2017年12月17日

街の中で痕跡に気付く

仕事や私生活の圏内でも、アンテナを立てていれば、ちょっとした感動と出会えたりします。気付きに近い小さな感動。こう思えとか、こう思うべきというのはありません。そんなものが決まっているなら、つまらないですね。

<江戸城外堀の痕跡>
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一部とはいえ立派な石組。説明書きによれば「江戸城外堀跡 溜池櫓台」。櫓は堀が直角に折れる角に設けられていたようです。ビルとビルの間、目立たない場所に江戸城の痕跡を見つけました。[港区]

<三田用水の痕跡>
Kawanonagori 168shirokane.jpg
水路の断面が分かるように残してもらったのですね。どなたかのブログで見たことがありますが、実物を見るのは初めてです。 [港区]

廃城となった城跡で、ひっそりと残っている土塁に気付く。姿を消した川跡で、取り残された橋の欄干に気付く。情緒的に重なるものがあり、当ブログでも何度かご紹介させてもらいました。

今回ご紹介の二つ。似た感情を持つ一方、ちょっとだけ違うのは「誰かが意図的に残してくれた」痕跡だということ。

伝えようとする思い。私には有り難いですね。消えてなお残るものに愛おしさを感じる。自分だけではないような気がして、何となく、じんわりと嬉しいです。

こんな感覚を持ち合わせていると、普段の生活圏内でも、ちょっとした感動と出会えたりします。いや、既に出会っているものが、違うモノに映ったりします。

流行りとかに右往左往するの、疲れませんかね。まぁたまにはボケっとくだらなく、人の同意も期待せず、何でもなさそうなモノを見つめてみては如何でしょうか。私の場合は城とか水路ですが、なんだっていいです。心の琴線に触れるモノがあったら、その感覚と向き合ってみる。大切なのは、あまり理屈で考えないことですかね。せっかく出会ったものが、だいなしにしないように。


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2017年12月15日

栃木城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国の北関東で強かに生き残った皆川氏の城跡を訪ねました。

<栃木城跡>
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栃木市の栃木城跡です。現在は土塁と堀の一部、曲輪跡が僅かに残るのみ。かつてこの地を治めた皆川広照(みながわひろてる)の居城跡です。

■当主の次男■
皆川広照は皆川城主・皆川俊宗の次男として生まれました。家督は一旦兄(広勝)が継いだものの、29歳という若さで亡くなってしまい、家を継ぐことに。皆川氏は名門ながらも小大名。周辺の小大名と同様、上杉・北条といった大きな勢力の煽りを受け続けます。そんな家の当主となった広照。「世渡り上手」で戦国の世で生き残りました。

【主君】宇都宮氏⇒北条氏⇒滝川氏(実質織田氏)⇒また宇都宮氏⇒また北条氏⇒徳川(家康から家光まで)

普通はどこかで途切れそうですが、上手く切り抜けました。ただ逃げるだけなら、どこかで潰されていたでしょう。攻めたり退いたり、堪えて守ったりを繰り返せるだけの武力も備えていました。それにしても、具体的には「また北条氏」のところですが、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉を敵に回していたことになります。よく領地を没収されずに済みましたね。ギリギリのところで徳川家康に接近し、難を逃れたようです。しかも江戸時代は譜代大名という扱い。皆川広照、なかなか他に例を見ない処世術です。

<児童公園>
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ここも城跡。栃木城址公園です。画像だと、これそのものが独立した曲輪のようにも映りますが、児童公園として整備した結果ですね。

<土塁>
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冒頭の土塁を児童公園側から撮影。防衛用の土塁としては長さが短すぎるので、物見のために土を盛ったのかも知れません。あるいは、堀とセットで築いた立派な土塁は、ほとんど削られてしまった(なんて想像しながら見て回る)。

<土塁>別角度より撮影
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同じ土塁を今度は堀側から。こうして見ると、多少は防衛用の土塁に見えなくもないですね。ちなみに、石垣は後世のものです(念のため)。

<堀跡>
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<水面>
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水がやたら澄んでいました。水源は湧水ではないようです。

■山城から平城へ■
1590年の小田原征伐の時、皆川城は上杉軍に攻められ落城しています。幾多の激戦を経験している皆川氏ですが、この場は自ら開城したと推定されています。小田原北条氏に組みしていた関東の諸大名には憂き目が待っていましたが、当主広照が事前に徳川家康に下っていたことで、皆川氏の本領は安堵されます。その後、山城を放棄して巴波川沿いに築いた平城へと拠点を移しました。

今回訪問の栃木城へ皆川氏が移ったのはこのタイミングです。ただ、皆川氏としては予てから移転を計画していたようで、主要な寺社の引っ越しや町整備は、既に始まっていたとされています。皆川城が拠点であり続けたのは、戦乱に巻き込まれていたことや、新たな城や町の整備を一気に進めるほどの財力が無かったことが背景にあったのかも知れませんね。いずれにしても、この移転は突然のことではなく、予てから望んでいたプラン。広照は町造りとともに、近江商人を誘致するなど、経済にも力を注ぎました。

