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2018年03月15日

暗渠と石仏  荒川の土手にて

<土手の石仏>
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埼玉県の戸田市を散歩してこんな光景と出会った・・・

今回はそんなお話です。ちょっと城とは無関係ですが、よろしければお付き合いください。

■北戸田探索■
<美女木八幡宮>
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源頼朝ゆかりの八幡神社です。この付近を探索後・・・

<暗渠>
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街のあちらこちらに張り巡らされている「水の道」をたどって歩き回りました。水がない?はい。これは当ブログでも何度かご紹介させて頂いている暗渠(あんきょ)です。いつも同じ説明になりますが『地下に埋設された川とか水路』という意味に受け取って下さい。

<水路の暗渠>
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蓋をされているだけ。水はいまもちゃんと流れています。気付いてもらえませんが・・・まぁ水路だと分かる人でも、普段はいちいち意識しませんよね。

<暗渠のカーブ>
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人の意識から遠ざけられている水の流れ。溢れ出た時くらいですかね?意識されるのは。

ここまでは前回投稿させて頂いた時と同じ画像。そして似た内容です。本日のお話はここから


■水先案内人■

蓋をされた水路をたどっていくと・・・

<運命の暗渠>
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おお、なんとなく神々しく映る暗渠です(逆光になってしまっただけです)。この暗渠が、この日最大の出会いへと私をいざなってくれました。まさに水先案内人的な暗渠です。

<川と橋>
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奥には巨大な土手が見えています。その手前に川と橋の姿が。ここが暗渠のゴールでしょうか

<八幡橋>
TodaAnkyo (11).JPG
小さな橋の名は八幡橋

<さくら川>
TodaAnkyo (12).JPG
荒川の土手の手前にも、こうしてひっそりと川が流れています。暗渠の行き先はここだったわけですね。この川は、土手の都合で荒川に直接排水できない水を集め、戸田市内を流れる笹目川に合流します。その笹目川は荒川に合流。納得です。

さてさて、水の行き先も分ったし、歩き疲れましたので、そろそろ帰りますかね。

最後にもう一度だけ荒川を眺めるべく、更に奥へと進んでいきました。

<荒川の土手>外側
TodaAnkyo (10).JPG
八幡橋を渡って左手

堤防も改めて近くで見ると、凄い迫力です。これが城の土塁だとしたら、とんでもなく巨大な城郭になります。ただまぁこれは人と人が争うためではなく、水に立ち向かうためのもの。せっせとこしらえたんですね。人の暮らしのために。

■土手の石仏■

<石碑?>
TodaAnkyo (2).JPG
土手を登りかけて気づきました。遠くの緑の中に何かあります。石碑?あるいは道標でしょうか。とりあえず行ってみました。

<石仏>
TodaAnkyo (8).JPG
えっ?なんでこんなところに・・・

TodaAnkyo (7).JPG
周囲に誰もいないせいでしょうか。とり残され、ひとりで遠くを見つめているようで、なんとも寂しげに映ります。

<馬頭観音>
TodaAnkyo (6).JPG
これは馬頭観音。石仏に精通しているわけではありませんが、さすがに馬頭観音は良く耳にしますね。

かつて馬が荷運びの手段だったころ、その死を悼んで道端や馬捨場などに馬頭観音が祀られた。いわば供養塔のような性質のものですね。また、馬の無病息災や交通安全を祈願する意味もあったそうです。まぁどのような思いが込められているにせよ、馬が人の暮らしと深く関わっていたことは伺えますね。

そういえば、街なかでひょっこりと現れるお地蔵様やら庚申塔など、ほぼ無関心に通り過ぎているような気がします。まぁ仮に立ち止まってじっくり眺めても、意味がわからないものが多いのですが(私は)。

<馬頭観音立像>
TodaAnkyo (3).JPG
それにしても、なんとも不自然な場所。ここは造成された土手です。むかしの道筋にあたるのでしょうか。

馬頭観音は、馬にとって難儀な場所に建てられることが多いそうです。崖とか、急な坂道とか。荒川を馬で乗り切るなんてこともあったのでしょうか?そうであれば、ここは馬にとっての難所だったかもしれません。

<誰かの思い>
TodaAnkyo (4).JPG
お供え。どなたかの思いと、この観音さまは繋がっているわけですね。今も

ただどうなんでしょう
人の思いがいつか途切れ、ここに存在していることすら忘れ去られたら

それでも、観音さまは黙って佇んでいるのでしょうか。というか、それしかありませんよね

<孤高>
TodaAnkyo (5).JPG
人の形をしているせいでしょうか。どうしても孤独を感じずにはいられません。しかも中途半端な孤独ではない。途方もなく、どうしようもない孤独。人の目の届かないところで、ただただ己の役割を全うしている。

