2021年10月24日

陣川と呼ばれた古戦場の川(川崎市)

<麻生川>あさおがわ
Asogawa.JPG
こちらは川崎市麻生区を流れる麻生川です。

<金程橋>かなほどばし
Jingawa-Asogawa- (3).JPG
麻生川にかかるこの橋の名は、そのままこの場所の地名です。

戦国時代、この地で戦がありました。小田原城を本拠とする北条氏と、川越城を本拠とする扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月:小沢原の戦い)。小田原から出陣した北条氏康が籠る山城(小沢城)を攻めるべく、上杉朝興はこの付近に陣を敷きました。北条に江戸城や岩付城を奪われている上杉側からすれば、敵の当主・氏綱の嫡男を討つ絶好のチャンスです。

ただ、小沢城の麓での初戦に勝利した上杉朝興ですが、油断があったのでしょうか?夜営したところを北条軍に襲われ、上杉勢の陣は総崩れとなりました。

<自然の川>
Jingawa-Ozawaharanotatakai.JPG
今では水路のようですが、周辺の水を集めながら鶴見川に合流する自然の川です。流路はともかく、昔からこの付近の低地を流れていました。夜営する上杉方は、この川が堀の代わりとなるように陣を敷いたのかもしれません。陣川と呼ばれるのは、それが由来なのかもしれませんね(確かな証拠はありません)。

この地で戦いが終わったわけではなく、武蔵国をめぐる両者の激突はその後も続きます。ここでの戦いに敗れた上杉朝興は、僅か3ケ月後には岩付城を奪回しています。戦、戦の繰り返しだったわけですね。

ということで
そんな時代があったことをしのばせる川の名のご紹介でした。

<陣川>じんかわ
Jingawa.JPG
当たり前の景色ですが、合戦と関係のあった川です。

■訪問:麻生川
[川崎市麻生区金程]

------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg
[川崎市多摩区菅仙谷]


お城巡りランキング
posted by Isuke at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2021年10月23日

神田川の大曲 江戸城下の治水事業のなごり

江戸幕府を開いた徳川家康により、関東のあちらこちらで大規模な治水事業が実施されました。かつては東京湾に注いでいた利根川を、太平洋へ注ぐように流路変更した事業(利根川東遷事業)は有名ですね。そこまでのスケールではないものの、江戸城下の町づくりで、どうしても必要だった流路変更のなごりをご紹介させて頂きます。

<大曲>おおまがり
Kandagawa-Omagari.JPG
こちらは東京都内を流れる神田川です。川か大きく曲がるから大曲。住所表記上は存在しませんが、この付近の地名でもあり、その名を冠したバス停もあります。神田川と並走する首都高速の高架も大きな弧を描いています。

そういう地形なだけ?

まぁ地形も影響はしていますが、この流路は江戸時代に人の手が加えられたなごりなのです。

今はコンクリの街となって実感しにくいですが、この付近は北と南の台地に挟まれた谷地です。現在の神田川の基となった平川が、江戸城を迂回しながら日比谷入江に注いでしました(江戸城は海岸沿いの城で日比谷は海でした)。平川に限らず、これと合流する小石川、そして台地を隔てて東側を流れる石神井川も、南下して直接江戸湾に流れ込む川でした。これらが増水した場合、これから築こうという江戸城下の町は直撃を受けます。そこで、これらを全て東へ向かわせ、隅田川に流れ込むように付け替え工事が行われました。このいわば東遷事業の時に、現在の神田川の流路がほぼ完成したようです。

大曲もその時に?

そう思われますが、厳密なことは分かりませんでした。あるいは、この付近にはかつて白鳥池と呼ばれる大きな沼があり、これが埋め立てられる工程で急カーブとなったのかもしれません(あくまで推定ですのでご容赦下さい)。

<白鳥橋>しらとりばし
Shiratori-Bashi.JPG

ShiratoriBashi-Kandagawa.JPG
神田川に架かる白鳥橋です。かつてあった沼の名が、そのまま橋の名となっています。白鳥池とは別に、流路の下流には小石川大沼と呼ばれた沼もありました。要するに、台地に挟まれたこの付近の低地は、ほとんどが湿地帯だったと思われます。

<白鳥橋と大曲>
Kanda-River-Big-Turn.JPG
神田川は白鳥橋の前後での流路が急カーブを描き、東向きの流れから南向きの流れへと変わり、再び東の隅田川へ向かいます。地形が創った流路ではなく、人が意識して造り上げたもの。むかしの人たちの水との格闘のなごりということになります。

