤羽西付近。川の名は稲付川です。北耕地川ともいいます。

都内の川にはありがちなことですが、この川もほとんどの区間が暗渠となっています。ですから、ここに限らず川の姿は見えません。きっと、誰も川だとは思わないでしょうね。いわば「忘れ去られた川」です。

ただこの孤独な川、下った先、まもなく隅田川という地点の約150m程度だけは開渠になっているとのこと。開渠とは暗渠の逆で、蓋のされていない状態。つまり、水面が見える状態のことですね。

私は暗渠として何度もこの稲付川を紹介しながら、唯一残された開渠部分は見たことがありませんでした。まぁ見なくてもどってことはないのですが、なぜか急に見なくてはいけないような気になった。なぜか。本日。

ということで、たったそれだけの理由で、猛暑日が続くなかその場所へ行ってまいりました。

<ガード下>
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まずは赤羽駅の西側から東へ移動。赤羽は、大ざっぱに言うと駅より東側に向かって低地が広がり、やがて川へ出ます。稲付川もそちらへ向かって流れています。

住所で大筋を説明すると、赤羽西⇒赤羽南⇒神谷(かみや)という順になります。実際に歩いた十条等は省略。あくまで大筋の話として。

<神谷>
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で、ここは既に神谷三丁目。団地のある付近です。暗渠はこの先で国道122号線に出ます。

<国道122号>
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道の向こうにそれらしい空間が見えました。大同特殊鋼王子工場とDNPグラフィカの間です。

<加筆>
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加筆しました。ここです。間違いないです。近くに信号がありますので、あとはそこから道を渡るだけ。

<地図>
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隅田川、そして川の向こうの足立区が目と鼻の先ということですね。

<北町橋>
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この目立たない橋より先が、稲付川と空が出会う唯一の場所です。

<水面>
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柵があって撮影しにくいですが、水面がしっかり見えています。暗闇の水路は、ここで陽の当たる川になりました。

<暗渠ではない稲付川>
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工場の敷地に挟まれた河川用の敷地です。

ということで、
稲付川の暗渠の果ては、コンクリの街に残された「立入禁止」のオアシスでした。

以上です。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。

-----お勧め暗渠本-----
暗渠をテーマとした本が出版されています。当サイトお勧めは「はじめての暗渠散歩」です。マニアックな世界と思われがちですが、この本ならあまり身構える必要はありません。どなたでも気軽に読めるように書かれた一冊です。

はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
本田創/山英男/吉村生/三土たつお


タグ:暗渠

2018年07月01日

奥沢の城跡 湿地に咲く鷺草の悲話

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は世田谷区の奥沢城です。最寄り駅でいうと「自由が丘」のお隣の九品仏駅。凄い所にある城跡ですね。吉良氏の居城・世田谷城の支城です。そして、その名門家も巻き込んだ悲しい姫様の伝説が語り継がれる城跡です。

<城跡北側>
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右側は城が築かれた微高地。手前の道ですが、これは川。暗渠化された九品仏川です。奥沢城は水の豊富な低湿地に守られた城でした。


■奥沢の城■おくさわ
戦国時代、この付近は吉良氏が領していました。奥沢城は世田谷城主の吉良頼康が、支城として築いた城です。高級住宅地となった今ではとても想像できませんが、当時は湿地が多かったようです。奥沢城は、そんな低湿地に向かって突き出した舌状台地の上に築かれました。台地といっても劇的な高低差があるわけではなく、微高地といったところでしょうか。分類すると平城(ひらじろ)で良いかと思います。

やがて戦国末期になると、吉良氏は小田原北条氏の配下となっていました。配下といっても名門家故に、他とはちょっと違う待遇だったようですが、どの勢力下にあったかといえば、やはり北条氏ということになります。その北条氏が秀吉によって滅ぼされるのが1590年。この頃に奥沢城も廃城となったようです。

<石碑>
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石碑の背後も土塁となっています。

<土塁>
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方形の城を囲むように土塁が設けられました。その全てが残っているわけではありませんが、場所によっては良好な状態です。

■九品仏浄真寺■ くほんぶつじょうしんじ
奥沢城跡は現在寺院となっています。

<総門>
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[世田谷区奥沢]7- 41-3
廃城からそうとう後の話になります。1678年(延宝六年)、かつての城跡に珂碩(かせき)上人が九品山浄真寺を開山しました。境内の3つの阿弥陀堂それぞれに、3体の阿弥陀如来像が安置されています。つまり計9体ですね。九品仏の名の由来です。

<東門>
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<鐘楼>
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<仁王門>
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東京23区内とは思えない静けさ。そしてこの緑の多さ。とても贅沢な空間です。

寺院としての見どころはもっと沢山あります。城跡ブログなのでこのへんで。再び遺構と思われる画像を。

<境内と遺構>
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仁王門付近です。奥沢城の石碑があったところを横から撮影しました。だいぶ形は崩れていますが、鐘楼との間が土塁となっています。これは城全体を囲む土塁とは別ものなので、内部がいくつかの区画に分けられていたのかもしれませんね。