戦歴や経済政策、ここで全てをご紹介できませんが、私なりにいろいろ調べて感じるのは、この方は非常に「優秀なリーダー」だったということです。更に文化人とのこと。皆川氏は全国的に見れば小大名という存在ですが、家の大小や知名度とは関係なく、優れた人というのはいるもんだとつくづく思いました(あくまで個人評価です)。

<案内板>
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本丸ほかの曲輪を備えた広大な平城だったようです。


<家臣の末裔>
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城のすぐそば。皆川氏の家臣だった『坂本興兵衛』のご子孫のお家があり、報奨として授かった「連歌の巻物」の写しが展示されています。

<連歌>
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ふむふむ、なるほど・・・

ちょっと難解で読めません。こういうのは現地で根性を出しても無理なので、すぐに諦めました。教養のある方なら、きっと意味までも分かるのでしょうね。

<坂本家>
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坂本家は城跡の目の前の白壁の家。門構えなど本当に立派ですが、生活されている個人宅ですので撮影は壁だけにしました。皆川氏に仕えたあと、百姓をしながら寺子屋を開いたとのこと。主なきあとも、地域に貢献したわけですね。


■栃木城の廃城■
徳川家に認められた広照。地元の領地はそのままで加増され、ピーク時には7万5千を領しました。家康の六男の守役まで任されましたが、これが裏目となりました。家康の怒りを買うことになり(松平忠輝事件)、1609年に改易。京都にて謹慎の身となりました。そこに幕府の「城取り壊し政策」が重なり、ここ栃木城は廃城。かつて広照が夢見た城下町の構想はここでついえました。領地は幕府の直轄、または旗本や大名に細分化されて引き継がれました。


■つわものどもが夢の跡■

<巴波川と蔵>うずまがわ
shirononagori 167kura.jpg
今回は立ち寄りませんでしたので、同市内の『皆川城』を訪問した時の画像を。

繁栄のなごりを残す蔵の町です。とてもいい雰囲気。関東の倉敷とも呼ばれる街並です。城は亡くなりましたが、栃木の町は北関東屈指の商都となりました。町の繁栄、それは広照が一番望んでいたことかもしれませんね。

皆川広照が赦免されるのは1623年。改易されてからそうとう後ですね。常陸国で1万石を与えられました。

-------■皆川城■-------
築城年:1591年(天正19)
築城者:皆川広照
城 主:皆川広照
廃 城:1609年(慶長14)

[栃木県栃木市城内町]


(よろしければ)
関連記事です!
皆川城のなごり@蒼天の山城
皆川城のなごりA地の利を創る

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タグ:城のなごり

2017年12月13日

暗渠と城跡13 栃木城跡の濠暗渠

栃木市の城跡を訪問しました。

<栃木城跡>
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[栃木県栃木市城内町]

さて、のんびりと「城のなごり」を楽しもうとした瞬間、自分の足元を見て動きが止まりました。

<濠が途切れるところ>
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道路の舗装とは一線を画すこのコンクリ。もしや・・・

<暗渠の入り口>
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ああ・・・やっぱり

暗渠(あんきょ)。地下に埋設された川や水路のことですね。城の濠跡がそのまま水路として活用される例は多々ありますが、もしやその流れ?更に暗渠となった?う〜ん・・・

北関東の名族・皆川氏の城跡を探索に来ましたが、これが気になってしまうと集中できません。私も既にちょっとした暗渠マニア。やたら綺麗な濠の水。どこへ向かうのでしょう。

来た道を振り返り、水の行方を想像してみました。イメージはあるものの、確証はありません。ちょっと保留にして、後からネット検索しようかと思いましたが、答えは目の前の城跡の説明板にありました。

<城跡の説明板>
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栃木城・皆川氏に関する説明がなされています。その右側の航空写真。これは親切ですね、分りやすい。黄色の線が遺構跡。つまり、かつての城の範囲ですね。これと併せて水色の線で「水路」が記されています。

<拡大>
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ちょっと画像が悪くなりますが、城跡周辺を拡大して、更に筆を入れさせてもらいました。青丸が先ほどの「暗渠の入り口」。緑のマークも加筆。位置関係、伝わりますでしょうか?

<城内より>
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水掘りが印の位置で途切れ、そこから先が暗渠。つまり、姿は消えても、水の流れは続きます。

<道>
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水面はありませんが
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こんな感じで今も水が流れています。人の暮らしに欠かせない水。水路のなごりですね。

まぁだから何?と言われてしまえばそれまでの話です。はい。ただ「そこに本来あったもの」を想像する。これは廃城となった城跡の楽しみ方と、どこか似ている気がします。

こんな内容を最後まで読んで頂き、ありがとうございます。何となく、ちょっとでも、共感してもらえたら嬉しいです。

(栃木城訪問記へ続きます)

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タグ:暗渠と城跡

2017年12月12日

濠の出島の枡形門(江戸城桜田門)

つわものどもが夢の跡
今回はとても有名な江戸城の門についてです。

■桜田門■

<桜田門>
sirononagori sakuradamon (2).jpg
いわゆる「桜田門外の変」で広く世間に知られている名前ですね。その実物。重要文化財です。