ということで
江戸城を中心とした治水事業のなごりのご紹介でした。江戸時代ともなると、城づくりと町づくりはセットと言えますね。

■訪問:神田川大曲
(白鳥橋)
[東京都文京区水道]1丁目


お城巡りランキング

2021年10月22日

最後の将軍ゆかりの地(文京区春日) 徳川慶喜公屋敷跡

今回は文京区の徳川慶喜屋敷跡の話です。
<徳川慶喜公屋敷跡>
University-gate.JPG

当ブログでは既に巣鴨の屋敷跡をご紹介させて頂いています。石碑のみですが、徳川慶喜に対する個人的な思いも記させて頂きましたので、良かったら覗いてみて下さい。
→記事へすすむ

徳川慶喜が駿府での長い長い謹慎生活を経て江戸、ではなくて東京へ戻ったのが明治30年(1897年)。当初は豊島区巣鴨に住んでいましたが、屋敷のすぐそばを電車(山手線)が通ることになり、騒音を避けて文京区春日に引越しました(1901年)。その跡地が今回の訪問地です。

<大学の敷地>
campus-grounds.JPG
屋敷跡は大学の敷地となっています。門の前には『徳川慶喜公屋敷跡』の金属板があります。関係者でもないので入るわけにもいきませんが、外から見ただけでも、敷地内が傾斜になっているのが分かります。徳川慶喜が晩年を過ごしたお屋敷そのものはこの奥の方、低地を見下ろせる高台にあったようです。今と違って遮るものもないでしょうから、神田川(むかしの江戸川)なども屋敷から眺めることができたのかもしれませんね。

<大学の東側の坂>
Yoshinobu-Residence-Slope.JPG
屋敷沿いの坂道です。傾斜が伝わりやすいと思い撮影しました。

慶喜が移り住むより100年くらい前の話になりますが、この地には駿河松長藩主・大久保教寛の屋敷があったとのこと。これも何かの縁でしょうか?というのも、この大久保家は遡れば徳川家康に仕えた三河武士。教寛の父は小田原藩主で大老にまでなった大久保忠朝です。まぁこのあたりを慶喜が意識したかどうかはわかりません。

ところで
慶喜の屋敷を小日向邸と呼んでいる説明をよく見かけます。

<大学の西側の道>
Town-Border.JPG
大学そのものは春日二丁目で、この道を挟んだ西側は小日向一丁目ではありますが

この素朴な疑問は、すぐ近くの説明板で納得しました。

<第六天町>だいろくてんちょう
Dairokuten.JPG
この付近の旧町名に関する説明板です。旧第六天町?私としては初耳でした。説明によれば『小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。』とのこと(続き省略:そのあと『前』がとれて第六天町となりました)。

この辺り一帯を小日向と呼んでもおかしくないと思いながら、右側の地図に記された『現町境』の点線と『旧町域』の色分けを確認して納得しました。

<説明板拡大>
Dairokuten-Map.JPG
屋敷跡は現在の住所だと春日になりますが、旧第六天町に位置しているわけですね


<終焉の地>
Tokugawa-Yoshinobu-Yashikiato.JPG
巣鴨から第六天町へ移った徳川慶喜は、大正2年(1913年)に亡くなりました(76歳)。慶喜は水戸藩主の七男ですが、水戸の出身ではなく、ここ(現在の春日2丁目)からそう遠くない小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園)で生まれました。激動の幕末を将軍として乗り切り、人生の大半を駿府で過ごし、結局は生まれたところへ帰ってきた。そんな印象を受けました。

ということで
文京区の徳川慶喜屋敷跡のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:徳川慶喜屋敷跡
(国際仏教学大学院大学)
[東京都文京区春日] 2丁目

■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/10/21
・旧町名説明板(文京区)


-------参考画像-------

<巣鴨での屋敷跡>
sirinonsgori224 (1).JPG
白山通り沿いに石碑があります。屋敷跡は現在はビルが立ち並んでいます
[東京都豊島区巣鴨]

<駿府での屋敷跡>
Yoshinobu-Residence-sunpu.JPG
現在は料亭(浮月楼)となっています
[静岡市葵区紺屋町]


お城巡りランキング

2021年10月21日

水の道のなごり(神田上水跡)暗渠と城跡29

文京区春日の徳川慶喜屋敷跡へ向かう途中で、自分の歩いている道がそのままかつての水路であることに気付きました。きっかけは通りに設置された説明板です。

<神田上水説明板>
Kandajousui- information-board.JPG
神田上水?ここが?