<北側の土塁>
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ここも土塁跡です。

<南側の土塁>
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奥の方が土塁なんですが、伝わりますでしょうか。
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加筆するとこんな感じになります。城跡と外を隔てる土塁です。ちょっと大げさに筆を入れてしまいました。位置の確認ということでお許し下さい。


■九品仏川と奥沢城■

---舌状台地の東側---
<九品仏川>
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これはお隣の自由が丘駅近くの九品仏川。まぁ普通はただの歩道としか思わないでしょうが、暗渠化された川です。川が行政区の境目になっているので、歩道の両サイドで区が異なります。目黒区と世田谷区ですね。高台と低地が混在するこのエリア。低地を流れ、かつて湿地帯を造り出していたのがこの九品仏川ということになります。

<暗渠を上流へ>
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先程よりちょっと上流に進むとこんな感じになります。このずっと先に、奥沢城が築かれた舌状台地があります。方角でいうと西へ進んでいます。

<橋の跡>
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更に上流で橋の跡と出会いました。

<城向橋>しろむかいばし
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かつてここには「しろむかいばし」という名の橋があったのですね。ここは奥沢城の東側。城の向かいにある橋といった意味でしょうか。今では橋もなく、川の姿も見えません。向かいの城も失われました。それでも残る「城向橋」の文字。いいですね。そして上部には白鷺のマークが記されています。これはこの地に伝わる姫様の悲話を暗示しています。

---舌状台地の北側---
<低湿地のなごり>
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更に上流へ進むとこんな感じになります。冒頭の画像と同様、城の北側に回り込んだ場所です。開発により湿地は姿を消しましたが、暗渠により川の流路は確認できます。

地図だと、この九品仏川は城が築かれた舌状台地の付近から始まっています。あるいは、この付近に水源があったのかもしれませんね。

---舌状台地の西側---
城の東側も低地、そして北側も低地でした。西側ですが、やはり低地です。これを実感すべく探索を続けました。

<坂道>
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暗渠のように水を感じられるものが見つけられなかったので、ごく単純に坂道を撮影しました。西側の低地へ続きます。その低地を更に西へと進み、再びゆるやかな台地へ登った先に、こんな石碑がありました。

<中丸跡>
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整然とした住宅地にポツンと・・・

住所だと等々力5丁目です。中丸とは?奥沢城の出丸でも設けられていたのでしょうか。興味津々でしたが、結論を言うと、はっきりしたことは分りませんでした。

<中丸跡付近より撮影>
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ただこの付近も高台となっていることは明らか。奥沢城と同じく、水の豊富な低地に面した微高地です。城の付属施設として砦などが設けられるのに相応しい場所かもしれません。推定の域を出ませんので、今回は「現地でそういうことを妄想した」というところで留めておきます。

城跡とその周辺はだいたいこんな感じです。最後に、この城にまつわる姫様の悲話をご紹介します。


■常盤姫の悲話■
『奥沢城主の大平出羽守には、常盤という美しい娘がいました。吉良氏に側室として迎えられますが、これが悲劇の始まり。他の側室たちに妬まれ、無実の罪を背負わされ、最後は自害に追い込まれます。その直前、常盤姫は父への文を白鷺の足に付け託していました。しかし雨に打たれた白鷺は、奥沢城の近くで力尽き、助けを求める思いは届きませんでした。
村人に発見された白鷺の亡きがらは丁寧に葬られ、やがてその場所には美しい花が咲きました。花はあたかも白鷺が舞い立つ姿にそっくりでした。常盤姫の悲しい運命を偲んで、この花は鷺草と名付けられました。』

常盤姫の悲話は、ざっとこんなお話です。もっと細かい説明がついているものや、背景や設定が若干違うお話もあります。つまりいくつか種類があります。ただ「姫様は吉良家で幸せに過ごしましたとさ、ちゃんちゃん」という類のお話は見当たりません。

<鷺草>
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本堂脇の一画で鷺草を見ることができます。かつては境内にもっと広いサギソウ園があったようですが、説明板もあるし、こうして残してもらえるだけ有難いです。

鷺草は湿地帯に繁殖するそうです。鷺草伝説が語り継がれるこの付近の、当時の風景が思い浮かびますね。

私の訪問は6月下旬。残念ながら、まだ鷺草は咲いていませんでした。咲き誇るのは8月頃とのことです。ちょっと暑い時期ですが、境内は緑豊かで木陰もありますので、開花に合わせて訪問してみては如何でしょうか。

以上です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

<九品仏浄真寺の手水舎>
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鷺草は世田谷区の花となっています。

-------■奥沢城■-------
築城年:不明
築城者:吉良頼康
城 主:大平氏(吉良氏家臣)
廃城年:1590年
現 状 :九品仏浄真寺
[東京都世田谷区奥沢]