妙に名残り惜しく、しばらく立ち去ることができませんでした。


■家 路■
ただまぁ、冷静に考えれば、姿が人に似ているだけで、あれはあくまで観音さま。弱いことこの上ない私がいだくような不安とは、きっと無縁なのでしょう。まったく別な見方をするなら、あれはそもそも石です。やはり人の感情とは無縁のはずですね。

途方もない孤独

あの景色に、そんなものは無かったのかもしれません。あるとしたら、それは見ている側にあったのでしょう。つまり自分の中に。暮らしに追われ、普段は意識もしないものが、心の奥の方に隠されている。そうなのかも知れませんね。

いや、もしかしたら隠されているのではなく、自分で蓋をしているのかも知れません。何かのきっかけでその蓋が外れた時、それが溢れ出す。やっと意識する。そうなのかもしれません。

まぁまた来ますかね。1年後なのか、5年後なのかわかりませんが・・・

[戸田市美女木]7

 
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タグ:暗渠

2018年02月21日

美女木八幡神社と北戸田暗渠散歩

つわものどもが夢の跡
今回はJR埼京線の北戸田駅を下車して、源頼朝ゆかりの神社を訪ねました。

■美女木■
まずこの地名、私は埼玉県民なので見慣れています。まぁほぼ見た通りですが「びじょぎ」と読みます。位置は戸田市の北西、地形としては西側に荒川が流れる低地です。


■源頼朝ゆかりの神社■
<美女木八幡神社>
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こちらは戸田市美女木の神社。今回の目的地です。創建は鎌倉時代。あの源頼朝が、奥州へ向かう途上でこの地に宿営し、その晩に神のお告げを聞きいたことにより相州鎌倉の八幡宮を観請した。そう伝わります。

<説明板>
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なるほど・・・

1189年の奥州下向、つまり奥州藤原氏との合戦に向かう途中ということですね。この地で「神のお告げ」とは、そういう夢をみたということでしょうか。源氏の棟梁のお話ですので、ちょっと凡人の想像の域を超えています。

<拝殿>
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狛犬が二対。四天王のように映ります。

<鐘楼>
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風格があります。

<氷川神社>境内社
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拝殿の左側には氷川神社。埼玉に多い神社です。昭和になってここに移されたようです。

<境内の東側>
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こちらは正面ではなく東側の参道になります。

<山ノ神社>境内社
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小さいですが、思わず足を止めてしまう雰囲気。

<随神門>
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こちらが正面

<参道>
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境内の立派さと比較すると、ちょっと窮屈な参道となっています。むかしは参道が長く、毎年夏になると流鏑馬(やぶさめ)が行われていたそうです。

ネット検索してみると、美女木の地名は『流鏑馬による「飛射騎(びしゃき)」の呼称が年とともに変化した呼称である(出典:Wikipedia)』という説がありました。格好いい由来ですね。あくまで説のひとつで、ほかに美女に由来する説もあり(美女が来た)、これはこれでいいですね(何がいんだか・・・)。

<銅鐘>
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社宝の銅鐘は県の指定文化財となっており、現物は戸田市立博物館に保管されています(鎌倉時代末期から南北朝初期の作と推定されています)。ここ美女木八幡神社はそれだけ歴史のある場所ということですね。銅鐘には伝説があります。水中より掘り出され、つくと大水が出て洪水になる。うかつにつけませんね。でもオリジナルは博物館ですから。大丈夫です。

この付近は低地であるが故に、水には悩まされてきたのでしょうね。荒川沿いでありながら、治水もいまとは比較にならないレベル。まぁ恩恵もあるからこそ、人が集まるのですが・・・


■頼朝軍が通った戸田■鎌倉街道
源頼朝による奥州征伐(1189年)。その軍勢は複数に分かれていたようですが、頼朝本人の率いる軍は、鎌倉街道中路から北上したと伝わります。中路ってどこ?戸田も通るの?・・・。まず鎌倉街道ですが、これは鎌倉へ通じる街道の総称であって、一つではありません。中路は鎌倉街道の主要幹線の一つです。で、どこ?