正式には外桜田門といいます。更に奥の通称「桔梗門(ききょうもん)」が内桜田門。まぁ普通に「桜田門」といった場合は、この「外桜田門」のことです。

<現地案内板>
shirononagori mon sakurada.jpg
[説明文]
『現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました。建築されたのは寛永年間(1624〜44)とされ、現存する門は寛文三年(1663)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。』
[後半の一部省略]


だ、そうです。かつては小田原街道の始点として「小田原口」とも呼ばれていたとのこと。徳川以前、江戸城は小田原北条氏の支配下でしたからね。家康の城となり、この出入り口には枡形構造の門が設けられました。

ところで、上の説明に「二重構造」とか「外桝形」ってどういうことでしょうか。


■桜田門の構造■

<高麗門>こうらいもん
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最初の門です。死角を減らすために屋根は小さめ。ここを突破するとどうなるでしょうか。

<枡形>ますがた
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門をくぐると「四角い広場」のようなスペースに出ます(手前の部分。撮影が濠と石垣メインとなってしまってすみません)。ここが枡形マスのように四角い形だからそう呼びます。
さて、入ったはいいが目の前は水堀だし、他は壁、そして次の門により閉ざされています。これが「枡形」の恐ろしいところ。飛び込んだはいいが動きは制限され、城兵から狙い撃ちにされる空間。罠と思っても良いです。

攻め手も理解していると思うので、決死の覚悟で飛び込むしかありません。あるいは、門の造りを見て不利益を見積もり、もうちょっと攻め安い侵入口を探すかですね。

<現地地図>
sirononagori sakuradamon (7).jpg
赤い丸が現在位置になります。半島のように濠に向かって飛び出ている場所。つまり橋を渡り、ようやくたどり着ける場所です。その入り口の門をくぐって最初に目に飛び込んできた濠は、江戸城の巨大な水濠の一部。つまり濠の中の出島みたいな所に、この桜田門がある。まぁそんな感じになります。

<渡櫓門>わたりやぐらもん
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さて、次の門が行く手を拒みます。ご覧の通りの門。実際には門は閉ざされていると思って見て下さい。立ち往生している間に、容赦なく上から狙われますね。門の上にこうした櫓を設けるのが櫓門(やぐらもん)。二階門ともいいます。「渡り」ですが、石垣との間を渡すように門櫓を設ける場合に使う言葉です。

最初の門。そしてこの頑丈そうな二つ目の門。つまり枡形の表と内側に築かれる二つの門ですね。このセットメニューが「枡形門」です。二重構造の門です。ここ桜田門に限らず、最初の門は低層でシンプル、二つ目の門は櫓門となっているのが一般的です。

さて、現在のこの位置。最初の門はくぐったものの、まだ城の敷地の「外」という状態です。このように、城の外側に設ける枡形を「外枡形」といいます。逆に枡形が城内の敷地の一部となっている場合は内枡形です。まぁ役割は同じ。構造上の分類ですね。

<現地案内板>
sirononagori sakuradamon (6).jpg
周辺を含めるとこんな構造になります。


一つの門を突破するだけでも大変なこと。行く手にはまだまだ難所が待ち受けます。攻める側にとって、いかに厄介かを感じてもらえれば嬉しいです。守りを固めるとは、その厄介さを造り出すことに他なりません。

[千代田区皇居外苑]


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2017年12月07日

城用語 乱積み (らんづみ)

城用語と題し、以前「野面積み(のづらづみ)」など石垣に関する用語を説明をさせて頂きましたところ、思いのほかアクセスが多いため追記させて頂きます。「野面積み」「打込み接ぎ」「切込み接ぎ」は石の加工の具合を基準にした石垣の分類。今回は石の積み方を基準とした分類です。といっても二種類だけ。実例は訪問記でご紹介済の盛岡城です。同じ城跡でも場所によって「積み方」が異なります。ちなみに、これは珍しいことではありません。

■石の積み方を基準とした分類■

<@乱積み>らんづみ
shirononagori moriokajo ishigaki2.JPG
不均一なままの石を積み上げます。

<A布積み>ぬのづみ
shirononagori moriokajo ishigaki.JPG
ほぼ同じサイズの石を横方向に揃えて並べます。

たったこれだけ。聞き慣れないだけで、解りやすい分類ですね。実際にはもっと多くの分類がありますが、研究家の方は別として、大きな分類としてこの2種類で充分かと思います(私は)。

■応用■
このまま終わるとあっけないので、ちょっと応用編を。

その前に前回の復習)
●石の加工の具合による分類
@野面積み(のづらづみ):自然の石のまま積む。A打込み接ぎ(うちこみはぎ):石の角や面を平たくして隙間を減らして積む。B切込み接ぎ:石を四角に整形して密着させて積む。以上です。
もうちょっと丁寧な説明はこちらを

→『城用語 野面積み


■複合技で細分化してみよう■

[基準]積み方
@乱積みA布積み

[基準]石の加工具合
@野面積みA打込み接ぎB切込み接ぎ   

【問題】
ではこの2種類の基準を両方使って石垣を分類したら何種類に分類できるでしょうか?