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タグ:暗渠

2018年06月27日

松原と番所跡 増上寺正面

今回は増上寺前の公園の話です。

<公園内の門>
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雰囲気はありますが、ただの飾りとしか思っていませんでした。

<説明板>
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何やら書いてありますね。立ち止まって読むのは初めてです。

『芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは、寛永17年(1640)増上寺20世大僧正南誉(なんよ)上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも,青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
松はその後の災変によって消失,あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。
都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲(しの)ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。昭和62年2月 東京都』


なるぼと。ここは都会のオアシスのような場所ですが、ただ整然と整備しているわけではないのですね。ちゃんと意味、というかコンセプトがあったわけです。増上寺の正面に位置するこの付近。「松原」と呼ばれていた区画の再現ということですね。

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そして江戸時代の番所跡
土塁にはさまれた通路がカギ形・・・

<土塁とカギ形通路>
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<土塁とカギ形通路>
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<門>
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なるほど

お屋敷の裏門でもイメージしているのかと思いきや、番所の門ということですね。そしてすんなり通過させないための土塁とカギ形通路。ここだけはちょっと城郭のようですね。

番所、つまり見張りのための番人が詰めている場所ですね。いまでいう交番のような感じでしょうか。

荘厳とした増上寺の前に松原が広がり、庶民にとっても眺めのいい場所だったことでしょう。一方で、将軍家にとっても重要な場所。徳川家の菩提寺ですからね。一定の秩序を維持すべく、番所も設けていた。そんな感じでしょうか。深く研究したわけではないので、半分想像で言ってます。ご容赦下さい。

<芝大門の通りにて>
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こちらは芝大門の通りに設置されている増上寺の案内板です。歌川広重が描いた増上寺。ちょっと雪が降ってますが、構図はよく分かります。

<芝増上寺雪中>
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山門があり、正面左右に石垣で仕切った区画が設けられています。松原です。そして番所もあったということですね。

同じ景色でも、ちょっと意味が分かるだけで一味違って映りますね。松原跡は増上寺正面です。昔のなごりを意識して整備した公園。増上寺を訪問したついでに、ちょっと立ち寄ってみては如何でしょうか。

<増上寺>
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<松原>
shirononagoriMATSU (15).JPG

以上です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。



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[増上寺関連記事]

徳川家菩提寺の桜 増上寺
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sirononagori211shiba (5).JPG

港区芝公園の東照宮
記事へすすむ
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2018年06月24日

反骨の学者 熊沢蕃山ゆかりの地 (古河市)

<鮭延寺> けいえんじ
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茨城県古河市の鮭延寺です。

この寺を訪問した理由は、出羽の戦国武将・鮭延秀綱ゆかりの寺だから。それだけでした。

<石碑の文字>
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実際に現地へ行ってみると、石碑には「鮭延越前守秀綱」と並んで「熊沢蕃山」の文字が刻まれています。

えっと、どこかで聞いたような名前だけど・・・
どなたでしたっけ?

こんなブログをやっていますが、私の歴史知識などはその程度です。訪問時は、とにかく鮭延秀綱で頭がいっぱいだったので、後から調べることにしました。

帰宅してネット検索してみると、岡山藩の池田光政、陽明学・・・何となく思い当たる点もありながら、名前以外はほとんど分かっていないことを実感。大半は、初めて知ることばかりでした。なぜ古河市の石碑に名が刻まれているか。これも分かりました。その結果、男としてちょっと惚れました。

鮭延寺訪問そのものは少し前の話ですが、熊沢蕃山にテーマを絞り、改めてご紹介させて頂きます。


■熊沢蕃山■くまざわ ばんざん
江戸時代初期の陽明学者です。しかも「著名な!」陽明学者ですね。師匠は中江藤樹。個人的に陽明学というと中江藤樹さんの方がピンときますが、歴史に詳しい人に聞いたら、蕃山も同じレベルで有名とのこと。ホントでしょうか。私が「中江藤樹」なら知っていたというと

その中途半端さがわからない…

とのこと。

まぁいずれにしても「著名な!」陽明学者です。岡山藩主池田光政(あの池田輝政からみて孫)に仕えて藩政に参画。農民の救済や土木事業で業績をあげました。

さてさて、この辺りは言われてみれば「そうでしたか〜」で終り。調べる以前から何となく感じていた「西の方の人」というイメージも外れていません(かなりアバウトですが)。では、何で古河市の寺に名前が?

蕃山は何しに茨城へ?


