2019年07月21日

暗渠と城跡20 深谷城の濠らしき跡と濠跡

今回は暗渠の話です。といっても、少し城と関係しています。そんな話で良ければお付き合い下さい。

<暗渠>
shirononagori353 (3).JPG
今回のテーマです。

■暗渠■
まずこの見慣れない字は「あんきょ」と読みます。毎回同じ説明になりますが「地下に埋設された川や水路」という意味に受け取って下さい。蓋をされて人目につかなくなった川や水路。まぁそんな感じです。

■城跡■
<深谷城跡>
shirononagori352 (9).JPG
今回訪問した深谷城跡です。

<石垣と城壁>
shirononagori352 (2).JPG
立派ですね。でもいわゆる遺構ではありません。

深い歴史の深谷城、公園として整備されているのは良いのですが、遺構はほとんどありません。そんな城跡で、唯一と言ってよい遺構が城の東側の外濠跡でした。

<富士浅間神社>
shirononagori352 (11).JPG
城跡の東側に鎮座する富士浅間神社です。この神社のある区画の東側が唯一の遺構である濠跡です。

<深谷城外濠跡>
shirononagori352 (13).JPG
現役の時はもっと深かったはずの濠跡です。埋められた上に保全のための加工もなされていますが、このラインが濠の最も東側だったことは間違いなさそうです。

<拝殿と参道>
shirononagori353 (2).JPG
拝殿を正面から撮影。画像の右手、方角だと東側に先ほどの濠跡が見えています。

ここでちょっと城全体の縄張り図をご紹介します。少しラフですが、大まかな把握にはちょうどいいと思われます。

<深谷城の縄張り>
shirononagori352AD.JPG
本丸が島のようになっていますね。これでは渡れませんので、どこかに橋を設けたのでしょう。

で、注目すべきは城の東側、この図だと右側です。『東曲輪』又は『櫓』と表示されているあたりが富士浅間神社が鎮座する区画と思われます。ともに細長い半島のように突き出ていますね。ということは、外濠とされる側と逆側も、やはり濠ということになります。

<逆側>
shirononagori353 (1).JPG
外濠跡とは富士浅間神社を挟んで逆側です。幅広のコンクリ蓋が敷き詰めてありますね。この下はずばり水路でしょう。しかも濠跡を転用した水路。これに蓋がされている状態なのだと思われます。ということは、姿は見えなくても、この暗渠も濠跡と呼べるのではないでしょうか!!?

<暗渠と城跡>
shirononagori353 (3)b.jpg

力説しておりますが
私は学芸員とか研究者ではなく、城好きで暗渠にも興味があるというだけの会社員です。ですから、あくまでその程度の意見として受け止めて下さい。ただ、何となくそう思うという人と共有できれば幸いです。

そもそもが「だから何?」と言われてしまえばそれまでの話ですよね。ただ「そこに本来あったもの」を想像してみる。それも城跡の楽しみ方だと思っています。そのヒントとなるものが、位置的に説得力のある暗渠だった。今回はそんなお話でした。

拙ブログ、最期までお読み頂きありがとうございました。


お城巡りランキング

タグ:暗渠と城跡

2019年07月20日

深谷上杉氏の居城 深谷城のなごり

つわものどもが夢の跡
深谷上杉氏の城跡を訪ねました

<深谷城跡>
shirononagori352 (1).JPG
深谷駅から約1q。最初にこの光景が目に飛び込んできました。不慣れな街なので、ちょっと安心した瞬間です。

■深谷城のなごり■
まず深谷市の地形をおおざっぱに説明すると、南側が台地、そして北側が低地となっており、その先には利根川が流れています。深谷城は深谷市の中心部に位置し、台地の北端に築かれています。城より北側は利根川や支流の小山川によって形成された低地が広がり、城そのものは台地上。すぐ東側には北へ向かって流れる唐沢川。だいたいこんな感じですかね。

<説明板>
shirononagori352 (3).JPG
現状は城址公園。その案内です。

<公園内>
shirononagori352 (5).JPG
ほぼ公園です。

のちに経済発展を遂げる深谷市の中心地ですからね。遺構はほとんど失われており、城址公園があることで、この地が城だったことが分る。そんな感じでしょうか。

<冒頭の石垣>
shirononagori352 (2).JPG
実はこの立派な石垣も塀も、公園として整備した時のものです。実際の深谷城に、石垣は使われていませんでした。あと、かつての城の縄張りと、位置が一致していません。ですから遺構ではなく、演出なのです。

ではダメなのか?

いや、といもいい感じです。かつてここに深い歴史の城があった。そのことを、地元の皆さんで共有できている。更には、市民の憩いの場となっている。とてもいいですね。ただ、城そのものが好きで訪問する方は、どうぞ誤解のないように。


■深谷上杉氏■ふかやうえすぎ
深谷城は1416年に深谷上杉氏4代当主の上杉房憲が築城したと伝わります。深谷上杉氏は、上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の流れをくむ一族。武蔵国において勢力を誇っていましたが、小田原北条氏の勢いが武蔵国にまで及ぶと、その傘下に組み込まれました。当時の北条氏は、河越城の戦いで勝利して勢力拡大の真っ最中です。関東の諸氏が次々と北条氏に下るなか、深谷上杉氏は深谷城を拠点に抵抗を続けましたが、最後は降伏せざるを得ませんでした。

1590年の秀吉による小田原征伐(1590年)の際には、8代当主・氏憲が北条側として小田原城に詰めていました。城主不在の深谷城は重臣の秋元長朝らが守り、天下軍を相手に奮戦しましたが、全滅を避けるべく開城しています。北条氏が滅びると、深谷上杉氏も所領を失うことに。深谷城には徳川家康の家臣・松平康直が入りました。


■長沢松平家■
深谷城に入った松平康直は、長沢松平家第9代当主で、父であり8代当主の松平康忠はいわゆる『徳川十六神将』の一人として数えられる家柄です。康直は、秀吉の小田原征伐の際には岩槻城攻めに参加しており、その戦功により武蔵国深谷1万石と深谷城を与えられました。しかし若くして病没。嗣子が無かったことから徳川家康の七男・松千代が長沢松平家を継ぐものの5歳で早世。家督は松千代の兄・辰千代が継ぐことになりました。