【計算式】 2×3
【正 解】 6種類

【解 説】
自然の石は大きさがまちまちです。それを普通に積んでいけばまぁ石の加工具合は「野面積み」で積み方は「乱積み」。野面乱積となります。四文字熟語のようですが、そのまま「のづら らんづみ」と読んで下さい。。
自然な石が工業製品のように同規格なはずはありませんが、まぁほぼ似た大きさを横に向かって揃えて並べていけば「野面積み」でありながら「布積」となるので野面布積(のづら ぬのづみ)ということになります。まぁこんな感じです。

【補足】布積み
タテもヨコもほぼ同規格の自然の石は希なので、高さをなるべく統一して横方向に積んでいくのが「布積」と思って良いです。レゴのようにキッチリ仕上がるはずないので、多少の歪みは容認し、あと明らかに調整のために使っている小石などは一旦無視して眺めた方が分類そのものはしやすいです。ただまぁこれは分類する時のコツに過ぎないので、せっかくなら、如何に石の不規則を調整しながら石を積んでいるか、そっちを見て欲しいですね。予定通りの石などほとんどない。それを扱う人間業の凄さ、ここに深みがあります。


ということで、石垣は「積み方」で2種類、「石の加工具合」で3種類の分け方があり、両方を使うと6種類に分類できるというお話でした。城跡で石垣を見かけたとき、ちょっと思い出してくれれば嬉しいです。


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posted by Isuke2020 at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | その他

2017年12月03日

鷲城のなごり (小山氏城跡)

つわものどもが夢の跡
栃木県小山市の中久喜城に続き、鷲城を訪問しました。

■鷲城■わしじょう
小山市に残る中世の城跡です。小山氏の居城として知られる祇園城、その支城の中久喜城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。憩いの場として市民で賑わう「小山総合公園」のすぐそば。隣接する山林が城跡だと思っている人はあまりいないようです。

■探索開始■
<虎口>
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ただの林ではありません。中世の土の城跡です。

<目印>
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『土塁』の表示。説明はありませんが要所要所で遺構に目印が・・・

<横矢>よこや
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山中を登っていくと、曲輪の入り口付近に今度は『横矢』。側面から矢を射ることを指す城用語ですね(横矢掛り)。横というより、遺構は何も知らずに登ってくる侵入者を頭上から狙うような位置にあります。まぁもしかしたら、昔は虎口の付近に柵や土塀などが設けられていて、死角があったり、人の導線が制限されていたのかも知れません。そういった念入りな下準備をしたうえで敵を横から狙う。そんな感じかもしれません(個人的推定、というか妄想です)。

<山の中>
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これでも一定の管理はなされているのでしょう。しかし結構ラフな山林です。生い茂る大木で薄暗い山の中、倒木により開けた空から、陽が差し込んでいるのが印象的でした。横たわる大木には苔が生え始め、放っておけばやがて覆いつくされるのでしょう。なにかが途切れても何かがまた生まれる。この当たり前の営みが、かつて人が造りし城跡に押し寄せます。その程度によっては、「廃城」がとんでもなく美しい景観に感じられることもあります。ただまぁ、ここはちょっと自然の力に押されぎみですかね。

<土の城>
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とは言え遺構は残っています。ボロボロになっても城跡。人の思惑が込められています。

<鷲神社>本丸跡
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城の名の由来となった鷲神社です。11代当主の義政が勧進したと伝わります。

shirononagoriWashijinja (1).JPG
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<鷲神社の参道>
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見事な並木です。この日は人影もありませんが、通り道のため比較的綺麗に整備されています。

<参道横の平地>
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ここもかつての城跡。本丸(主郭)の一部です。

<参道入口>
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ここに案内板と石碑が設置されています。小山総合公園側からとりあえず山林に突入し、探索しやすい順路で歩いてきましたが、神社の裏から入って正面に出て、最後に鳥居をくぐるかっこうになっています。失礼しました(城跡探索をしていると良くあることです)。

<縄張り図>
shirononagoriWashijo (10).JPG
縄張り図の横に説明文があります。そのまま引用すると『鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、内城と外城との2つの廓からなり、当時としては広大な城郭』とのこと。

外城と中城(うちじろ)という表現になっていますね。経験不足の私には馴染みのない言い方ですが、位置関係からして外城は本丸に対する外曲輪(そとぐるわ)。中城は本丸と解釈して良いかと。天然の堀とも言うべき川に面する方が本丸。地続きの方角に二の丸、というか外曲輪を配置した連郭式縄張りということですね。この構図は良く理解できます。
外城は現在の地名にもなっています。

<城跡沿いの道>
shirononagoriWashijo (13).JPG
位置からして、堀を埋めた跡ではないかと思われる・・・(推定)

<河川敷より>
shirononagoriOmoigawa.JPG
思川の河川敷から見た城跡。河岸段丘に築かれています。川と周辺の谷地・低湿地に守られた山城。自然の地形を生かした典型的な中世の城です。

<山の麓>
shirononagoriWashijo (19).JPG
これは堀跡ではなく、山城と総合公園の間に造られた小川。ただ、この付近が周辺より低地になっていることは分ります。

■小山氏の本拠だった実績■
訪問時点での私の感覚では、鷲城は祇園城の支城。しかしこの城が本拠だったこともあるようです。小山氏が鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した『小山義政の乱(1380年から1383年)』。これは関東屈指の名門家が、滅亡の危機にさらされる戦いです。この時、ここ鷲城は中心的な役割を担いました。