■反骨の学者■
朱子学が統治者側に好まれたのに対し、日本における陽明学は反体制的な理論を含むこともあったことから、幕府からは嫌われる傾向にありました。

中江藤樹の門下でその陽明学を学んだ熊沢蕃山。壮絶な生きざまの末に、体制批判が激しすぎて、幕府から蟄居謹慎を命じられました。身柄を預かったのが下総国古河藩でした。なるほど。

熊沢蕃山、この時69歳。この年齢であるにも関わらず、幕府は放っておく訳にいかったのですね。


<超コンパクトな年表>
1619年 京都稲荷生まれ
1634年 岡山藩主池田光政に仕える
1639年 20歳の時に京都に戻る
1642年 中江藤樹に陽明学を学ぶ
1645年 池田光政に再び仕える
1654年 備前の飢饉救済に尽力
1657年 藩改革で家老らと対立
1661年 京都に移住し塾を開く
1687年 幕府圧力で追放
1691年 古河で生涯を閉じる

全ては書けませんが、この年表の行間は相当濃いです。強烈な個性と己の意志を貫いて民に尽くすその生涯は、常に逆風に曝されました。


■治水事業■
蕃山はいわば学者さんです。一方で治水・土木に秀でていた方でした。蕃山の理念は日本固有の気候・地形に根ざした水土[すいど]論、徹底した森林保全主義者であったそうです。

謹慎を命じられたはずの蕃山ですが、その能力を古河藩から見込まれ、晩年の地である古河でも治水・土木の指導をしてまわったようです。

干されてるのに頼りにされる

なんか格好よくないですか?


■蕃山の言葉■
いろんな名言を残していますが、一つだけ紹介します。

我は我、人は人にてよく候

まぁ「自分は自分、人は人で良いのだよ」ということですね。いろんな意味に解釈できます。いい言葉です。

ということで、戦国武将ゆかりの寺を訪ねたら、「著名な!」陽明学者ゆかりの寺でもあったという内容でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■鮭延寺■
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[茨城県古河市大堤]

■熊沢蕃山■
江戸時代初期の陽明学者
1619年〜1691年(9月9日)
師:中江藤樹



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2018年06月20日

城用語 枡形 (ますがた)・枡形虎口・枡形門

城の出入り口の説明で、よく「ますがたもん」とか「ますがたこぐち」なんていう言葉を耳にしますね。今回はその「枡形」についてです。

<江戸城和田倉門跡>
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この石垣も枡形のなごりです。石垣の内側が、方形の広場のようになっていること、伝わりますでしょうか。

■枡形■ますがた
まず「枡形」の枡ですが、これは字の通り。計量するための四角形の容器のことです。まぁ身近なところでは、日本酒を飲む時などに使うあの枡のことですね。あの形を想像してみて下さい。綺麗な方形をしていますよね。その形こそが、城でいう枡形の呼び名の由来です。

■枡形虎口■ますがたこぐち
二の丸とか三の丸といった区画への出入り口のことを、城用語では虎口といいます。四方を壁で囲む枡形と、2つの虎口を組み合わせた出入り口の構造を枡形虎口といいます。ご紹介している画像は石垣ですが、別に土塁でも木製の壁でも、構造が同じならそれはやはり「枡形虎口」です。侵入者はまず最初の虎口を通過すると、直進を拒まれた上に壁で囲まれた窮屈な区画に入り込むことになります。次の虎口を通過できて、ようやく城内への侵入を果たすことになります。

■枡形門■
守るための施設で、出入り口が開けっ放しということはありませんよね。枡形の虎口には当然のように門が設置されます。枡形門です。枡形の構造は時代とともに進化を続け、外側に面した虎口に高麗門、次の虎口には櫓とセットになった重厚な門が築かれるようになりました。この構造は枡形のほぼ完成形です。冒頭の和田倉門跡は石垣しか残っていないので、大手門で説明させて頂きます。

■枡形門の実例■ますがたもん
こちらは石垣と門をセットで見られる枡形です。

<大手門>
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このケースだと手前は水堀。虎口に通じる道を通るしかありません。攻め手は大勢で押しかけても、この道の幅に合わせて縦長になって進むしかありませんね。桝形門に到着する以前に、既に動線が制限されているわけです。さて、門については、画像に加筆して説明させて頂きます。

<大手門>加筆
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青は人の動線です。まずは最初の門。オレンジの門が高麗門です。死角を減らすためにやや低めに造られています。攻め手がこの一つ目の門をくぐると、四角く囲まれた小部屋のような空間、つまり枡状の区画が待ち受けています。攻め手が更に城内へ進むには、次の虎口がある右手に曲がらざるを得ません。そこに設けられているのが二つ目の櫓門(やぐらもん)。門の上が頑丈な櫓となっており、枡に入り込んだ敵を狙い撃ちすることができます。

櫓門で良いのですが、この枡形の場合、石垣と石垣との間を渡すように(まるで渡廊下のように)櫓門が築かれていますよね。こういう場合、渡櫓門(わたりやぐらもん)とよぶ場合もあります。まぁ櫓門で良いですが、念のため。

<枡形図解>門は省略
SN239AD.JPG
ちょっとシンプルな図ですが、構造としてはこんな感じです。この方形の区画ですが、まずは外敵に備えて城兵が待機できる場所であり、最初の門を破られた場合は、攻め手の直進を防ぎ、徹底的に迎え撃つ機能を持っています。

枡形という構造
なんとなく伝わりましたでしょうか?