神田川を通り越し、やや高い場所を歩いている感覚だったので、水の道が通っていることに一瞬戸惑い、よくよく考えて納得しました。水は低い方へ流れるだけ。人の暮らしを支えるために、台地の端を縫うように水路が築かれたわけですね。これなら高い場所にも生活水がいきわたります。

<金富小学校付近>
Kandajousui-Ankyo.JPG
この道がそのまま神田上水の流路です。文京区春日を歩いているつもりでしたが、道の南側(画像左手)の住所は水道。ここに上水が通っていたことが地名の由来です。

神田上水は、徳川家康の家臣・大久保藤五郎により築かれました。大久保藤五郎は家康の命で既に小石川上水を完成させていましたが、その後の江戸の人口の増加や、周辺河川の再整備の影響などもあり、小石川上水を改良する形で神田上水を築き上げました。

<説明板拡大>
Kandajousui-Channel.JPG
神田川と別れた上水は小日向台地南端を通って水戸藩邸内(現在の小石川後楽園)に流れ込んでいたようです。更に東へ進んだのちに南下し、掛樋(=水道橋)で神田川を渡って武家地ほか江戸城下の広範囲に水を供給し続けました。重要なインフラだったわですね。

そんな神田上水も、明治34年(1901年)には役割を終えて暗渠化されました。つまり姿を消しました。

暗渠・・・

この見慣れない字は『あんきょ』と読みます。城跡を主テーマにしている当ブログですが、この暗渠にも着目し、『暗渠と城跡』と題して何度か記事を投稿させて頂いております。暗渠、つまり地下に埋設され姿を消した川や堀は、かつて防衛上重要な役割を担っていた。まぁそんな感じの内容です。

神田上水は、天然の川でも城の堀でもありません。ただこの日ふと頭をよぎったのは、そもそも城とはなんなのかということです。城の概念は時代によって変わっています。戦の時だけ籠もる砦のようなものから始まり、戦国時代末期には、小田原城に代表されるように町そのものを堀や土塁で囲む『総構え』というスタイルも確立されています。町はすなわち人の暮らし。同じく総構えの構造になっている江戸城にとって、暮らしの場はその一部。そういう意味では、上水道に限らず、城下の暮らしを支えるためのインフラは全て城の一部、といえなくもない。

ちょっと極端な考え方ですが、そんなことを思いながら、かつての神田上水の経路を通って徳川慶喜屋敷跡へ向かいました。

■訪問:水道通り
(神田上水跡)
[文京区春日]2丁目付近
[文京区水道]2丁目付近

■参考
・Wikipedia:2021/10/21
・現地説明板
(文京区教育委員会)



-------- 関連画像 --------
<徳川慶喜公屋敷跡>
Tokugawa-Yoshinobu-Yashikiato.JPG
[東京都文京区春日] 2丁目
次の記事で紹介させて頂きます


お城巡りランキング

2021年10月11日

敗軍の将 終焉の地(川越市)大道寺政繁供養塔

つわものどもが夢の跡
小田原北条氏の重臣だった大道寺政繁の終焉の地の話です。

<大道寺政繁供養塔>だいどうじ まさしげ
Didouji-Memorial-Tower.JPG
北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた大道寺政繁の供養塔です。多方面で活躍した政繁の終焉の地はここ川越でした。

■ 御由緒六家 ■ごゆいしょろっけ
大道寺家小田原北条氏配下屈指の名門家です。いかに重要視されていたかは、WIKIさんの御由緒六家に関する説明を読んで頂ければ伝わると思います。
『若き日の伊勢新九郎入道宗瑞(北条早雲)は、伊勢国の大道寺・多目・荒木・山中・荒川・在竹の6人と親しく交友していた。あるとき7人で関東へ修行に下ることになり、神水を酌み交わして「この中の誰か1人が大名になったら、他の者は家臣となってその人を盛り立て、国をたくさん治めよう」と誓い合い、それぞれ関東へ下った。早雲は今川氏親から駿河国富士郡下方庄を賜った後、6人の兵を招いて伊豆国へ討ち入り、6人は早雲の家老となって伊豆国を治めた。』
[出典元:Wikipedia]
つまり大道寺家と北条家は昨日今日の付き合いという訳ではないということです。政繁はその三代目で、代々の通称である孫九郎を名乗り、北条の主要な合戦での武功のみならず、任された職や町の統治、更には治水や農地開発などでも実績を残しました。

名実ともに実力者

だったわけですね


■北国軍を迎え撃つ■
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。20万を超える大軍は複数に分かれ、関東に迫りました。このうち、東山道から侵攻する北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸他)を食い止めるべく、大道寺政繁は碓氷峠に出陣します。

しかし兵力の差は明らか。敗走を余儀なくされ、松井田城に籠もります。松井田城はもともとあった城に政繁が大改修を施した堅城。しかし、圧倒的な大軍を防ぎきることはできませんでした。水も兵糧も底をつき、開城降伏となりました。


■ 敵の案内役 ■
大道寺政繁がどんな条件で降伏したのかはわかりません。ただ、その後に敵である豊臣勢の案内役をかってでたことは事実のようです。北条方の忍城、松山城、鉢形城への道案内に続き、八王子城では自身の率いる兵を突入させ、豊臣側の勝利に貢献しました。

裏切り?