辰千代、のちの松平忠輝は徳川家康の六男です。家康の子に間違いないのですが、忠輝は長らく家康から冷遇され続けました。生後間もない弟の方が先に深谷藩1万石の藩主となっているあたりが、それを物語っています。その忠輝が武蔵国深谷1万石から下総国佐倉5万石に加増移封された時、深谷藩は一旦廃藩となりました(1602年)。


■酒井家による深谷藩■
1622年(元和8年)、酒井忠勝により再び深谷藩が立藩されます。忠勝は老中、やがては大老にまでなった人物です。藩政にも力を注ぎますが、1627年に父である酒井忠利が亡くなり、これに伴い跡を継いで川越藩主となりました。深谷藩は廃藩(1627年)。その後しばらくたった1634年、深谷城も城としての役割を終えたようです。

<城址公園内>
shirononagori352 (8).JPG
shirononagori352 (4).JPG
遺構ではありませんが、重厚でいい感じです。

<石垣と説明板>
shirononagori352 (7).JPG
説明も丁寧です。右手の説明板には縄張り図もありました。この縄張り図はややラフですが、この城跡唯一の遺構を確認する時に役に立ちました。


■唯一の遺構■
城址公園の東側の富士浅間神社付近に、唯一といっていい遺構が確認できます。
<深谷城外濠跡>
shirononagori352 (10).JPG
深谷市指定文化財とあります。

<外濠跡>
shirononagori352 (13).JPG
とはいえやや迫力に欠ける堀跡

勿論もっと深い濠だったのでしょう。この位置が外濠のライン。それが確認できただけでも有り難いですね。

<説明板の拡大>
shirononagori352AD.JPG
公園内の説明板にあった縄張り図です。この図を参考にすると、東曲輪、あるいはそのお隣の櫓と記載されている区画の外側が、この濠跡と一致するのかもしれません。

<富士浅間神社>
shirononagori352 (11).JPG
せっかくですので濠跡が残る富士浅間神社もご紹介します。こちらは鳥居

<拝殿>
shirononagori352 (12).JPG
拝殿です。創建は不明ながら、深谷城内の鎮守の一つで、1440年勧請とも伝わります。

現地はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
深谷城は松平氏・酒井氏により江戸初期まで使用された城跡。しかし歴史の大半は深谷上杉氏の居城です。関東管領・山内上杉氏の同族が城を築き、武蔵国で一定の勢力を保ちながら深谷の地を治めた。この史実とともに、城周辺の地形もおおまかには実感できたので、満足な訪問となりました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori352 (9).JPG

------■深谷城■------
別 名:木瓜城
築城主:上杉房顕(深谷上杉氏)
築城年:1456年
城 主:深谷上杉氏
廃城年:1634年
現 況:深谷城址公園
[埼玉県深谷市本住町]


お城巡りランキング

2019年07月14日

東方城のなごり 深谷市

つわものどもが夢の跡
深谷城の支城的な役割を担ったとされる城跡を訪ねました。

<東方城跡>
shirononagori351 (3).JPG

■東方城■ひがしがたじょう
築城時期については定かではありませんが、深谷上杉氏家臣の城だったと伝わりますので、室町時代には既に存在していたと思われます。

深谷上杉氏は上杉氏諸家のひとつで、深谷城を本拠に武蔵国で一定の勢力を誇っていました。しかし戦国期に突入して、小田原の北条氏の勢力が関東に及ぶとこれに服従。その北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされると、所領没収となりました。

関東にたくさんあった中世の城は、このタイミングで廃城となるケースが多いですね。しかし今回訪問の東方城は、もうちょっとだけ城としての役割を担うことになります。関東へやってきた家康の家臣・松平康長が1万石の所領で東方城へ入ることに。康長は家康の古からの家臣で、先述の小田原征伐でも上野白井城を落とす武功を挙げています。そういった戦歴を経て、1万石とともに城を与えられたわけですね。
康長は関ヶ原の戦でも活躍し、これが認められて上野国白井藩(群馬県渋川市)に加封されることになります(1601年)。東方城はこの頃に廃城となったと思われます。

<現地到着>
shirononagori351 (8).JPG
この道もかつての城のなごりでしようか。右手は明らかに土塁です。左側も土塁だとすると二重土塁でしょうか。あるいは堀切?

<土塁の上>
shirononagori351 (7).JPG
土塁の上に登って撮影。城の原形は留めていませんが、しっかりとした遺構が確認できます。

<土塁の上から見た曲輪>
shirononagori351 (4).JPG
ただし藪の中なので、探索は一苦労。全体の一部なのか、あるいはこの空間だけの単郭だったのか、ここだけでは判断できず。

<曲輪の中>
shirononagori351 (5).JPG
土塁から降りて曲輪の中へ
shirononagori351 (2).JPG
いい感じの土塁が曲輪を囲んでいます。ただ身動きがとれないことと、窮屈な空間に若干の不安を感じ、一旦外へ出てることにしました。

道を下って正面と思われる側に回ってみました。

<虎口>
shirononagori351 (9).JPG
曲輪の北側です。ここがむかしからの入り口なのでしょうか。城跡を縁取るように、水路が施されています。

shirononagori351 (10).JPG
だいたいこんな感じですが、草木が多くて全体が良く分かりませんね

<上から撮影>
shirononagori351 (1).JPG
さきほどの曲輪らしき場所を高い位置(県道261号)から撮影しました。東方城は台地の端に築かれていることが分ります。そして城の正面入り口は低地。台地の斜面も含めて城だったという理解で良いですかね。

上の画像の手前の道からもっと接近してみたかったのですが、私有地と思われ、更に暮らしに直結した領域と判断し、立ち入りはしませんでした。実は事前の情報で、台地上の個人宅の奥に土塁があると聞き及んでいたのですが、訪れてみると固く門が閉ざされており、断念しました。門は明らかに後から造り足した頑丈なものです。あくまで想像ですが、心無い訪問者に困ってのことなのではないでしょうか。東方城跡は市指定史跡となっていますが、見学に配慮は必要です。城跡巡りはあくまで趣味の世界。実際にそこで暮らしている人達の迷惑になってはいけませんよね。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori351 (6).JPG
現地で城の全体像を実感することは困難です。しかし、かつてここに城があったことは実感できます。城があったということは、誰かの思惑が込められていたということ。その欠片に触れることができました。