■高麗門■こうらいもん
門についてもうちょっと補足します。高麗門。これは城用語というより、門そのものの型式の一つです。

城の大手門はいわば家の玄関のようなもの。威厳を保ちたいところですね。戦国期以前は、薬医門と呼ばれる形の門が流行りました。屋根が大きく、風格があります。ただ、これだと城内からの視界を遮るので、死角が増えてしまいます。戦乱の時代に突入すると、屋根がコンパクトな高麗門が主流となりました。造られ始めたのは1590年代のようです。豊臣秀吉の朝鮮出兵以降に導入された形式ということですかね。

<桜田門>
sirononagori sakuradamon (2).jpg
有名な門ですね。厳密に言うと外桜田門といいます。ここも桝形、そして最初の門は高麗門です。

<桜田門の高麗門>
sirononagori sakuradamon (1).jpg
屋根が重厚過ぎないことが防衛上のポイントです。シンプルでありながら、格式も感じる門です。


■外枡形と内枡形■
今回は枡形が伝われば充分ですが、構造によって外枡形と内枡形の二種類に分類できます。時々耳にする言い方ですので、最後にご紹介させて頂きます。要するに、枡形を城から飛び出したところに築くか、内包するように築くかの違いです。言葉より図解の方が分りやすいですね。

<図解>
shirononsgori243M.jpg
左が外枡形、右が内枡形です。図の上方向が城内だと思って下さい。

以上です。典型的な枡形を例に説明させて頂きましたが、実際には城によっていろんな工夫が施されています。基本さえ知ってしまえば、その違いすら楽しめます。この記事が、そのきっかけになれば嬉しいです。

拙い説明、お付き合い頂きありがとうございました。


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2018年06月19日

城用語 狭間 (さま)

お城関係の話でよく登場する狭間という言葉。この漢字は「はざま」とも読みますが、城用語の場合は普通「さま」と読みます。城郭の建物の壁や塀に穴が開けてあるのを、皆さんも目にしているはず。あれが「狭間」です。

■狭間の種類■
<忍城にて>
SN242SAMA3.jpg
縦長の長方形は弓矢を射るための狭間ですね。矢狭間といいます。一方、丸の小さな狭間は鉄砲用、鉄砲狭間と呼びます。鉄砲狭間は穴が小さいことが特徴で、三角形だったり方形だったりさまざまです(←多少はダシャレのつもり)。攻め手から撃ち返されることを考えれば、小さい方が安心ですよね。ただ弓は小さすぎると矢を射ることができませんので仕方ありません。

<忍城にて>
shirononagori242SAMA.jpg
同じ穴でも、広くなっている方が城の内側です。外側からは狙いづらく、内側ではなるべく動き安いよう工夫されています。外を様子を見る時も、狙いを定める時も、角度があった方がいいですよね。逆に外側からは、中の様子をうかがい知ることはできません。

以上、矢狭間と鉄砲狭間という攻撃方法による分類でした。他に大砲狭間というのもあります。


■狭間の高さ■
狭間が横まっすぐに並んでいる場合もありますが、高さがまちまちの場合があります。

例えば、弓は立って射る。鉄砲は片膝をついて撃つ。こう想定している場合なんかはそれぞれ高さが異なります。昔の男性の平均身長は160p弱と思われますので、そのへんも考慮して段違いの狭間を眺めると、納得性があります。また、遠くを狙うのと、高い位置からすぐ下の敵を狙うのとでは、やはり狭間の高さが違う方が合理的ですね。

まぁ城郭のどんなところに設置されているかで、狭間の事情は異なるのですが、実際に訪問してみて、このヘンの違いも考えながら壁の穴を眺めると、城探索が一層面白くなります。

どういうつもりなのか

当ブログで何度も繰り返している言葉ですが、これを想像するのも城郭巡りの楽しみの一つです。

<小田原城にて>
shirononagoriSAMA (2).jpg

<二本松城にて>
SN242cc.jpg


最後にやや珍しい狭間を

<江戸城大手門にて>
SN242dd.JPG
石垣のもっとも上の石に切込みを入れた狭間。石狭間といいます。四角い穴、見えますでしょうか。目立たないですが、しっかり外を銃で狙えるようになっています。

<内側から撮影>
shirononagoriP (4).JPG
石狭間を内側から撮影するとこんな感じです。江戸城の大手門で撮影しました。訪問する機会があったら、立派な門だけでなく、ぜひこんなところも見てやって下さい。

ということで「狭間」のご紹介でした。ただの穴にも思惑がある。それを共有できれば幸いです。


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2018年06月18日

松の廊下跡 殿中刃傷のなごり

江戸城本丸の隅に小さな石碑があります。

<松之大廊下跡>まつのおおろうか
shirononagori239 (33).JPG
江戸城松之大廊下。つまりここがあの「赤穂事件」の現場ということですね。

■松の廊下■
松の廊下は、江戸城の大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶ廊下でした。その呼び名は、廊下沿いの襖に松と千鳥の絵が描かれていたことに由来します。