最近痛感するのですが、古道に詳しいと、きっと歴史の楽しみ方も違ってきますよね。城跡好きなので地形はけっこう意識するほうですが、人の通り道も重要です。今後のテーマとしますかね・・・

頼朝軍の具体的なルート、詳細は分かりません(私には)。ただ、鎌倉街道の中路は、『武蔵国東部から下野国を経由して奥州白川に至る道』(参考:Wikipedia)と考えられているようです。東京都・埼玉県の東部から、栃木県へ向かって北上し、福島県に入る。そんな道筋ですかね。その途上に、現在の戸田市も含まれる。そんな大まかな認識で良いかと。たぶん・・・
もう少し範囲を狭めて推定すると、東京都の北区とか板橋区から舟で荒川を渡り、埼玉県戸田市に入った。そんな感じでしょう。素人なりに更に調べてみた結果、美女木も荒川に近いエリアですが、もう少し南の「早瀬」の辺りで渡河したのではないかと思われます。早瀬は先述の銅鐘が掘り出されたところで、やはり戸田市。向こう岸だと板橋区の高島平付近ですかね。


■街散歩■
これらのこと、確たる証拠はありません。ただそんなことを想像しながら歩くと、同じ街並みが違うものに映ります。歩いてみると、ほぼ平坦な北戸田の地形。これは荒川の流れにより形成されたのであろうとか、大昔は湿原のような状態だったのかなぁとか・・・そんなふうに思いを巡らせていると、同じ距離を歩いてもあまり疲れません。きっと小さな川や沼が点在する場所だったのでしょう。それらを避けるように、長い年月をかけて人が築いた通り道を、頼朝軍も進んでいった。などと妄想してみる。かなり勝手な想像も含まれますが、自分なりのこだわりを持っていると、すっかり都市化された街の散歩も奥深いものになります(なっているような気になります)。


■水のなごり■北戸田の暗渠
また地名の由来の話に戻りますが、飛射騎と美女以外に、「ビジョ」がぬかるみを意味していて、低湿地を指しているという説もあります。これはこれで納得です。

<暗渠>あんきょ
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北戸田駅からここまで来るのに「暗渠が多いなぁ」と感じていました。

<暗渠>
shirononagori201toda (3).JPG
蓋がしてありますが、これは要するに水路です。

<暗渠の車止め>
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車止めは暗渠にはつきもの。人や自転車はいいが、車は勘弁してね!ということです。歩行者のためにもなりますが、そもそも構造的にそんな重量はお断りということですね。それにしても役割が分りやすい「車止め」です。

繰り返しになりますが、北戸田付近はもともと低湿地でした。近代化にともない整地され、その面影はありません。余計な窪みは埋められ、水のための路(みち)が整備され、更には暗渠化され、かつて広範囲に点在していたであろう水は姿を消しました。

好き勝手に流れる小さな川とか、どうしてもそこに水が集まってしまう沼とか、人にとって不都合なものは無くなり、その痕跡すらほとんど残っていません。ただ人の暮らしの営みに、水は欠かせない大切なものです。その証の一つが暗渠ではないでしょうか。視界から消えても、水そのものが人から遠ざけられることはありません。

<暗渠>
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■そもそも北戸田へ来た理由■
ここまで感じるままに「頼朝軍が通った」「低湿地」「その面影はない」といったことを書かせて頂きました。冒頭では「源頼朝ゆかりの神社を訪ねました」などと掲げておきながらなんですが、実は源頼朝のファンでもなく、歴史ある神社のファンという訳でもありません(どちらも好きですが「熱烈!」というほどでもないという意味です)。暗渠を見に来た?それは結果であって、目的ではありませんでした。ではなぜわざわざここへ来ようと思ったのか・・・当ブログ、基本は城跡ブログです。

<美女木八幡神社付近>
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この神社付近の発掘調査で、堀と土塁跡が発見されたという話があります。城跡の一角に鎮座する神社に、城としての遺構が残されているというのは良くある話です。もしやもしや?更に・・・

<堀之内公園>堀ノ内
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とどめは地図で見たこの公園の名前。城跡好きが「堀之内」なんて聞いたら、城跡とか館跡とか、なんとなく期待してしまいますよね!何かあるんじゃないかと・・・ね?