そういう評価もあります。ただ、私はきっと深い考えがあってのことだと思っています。理由?根拠はありません。ただ、そう思いたいという理由はあります。

それは
『花の慶次』に描かれた大道寺政繁が
慶次も認める猛将だったから


たったそれだけです。
 

■ 開戦責任 ■
小田原城が陥落した後、大道寺政繁は秀吉から切腹を命じられます北条氏政・氏照の兄弟、そして重臣の松田憲秀らと同じく、開戦の責任を咎められてのことです。

豊臣軍に協力したのに?

この結末には、秀吉が寝返り行為を嫌ったから、あるいは秀吉家臣と意見が対立したからなど諸説ありますが、はっきりとはしていません。

政繁は自らの本城である河越城下常楽寺にて切腹して果てました(1590年8月18日:享年58歳)。

<常楽寺表門>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
政繁の供養塔がある埼玉県川越市の常楽寺です。墓所は群馬県安中市の補陀寺にあります。

<本堂>
Didouji-Masashige-Joushinji.JPG
本尊は阿弥陀如来。常楽寺は地元豪族・河越氏の持仏堂が始まりとされています。

そして

<大道寺政繁供養塔>
Didouji-Masashige-Memorial-Tower.JPG
大道寺政繁の供養塔は一般の方のお墓と同じ区画にあります。当ブログ、お墓はなるべく掲載しないことにしていますので、画像に手を加えさせて頂きました。

<法名>
Dharma-Name.JPG
法名は松雲院殿江月常清大居士


■ 敗軍の将 ■
敵に寝返ったような形で終わってしまったことは残念です。どんな複雑な事情があったのか、もはや知るすべがありません。3万5千の豊臣勢に対し、松井田城に立て籠った大道寺政繁の兵は3千。約1ヶ月間持ち堪えましたが、援軍が来るあてもなく、政繁は城兵の助命を条件に降伏する道を選びました。

よく『城主の切腹と引き換えに城兵は救済される』といった話を耳にしますが、これは戦国時代を通しての価値観ではありません。大道寺政繁が戦った北国軍の実質的なリーダーである前田利家は、鉢形城を攻めて開城させた時も、城主の北条氏邦を助命しています。敗軍の将がすなわち切腹というわけではないのです。また、寝返った者が先鋒に回されるという例も、戦国の世では珍しいことではありませんでした。試されて当然ということです。つまり、大道寺政繁が降伏後に腹を切らず、自軍の城に攻め込んだ行動は、当時としてはそんなに不自然なことではなかったように思われます。

<つわものどもが夢の跡>
Masashige-Memorial-Tower.JPG
この地が大道寺政繁終焉の地となりました。どんな思いでこの世を去ったのでしょうか。豊臣軍に勝てないことを悟った政繁は、自分や家来のことのみならず、敗戦後の北条家及び家臣団の存続のことまで考えていたような気がします。そのようには語り継がれていませんが、敗れた大道寺政繁は何かを語る立場にはありませんでした。

ということで
大道寺政繁と終焉の地に建つ供養塔のご紹介でした。極めて個人的な意見も混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。

■訪問:大道寺政繁供養塔
(常楽寺)

[埼玉県川越市上戸]194

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/10/12
花の慶次〜雲のかなたに〜
(原作:隆慶一郎/作画:原哲夫)



お城巡りランキング
posted by Isuke at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2021年09月26日

義経の正室として生きた豪族の娘 郷御前 (河越重頼・源義経・郷御前供養塔)

源義経の正室となり、この世を去るその時まで付き添った姫様の話です。

<供養塔>
Kawagoeshigeyori-Satagozen-Yoshitsune.JPG
埼玉県川越市の常楽寺で撮影しました。地元豪族の河越重頼源義経、そして郷御前の供養塔です。

■ 郷御前 ■ さとごぜん
郷御前は武蔵国有数の勢力を誇った豪族の娘。父である河越重頼は、源頼朝と当初は敵対したものの、のちに同じ秩父一族の畠山重忠らとともに頼朝の傘下に入り、以降は御家人として重く用いられました。母は、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の次女(河越尼)。比企尼は頼朝が伊豆国に流罪となっている間、仕送りなどで長きに渡って頼朝を支援し続けた人物。いわば頼朝の不遇時代の恩人です。河越重頼の武蔵国での実力に加えて、その娘が妻となっているわけですから、河越氏は頼朝も一目置く豪族であり、重要な御家人でした。その頼朝の命により、郷御前は義経に嫁ぐこととなり、故郷である河越の地を離れ京へ向かいました(1184年)。このため京姫とも呼ばれいます。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
供養塔があるこのお寺そのものが、河越氏館跡の一画に建てられています。この地が郷御前の故郷であり、義経へ嫁ぐ時もこの地から京へ旅立ったと思われます。