L字型の長い長い廊下。約19m×31mといいますから、計50mもあったわけですね。そして幅は約5m。廊下で5mとは、随分広いですね。大立ち回りに充分な広さ。そこで事件は起きました。

■浅野内匠頭長矩■たくみのかみ ながのり
内匠頭は浅野長矩の官名(従五位下 内匠頭)。これにより、浅野内匠頭と呼ばれることが多いですかね。無難にお勤めを済ませていれば、その名が後世に語り継がれることもなかったかも知れません。

<石碑と説明板>
shirononagori241 (1).JPG
丁寧な説明

<説明板アップ>
shirononagori241 (3).JPG
呼び名の由来となった襖絵

1701年4月21日(元禄14年3月14日)のことでした。ここで赤穂藩主である浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りかったわけですね。上野介は眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、命に関わる痛手にはなりませんでした。しかし、殿中での刃傷(にんじょう)はご法度。ましてこの日は、幕府が朝廷の使者を接待する大事な日。将軍徳川綱吉は激怒し、内匠頭はその日のうちに切腹赤穂浅野家は改易となり、赤穂城も召し上げとなります。これに対し、高家の上野介にお咎めはありませんでした。ここから忠臣蔵、つまり赤穂浪士の話が始まります。

高家とは、幕府の儀式や典礼を司る役職。浅野家は、勅使の接待役となったことで高家・吉良家の指南を受ける立場でしたが、その最中に事件を起こしました。
教える側と教わる側。なんか現代でも目にする構図ですね。それをどう見るかは現代人とちょっと異なるのかもしれませんが、当時の価値観として「喧嘩両成敗」という考え方がありました。つまり、揉め事は双方に問題があるという裁き方ですね。いい悪いは別にして、これを背景に起きてしまった事件を考えると、赤穂の浅野家はお取り潰しで、高家の吉良家は許されたことに疑問を持つのは自然ですね。

shirononagori241 (2).JPG
立ち止まる方が多かったですね。説明文をじっくりと読む方の姿も。赤穂事件への関心の高さがうかがえます。

美談として扱われる赤穂四十七士の仇討ち。私は好きです。ただ、事件は事実として、背景となる経緯についてはどうだったのでしょうか。実は不明な点も多いと聞きます。吉良家には吉良家の言い分があったのでしょう。

真意はわかりません

ただ、赤穂浪士の話に江戸の庶民が熱狂したのは事実。演劇化され、事実とはかけ離れた世界にまで膨らみ、長らく語り継がれています。そこにはいかにも日本人らしい精神性や美意識とともに、権力に抱く庶民の感情が見え隠れしていますね。


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2018年06月10日

保科正之と幻の天守閣 江戸城本丸跡

つわものどもが夢の跡
今回はいわずと知れた江戸城本丸跡です。外国人観光客が多い有名なスポットですね。梅雨の合間の晴れの日、広々とした曲輪まで登ってみました。

<天守台>
shirononagori239 (24).JPG
本丸の北側にある天守台。本来なら、この上に天守閣があるわけですね。

いや、久しぶりに見ましたがホントに大きいです。41m×45mという広さ。石積みの高さは11mとのこと。どんな天守閣を想定していたのでしょうか。


■江戸城の天守閣■
江戸時代初期、天守閣は権力の象徴でした。ましてここは将軍の城です。徳川家康のみならず、秀忠も家光もそれぞれ天守閣を築き直しています。家光のときには、五層構造の天守閣だったそうです。これが江戸城の歴史で最も壮大、そして最後の天守閣でした。


■天守閣は江戸初期のみ■
三代将軍家光が築いた天守閣は、明暦3年(1657年)の火災で焼け落ちてしまいました。翌年に天守台が築かれていましたが、城下の復興を優先すべきという考えから、再建は見送られました。そしてそれ以降、天守台の上に天守閣が築かれることはありませんでした。つまり、江戸城に天守閣が存在したのは、江戸初期の約五十年間ということになります。

<御影石>みかげいし
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天守台の工事を請け負ったのは加賀前田家でした。この時の藩主は前田綱紀。威信をかけた大工事です。5千ともいわれる工夫を動員し、石材は御影石(カコウ岩ですネ)を瀬戸内から運ばせたそうです。その姿が、今に残る天守台です。

■保科正之■ほしな まさゆき
城下の復興を優先させることを提唱したのは、会津藩主の保科正之。家光の異母兄弟ですね。1657年3月2日の明暦の大火。この時の将軍は第4代の家綱でした。しかしまだ若く(17歳)、復興の指揮はサポート役である保科正之がとったと考えられています。