先ほどの案内板の説明を抜粋すると『小山氏が関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。小山義政の乱と言います』『原因は勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが小山に攻め寄せました』
とのこと。

勢力を拡大する小山義政は、鎌倉公方に疎まれた。そして関東各地の武士たちが鎌倉公方に味方して小山に攻め寄せた・・・。ということですね。
 
鎌倉公方と小山氏、実際にはどちらに正当性があるのか分かりません。小山義政は同じ下野国のライバル宇都宮氏を抑えて、小山氏の全盛期を築いた人物。しかし結果としては関東で孤立し、四面楚歌のような状態で戦うことになりました。

この乱(というか戦い)は義政の息子・若犬丸(わかいぬまる)にまで引き継がれる長い闘いとなり、最終的には小山氏の滅亡へ繋がります。小山氏そのものは同族の結城氏から養子を迎えて存続しますが、小山政光から約250年も続いていた嫡流は、小山若犬丸で途絶えることになります(1397年)。

※小山氏の始祖・小山政光の三男が結城氏の始祖・結城朝光です。ここまで遡れば、小山氏の血が途切れた訳ではないですね。この長い長い小山氏の歴史については、祇園城訪問記において(やや無理やり短く)まとめさせて頂きましたので、宜しければ覗いてみて下さい
→『祇園城訪問記へすすむ

話を城に戻すと、ここ鷲城は第11代当主・小山義政が意地を掛けて鎌倉公方と戦った時の拠点。現地説明文にも『義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て篭もって戦います』とあります。ライバルの宇都宮氏、そして鎌倉の軍勢にも攻められた城。現在の城跡はその時の一部に過ぎませんが、遺構は豊富です。

どんなつもりだったのか・・・

深い堀切の底で土の壁を見上げると、築城そのものの創意工夫だけではなく、込められた思いまで伝わってくるような気がします。霊感には無縁の男ですが、人並みに感情はあるので、きっと当たり前のことでしょう。

■つわものどもが夢の跡■
<堀切の底より撮影>
shirononagoriWashijo (15).JPG
全国的には知られていない中世の土の城。しかし遺構が現存している上に、歴史の裏付けが確かな城跡です。文献で確認できるのは、小山氏がかつて関東屈指の名門武家だったことと無縁ではありません。その武士団の思惑が、遺構とともになごりを残す城跡でした。

--------■鷲城■--------
築城年:不明(小山義政?)
築城者:不明(小山氏)
城 主:小山氏
廃城年:不明

[栃木県小山市外城]


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2017年12月02日

名門結城家最後の将・晴朝 (終焉の地)

<中久喜城の堀切跡> なかくき
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草木の生い茂る城跡の内部で堀切を撮影。かつての本丸跡です。

栃木県小山市と茨城県結城市の境に位置する中久喜城跡。ここは受け継いだ名門家を守り抜くことに生涯を捧げた戦国武将の最期の場所となりました。

結城晴朝ゆうき はるとも
この方は戦国末期から江戸初期の武将、そして結城家17代当主です。父は小山高朝(おやまたかとも)。つまり小山氏の出です。三男として生まれた晴朝は、26歳の時に小山氏と同族の結城氏の養子となり、家督を継承しました。これは後継者を亡くしてしまった結城側から強く請われてのことだったようです。
養父の結城政勝は、父である小山高朝の兄。つまり叔父にあたります。祖を同じくして領地も隣り合わせの両家は、こうして密接な関係を維持し、北方の脅威であった宇都宮氏に対抗していました。
晴朝が当主となった翌年。結城氏はさっそく宇都宮氏・常陸の佐竹氏ほかの大軍に攻め込まれています。しかし晴朝は結城城を拠点にこれに耐え、何とか和議へ持ち込みました。圧倒的に不利な状況。晴朝は交渉の才覚に長けた武将だったようです。

■生き残り策■
越後上杉小田原北条の勢力争い。関東の多くの国人領主がそうであるように、結城氏も、そして同族の小山氏も、この大きな勢力に翻弄されます。北条側に味方する立場だった晴朝は、上杉側についた実家の小山氏と敵対関係になることも。その最中に父・高朝が亡くなりましたが、対立中のため実家へ駆けつけることも叶いませんでした。所領は隣同士。すぐ近くなんですがね。距離以上の隔たりを持たざるを得ませんでした。小山氏は兄の秀綱が引き継いでいます。

<中久喜城跡と水戸線>
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本丸跡を分断している線路。

1575年、北条氏照により小山氏は攻め滅ぼされ、兄秀綱は追放。これにより小山氏は四百年の歴史に幕を閉じます。当主の舵取りによっては、名門家でも滅びてしまう。当時の関東はそういう厳しい時代に突入していました。やがて上杉謙信が関東管領に就任すると、晴朝は上杉側へ鞍替えをします。状況を良く見極めて立ち位置を変え、当主晴朝は結城の家を守り続けました。