------■東方城■------
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
城 主:深谷上杉氏・北条氏
    松平康長
廃城年:1601年頃
[埼玉県深谷市東方]


お城巡りランキング

宮ヶ谷戸城跡とされる場所 (深谷市)

埼玉県深谷市の城跡巡りのつづきです。事前に決めていた行先の途中、城跡と言われている場所があるらしいことが分かり、ちょっと立ち寄ってみました。

<住吉神社>
shirononagori350 (1).JPG
深谷市宮ヶ谷戸の住吉神社です。この付近が宮ヶ谷戸城跡という情報を得て訪問しました。

<拝殿>
shirononagori350 (3).JPG
一応手を合わせました。祈りごとではなく、お邪魔しますをお伝えするために。

<境内>
shirononagori350 (4).JPG
境内はシンブルながら良い雰囲気で、松尾芭蕉の句碑などもありました。ただ、城に関わるものは何もない。少なくとも私の見た限りにおいては。

<周辺>
shirononagori350 (6).JPG
まとまった広さの敷地を見つけ、うろうろと歩き回りましたが手がかりなしです。他は個人宅なので撮影しませんでした。


そもそも宮ヶ谷戸城とは誰の居城だったのか、あまりはっきりしていません。広々とした方形の城の周囲には、堀と土塁が施されていたらしいのですが、周辺を見た限り、そのなごりが漂う場所はありませんでした。

まぁこういうこともあるだろう

ということで
今回は城跡とされるエリアに足を運んだが、何も見つけられなかったというお話でした。手短に言えば『徒労に終わった』ということになりますが、城跡巡りをしていれば時々あること。まぁこれもまたいい思い出です。

shirononagori350 (2).JPG
よそ者がお騒がせ致しました

■訪問:住吉神社
[埼玉県深谷市宮ヶ谷戸] 181番


お城巡りランキング

深谷城の北の出城 皿沼城のなごり

つわものどもが夢の跡
せっかく深谷市に来たので、川沿い散歩も兼ねて『城跡とされる場所』を訪ねました。

<現地>
shirononagori349 (4).JPG
目標としたのは唐沢川に架かる橋です。その東側に石碑と説明板がある。たったそれだけの情報で川沿いを歩きました。

■訪問記■
<唐沢川>
shirononagori349 (1).JPG
こちらは利根川水系の唐沢川です。深谷市の北側は利根川となっており、この川も南から北に向かって流れています。その流れに沿っててくてくと。大まかに言えば低い方へ向かって歩いていています。

<川が交差する地点>
shirononagori349 (3).JPG
城跡とは関係ありませんが、ちょっとここで足が止まりました。唐沢川に向かって直進してくる川を発見。福川といいます。分かりにくいので筆をいれさせてもらいました。赤↓が橋、青い線が福川です。合流するのではなく、唐沢川を潜って通過するんですね。だから何?といわれればそれまでですが、水路好きなので。こういうのを「伏せ越し」といいます。治水に力を入れている証と受け止めることもできますね。

<現地到着>
shirononagori349 (6).JPG
さてさて、けっこう歩いてやっと到着。遺構は無いと知りつつも、立派な石碑に一安心した瞬間です。ただ、このあと想定外の事実を知ることに。

<石碑>
shirononagori349 (7).JPG
唐沢放水路記念碑?あら、城跡とは関係ないのですね

事前のネット検索で、この光景は頭に入っていましたが、城と関係あるのは隣の説明板だけのようです。石碑と説明板がセットと思い込んでいました。まぁ何もないよりいいですかね。この地点には、説明板を立ててくれた方々の思いが込められているのですから。

<説明板>
shirononagori349 (5).JPG
深谷上杉氏家臣の城があったようです。戦国末期、深谷城を本拠とする深谷上杉氏は小田原北条氏の配下となっていましたが、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、この地にあった城は廃城になったようです。

情報が少ないため、以下に現地説明板を抜粋させて頂きます。
『深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。』
[出典:深谷上杉顕彰会説明文]

築城者は深谷上杉氏の家臣・岡谷香丹(おかのやこうたん)。城は周囲より高台となっていたが、レンガの原料として削られ姿を消した。ということですね。現地は他には何もないようなので(空堀跡があると聞きながら確認できず)、説明文にあった諏訪神社を訪ねることにしました。

<諏訪神社>
shirononagori349 (8).JPG
城の鎮守とされた諏訪神社です。城跡の説明板から南へ向かって少し歩いたところになります。

<社殿>
shirononagori349 (11).JPG

<盛り土>
shirononagori349 (12).JPG
境内の隅に土を盛った跡があります。土塁?確証はありません。

ところで
地名の皿沼。気になる名前です。地名がその土地の地形などを表しているケースは多いですからね。
サラ」はいろいろ解釈ができますが、新しいとか浅いとか、そんな意味ですかね。新しい沼?人が新しく開拓した沼地?あるいは浅い沼?浅く広がる沼のような湿地?だからサラ沼。いずれにせよ、城は地名から連想されるような低湿地に築かれたのでしょう。そう受けとめることにしました。

■つわものどもが夢の跡■
深谷上杉氏の本拠・深谷城の北を守備するための出城です。深谷城が深谷上杉氏の手を離れる時に、城としての役割は終りました。

------■皿沼城■------
別 名:上敷免城
築城主:岡谷香丹
築城年:1492年(延徳3)
城 主:深谷上杉氏
(岡谷香丹・清英)
廃城年:1590年頃(天正18)
[埼玉県深谷市上敷免字皿沼]



お城巡りランキング

2019年07月13日

レンガの街のなごり あかね通りと福川鉄橋跡

今回は深谷市でみつけた線路のなごりです。ただの線路ではなく、あの渋沢栄一とも関係のあるレンガ工場専用線路のなごりです。

<展示されている橋>
shirononagori348 (1).JPG

■深谷の田園地帯にて■
深谷市へは城跡探索で訪問しました。てくてくと田園を歩くうちに、何となく不自然な道と出会うことに

<不自然な道>
shirononagori348 (2).JPG
なんか変わった道だな

延々と続く盛り土されたような道。最初は地下に埋設された水路(暗渠)か?と思いました。高さを維持するため、周囲より高くなっている用水路はいくらでもありますので。しかしこの道を歩いた先で、その答えは見つかりました。