当時の江戸の大半を焼いたといわれる大災害に対し、保科正之は「天守閣より民の暮らし」を優先させる判断を下しました。
常識的?
いまの私たちの価値観なら当たり前かもしれませんが、当時ですからね。どういう葛藤があったのでしょうか。しかも天守台は出来上がっています。乱世の雰囲気が和らぎつつあっても、まだ安泰という時代ではありません。威厳を必要とする将軍家で、慣習を変える判断には抵抗もあったことでしょうね。まぁなにもかも推測の域を出ませんが、結果として、新たな天守閣の構想は幻となりました。

正之は、いわば将軍の隠し子。当初はその存在さえも明らかにされず、父・秀忠にとって側近の中の側近であった土井利勝など数名が承知しているのみでした。信濃高遠藩主保科正光が預かり、保科家の子として育てられました。やがて腹違いの兄・家光から信頼を得て、その遺言により将軍の補佐役となります。当時はまだまだ時代の変革期。保科正之の手腕は、後の徳川幕府の体制に大きな影響を与えています。

<幻となった天守閣の土台>
shirononagori239 (25).JPG
それ以降天守閣は築かなかった。だから天守台しかない。それはそれで、立派な歴史の痕跡だと思えます。

ちょっと話がそれますが、天守閣があったのは第4代将軍までなので、いわゆる「暴れん坊将軍」である吉宗(第8代)が、しみじみと天守閣を見上げるといったシーンには無理がありますね。まぁこれは「水戸黄門」他の時代劇にもありがちな演出ですので、容認してドラマそのものを楽しんだ方がいいですかね。


■つわものどもが夢の跡■
<紫陽花と石垣>
shirononagori239 (27).JPG
移り変わることは、悪い事ばかりではありません。既存の価値観の何が必要で、何が不要なのか。大切なのは、その選択ができる勇気なのかも知れませんね。保科正之はそれができる人だったのでしょう。幕府から松平姓を名乗るよう勧められましたが、正之が葵の紋を受け入れることはありませんでした。自分を育てた保科家への恩義だったと伝わります。


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真正面から江戸城を訪問

つわものどもが夢の跡
誰でも知っている城に、真正面から入ってみました。梅雨の晴れ間、多くの外国人観光客に混じって久しぶりの訪問です。

<大手門>
shirononagoriP (2).JPG
最初の完成は1607年。築城技術に定評のある藤堂高虎(たかとら)によって築かれました。後の改修者には、あの伊達政宗も名を連ねます。

■江戸城の正門■
当ブログでは、街に埋もれそうな堀跡や見附跡にスポットライトを当ててきました。

<赤坂見附跡>
shirononagori232 (12).JPG
<四谷見附跡>
shirononagori232 (1).JPG
どちらも城本体から切り離された遺構です。まぁそれがまた魅力なのですが・・・主だった江戸城の城門を指して「江戸城三十六見附」といいます。見附とは見張り番のいる城門のこと。赤坂見附も四谷見附も三十六見附に含まれる重要な城門です。

さてさて、今回の大手門はいわば江戸城の正門。現役です。三十六見附の中で最も重要の虎口(=入口)ということになります。

<大手門>
shirononagori239aa.JPG
大手門とは正門のこと。追手門(おうてもん)も同じ意味ですね。


■枡形■ますがた
当ブログで見附跡などを紹介する際に、よく「枡形」という言葉を使います。枡はいわゆる器の枡のこと。四角形の容器のことですね。そんな形をしている城の出入り口。これを城用語で桝形とか、桝形虎口いいます。虎口は「とらぐち」じゃなくて「こぐち」と読んで下さい。

ここ大手門の構造も桝形門です。高麗門と渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門と言えます。石垣だけ残っている見附跡とは異なり、門もしっかりと形として見ることができるので、構造として分りやすい。

説明下手ですが、画像に筆を入れてちょっとだけ説明させて頂きます。

<大手門>加筆
shirononagoriP (1).JPG
(青は人の導線)
オレンジは高麗門。死角を減らすべくやや低めに造られています。この一つ目の門をくぐると、四角く囲まれた小部屋のような空間(この形状から枡と呼ばれる)が待っています。これは侵入者の直進を防ぐ役割と、城兵が待機するスペースの両方の機能を備えた場所です。さて、侵入者が城内を目指すには右手に曲がらざるを得ません。そこに設けられているのが二つ目の渡櫓門。門の上が頑丈な櫓となっており、枡に入り込んだ敵を狙い撃ちすることができます。

<無理やり図解>
SN239AD.JPG
まぁこういうことです。
下手な上に簡素でスミマセン。手作りですw

<渡櫓門>
shirononagori239 (1).JPG
最初の門を突破できても、上から狙われます。しかも壁に囲まれているので行き場が制限され、隠れる場所もありません。

<壁の内側>
shirononagoriP (5).JPG
城兵が待機する場所でもあるので、外に向かって銃を撃つための準備がなされていますね。

<狭間>
shirononagoriP (4).JPG
銃を撃つための小窓。狭間(さま)といいます。

<説明板>
shirononagori239 (2).JPG

<渡櫓門の石垣>
shirononagori239 (3).JPG
門をくぐって櫓の土台を撮影。じっと見つめる。
1629年の改修工事では、幕府の中核・酒井忠世(ただよ)が門を担当したそうです。そして石垣部分は仙台藩主・伊達政宗。この時に「桝形」として完成したようです。