■養子戦略1■
晴朝は正室との間に子がいましたが、男子はいませんでした。そのこともあるのでしょう。上杉が関東から撤退したのち、かつては争った宇都宮氏から養子を迎えて家の安定を図ります(宇都宮氏と同盟関係の佐竹氏とも良好な関係が保てます。更に妹を佐竹氏配下の江戸氏へ嫁がせ、婚姻関係で家の存続を図ります)。そして豊臣秀吉が大軍を率いて小田原北条征伐にやってくると、晴朝も反北条として戦います。北条を滅亡させた秀吉の裁定により、かつての小山氏領は結城氏の領地となり、晴朝は結果として実家の旧領を引き継ぐことになりました。また、北条に下っていた小山秀綱の助命が許され、晴朝は離れ離れだった兄も引き取ることになりました。あくまで独立大名だった晴朝ですが、豊臣秀吉を主君として家を存続させました。

■養子戦略2■
宇都宮氏から養子を迎えていたはずですが、今度は徳川家康の実子で、この時点では秀吉の養子となっていた羽柴秀康を養子として迎えることになりました。最初の養子には、ご実家に帰ってもらったようです。
家康の子にして秀吉の養子。こんな凄い人物を当主として迎える。晴朝がいかに結城の家の存続を願っていたか伝わってくるような気がします。

結城秀康18代当主
私がこの方の存在を意識したのは「花の慶次」。個人的に思い入れがある武将です。ただ今回の主役は結城晴朝。その立ち位置から見ると、秀康は名門結城家の存続を掛けて迎え入れた「最強の養子」ではないでしょうか。血筋は途切れますが、晴朝には何か別の考えがあったような気がします。
ところが、関ヶ原の戦いののち、結城秀康は結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封となります。68万石の結城家。凄いですね。しかし見方を変えれば、歴史の長い結城家が、先祖代々の土地から切り離される瞬間でした。結城の地を失う。これは晴朝にとっては思いもよらなかったことでしょう。更に1604年、結城秀康は名字を松平に改めてしまいます。結城の家督は秀康の五男・直基が継ぎますが、当時まだ4歳。既に当主たる立場ではありませんが、晴朝はどんな思いだったのでしょうか。

■統終焉の地■中久喜城

<城跡の石碑>
shirononagori161kukijo1.jpg

それから十年後。かつての所領に隠居していた晴朝は、中久喜城で生涯を閉じました。81歳というから、当時としては長生きでしたね。晴朝は、結城の血筋による結城の地での再興を最後まで諦めていなかったと伝わります。晴朝が亡くなったあとの話ですが、秀康の息子・直基も名字を松平に改めてしまうので、大名家としての結城の名は19代で途切れてしまいす。そういう意味では、17代当主・晴朝は、結城家の大将であることを全うした最後の男でした。

<堀の跡>
shirononagori162kukijob.JPG

<土塁の跡>
shirononagori161kukijo dorui.jpg

------■中久喜城■------
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
(小山・結城両家の先祖)
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
敷地に隠居した晴朝は1614年没

[栃木県小山市中久喜]



-----■余談■-----

【結城晴朝の財宝伝説】
結城氏は名門家ではありますが、所領にそぐわない豊かさがあったとされています(ホントにそうなんでしょうかネ?)。この話に付随して、結城晴朝には埋蔵金伝説なるものがあります。
『結城氏の開祖・朝光は、源頼朝に従軍。その功績から莫大な褒美(金など)を得て、それが代々の当主に引き継がれている。これこそが、石高を上回る財力の裏付け。ここに目を付けた徳川家康が、実子の秀康を結城家に送り込みましたが、財宝は見つからず。その理由は、いつか結城氏本来の血統で家を再興させたいと願う結城晴朝が、所領のどこか(現在の結城市を中心としたエリア)にお宝を埋蔵したから。』
とまぁこんな伝説です。
ちょっと信じがたいですね。ただ、以前『結城氏館跡』を訪ねたあといろいろ調べたのですが、文献に乏しく、あまりはっきりとした確証が得られなかったことがありました。歴史の長い名門家なのにヘンだなぁと感じましたが、もしかしたら、埋蔵金のこともあって意識して文献を破棄した?のでしょうか。それならそれで興味深いですが、全く根拠が無いので、この話はここまでにします。

[参考画像:結城氏館跡]
yukishitakara (1).JPG
結城氏の祖である結城朝光によって築かれた館跡。土塁と堀が残されています(結城市)。


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2017年11月29日

中久喜城のなごり(小山氏城跡)

つわものどもが夢の跡
廃城巡りを始めた頃の基本に戻って「中世の土の城」を訪問しました。

<土塁>
shirononagori161kukijo dorui.jpg
11月下旬の晴れの日。場所は栃木県小山市です。普段は一人なのに、この日は友二人に無理矢理付き合ってもらい、草木の生い茂る山へ突入しました。迷惑?いきなりへんぴな場所に到着しましたが、笑って許してくれました。

■中久喜城■なかくきじょう
<石碑と説明板>
shirononagori161kukijo1.jpg
<縄張り図>
shirononagori161kukijo2.jpg

関東屈指の豪族・小山氏により築かれた城跡です。小山氏の本城である祇園城(ぎおんじょう)の東に位置する支城。方角が示す通り、東からの敵の侵入を抑えるために築かれました。ちょっとマイナーな城ですが、同市内の祇園城跡、そして鷲城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。