ちょっと安易ではないか?
そのようなことは百も承知!されど・・・来ちゃいました。

<堀之内公園>
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この土の盛り上がりは土塁跡?(違います)

まぁ当然のように、城跡としての収穫はありません。そもそも、専門の方々の文献で、この地で発見されたという堀や土塁と、城の存在を関連づけるようなものはないのです。素人がフラっと行って、新しい発見なんてあり得ませんよね。

まぁ勝手な想像力により楽しく歩き回れたので、それだけで満足です。豊富な北戸田の暗渠にも出会えましたので・・・

<笹目川>
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本日訪問の美女木は、中世においては足立郡笹目郷(佐々目郷)。その名を冠する川を渡って埼京線北戸田駅へ戻りました。

以上です。毎回ながら、こんな拙文に最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。

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タグ:暗渠

2018年02月17日

入学しました!足利学校

お隣の足利氏館跡を訪問したついでに、足利学校にも立ち寄りました。

■入学■
<入学証>
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入学証です。自分も軍師に仲間入りできたようで嬉しい。あの太田道灌も足利学校で学んだとのこと。これで道灌の後輩です!・・・ってまぁ、これは要するにチケットです。大人は420円。おカネで解決して後輩ぶるのも格好悪いですね。ただ、たった420円でその雰囲気を味わうことはできます。

<学校門>
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実は何度か来ている上に、当ブログでも紹介済です。
記事→「軍師たちの学び舎
今回は、城跡巡りに付き合ってくれている旧友二人の案内人のつもりで再入学しました。

<学び舎と庭園>
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建物は江戸時代中期の学び舎を再現したものです。庭園は北側と南側にあり、こちらは南庭園。綺麗に整備されています。


■授業料■
ところで、セコイ話ですが教育にはお金が掛かりますよね。足利学校は当時の日本の最高学府。入学金+年間授業料はどのくらいだったのでしょう?

実は無料。そう、タダ!

えっ!ということは、希望すれば入学できたのですね。これなら貧富の差が教育の差につながるなんて問題も回避できます。志と才能、これさえあれば良いのですね。

<入徳門>
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深い意味で、この門は世間に開かれていたわけですね。ただし、学ぶ者の身分は僧侶です。いい加減な気持ちでこの門はくぐれません。


■学校内探索■

ところで・・・
二つ目の門(学校門)をくぐってすぐくらいまでは、友人に対してそれらしい説明をしていたのですが・・・気が付けば一人。いつもの癖で、気になるものに向かって足が勝手に動いてしまい、はぐれたようです。あら・・・友人たちはどこへ?案内人失格ですね。まぁお互いに敷地の中にいるのですから、どこかでまた会うでしょう。ということで、ますます勝手に歩き始めました。

<竹林>
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なんとなく落ち着きます。静かな竹林に囲まれ、いい雰囲気を満喫しながら、一人でいろいろと考え始めました(まぁロクな考えではないのですが)。

<土塁>
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敷地は土塁で囲まれています。まるで城郭のようですね。学びたい者に門を開き、そうでない者は入らなくて結構。そんな感じですかね。

<土塁>
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こちらも。整備し直したものですが、雰囲気は伝わります。

<堀>
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土塁の切れ目(裏門付近)から撮影。水掘になっています。

<稲荷神社>
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足利学校敷地内の神社。自然な流れとして、学業のことをお祈りしたくなりませんか?実際、合格祈願の絵馬がたくさん掛けてありました。「正一位霊験稲荷社」とあります。曖昧ながら、とにかく「霊験あらたか」な神社と受け止めました。せっかくなので何か祈ろうと思いましたが、特に望んでいることがなく、会釈だけにしました。

<字降松>かなふりまつ
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説明板によれば、学生が読めない文字に出会った時、紙に書いて松の枝につけておくと、和尚(まぁ校長先生のことですね)がふり仮名や注釈をつけてくれたので、字降松と呼ぶようになったとか・・・。そうですか。私の場合、まず「字降松」と紙に書いて松の枝に結んでおく必要があります。

<北側>
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靴を脱いで建物の中へ。画像は北庭園です。人を避けて撮影したので、これは庭園の一部。実際に目で見たものは、もっと広くて美しい。

<展示物の一例>
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見学されている方が多かったので、建物の中の展示物は撮影しませんでした。こちらは外。宥座の器?「ゆうざのうつわ」ではなく「ゆうざのき」です。それにしても何の道具ですかね。水を使うようですが・・・。

これ、手前の柄杓を使って水を器に汲み入れるのですが、適度に入れれば、少し斜めにぶら下がっている器はまっすぐになります。ところが、水を入れ過ぎれば器がひっくり返り、水が全部こぼれてしまいます。ドッキリゲーム?まぁそういう楽しみ方もありますが、これは後述する孔子と関係があります。慢心を戒める。そういう深い意味があります。


■儒学■
<孔子像>
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こちらは校長先生ではなくて孔子さま。子は先生という意味だから先生さまはおかしいか・・・孔さま。足利学校の入り口付近(敷地の外になります)で撮影。