典型的な枡形門
ざっとこんな感じです。ちなみに、高麗門は1657年の明暦の大火後に再建されたものです。そして立派な渡櫓門ですが、こちらは第二次大戦で焼失してしまったそうで、現存のものは昭和になってからの復元だそうです。でもむかしむかしもこんな雰囲気だったのでしょう。見る価値ありの枡形門です。


■大手門から登城■
あとはどっかの殿様気分で本丸まで。かつて多くの大名が、ここから登城していました。

<石材>
shirononagori239 (5).JPG
中世の「土の城」のファンですが、たまにはいいですね!この石垣。石材だけで圧倒されます。下の二段だけで、大人の身長よりずっと高い。
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隙間に詰めた小石まで気になる。
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こちらは隙間すらない。細かいことですが、強度に影響することです。

さて、石垣だけで楽しめますが、向うに何やら見えてきました。

shirononagori239 (4).JPG

<同心番所>
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まだ本丸まで遠いですが、早くも番所。厳重ですね。
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登城する大名の供の者を監視していたとのこと。番所はこの先にもあり、奥へ進むほど位の高い役人が詰めていました。

<番所と石垣>
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どうしても石垣の大きさに目がいってしまいます。建物と比較して、とんでもなく大きいこと、伝わりますでしょうか。

そしてもうすこし進むと

<百人番所>
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この長い建物も番所
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百人番所というそうです。ここは登城する者の監視や検問をするところですが、有事に備えて幕府直轄の者が詰めている場所でもありました。直轄の警備員たち?それは古くから徳川と縁のある伊賀組などの同心たちです。他に甲賀忍者に由来する甲賀組、そして紀州の根来寺に由来する根来組など。伊賀に甲賀、そして根来(ねごろ)というと連想するのは僧兵。なんかやたら強そう・・・

さて、その百人番所から見えている次の巨大な門へ

<中乃門跡>
shirononagori239 (15).JPG
おお・・・ホントにむかし造ったのか疑いたくなる近代的な石垣。この付近の石垣は、江戸城内でも最大級の石材が使用されているそうです。35トン前後?どうやってここまで上げましたかね?というより、そもそもとこから運んできましたかね?

これらの石材、主な供給源は伊豆でした。良質の安山岩が採石できる伊豆半島には、かつて多くの石丁場がありました。いまも伊豆半島とその周辺には、石を切り出した石丁場跡が史跡として残されています。で、小田原よりも遠い伊豆から、どうやって江戸まで運んだか?これは専用の舟です。伊豆の山で切り出した巨大な石を、海路で江戸まで運ぶ。とても400年前のこととは思えませんが、事実のようです。昔の日本人、凄いですね。


shirononagori239 (16).JPG
また建造物が見えますね

<大番所>
shirononagori239 (18).JPG
また番所。同心番所→百人番所に続き、いよいよもっともグレードの高い番所ですね。ここを通過してもうちょっ登れば、いよいよ本丸。後ろに見えている石垣は、本丸の石垣です。

<本丸への道>
shirononagori239 (19).JPG
ちょっとと言っても道は曲がりくねってますので、昔はそれなりに監視の目が光っていたのでしょう。
shirononagori239 (20).JPG
昔はここにも門があったのでしょうね
shirononagori239 (22).JPG
石垣に見惚れて、ちょっと振り返る

そしていよいよ

<本丸跡>
shirononagori239 (23).JPG
到着です。天守閣はありませんが、遠くにその土台が見えています。

ということで、大手門から本丸まで、あまり寄り道しない場合の道のりでした。

普通に公園として楽しめますが、当然史跡も多数。ほんの一部だけ紹介すると

<富士見櫓>ふじみやぐら
shirononagori239 (36).JPG
本丸の東南隅に位置する櫓です。外側から見た方が堂々と見えますが、今回は城内から。本丸に現存する唯一の櫓で、天守台の次に高い場所にあります。天守閣の代わりとして使用されたこともあるそうです。

<石室>
shirononagori239 (30).JPG
何となく異様な雰囲気の石の部屋。何に使われたのか、はっきりとは分かっていないようです。石の室の内部は約20平方メートル。大奥の納戸付近に位置していたとのことです。万が一の時の脱出口?そんなわけないですかね。耐火性を意識した蔵という説もあります。

<松之大廊下>まつのおおろうか
shirononagori239 (33).JPG
「忠臣蔵」で有名な松の廊下の跡です。浅野内匠頭、ここでいよいよ我慢できなくなった訳ですね。

<天守台>
shirononagori239 (24).JPG
天守閣の土台部分ですね。これについては別途投稿させて頂きます。

ということで、今回はここまでです。
写真中心でしたが、最後までお付き合い頂きありがとうございます。


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