[参考]祇園城跡
shirononagori gion (3).jpg
[小山市城山町]
これは小山氏が本拠としていた祇園城跡(城山公園)です。今回訪問の中久喜城跡はここから東へ約4キロ。お隣の茨城県結城市との間に位置しています。

■地の利■
城は二つの川に挟まれた舌状台地の南端に位置しています。更に、川は城の南側で合流。現在は水田となっているその付近は低地ですので、昔は川の水が交わり、頻繁に溢れ出す湿地帯だったような気がします。程度までは分かりませんが、地形的に間違いありません。劇的な「地の利」とまでは言いませんが、戦闘の質(戦の人員や当時の武器等)を考慮すれば、要害の地を選んだと言えるしょう。城跡を含む付近がちょっとした台地だからでしょうか。古くは「北山」と呼ばれていたようです。

■城跡探索■

<土塁>
shirononagori161kukijo3.jpg
石碑付近に土塁を見つけました。わくわくする瞬間です。

<曲輪跡>
shirononagori161kukijo 7kuruwa.jpg
石碑の付近に堀跡らしき窪みがあったのに対し、この付近はまとまった広さが明らかに平らに造成されています。土塁との位置関係からして、本丸への虎口(入口)の前に設けられた区画のようです。

<土塁の上>
shirononagori161kukijo4.jpg
土塁を登って撮影。ここはかつての城の本丸を取り囲む土塁。有難いですね。来た甲斐がありました。ただ進んで行くと、土塁は途中で不自然に途切れています。理由はすぐに分りました(次の画像)。

<水戸線>
shirononagori161kukijo5.jpg
城跡は線路により分断されていました。良く見ると、線路の向うもこちら側と似たような微高地のヤブ。城跡に間違いありませんね。それにしても、城の隅っこならともかく、分断されているのは本丸跡です。やや残念な結果ですね。

さて、ここで「線路の向こう側に土塁の続きがあるかも」という友人の前向きな発言。こんなマニア向きの城跡で申し訳ないという気持ちでいた私にとって、嬉しいひとことでした。この城跡は「ちょっとのぞくだけ」の予定でしたが、もう少し時間を割くことになりました。

<城山踏切>
shirononagori161kukijo7.jpg
ということで、線路は横切れませんので、ちょっと離れた踏切まで移動して仕切り直しです。別な角度から再び中久喜城の本丸跡を目指します。画像左手に見えている低地に川が流れていて、向こう側はもう茨城県結城市。県境の城跡探索です。

<土塁の壁>
shirononagori161kukijo8.jpg
本丸のメインは石碑があった方ではなくこちら。線路を挟んだ南側です。土塁が本来の役割を果たして我々侵入者を拒んでいます。土塁沿いの道(かつては堀だったが埋められたと推定される道)を進んで虎口を探しました。

<再突入>
shirononagori161kukijo9.jpg
侵入口を見つけて再突入です。正確な位置はともかく、この付近(本丸の南側)が大手側だったのでしょう。入るとすぐに、また土塁が立ちはだかりました。この土塁を登り切りましたが、奥に別な土塁を発見したものの、草木に邪魔されそれ以上は進めず。

<堀切>
shirononagori161kukijo10.jpg
登った土塁の上から振り返って侵入してきた道を撮影。両側は高い土の壁。現地で友人に「堀切」と説明しましたが、後から考えると、部分的にはかなり土を盛った結果なのではないかとも思えます(やや不確か)。

それにしても相当荒れ果てた城跡。こういうのは久しぶりです。城跡巡りの初期はこんなのばかりでした。当時は城に関する予備知識も無く、ただ「廃城」を訪ねて情緒的に味わうだけ。逆に知識がない分、見たままを受け入れていたような気もします。今回そんな頃を思い出しながら城跡を訪ねたせいでしょうか?妙な達成感がありました。そして、ボロボロになりながらも残っていてくれた遺構に感謝したくなりました。同じく、靴を汚しながら付き合ってくれた友人二人にも。


■つわものどもが夢の跡■

<分断された城跡>
shirononagori161kukijoL.jpg
この水戸線は、栃木県とお隣の茨木県を結ぶ路線。東西を隔てるための城跡が、逆に結ぶための線路に分断されているのも感慨深いですね。当時の城兵がみたら「なんてことするんだ」と怒りそう。もう争いが無いのだと説明すれば分かってくれるでしょう。むしろ、我々が想像する以上に喜んでくれるかもしれません。北山から中久喜と改められた地名。これは極めて近い同族同士でありながら、一時期争ってしまった小山氏と結城氏の和睦に由来します。「和睦の喜びをいつまでも忘れない」という意味が込められています。双方から養子を受け入れる親密な関係の両家。争った小山秀綱結城晴朝は実の兄弟でした(結城晴朝が弟で小山氏からの養子)。

<和談坂>
shirononagori161L.jpg
小山氏と結城氏の領地の中間に位置する中久喜。城跡近くのこの坂は「和談坂」と呼ばれています。この地で両家が話し合い、和解したことにちなんでいます。

------■中久喜城■------
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)