<レンガと線路>
shirononagori348 (6).JPG
あれは、橋を展示しているのか

公園の一角にレンガ造りの立派な橋の姿が。かつての橋のなごりか?これは足を止めずにはいられません。

<説明板>
shirononagori348 (3).JPG
福川鉄橋か・・・

線路が川を通るために架設された橋。歩いてきた道は線路跡だったようです。福川は深谷市を流れる利根川水系の川です。説明を前半だけ抜粋すると
『日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたプレート・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーダー橋です。』※以下省略しています。

日本煉瓦製造・・

<日本最古>
shirononagori348 (5).JPG
レンガ運搬のための線路。そしてこの橋はその道のりの一部だったわけか。そしてその「ポーナル型プレート・ガーダー橋」としては現存する日本最古の橋なのですね。

<表示板>
shirononagori348 (4).JPG
なるほど。ここはかつてのレンガ工場と深谷駅の間なんだ

ここ深谷には、渋沢栄一らによって設立されたレンガ工場がありました。日本で初めての機械式レンガ工場です。社名は日本煉瓦製造株式会社。1887年から操業を開始して、東京駅日本銀行など、東京にお勤めの方なら「ああ、あのレンガ造りか」とすぐにわかるような名だたる近代建築物に、実は深谷のレンガが使用されているのです。

今回出会った線路跡は、そのレンガ工場と深谷駅を結ぶ物流のための専用線路でした。当初は利根川を経由して運ばれていましたが、駅から工場までの約4.2kmにわたり鉄道が敷かれることに。その貨物専用路線のなごりが、田園地帯にやや不自然に残る道ということです。道は「あかね通り」と呼ばれていいます。

<現地説明板>
shirononagori348 (9).JPG
shirononagori348 (12).JPG
なるほど

<福川とあかね橋>
shirononagori348 (7).JPG
いまはこの橋で福川を渡ることができます

<あかね通りにて撮影>
shirononagori348 (8).JPG
あかね橋を渡ってすぐのヘンチでちょっと休憩。靴ひもを結び直そうとしたおかげで気付きました。レールの断面をイメージしてるわけですね。

<線路のなごり>
shirononagori348 (13).JPG
事情が分かれば素敵な道。廃線後の敷地の有効活用というだけでなく、歴史を今に伝える貴重な産業遺構ということですね。

レンガの需要は減少し、安い輸入品の影響もあって、工場は既に閉鎖されています。しかしそのなごりと出会うことができました。不慣れな街で非効率に歩き回りましたが、おかげで得をしました。

<深谷駅>
shirononagori348 (14).jpg
近代産業の発展に大きく貢献した街です。その一部を感じる機会となりました。

<渋沢栄一像>
shirononagori348l.JPG
渋沢栄一生誕の地でもあります。

■訪問:旧福川橋梁
[埼玉県深谷市原郷]



お城巡りランキング

2019年07月10日

久地円筒分水と溝口暗渠散歩(川崎市)

今回は久々に水路の話です。

久地円筒分水くじえんとうぶんすい
<円筒分水>
shirononagori347A4.JPG
こちらは川崎市の二ヶ領用水久地円筒分水。中央の円筒から水を湧き上げ、外側の円筒の淵から溢れさせて、水路に流す仕組みになっています。思いのほか大きい!円筒は中央が直径8m、外側は16mです。

shirononagori347A1.JPG
溢れさせて

shirononagori347A3.JPG
分水されて各々の水路へ

<憩いの場所>
sn347ad.JPG
円筒分水そのものは他にもありますが、ここ高津区の円筒分水はその先駆け。今では周辺も整備されて、市民の憩いの場所にもなっています。


■二ヶ領用水の分水■にかりょうようすい
二ヶ領用水とは、多摩川から引き込んだ水を川崎市内の広範囲に渡って供給する用水路で、その始まりは江戸時代初期まで遡ります。ここ久地では、古くから二ヶ領用水の水を4つの堀(久地堀・六ヶ村堀・川崎堀・根方堀)に分水していました。しかし樋(水門)による水量の調整は難しく、水をめぐる揉めごとの種にもなっていたそうです。昭和になってコンクリート製の円筒分水が造られ、円周比による正確な供給が可能になったとか。

円形なら均等に淵から溢れ出ますよね。これを予め約束した比率(灌漑面積に応じた比率)で仕切っておけば、同じ割合で水を供給し続けることができますね。ここへ流れ込む水量が変わっても、分水の比率は変わらない。なるほど、納得です。

以前から存在だけは知っていた二ヶ領用水久地円筒分水。その実物を目の当たりにすることができ、満足な訪問となりました。

■訪問
二ヶ領用水久地円筒分水
[神奈川県川崎市高津区久地]

終わり

ではなく、この日はここから先の水の行方を追いました。円筒分水から分水される4つの堀の1つ、根方堀のいまを確認しに。


溝口暗渠散歩

■根方堀■
根方堀は先ほどご紹介の円筒分水から始まり、現在の川崎市高津区南東部の平地を潤した用水路です。根方十三ヶ村堀ともいいます。ニヶ領用水を、13の村に届けるための水路ということですね。13の村とは、具体的には久本・溝口・坂戸・末永・新作・清沢・厳川・子母口・明津・ 新城・上小田中・下小田中・神地。このうち久本村溝口村のいまを確認すべく、溝口の駅へと向かいました。

と、ここまではいつも通り単独行動。このあと、武蔵溝ノ口駅改札前で街探索のお仲間たちと合流しました。川崎を愛し、川崎を知り尽くしたKさんと、同じく地元で庚申塔に詳しいSさんに導かれ、江戸時代の絵図を片手に古き溝口のいまの姿を確認して歩きました。10人を越える参加者の関心事はまちまちですが、川と水路、そしてそれらが地下に埋設された暗渠は全員共通テーマです。