■ 頼朝・義経の確執 ■
源頼朝の鎌倉幕府樹立に、弟の義経が武功で貢献したことは言うまでもありません。その後の確執については、頼朝の弟に対する妬みや恐れ、統制が効かない煩わしさ、他の御家人への配慮など、いろいろと語られていますね。いずれにせよ、義経が朝廷からの官位を勝手に受けてしまったことが、兄弟の亀裂を決定的にしてしまったようです。

私見になりますが、義経は頼朝が抱える複雑な事情への配慮は欠けるものの、あくまで純真な武士であり、兄に対抗するつもりなどなく、むしろ認めてもらいたかったのではないでしょうか。兄弟の心のすれ違いは、そのまま危機となって郷御前に迫っていました。


■ 奥州平泉へ ■
郷御前が嫁いだ翌年、夫である義経は鎌倉に凱旋しようとするものの頼朝に拒まれ京に戻ります。更に、義経は頼朝の命を受けた追手に襲撃され、返り討ちにするものの、もはや京にはいられなくなります。同じ頃、郷御前の父である河越重頼は、義経の義父であることを理由に領地を没収され、嫡男である重房共々殺されてしまいました。

武勇に優れた夫
武蔵国屈指の豪族である父

それが、なんでこうなりますかね。その後も頼朝に追われ続けた義経は、最終的に奥州平泉の藤原秀衡を頼りました。この時、義経は郷御前に故郷の河越へ戻るよう命じたようです。しかし、郷御前は義経の後を追って奥州平泉へ向かいました。


■ 義経・郷御前の最期 ■
奥州藤原氏に匿われた義経と郷御前の間には娘が生まれ、三人はしばらく平穏の日々をおくりました。しかし義経を迎え入れた藤原秀衡が亡くなる(1187年)と、状況が少しずつ変わっていきます。秀衡の後を継いだ泰衡も、当初は義経を匿い続けましたが、頼朝の圧力はますます強まり、これに逆らい続けることはできませんでした。

泰衡は父秀衡の遺言を破り、義経の館を攻めます(1189年)。取り囲まれた義経は、これに抗うこともなく持仏堂に入り、郷御前と娘を殺し、自害して果てました。源義経31歳、郷御前22歳、娘はまだ4歳でした。


■ 武士の娘 ■
義経が愛した女性といえば、まず静御前を思い浮かびますよね。伝わる話はとても切なく、語り継がれるだけのことはあります。ただ、最後の最後まで義経から離れることがなかった女性は郷御前だけです。正室というだけでなく、河越氏という関東屈指の武士の家で育ったことが、結末に深く影響しているように思えます。静御前が当時のプロの芸人であったように、郷御前は生粋の武士の娘だった。ともに悲劇のヒロインのようにな結末となってしまいましたが、それぞれの生き方で後世の人に慕われ、愛され、語り継がれるのだと思います。

ということで
河越重頼の娘であり、源義経の正室であった郷御前のご紹介でした。今回もまた個人的な想像が入ってしまっていますが、素人会社員のブログですので、その程度に受けて止めて頂きますようお願い致します。

<供養塔と石碑>
Memorial-Tower-Kawagoe-family.JPG
郷御前のお墓は平泉にあります。生まれ育った場所に、供養塔が建てられました。

■訪問:常楽寺
[埼玉県川越市上戸]194

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/26
・現地説明(碑文)


-------■ 追 記 ■-------
<河越氏館跡>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG
こちらは現在の河越氏館跡です。手前は説明板、右手の建物は供養塔のある常楽寺です。河越重頼の死後、源頼朝は没収した河越氏本領を妻である河越尼に安堵しています。弟である義経との確執はともかく、河越氏に対してはちょっとやり過ぎたという後悔があったのでしょう。


お城巡りランキング
posted by Isuke at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2021年09月23日

河越氏ゆかりの神社(川越市)上戸日枝神社

かつて武蔵国で勢力を誇った河越氏ゆかりの神社を訪ねました。河越氏は鎌倉幕府の有力な御家人であり、ここ上戸の地を拠点に勢力を誇っていました。

<上戸日枝神社>うわどひえじんじゃ
Uwadhie-Shrine-torii.JPG
まず正面の石鳥居から。参道の左右には、境内社が祀られています。

<神明社>
Uwadohie-Precincts-shinmei-shrine.JPG
<八坂神社>
Precincts-haciman-shrine-Uwadohie.JPG
参道を挟んで向き合って配置されています。