前回の投稿では足利学校の「軍師育成機能」をクローズアップさせて頂きましたが、もともとは儒学に重きをおく学校です。孔子はいうまでもありませんが儒家の始祖。紀元前の方ですね。その教えが足利学校の教育の柱でした(これは上杉憲実が足利学校を再生させた頃のお話です。それより以前は学校そのものの歴史も含めて良く分かっていません)。

<入徳門>
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正面入り口の門は「入徳門」といいます。「」に入る門ということですね。徳というと仁・義・礼・智・信の五徳を思い出します。まぁ大まかに言えば道徳的な要素ですね。知識より大切な徳。これがまず入口というところが感慨深いですね。ちなみに、その次の門が「学校門」。そして孔子廟へ向かう「杏壇門」があります。杏壇(きょうだん)とは、孔子が弟子たちに学問を教えた壇のこと。まわりにあんずの木があったことから生まれた言葉です。

<学校門>
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どの門も同じではなく、意味があります。
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学校門の奥には吉檀門が見えています。その先が孔子廟です。

<孔子廟>こうしびょう
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杏壇門をくぐったところにある孔子廟。儒学の祖・孔子の像を祀っています。独特の雰囲気と風格。建物は中国の明の時代の聖廟を模した造りになっているそうです。

さて
ここでやっとはぐれていた友人たちと再会。私の扱いに慣れているので、軽く笑ってすませてくれました。半分照れ隠しで知識の切り売りを再開した私ですが、なんとなく徳で負けている。それでいて心地よい。利害関係の無い古い友達はありがたいですね。かなりむかし、同じ学び舎で過ごしました。

<梅>
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2月上旬の訪問でしたが、既に梅の花が。なんとなく、また来るような気がします。

------■足利学校■-------
創設:平安初期(又は鎌倉時代)
廃校:明治5年
[栃木県足利市昌平町]※

※孔子は魯国昌平郷(現在の中国山東省曲阜県)の出身です。

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2018年01月19日

軍師たちの学び舎 足利学校

つわものどもが夢の跡
今回は栃木県足利市の「足利学校」です。

■日本最古の学校■
あのフランシスコ・ザビエルによって、世界に紹介された日本最古の学校です。まぁとにかく古い歴史の学校。特に中世においては、日本の最高学府と言えます。

<足利学校>
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一時期衰退していましたが、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)の尽力により再興。憲実は鎌倉の円覚寺から僧を招いて初代庠主(しょうしゅ)、つまり校長先生のような立場としました。この時に憲実が寄贈した書籍は現在国宝に指定されています。創設時期も不確かな足利学校ですが、歴史が明らかになっているのはこの頃(1430年代)からです。
ちなみにこの上杉憲実、日本最古の武家文庫である「金沢文庫」を再興したことでも知られています。

■軍師養成機関■
もともとは儒学が中心でした。戦国期になると、医学や兵学、易学といった「具体的に役に立つ」学問へとシフトしたようです。まず医学ですが、これを学びし者は今も昔も貴重な存在。いまで言う薬学なども含まれていたのでしょうね。世間に広く役に立つ学問。足利学校は、医学の普及や発展にも貢献していたわけです。 そして兵学と易学、これは戦に関わることです。名だたる戦国武将は、優秀な家臣を足利学校で学ばせ、軍師的な役割を担わせました。つまり戦国時代の足利学校は、軍師養成機関のような役割を担っていた訳ですね。当時は軍師という呼び名ではなかったようですが、とにかく戦に関わることを指揮官に忠告する役割です(軍配者と言ったそうです)。特に武田信玄は、軍師の採用に際しては「足利学校で学んだかどうか」を重視したそうです。学歴フィルター?まぁ現代だとあまり良い意味にとられませんが、そのくらい権威と実績のある学校だったんでしょうね。

軍師というと、兵法を駆使するイメージですよね?しかし当時の足利学校で一番力をいれていたのが「易学」でした。陰陽道の影響を受けた易学、これを背景に・・・ちょっと言い過ぎかも知れませんが、戦に際して「占い」に近い役割をも担っていたようです(それだけやってたのではなく、そういう要素を含んでいたという意味です)。出陣の日を決めたり、進むべき方角を決めたり・・・。今の我々の感覚だと「えっ?」と首をかしげたくなりますが、吉か凶かを判断する役割、これもしっかりとした「学び」を前提としていました。そして、当時はそれが「具体的に役立つ」ことだったのですから、やはり学んだ者は重宝された訳ですね。

<中世のキャンパス>
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売店とかあったのですかね…

ピーク時には3千人もの生徒が学んでいたそうです。凄いですね。ちょっと入りきれませんので、もっともっと広かったのでしょう。講義を聞くというより、師と教材に恵まれた環境で自習をするといった感じだったようです。