■溝口探索■
大まかには溝口周辺の散策ですが、この日はリーダーKさんのチョイスで、溝口の南側にに広がる旧久本村をメインに散策しました。

Kさんによれば、久本村は多摩川の氾濫低地を水田として利用し、台地を集落や畑として利用した二段構えの構造になっているとのこと。その間を貫く『神奈川道』と呼ばれる古道、そして二ヶ領用水根方堀を辿る探索です。もちろん、寄り道を沢山しながら。以下脈略ありませんが、散策時の画像です。

<ポレポレ通り>
shirononagori347b.JPG
人通りの多いポレポレ通りです。上手く人を避けて撮影できましたが、実際には買い物客で賑わっていました。もはや水の雰囲気は漂っていませんが、かつては水路。蛇行する自然の川とは異なり、直線に掘られた用水路のなごりです。

<南田堰>
shirononagori347B2.JPG
かつてここに用水路の堰があったようですね。根方堀がこの付近を流れ、近くにあったこの南田堰をめぐり、溝口村と久本村の間で大きな水騒動がおこったとのこと。こういった水をめぐる争いは、この地に限らず日本全国で起きていた問題です。我が国の農業は水田がメインですからね。水がどれだけ重要か、改めて考えさせられます。


<アーケードの下>
shirononagori347c.JPG
こちらはアーケードの下に飲み屋がひしめく線路沿いのマニアックなエリア。左手の線路側は
shirononagori347c2.JPG
暗渠になっていますね。ひっそりと。南武線の線路との間を流れていく根方堀の暗渠です。この景色の情緒が人を引き付けるのでしょうか。暗渠ファンには知られた場所で、私もSNSなどで何度かこの景色を見たことがありました。そして今回ついに初訪問です。

<暗渠>
shirononagori347c4.JPG
右側は水路が埋設されている状態なので、その断面を見ただけで、道とは構造が異なるのが分りますね。

<暗渠は続くよ>
shirononagori347c6.JPG
どこまでも

<橋のなごり>
shirononagori347c5.JPG
構造上の理由で取り除かなかった橋のなごりですかね


さてさて
次は暗渠と先述の神奈川道です。

<暗渠と古道>
shirononagori347f (3).JPG
丘と低地の境界線を、ここまで寄り添うように並んでいた根方堀と神奈川道ですが、高低差の都合でお別れです。左側の物置の下が根方堀の暗渠。右手に続く道が神奈川道です。神奈川道の行き先は神奈川宿。東海道五十三次の3番目の宿場です。
shirononagori347f (4).JPG
物置の向こう側に続く暗渠です。


暗渠以外にもいろいろと

<久本神社>
shirononagori347f (2).JPG
高津区久本の久本神社。明治になって、久本村内にあった4社を合祀して創建されました。古くより地元民の尊崇をあつめて来た久本の鎮守です。

<庚申塔>
shirononagori347d.JPG
こちらは通称片町の十字路にある庚申塔です。庚申信仰の本尊とされる青面金剛が、邪鬼を踏みつけているお姿。その下には見ざる言わざる聞かざるが刻まれています。また、この庚申塔は大山街道の道標としての役割も担っていました。大山街道とは、江戸の赤坂御門から始まり、ここ溝口を経て伊勢原・矢倉沢へ至る長い長い道のり。その街道沿いに立ち、道行く人に行く先が正しいことを示し続けてきたわけですね。

<濱田庄司生誕の地>
shirononagori347s.JPG
濱田庄司は第1回人間国宝に認定された益子焼の陶芸家。ここ溝口の生まれだそうです。

<久本薬医門公園>
shirononagori347f (1).JPG
立派な門です。こちらは江戸時代から8代続いた医家・岡家の屋敷跡です。地域に貢献した岡家跡地は、地元民の願いから公園として整備されています。

かなり省略しましたが、だいたいこんな感じの探索となりました。不慣れな街でありながら、効率的で、更に奥深い体験となりました。ご案内役のKさん、Sさん、そして参加者の皆さまに感謝です。

shirononagori347f (5).JPG

以上
溝口暗渠散歩でした。この後は参加者の皆さまと地元の人気店にて。

<玉井 西口店>
tamai.jpg

<金運つくね>
tamai2.JPG

昼も夜も充実の一日でした。


------お勧め暗渠本------
実は今回の溝口暗渠散歩に、暗渠ファンの間では有名な方が参加されていました。いつもなら逆に説明をする立場の方ですが、今回はご自身の関心事に集中できた様子。著書は沢山ありますが、私のお勧めは「はじめての暗渠散歩」です。著者4名のうちお一人が、今回ご一緒させて頂いた方です。さて、誰でしょうねw

はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
本田創/山英男/吉村生/三土たつお




お城巡りランキング
タグ:暗渠

2019年07月07日

生田緑地の山城 枡形城のなごり

つわものどもが夢の跡
川崎市に残る古い山城を訪ねました。
<枡形城本丸跡入口>
shirononagori346 (10).JPG

■枡形山■ますがたやま
多摩丘陵の一角に位置する生田緑地。今回訪問の城跡は、この緑豊かな広大な敷地のなかにあります。最寄駅は小田急線の向ヶ丘遊園駅。目指すは緑地内の枡形山です。

<地図>右側が北
shirononagori346 (1).JPG
駅から生田緑地へ向かう途中に地図があったので撮影。地形がよく分かります。中央の赤字が現在位置です。多摩丘陵と多摩川の間に今いるわけですね。大昔なら低湿地、あるいは川の氾濫域だったのかもしれません。

<二ヶ領本川>
shirononagori346 (2).JPG
こちらは川崎市が誇る歴史ある用水路の一部なんですが、長くなるので今回は省略します。ここ渡って生田緑地を目指します。

<生田緑地入口>
shirononagori346 (3).JPG
目的地にほぼ到着。川崎市内最大の緑地への進入口です。枡形山への登場口はここからすぐそばです。

<枡形山入口>
shirononagori346 (4).JPG
ありました。ここから登ります。山の東側から頂上を目指すコースです。

<案内板>
shirononagori346 (6).JPG
こちらのコースはやや勾配がきついですが、しっかりとした登山道が整備されていますし、途中にベンチもあります。ゆっくり登れば大丈夫。この山には長く長くのびた緩やかな尾根といったものは無く、頂上付近は四方が断崖のようになっています。枡形という名は、こうした地形に由来すると考えられています。