更に進むと

<参道と拝殿>
Uwadohie-Shrine- Haiden.JPG
いよいよ拝殿です

<拝殿>
Kawagoe-Uwadohie-Shrine- Haiden.JPG
京都の新日吉山王社に河越氏が荘園領地を寄進した際に勧請したと伝わります。河越氏は代々この神社を鎮守として崇めました。日枝神社と改称したのは明治になってから。それ以前は新日吉山王宮と呼ばれていたわけですね。

<本殿と境内社>
Uwadohie-precincts.JPG
本殿は隙間から拝見させて頂きました。撮影できなくもなかったのですが構図に無理があり断念。本殿の両脇には日枝の神使である猿の像が置かれていました。右手の境内社は疱瘡神社・八幡神社・八坂神社です。

<本殿と境内社>
Uwadohie-Shrine-Precincts.JPG
こちらは社殿の向かって左側の境内社。大地主神社・御嶽神社・白山神社が祀られています。

そして
<浅間大神>
Fuji-worship.JPG
<愛宕神社>
Atago-Shrine.JPG
それぞれ境内の一画に祀られています。全てご紹介できたわけではありませんが、雰囲気はお伝えできたと思います。

さて
河越氏ゆかりの神社としてお邪魔させて頂いておりますので、現地で確認した由緒をご紹介します。
<日枝神社(新日吉山王宮)の由来>
honorable-history.JPG
こちらの碑文には、河越氏は『河肥三十三郷を荘園として後白河法皇に寄進し、自らは荘園官として力を振るう』と説明されています。この繋がりで、ここ上戸に新日吉山王(日枝神社)が勧請されたわけですね。
その後の説明では『江戸館の主である江戸氏は、河越氏の分れであることから』江戸館を築く時に河越氏の氏神の分霊社を鎮守社として祀り、これが赤坂の日枝神社である旨が記されています。
[『』内は原文の抜粋]

なるほど。江戸氏も河越氏と同じく秩父氏の支流。河越氏の祖となった河越重綱の四男重継が江戸氏の祖です。江戸郷を領して江戸氏を名乗りました。その江戸氏が館を築く際に一族の神を祀った。納得です。

ただ、それが赤坂の日枝神社というのが、私にはどうもしっくりしません。個人的に太田道灌好きなせいもありますが、赤坂の日枝神社は江戸城築城者の道灌が勧請したのが始まりというお話を信じています。

このあたり、どちらを信じる?というより、どう受け止めますかね。

<社額>
Uwad-Hie-Shrine.JPG

江戸氏が新たな領地となった江戸郷の守護神として、河越氏館近くの上戸日枝神社を勧請した。いい話ですね。
太田道灌が江戸城を築城し、江戸の繁栄を願って川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請した。こちらもいい話ですね。

私は学者ではないのでこれ以上考えず、両方受け入れたいと思います。

ということで
河越氏が鎮守とした上戸日枝神社のご紹介でした。北条氏による鎌倉幕府独裁体制の基礎を築いた北条時頼より、社領の寄付を受けた神社です。その当時の河越氏の勢力、御家人としての立ち位置までも伝わってきますね。

■訪問:上戸日枝神社
[埼玉県川越市上戸]316-1

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/23
・猫の足あと:2021/9/23
・現地説明(碑文)
『日枝神社(新日吉山王宮)の由来』


■参考画像(当ブログ内)■
<河越氏館跡>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG
[埼玉県川越市上戸]

<赤坂日枝神社>
shirononagori323 (2).JPG
[東京都千代田区永田町]



お城巡りランキング
posted by Isuke at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地

2021年09月19日

河越氏館のなごり

つわものどもが夢の跡
かつて武蔵国有数の勢力を誇った河越氏の館跡を訪ねました。

<河越氏館>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG

■ 河越氏 ■かわごえし
河越氏は桓武平氏の流れを汲む秩父氏嫡流の一族。平安時代の終わり頃、この地に館を構えて地名である河越氏を名乗りました。冒頭の現地説明板には『河越館跡は、平安時代の終わりころから南北朝時代の中ごろまでの約二百年の間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡』と記されています。武蔵国の最大勢力だったわけですね。そして、伊豆で源頼朝が挙兵すると、当初は敵対したものの、のちに御家人となり、平氏討伐軍に参戦しました。説明文からまた抜粋させて頂くと『この頃の河越氏の勢力は、重頼の娘が源頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから推し量ることができます。おそらく輿入れの日、重頼の娘は、お供の者たちと河越館から都の義経のもとへ向かったことでしょう』とのこと。河越重頼の娘の名は不明ながら、郷御前(さとごぜん)と呼ばれています。その後何事なければ良い縁談だったことになりますが、頼朝・義経兄弟の対立により、義経縁者である河越重頼は嫡男重房ともども滅ぼされ、娘の郷御前は義経とともにこの世を去ることとなりました。武蔵国覇者であり、中小武士団や国人を取りまとめていた河越氏は、ここで一旦衰退し、鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』からも姿を消します。代々継承してきた地方官僚としての地位は、畠山重忠に奪われることになりました。
[『』内は現地説明板からの抜粋]