どんな将来を夢見て学んだのでしょうか。使命感や野心より、純粋に学ぶことを楽しむ人もいたかもしれませんね。

やがて平和な時代が訪れると、学校は徐々に衰退していきました。戦がないなら軍師も不要。求められる教育は、世の中の移り変わりで変化するわけですね。

<軍師たちの学び舎>
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戦国の世が終わっても、足利学校そのものは江戸を通して存続。廃校は明治になってからです。

■足利学校■
創設:平安初期(又は鎌倉時代)
廃校:明治5年
[栃木県足利市昌平町]


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2017年10月20日

いわゆる山寺を訪問 (山形への旅)

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初めて訪問しました。素晴らしい景色です!

■山寺の歴史■
始まりは860年。清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされているそうです。古いですね。ただこれには諸説あり、確実視されているのが860年というだけで、推定だと創建時期はもっと遡るそうです。なおさら凄い。

<山寺駅>
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これ寺ではなく駅です。寺社造り。早くも気分が盛り上がります。山形市に宿泊していましたのであっという間に到着しました(JR仙山線の各駅で5駅目。快速も止まります)。

<立石寺>りっしゃくじ
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山寺として知られる立石寺。正式には宝珠山立石寺(ちょっと忘れそう)。

<観光案内マップ>
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現地で撮影。こんなにたくさん。お勧めの所要時間は2時間半から3時間とのことですが、男の足でただ登って降りるだけなら往復1時間程度とのこと。このあと市内の古戦場へ向かう予定なので、なんとか2時間で楽しもうと決め、てくてくと歩き始めました。

<実際の山>
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パワースポットとも言われる山寺。紅葉にはちょっと早かったようですね。この切り立った山にオッサンが挑みます。

■最上家との関係■中世
山寺の長い長い歴史。戦国武将好きなので最上義光と関わりのあるところをちょっと。860年から一気に1300年代。資料を見ると、羽州探題として山形に入部した斯波兼頼により再建されたとあります。斯波兼頼(しばかねより)、つまり最上家の祖・最上兼頼のことですね。山形城主であり続けた最上家と山寺の関係が深く、寺は長年にわたり歴代当主の庇護を受けていたようです。最上義光も立石寺を援助しました。そういう意味で、この寺も最上義光ゆかりの地ということになります。

<修行の岩場>
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現地説明板によれば「危険な岩場を通ってお釈迦さまのみもとにいたる行場(ぎょうば)」とのこと。

■奥の細道■江戸時代
松尾芭蕉がこの地を訪れたのが元禄2年の5月27日。西暦だと1689年7月13日。その季節らしい有名な句を残していますね。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

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私の訪問は10月中旬。もう蝉の声は聞こえません。ただ、岩山の細い登山道をもくもくと歩き、足が疲れてふと立ち止まった瞬間

岩にしみ入る・・・というのはそういうことかぁ

と、実感しました。もちろん私なりにです。

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城跡巡りもそうですが、実際に行ってみないと味わえない感動というのがありますね。山寺はまさにその通りでした。勤務先の先輩で、やはり山寺を訪問した方が「想像以上」と興奮気味に話していのを思い出します。きっとその方も、どうにも言葉では言えないものを感じて帰ってきたのですね。

<仁王門>
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神々しい。こちらは江戸末期に再建されたもの。立派です。

■休憩所にて■
ベンチに座って喉を潤していると、お隣のベンチのお婆さんに声をかけて頂きました。毎日登っているとのこと。地元の方のようです。それにしても毎日とは。もはや日課のようです。どこから来たと尋ねられ「埼玉からです」と答えると「そりゃ遠くから」と言って嬉しそうな顔。更に「わざわざ?」とつけ加えると、こちらが答える間もなく大笑いしていました。城跡巡りのついでとも言いにくく、私もただただ笑っていました。明るいお婆さん、これからもお元気で。

<朝一の訪問>
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山水画で描かれそうな岩山ですね。

<山頂より>
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この後の予定もあったので朝一番で訪問。景色もさることながら、澄んだ空気が心地良く感じられました。登りはひともまばらでしたが、下山する時はたくさんの人とすれ違いました。元気な若者グループもいましたが、高年齢の方が多かったですね。へんなもので、中間層は少な目でした。声をかけてくれた気さくなお婆さんも思い出されますが、平地でもやや難のある足取りで、杖をつきながら登ってきた男性の姿が忘れられません。かなりのご高齢。道を譲る時にすれ違っただけですが、毅然たる男の姿を久しぶりに見たような気がします。