<登山道>
shirononagori346 (5).JPG
梅雨の真っ只中。この日も雨でしたが、目に優しい緑に癒され、特に苦も無く登ってゆきました。

<山中>
shirononagori346 (8).JPG
苦も無くと言ってもそんなに楽ではない。でも普段運動不足のオッサン(私です)にはいい試練です。

<まだ続く>
shirononagori346 (7).JPG
ここはあくまで川崎市です。貴重な緑ですね。

<平らな区画>
shirononagori346ad.JPG
本丸と言われる頂上の手前で、平らな区画を見つけました。昔の曲輪のなごり?かとも思いましたが確証はありません。

<板塀>
shirononagori346 (9).JPG
まもなくゴール。右手の城を模した壁の向こうが桝形山の頂上です。


■鎌倉幕府御家人の城■
今回訪問の枡形城は、稲毛三郎重成により築かれたとされています。重成は源頼朝に仕えた御家人。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、現在の川崎市高津区・中原区付近を領して、稲毛氏を名のりました。父は小山田氏の祖となる小山田有重、いとこは坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠、妻は北条政子の妹です。これだけでも凄い人物だと伝わってきますね。更に主要な合戦で活躍した実績もありますので、幕府の中枢にいた御家人と思って良いですね。桝形城はその居城であったというのですから、当時としては重要な城。そしてそうとう古い城ということになりますね。

いまの桝形山の状態からどこまで想像して良いのか分かりませんが、時代背景も考慮すると、桝形城はあまり複雑な構造の城ではなかったような気がします。要害の地を選び、頂上を平坦に造成し、あとは適所に小規模な曲輪を配置した。そんなシンプルな山城だったのではないでしょうか。

<冠木門>
shirononagori346 (11).JPG
枡形門を名乗っていますが、いわゆる城用語でいう枡形門の構造にはなっていません。

<入口付近>
shirononagori346 (13).JPG
あるいは、昔は枡形だったとか? ここでいう桝形とは、入口を壁などで囲った四角形の区画のこと。この城は、独特の地形を指して桝形と呼んでいたようなので、あまりそこに拘らないほうが良いですかね。

<盛り土>
shirononagori346 (15).JPG
門の横の盛り土は?土塁跡でしょうか(違うと思います)

<山頂の碑>
sn346ad4.JPG
海抜八十四米と刻まれています。山頂は平坦。東西130m、南北80mとのこと。結構広いですね。桝のように四角い平地となっています。

<展望台>
sn346ad5.JPG
エレベーター付きの展望台。ちょっと城を意識したデザインなのでしょうか。

<枡形城址の石碑>
shirononagori346 (14).JPG
地形に納得したものの、それらしい遺構は確認できなかったので、こういう石碑があるとホッとします。

城内はだいたいこんな感じです

■つわものどもが夢の跡■
鎌倉幕府の中枢といっていい稲毛重成の居城。戦国初期には、山内上杉氏討伐を目論む北条早雲がこの城に入ったという話があります。また、武田信玄の小田原攻めに際しても利用されたとのこと。これらの話の詳細はわかりませんが、四方が険しく低地に川を望むこの枡形山なら、いつどの時代に陣城として使われても不思議ではないと思えました。

<つわものどもが夢の跡>
sn346ad1.JPG

雨天ながら、気持ちの良い訪問となりました。

------■枡形城■------
別 名:枡形山城
築城主:稲毛重成
築城年:(鎌倉時代初期)
城 主:稲毛重成
廃城年:詳細不明
[神奈川県川崎市多摩区枡形]



お城巡りランキング

2019年06月22日

早雲生涯の居城 韮山城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国初期の英雄・北条早雲生涯の居城を訪ねました。
shirononagori345 (33).JPG

■韮山城■ にらやまじょう
北条早雲の城として知られる韮山城。その築城年については、あまりはっきりしたことは分っていません。既にあった小規模な城を、この地を領有することになった早雲が、本拠とすべく本格的な改修を行ったと考えられています。早雲が小田原城を攻略して相模へ進出したあとも、韮山城は早雲の本拠であり続けました。

生涯の城

韮山の城は北条早雲にとってそういう城でした。


■北条早雲■ ほうじょうそううん
北条早雲と言えば、素浪人から大名にのし上がったいわゆる下剋上の典型のようなイメージですね。ただ最近の研究では、名も無き浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた一族の出という説が有力になっています。本名とされる伊勢新九郎、伊勢宗瑞が示す通り、名門とされる伊勢氏の出。早雲も幕府の役人を務め、その頃に名だたる寺で禅を学んだとされています。こういったことは、早雲本人の生き方に影響しただけではなく、子・氏綱や孫・氏康といった戦国に名を残す後継者たちにも影響を及ぼしているのかもしれませんね。ちなみに、北条早雲とはのちの呼び名で、ご本人は北条を名乗っていません。話が長くなるので、今回は北条早雲で通します。

今川家の客将となった早雲は、当主・義忠が戦死するとまだ幼い嫡男・龍王丸をサポートし政敵を排除。この頃、兵を率いて駿河へやってきた太田道灌とも面会しているようです。

龍王丸が氏親を名乗って今川家当主になると、早雲には伊豆に近い興国寺城が与えられます。この城を拠点に、早雲は伊豆へ進出。最大勢力の内紛に乗じて伊豆堀越御所を襲撃し、堀越公方足利政知の子・茶々丸を追い払います。そして焼き払った御所近くの城を改修し、拠点を興国寺城からこの城へ移します。これが今回訪問の韮山城です。

さて
支配者を追い払ったぐらいでは国を治められません。韮山城へ移った早雲は、味方になるなら本領を安堵することを領民に約束し、更に税の負担を軽くし(四公六民)、配下の兵には乱暴狼藉を禁止しました。茶々丸の悪政に苦しんでいた領民は、たちまち早雲に従ったと伝わります。

<城内>
shirononagori345 (9).JPG
戦国初期の英雄の城です。北条氏の拠点が小田原に移ったあとも、伊豆の統治、そして武田氏などに対抗するための防御拠点として、韮山城は重要な城でありつづけました。