[栃木県小山市中久喜]



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タグ:城のなごり

2017年11月25日

日比谷門のなごり

■江戸城の見附■

〈日比谷見附跡〉
shirononagori hibiya (2).jpg
江戸城三十六見附の一つ「日比谷見附」の跡です。もともとは高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら:通路的な機能)・番所という構造でしたが明治初期に撤去(勿体ない!)。それらを取り囲む石垣だけが残されました。枡形門は伊達政宗が築いたそうです。どんな立派な見附だったのでしょうね。この石垣は言わばそのなごり。素通りする方が多いですが、たまには立ち止まって眺めて欲しいですね。

■見附の管轄■
見附とは見張り番を置いている場所。まぁ警備員が待機している主要な門ということになりますね。いまの世の中ですと警備会社さんに委託なんて方法もありますが、この江戸城の警備、全部徳川家の身内で管轄していたのでしょうか?三十六見附と言っても、実際にはもっと多かったようです。結構大変ですね。

まず城の内側というか、本丸近い方。これはやはり信用されている譜代大名が担当したそうです。具体的には大手門・桔梗門など。これに対し外濠付近の門は外様大名。桜田門や今回ご紹介の日比谷門などです。イレギュラーなケース、旗本の扱いなどは除いた「大筋」の話です。

■堀のなごり■
<心字池>
shirononagori hibiya (1).jpg
石垣の西側の「心字池」。これは水堀のなごり。構造として城の内側にあたるので、内堀ですね。いい感じです。

見附跡のある日比谷公園、もともとは名だたる藩の上屋敷が立ち並ぶ場所でした。明治になって更地となり、官庁の建設という案もあったそうですが、地盤の関係で公園となりました。まぁこの付近、ずっと昔は海(入江)でしたからね。公園造成で堀を埋める際に一部を埋め残し、池として整備したようです。すぐそばの江戸城日比谷濠もいいですが、ひっそりと残された水堀のなごり。別な趣があります。

いつもいつも慌ただしく通り過ぎないで、たまには立ち止まってみるのも良いかもしれません。

[東京都千代田区日比谷公園]


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2017年11月24日

城用語 山城(やまじろ)平城(ひらじろ)

<唐沢山城の縄張り図>山城
karsawayama nawabari.jpg

先日「暗渠」のイベントに参加させて頂き、きっと「城にはあまり関心が無いだろうなぁ」という人を想定した上で「城」の説明をさせてもらいました。今回はその一部、山城と平城について投稿させてもらいます。当ブログにお越しいただく方の大半にとっては「釈迦に説法」。でもどんな趣味の世界にもビギナーはいます。勿論私も最初はそうでした。お役に立てれば幸いです。

城の分類
当ブログでは分かり安いように「山城」と「平城」の2分類にしています。ただ城好きの人たちは山城と平城に加えて「平山城」という言葉を使います。城用語としてはこの3分類が主流。江戸時代の軍学者による分類です。

分類の基準
城の地勢による分類。そういうと難しいですが、要するに「どこに築かれたか」を基準に分類する方法です。

<図解>
ankyo&shiro11.jpg
素人っぽい図解ですみません。私の手作り。イベントで使用しました。

山城(やまじろ)
名の通り山に築かれた城です。戦国時代に多く築城された「戦闘用」の軍事拠点。高さと山の地形を最大限に生かした縄張りで「地の利」を得る。これが強み。反面、戦うこと以外では何かと不便という弱点もあります。山城も時代とともに進化しますが、初期においては「生活は城の外、戦の時は城に籠る」といった感じですね。

平山城(ひらやまじろ)
真っ平らなところにポツンとある山。いわゆる独立峰ですね。ここに築かれるのが平山城です。まぁ山城なんですが、構造的に山の麓は堀で囲んだり土塁を設けたりと、平城とやや似たところもあります。一概に言えませんが、武器の進化とともに飛び道具の割合が増えてくると、平地に陣取るしかない敵を高所から攻撃できるため有利だった言えますね。

平城(ひらじろ)
平地に建てられる城です。山城ほどの地の利はありませんが、湿地や川を利用し、更に堀などで人工的に「地の利」を創り、守りを固めます。沼地の城などもこの分類に属します。山城とは逆に、平地なので何かと便利。軍事拠点という側面のほかに、統治の拠点としても活躍。争いの世が終わると、平城が増え始めます。

■実 例■
⇒まず上の図解にある城は長谷堂城米沢城です。

<長谷堂城>平山城
SironoNagori  hasedojo (9).jpg
[山形市]

<米沢城>平城
sirononsgori yonezawajo10 (3).JPG
[米沢市]


⇒山城は遠くから撮影のものが手元になく、こんな画像でご容赦下さい。冒頭の縄張り図の実物です。

<唐沢山城からの眺め>山城
SN sano karasawayama (3).jpg
[佐野市]

いかかでしょうか?知ってしまえば簡単ですね。山・独立峰・平地。この3つだけ。それぞれ「山城」「平山城」「平城」です。

ただ、こんな説明をしておきながらなんですが、当ブログは今後とも山城と平城の2分類で通します。初めて読んでくれた方が分かりやすいように。


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posted by Isuke2020 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | その他
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