■山形への旅■

<松尾芭蕉の像>
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意識して「芭蕉と曽良」を同じ画像に納めました(奥が芭蕉で手前が弟子の曽良)。松尾芭蕉の銅像はいろんな観光地で見かけますが、この場所は感慨深いものがありますね。

プログで「つわものどもが夢の跡」なんて勝手にパクらせて頂いております。いつもありがとうございます。芭蕉は「夏草や兵どもが夢のあと」から奥羽山脈を越えて出羽国に入り、山寺に立ち寄りました。そして「五月雨をあつめて早し最上川」から月山(がっさん)へ向かいます。

yamagataenotabi4.JPG
156日に及ぶ芭蕉の旅。その三分の一は現在の山形県で過ごしたそうです。「出羽三山を目指した旅」とも言われています。つまり、芭蕉の旅は「山形への旅」でもあったわけですね。


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タグ:山形への旅

2017年09月18日

備忘録(秋)

■記事削除■
2017年9月18日投稿させて頂きました「某武士団の館跡」を探索する記事ですが、内容が不適切として全文削除することとしました。キーワードや画像で検索頂いた方、まことに申し訳ございません。当ブログは城跡巡りに興味を持たれる方と情報を共有できればと思い運営しているもので、訪問先の神社やお寺さまのご迷惑となることは本意ではありません。不快に思われた関係者の方に謹んでお詫び申し上げます。

■備忘録■
ブログの趣旨と無関係の内容となりますが、個人的に思いが残る場所なので画像だけは残します。この日は人を見舞うために白岡市へ足を延ばしました。帰り道の少しだけ「ホッとした」気持ち、そして「せっかくなら寄ってみよう」と訪れた神社の光景。いろんなことに感謝する一日でした。そんな秋の日の備忘録です。

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2017年06月12日

柘榴坂の仇討 現場巡り

映画「柘榴坂の仇討」に感動し、その現場を訪問した記録です。最近流行りの「聖地巡礼」?なんかちょっと違う気がしますが、城跡巡りと同じで実感が欲しくなり、数年かけて気になる場所を訪ねました。城跡巡り中心のブログですが、こんなこともやっています。

<現在の柘榴坂>ざくろざか
ZAKUROZAKA ADAUCHI (2).jpg
柘榴坂.東京都港区高輪の坂。品川駅からすぐ傍です。坂を下りきると品川駅に出ます。

桜田門外の変
江戸城桜田門外にて、大老井伊直弼が元水戸藩らにより暗殺された事件。説明不要ですね。ただ、日本が開国へと向かう葛藤の中で起きた事件ということは、映画の中でも重く扱われています。1860年3月24日(安政7年3月3日)の早朝。季節外れの雪でした。

柘榴坂の仇討
主君を守れなかった事を心から悔いながら、切腹することも許されず仇を討つことを命じられた主人公が、江戸から明治という時代の変化に翻弄されながら、最後の最後に仇と対峙する姿を描いた作品。ネタバレを避けるとこんな大ざっぱ説明になります。やや地味なテーマですが、武士の頑なさに目頭が熱くなりました。

<映画館で撮影>
ZAKUROZAKA ADAUCHI (3).jpg
原作は浅田次郎さんの短編小説(かなり短い小説でした)。短編集『五郎治殿御始末』(ごろうじどのおしまつ)に収められています。背景となっている史実は「桜田門外の変」なので、当然以下の方が登場します。

1 井伊直弼(彦根藩主・大老)
2 井伊家にお仕えする皆様
3 水戸藩士(井伊直弼を襲撃)

直弼役は中村吉右衛門さん
井伊直弼は描き方によってはヒール役にもなったりしますが、この映画では人望のある藩主。重厚さがあり、品も優しさもあります。大老としての職務が原因で命を狙われるわけですが、尊敬される藩主というところがポイントです。

主役の中井貴一さん
2のグループです。仇敵を追い続ける彦根藩士ですね(志村金吾)。元々は下級武士だったのですが、剣術の腕を認められて藩主の傍に仕える立場に。「桜田門外の変」の時には、藩主の籠を警護する籠番(まぁSPのような役割)でしたが、襲撃の混乱の中で敵を追いかけて籠を離れてしまい、戻った時には主君は既に討たれていました。ここから苦悩が始まります。