■北条氏規■ うじのり
小田原北条氏にとって重要拠点であり続けた韮山城。戦国末期となり、秀吉が20万を越える大軍で北条征伐に乗り出した時には、北条氏規が城を守っていました。氏規は第4代当主・氏政の弟です。織田信雄(信長の次男)率いる4万とも言われる大軍を前に、氏規は10分の1以下の約3千6百の兵で応戦し、韮山城で約百日間も持ちこたえました。

shirononagori345 (27).JPG

兄の氏照(八王子城主)や氏邦(鉢形城主)と比較して、武勇ではやや地味な印象の氏規ですが、これは善戦と言って良いのでではないでしょうか。開城を促すべく、天下軍が力攻めをしなかったという説もありますが、百日これに応じなかったことは事実です。

最後は秀吉に派遣された徳川家康の説得により、城を明け渡すことに。この背景には、北条側の主要な城が既に落とされていたこともありますが、城主である氏規本人が、交渉役となった家康と親交があったことも影響したと思われます。氏規は人質として今川家へ送られ駿府で過ごした経験があり、同じく人質であった家康とは古くからの知り合いでした。

そもそもの話として、氏規はこの戦には反対でした。一族存続のため、秀吉へ臣従するべきと主張していたのですが、兄の氏政・氏照らがこれを認めず、巨大な勢力を敵にまわすことになりました。

■廃城■
北条氏滅亡後は、家康の家臣・内藤信成が伊豆国1万石を与えられ入城します。その内藤信成が駿府城を与えられ4万石の領主となる時に、韮山城は城としての役割を終えています(1601年)。


■現地訪問記■
<城池親水公園>
shirononagori345 (1).JPG
韮山城は典型的な山城です。麓は公園として整備されていて、ご覧の通り大きな城池となっています。この日は友人の車で訪問。公園の駐車場に車を停めて探索開始です。

<道標>
shirononagori345 (2).JPG
韮山城は右手ですね。とても親切な公園なので、道に迷うこともありません。ちなみに、表示のある江川邸は重要文化財にもなっている代官屋敷跡です。今回はあくまで韮山城そのものにテーマを絞っていますが、隣接する山にも複数の砦が築かれたそうです。

<説明板>
shirononagori345 (3).JPG
予習しなくてもここでじっくり読めば充分です。

一部だけ抜粋すると『明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。』とのこと。また、城が築かれた山は、通称・龍城山と呼ばれるそうです。左側が城の縄張り図。南北に細長い山の尾根上に、曲輪が直線的に配置されています。

では
説明板の位置から進入しやすい三の丸方面へ向かいます。

<山城>
shirononagori345a (2).JPG
本来なら険しい道のりのはずですが

shirononagori345a (1).JPG
登城口にはこういった木段が設けられています。草木を掻き分けて登るような覚悟は不要です。

<三の丸の土塁>
shirononagori345 (4).JPG
ついに来たかという満足感で一杯でした。三の丸の一部はテニスコートとなっていましたが、それもまた良し。市民から親しまれている城跡ということですね(人影が見えたので撮影せず)。テニスコートの三方を厚みのある土塁が囲んでいる状態です。

<堀切と虎口>
shirononagori345 (7).JPG
堀切が見えました。別の曲輪への入口(虎口)です。

<道標>
shirononagori345 (8).JPG
この先は三の丸の南側の権現曲輪ということですね

shirononagori345 (11).JPG
とりあえず案内に従って権現曲輪方面へ

<熊野神社の鳥居>
shirononagori345 (17).JPG
権現曲輪を象徴する景色です。ここが一番心癒されましたかね。奥の土の壁は、二の丸の切岸です。荒々しく閉鎖的な空間ですが、中央に鳥居があるだけで凛とした空気が漂います。

<熊野神社の社殿>
shirononagori345 (15).JPG
早雲が城の守り神として祀ったことに始まります。

<高低差>
shirononagori345 (14).JPG
高低差を味わいながら下から見上げた社殿。熊野神社付近は、明らかに周辺とは違う雰囲気の区画となっているので、櫓を築くなどしたなごりではないでしょうか。

<上から見た三の丸虎口>
shirononagori345 (16).JPG
これはテニスコートがあった三の丸へ向かう木段を、上から撮影したものです。ボッーと歩いていると、この位置から撃たれていたことになりますね。要所要所でそんなことを感じるのも、現地ならではの楽しみです。

次に二の丸・本丸方面へ向かいます。ここから一気に

shirononagori345 (18).JPG
堀切の道を進みます

shirononagori345 (22).JPG
通り抜けた先に広い区画があるようです

shirononagori345 (21).JPG
二の丸跡ですね

shirononagori345 (23).JPG
山頂からの眺め

shirononagori345 (24).JPG
そして本丸跡です

shirononagori345 (25).JPG
本丸より先の尾根づたいに、更に魅力的な遺構が続きます。方角でいうと城の南側です。

shirononagori345 (26).JPG
ちょっと構造が分りにくいですが、左手は土塁で、その下は道になっています。むかしどのように使われていたのかが分からず

shirononagori345 (29).JPG
人の手による工夫がしっかりと巡らされています。どのように機能していたのか分からず

shirononagori345 (30).JPG
この付近は塩曲輪とか煙硝曲輪とか呼ばれるエリア。食糧にせよ火薬にせよ、物資を備蓄していた区画ということでしょうか。私はそう受け止めました。

shirononagori345 (31).JPG
障子堀かと思うような構造でしたが、ちょっと分からず。凝った堀が必要な場所とは思えなかったので、勘違いということにしておきます。