■引き続き御家人■
低迷期を経た1205年、鎌倉幕府の執権・北条時政が有力御家人である畠山重忠を排斥する際、河越重頼の次男重時と三男重員(しげかず)が重忠討伐軍に加わっています。これに限らず、二人の活躍は記録に残されており、最盛期には及ばないものの、河越氏は鎌倉幕府の御家人であり続けました。重時は河越氏の家督を継ぎ、重員はかつて河越氏が代々継承した留守所総検校職に任じられています。

■最後の当主■
室町時代、河越氏当主の河越直重は関東を統治する鎌倉府と対立。1368年には平一揆が河越館に立てこもり、鎌倉府に反逆しますが、結果としては敗北(武蔵平一揆の乱:むさしへいいっき)。これ以降、河越氏は歴史の表舞台から完全に消えてしまいました。


<河越館跡史跡公園入口>
Kawagoe-yakata-ato-Sign.JPG
現地に到着して初めて国指定史跡であることを知りました。

<土塁跡>
Road&Earthworks.JPG
公園西側の道路沿いにある土塁跡

<河越館跡史跡公園>
Kawagoe-yakata-ato.JPG
この草原のような敷地が館跡です。広いです。現在は史跡公園として整備され、堀の区画などが記されていますが、リアルな遺構は先ほど目にしたものを含め、区画の周辺を取り囲む土塁だけと思われます。

<北へ続く土塁>
Kawagoe-yakata-Earthworks.JPG

Kawagoe-yakata-ato-Earthworks.JPG

■陣所跡・砦跡■
今回は河越氏の館跡を意識して訪問しましたが、戦国時代初頭には関東管領の上杉顕定が7年に渡ってこの地に陣を構えて、河越城攻撃の拠点としたとされています。また、戦国時代末期には、小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の砦があったと考えられています。その北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされた時に、戦の拠点としてのこの地の役割は終わったようです。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
こちらは館跡の一角にある常楽寺です。河越氏の持仏堂が基になったとされています。境内には河越重頼・郷御前の供養塔があります。また、戦国時代にこの地を領し、この地で自害した大道寺政繁の供養塔もあります。


■つわものどもが夢の跡■
Earthworks.JPG
遺構は少ないながら、歴史ははっきりしています。城というより、武士の実態を解明する上での重要な遺跡として国指定となっています。

-------■河越氏館■-------
別 名:河越館・上戸陣所
築城年:平安時代末期
築城主:河越氏
城 主:河越氏、上杉顕定、大道寺政繁
廃 城:1590年
現 況:河越館跡史跡公園
[埼玉県川越市上戸]

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/19
・現地説明板
(川越市教育委員会)



お城巡りランキング
posted by Isuke at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2021年09月18日

暗渠となった堀のなごり(法音寺城跡) 暗渠と城跡28 

本来そこにあったものの余韻が漂う。人がそれを感じ取るアンテナはたくさんあるかと思いますが、今回は舗装された道路の表面に感じる城のなごりの話です。訪ねたのは栃木県野木町の法音寺城跡です。

まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
Earthworks.JPG
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
Earthworks-Moat.JPG
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。

つづきまして

<法音寺境内の堀跡>
Bamboo-forest.JPG
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林に残る堀跡です。

<堀跡>
Bamboo-Forest.JPG
盛り土したような僅かな起伏と共に堀跡が確認できます。

前回の法音寺城跡に関する投稿で、冒頭の土塁と堀について「いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます」とコメントさせて頂きました。現地で位置関係を確認しただけで充分そう思えましたが、『間違いない』という心境に至った目印をご紹介します。

<道路の舗装>
Ankyo&Castle.JPG
こちらです。ここだけ舗装が違いますね。道路全体とは異なる工事が施された証です。もう少し具体的に言うと、道を横切って水が通り抜けられるよう地下に水の路を設けた証ということになります。いわゆる『暗渠』ですね。

暗渠?