<彦根藩の上屋敷跡>
ZAKUROZAKA ADAUCHI (7).jpg
[千代田区永田町] 
大老の井伊直弼は、事件当日もここから桜田門へ向かいました。

準主役の阿部寛さん
3のグループです。井伊直弼を襲撃する水戸浪士の一人(佐橋十兵衛)。襲撃の際に中井貴一さんが追いかけてしまった相手です。私はこの映画、敵役である阿部寛さんの方に涙しました。ですから、主役は二人と思っています。

<愛宕神社>
OTOKOZAKA.jpg
襲撃を前に元水戸藩士たちが必勝を祈願した愛宕神社の石段(男坂)。標高25m程度ですが、天然の山としては東京23区内最高峰の山です。

<神社のある愛宕山>
ZAKUROZAKA ADAUCHI (1).jpg
[港区愛宕]
この愛宕山に待機した後に、桜田門へ向かったとされています。


現場確認

<屋敷跡から見た江戸城桜田門>
ZAKUROZAKA ADAUCHI (6).jpg
肉眼で良く見えています。屋敷から桜田門までは数百メール?でしょうか。さすがは幕府の名門。凄い場所に上屋敷がありますね。井伊直弼は、こんな短い距離を大勢に警護されながら移動する途上で、少数の元水戸藩士らに討たれてしまったわけですね。当日は雪。そのため視界が悪く、更に護衛の者達は雨合羽を羽織って動きが悪い上に、刀に袋をかけていたため対応が遅れたとされています。

苦悩の十三年
「桜田門外の変」から13年が過ぎ、既に明治6年。世の中には藩も武士も存在しません。それでも自分の使命を果たすべく、武士の姿のまま仇を探し続ける男。そして襲撃に加わった水戸浪士たちが次々に世を去るなか、たった一人だけ生き残り、人力車夫として暮らしている男。明治政府が敵討禁止令を発布したその日、二人は柘榴坂で対峙することになります。

<豪徳寺>ごうとくじ
gotoku (3).jpg
[世田谷区豪徳寺]
井伊直弼の墓がある豪徳寺です。

一騎討ちとなりますが、元水戸藩士の男は自分を討つように願い出ます。追われる側にも国を思う気持ち、そして孤独や後悔があることを知るに至り、追って来た男は主君・井伊直弼の言葉を思い出します。

命懸けで国を想う者を無下にするな

主君の仇を討つためだけの人生はここで終わりました

もっと内容を書きたいです!
私が映画館で思わず涙してしまったシーンはこの後なので。でもここまでにします。

女性の苦労も描かれていますが、どちらかというと男向きの映画です。特に「自分は昭和の男だな」と思える方に観て頂きたい内容です。今の世の中では通用しないかもしれませんが、日本の男にはそんな美意識があった。涙してしまうのは、その欠片くらいは自分にもあるからなのでしょう。

いや、程度の違いだけで、誰の心にもあるのだと思います。


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2017年04月29日

行田の古民家カフェ 閑居

中野区の古民家カフェがきっかけで「ふるカフェ系 ハルさんの休日」という番組を知り、更にいろいろ調べていたら、私が訪問した行田市の古民家カフェも既に紹介されていました。

カフェ閑居かんきょ
cafe KANKYO (1).jpg
昭和の雰囲気漂う埼玉県行田市の古民家カフェです。ちょうど他のお客さんが帰ったタイミングで撮影。このあとすぐまた別のお客さんが来店。女性が中心ですね。男は私と相棒の二人だけでした。番組の表現をそのままお借りすると「蔵だらけの町の築60年のパンカフェ」ということになります。

<贅沢な時間>
cafe KANKYO (2).jpg
確かに、美味しいパンと、それに合う優しい味の料理。とても満足でした。閑居(かんきょ)の名の通り、世俗から切り離されて心静かに過ごせる空間となっています。

行田は埼玉県北部の人口8万強の都市です。江戸時代の武士の内職として始まった「足袋作り」が転じて、明治時代には一大産地となりました。はいわば足袋生産から始まる繁栄のなごり。主役のハルさんが訪ねたのはそんな街です。

あと、行田といえばやはり忍城ですね。和田竜さんの「のぼうの城」で一躍有名になりました。
<小説「のぼうの城」>
FANmybook (2).JPG
(もってますので狭い我が家で撮影 )
二万の天下軍にたった五百の兵でケンカを売った
といったキャッチフレーズで映画化もされました。

ということで

<忍城>おしじょう
shirononagori OSHIJO.jpg
なんのブログかわからなくなりましたが、城跡ブログの本筋に戻します。やっともらえた振替休暇。旧友と探索した忍城訪問記へつづきます。

[城跡と水路跡 浮城のなごり] 
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/65/0
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