経験不足から、南側の区画では遺構の具体的な役割を想像することができませんでした。ただどれも興味深く、今回の訪問で最も時間を割きました。

shirononagori345 (32).JPG
切り立った崖の上に設けられた細長い区画の探索もここまでです。

最後は山の麓へ

shirononagori345 (36).JPG

shirononagori345 (37).JPG

shirononagori345 (35).JPG
この窪みは船の利用と関係しているのでしょうかね

shirononagori345 (40).JPG

shirononagori345 (42).JPG
この付近まで湿地が迫っていた。そんな雰囲気が漂いますが、あくまで個人の見解です。

ちょっと駆け足になりましたが、城内はだいたいこんな感じです。


■つわものどもが夢の跡■
ネズミが2本の大杉を食い倒し、のちに虎となる。
これは早雲が見た夢の話です。ネズミは子年生まれの自分であり、大きな2本の杉は、即ち当時関東で勢力を誇っていた山内と扇谷の両上杉氏のこと。早雲はこの夢をきっかけに関東進出を決意しました。やがて息子の氏綱が関東で勢力拡大、そして孫の氏康が両上杉氏を実質的な滅亡にまで追い込みました。よく二代目はダメという話を耳にしますが、逆に二代三代とますます拡大していった北条氏。代々受け継がれたのは、出来上がってしまった地位やら富ではなく、未完のままの夢だったのではないでしょうか。

夢の結末を知ることなく、早雲は韮山城で没しました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori345 (19).JPG

------■韮山城■------
別 名:龍城
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
改修者:北条早雲
城 主:北条早雲・北条氏規
廃城年:1601年(慶長1年)
[静岡県伊豆の国市韮山]



お城巡りランキング

タグ:北条

2019年06月09日

刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川

今回は泪橋の話です。

■泪橋と思川■
<泪橋跡>なみだばし
1812sn344 (5).JPG
泪橋の交差点です。場所は南千住駅の南側。川が暗渠化され橋は姿も無く、その名が交差点やバス停残るのみです。

<思川跡>おもいがわ
1812sn344 (6).JPG
姿を消した思川台東区と荒川区の境を流れていました。この道がそのままかつての流路ということになります。

<説明板>
1812sn344 (1).JPG
橋の名の由来として『囚人たちが現世を去るに際し涙を流しながら渡った』または『囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らした』といったことが記されています。[出典元:荒川区教育委員会]


■江戸時代の刑場■
当時の刑場ですから、今では想像もできない「火あぶり」や「はりつけ」といった刑が執行されていました。時代劇のお裁きで「獄門!」という言葉をよく耳にしますが、これは斬首のあとに死体を試し斬りにし、斬り落とした首は台に載せて見せしめとして晒しものにする刑のことです。ですから相当重い裁きということですね。ここまでやるなら獄門が最高刑かと思いきや、これに市中引き回しが付け加えられた例もあったそうです。そう言われてみると「市中引き回しのうえ獄門!」などという台詞をどこかで聞いたような気もします。

泪橋の先にあった小塚原刑場は、山谷地区の北側、現在の東京都荒川区南千住2丁目に位置します。刑場跡(首切地蔵)付近まで足を運んだものの、どうも気が引けて、場所の確認だけで終わってしまいました。あの付近なのだろう。この時はそれで充分でした。

小塚原刑場が設置されたのは1651年。明治になるまでの間に、約20万人が処刑されたそうです。有名なところでは、安政の大獄で処刑された吉田松陰といったところでしょうか。名は他にもあげられますが、事情を良く知るわけでもないのでやめておきます。

そういった人たち
これから刑を執行される者が、小塚原の刑場へ向かう途中に渡った橋が泪橋です。


■もうひとつの泪橋■
品川の鈴ヶ森刑場近くの川に架かっていた橋も「なみだ橋」の名で呼ばれていたそうです。漢字だと涙橋。正式名は浜川橋です。

<涙橋>
sn343 (4).JPG
刑場近くの橋という点は荒川区の泪橋と同じです。

<立会川>
sn343 (1).JPG
思川は姿を消しましたが、こちらはいまでも現役の川。上流は暗渠となっていますが、河口に近いこの付近は開渠、つまり水面が見える状態です。

ちなみに
小塚原刑場と鈴ヶ森刑場、これに八王子の大和田刑場を加えて江戸三大刑場と呼ぶそうです。小塚原刑場は日光街道沿い、鈴ヶ森刑場は東海道沿い、大和田刑場は甲州街道沿いにあり、みな江戸の入り口とも言える場所に設けられていました。悪巧みで江戸にやってくる者を威嚇する意味があったようです。


■玉姫稲荷にて■
ところで
泪橋というと「あしたのジョー」を思い出す方も多いのではないでしょうか?丹下拳闘クラブは、泪橋の下にありましたね。あのお話の設定だと、ドヤ街に流れてきた人間たちが、涙で渡る橋が泪橋。つまり橋を渡った先を、刑場からドヤ街に置き換えた設定でした。段平はその泪橋を逆に渡って、いつか栄光を掴もうとジョーに語りかけていましたね。

まぁ細かい設定の話は良いとして、かつて実際にあった泪橋跡からの帰り道、立ち寄った神社でジョーと出会うことができました。

<玉姫稲荷神社拝殿>
1812sn344 (3).JPG
出会うといってもパネルです。拝殿の左手です。

<矢吹丈と白木葉子>
1812sn344 (4).JPG
丹下段平ともお会いしたかったのですが、お嬢様の方が絵になるから仕方がないですね。この付近が、あしたのジョーの舞台であることを意識した演出ですね。


ということで
いまはもう無い『泪橋』と『思川』のなごりのご紹介でした。

私の訪問は6ヶ月前です。刑場の話と切り離すわけにはいかないので、ちょっとブログに掲載しにくく、撮影した画像を放置していました。しかしつい先日、文中にある鈴ヶ森刑場跡を訪問するに至り、やっとご紹介しようという気になれました。

受け止め方は人それぞれ
それで良いと思っています。

1812sn344 (2).JPG

■訪問:泪橋交差点
[荒川区南千住]3丁目付近
[台東区日本堤]2丁目付近


お城巡りランキング


タグ:暗渠
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 空に吸われし十五の心  (不来方のお城)
  2. 2. 早雲生涯の居城 韮山城のなごり
  3. 3. 伊達家上屋敷跡 政宗終焉の地
  4. 4. 関東一の山城 唐沢山城
  5. 5. 北の関ヶ原・激戦の山城 長谷堂城
  6. 6. 伊奈一族の拠点 伊奈氏屋敷跡(伊奈町) 
  7. 7. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  8. 8. 刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川
  9. 9. 起死回生の奇襲劇 河越夜戦跡(東明寺)
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
最新記事
プロフィール
Isuke 2020さんの画像
Isuke 2020
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、ててくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]
[当サイトお勧め本]