この見慣れない「あんきょ」と読みます。地下に埋設された水路とか川という意味に受け取って下さい。

城の堀がそのまま水路に転用される例はよくある話です。まぁ水路とまでいかないまでも、雨水が溜まらないように、低い所へ水が流れるよう人の手によって微妙な高低差がつけられていることはよくあります。ここも普段は水がありませんが、そんな役割を果たしているのでしょう。

道を通すからといって遮ってしまっては、水は溜まる一方。場合によっては溢れ出してしまいますね。これを避けるために、地表では途切れたかに見える堀と堀の間を、人知れず地下で繋いでいるわけですね。

何気ない道路の舗装工事にも、そんな事情が隠されている。何でそうしたかに気づくと、その場所ならではの固有の事情を知る手掛かりになります。素人の城跡巡りは、難しいことは考えず、感じたまま景色を受け入れるのが一番と思っています。ただ、暗渠というアンテナをちょっと加えるだけで、一味違った気付きになったりします。

ということで
暗渠に気付き、堀跡と堀跡がいまでも繋がっていることを実感したというお話でした。マニアックなお話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

<現地>
Ankyo&Castle-Nogi.JPG
さすがに土塁は繋げておけませんね

■訪問:法音寺城跡
[栃木県野木町友沼]
posted by Isuke at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2021年09月15日

法音寺城のなごり(野木町)

つわものどもが夢の跡
栃木県野木町の城跡を訪問しました。

<土塁>
Houonjijo-Earthworks.JPG
正体不明の土塁が残されています

■法音寺城■ ほうおんじじょう
今回訪問の『法音寺城』は、築城年や築城者といった情報がほとんどありません。地理的な条件からして、同県小山市を拠点としていた豪族・小山氏配下の城ではないかとも言われています。それを前提に推定すると、小山氏の滅亡あるいは居城の廃城と同時期に城としての役割を終えたのかもしれません。

<法音寺>
Houonji-Temple.JPG
当日はこちらのお寺を目印に訪問しました。山門の左右には仁王像。立派です。

<中門>
Houonji-Temple-gate.JPG
こちらは本堂の手前の門。

<本堂>
Houonji-Main.JPG
真言宗豊山派の寺院です


さて
かつてあったとされる城は『法音寺城』と呼ばれているものの、お寺の境内そのものは城跡ではないと言われています。

<裏手>
Houonji-Back-Side.JPG
城跡はお寺の北側です。あの竹林より先に遺構が確認できます。

<竹林の堀跡>
Houonji-Castle-moat.JPG
ちょっと画像では確認しにくいですが、竹林に堀跡があります。あの堀より先が城跡と考えて良いようです。

<城跡>
Houonji-Castle-Main.JPG
竹林を通り越して北側から撮影。これが城の中心部分です。途切れ途切れながら、ここを取り囲むように盛り土したような跡が確認できます。比較域小規模な単郭式の縄張りだったようです。


<土塁>
Earthworks.JPG
こちらは法音寺城境内のお隣の敷地です。土塁ですね。高さは2m強。向こう側は堀となっており、いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます。

<堀と土塁>
Earthworks-Moat.JPG
昔は土塁はもっと高く、堀は深かったのでしょう。

ちなみに
今回探索したエリアの更に北側は川。利根川水系の思川(おもいがわ)です。小山氏の居城も思川沿いに築かれていました。川は堀の役割も果たしますが、ここでは舟で本城と支城を結ぶ役割も担っていたのかもしれません。あくまで想像です。


ということで
法音寺城跡のご紹介でした。築城者もはっきりとは分っていませんが、遺構は確認できます。誰かが込めた思いが、余韻となって漂う場所です。

<つわものどもが夢の跡>
Bamboo-forest.JPG
城のなごりです

--------■ 法音寺城 ■--------
築城主:不明(小山氏か?)
築城年:不明
城 主:不明
廃城年:不明
[栃木県野木町友沼] 962



お城巡りランキング
posted by Isuke at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 山城山頂に残る神秘の溜池 金山城 日ノ池
  3. 3. 岡崎城のなごり
  4. 4. 荒子城のなごり 前田利家・慶次 傾奇者ゆかりの城
  5. 5. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  6. 6. 壬生城のなごり
  7. 7. 浜松城のなごり 家康が17年間居城とした城
  8. 8. 最年少の将軍・徳川家継のなごり 旧有章院霊廟二天門
  9. 9. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  10. 10. 消えた見沼の浮き城 寿能城
  11. 11. 山上道及と唐沢山城
  12. 12. 高天神城のなごり
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
最新記事
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

クルマで行く山城さんぽ100 絶対インスタにアップしたい「絶対見たい名城」30選 (CARTOP MOOK ACTIVE LIFE 009)

[当サイトお勧め本]

図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防 (サイエンス・アイ新書) [ 萩原さちこ ]

小説上杉鷹山 (集英社文庫) [ 童門冬二 ]