つわものどもが夢の跡
埼玉県行田市の忍城を訪問しました。
<忍城>おしじょう
この城は和田竜さんの小説「のぼうの城」で一躍有名になりましたね。15世紀後半(1490年前後?)に成田氏によって築かれたと考えられています。
■ 成田氏の居城 ■
全ては山内上杉家の御家人だった成田親泰(ちかやす)が、扇谷上杉方の忍氏の館を襲撃したことに始まります。諸説ありますが、この成田氏により忍城の原型が造られたことは間違いないようです。扇谷上杉方は反発してこの忍城を攻め落とそうとしますが、同家重臣の太田道灌が仲介役を務めて和解となり、以後この地は成田氏が領有することになりました。
小説「のぼうの城」は豊臣秀吉の小田原征伐の時ですから、これより百年以上後の話。「のぼうの城」に登場する城主はやはり成田氏ですので、そうとう長く一族による統治が続いたわけですね。
<本丸土塁跡>
現存するむかしの土塁跡です
忍城は北に利根川、南に荒川が流れる湿地帯に位置します。天険の地に築かれたこの城は、関東七名城の一つとされています。
ちなみに関東七名城とは
川越城[河越城](埼玉県川越市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城[厩橋城](群馬県前橋市)・金山城(群馬県太田市)・唐沢山城(栃木県佐野市)・宇都宮城(栃木県宇都宮市)・多気城(茨城県つくば市)⇒又は太田城(茨城県常陸太田市)
どれも賞されるに相応しい城ばかりですね。
<湿地帯のなごり>
忍城は沼地に点在する島を曲輪として、それぞれに橋を渡した城としました。浮城と呼ばれるに相応しい構造だったようです。
さて
城の守りはいいとして、そんな湿地だらけの土地で、成田氏が長らく繁栄し続けた理由は何でしょうか?戦に強いだけでは長期的な繁栄はありませ。やはり、裏付けとなるのは経済力が必要ですよね…
成田氏は城を整備する一方で、湿地に水路を整備し、新田の開発も行いました。無秩序に泥濘だった大地は、やがて整備された水田に姿を変えることになります。現在この地が行田と呼ばれる由来です。
成田氏は、城と同時に水路も築いた。そういう意味では、この地に残る城跡も水路跡も成田氏繁栄の痕跡。つわものどもが夢の跡ということになりますね。
戦国末期には、地理的な環境を逆手にとられ、石田三成による水攻めに苦しめられましたが、忍城は落城しませんでした。やがて徳川家康が関東に入ると、成田氏の去った忍城は譜代大名や親藩の居城となり、江戸時代を通して存続しました。廃城は明治になってからです。
<模擬御三階櫓>
明治になって取り壊された御三階櫓を、資料を元に外観復元したものです(内部は郷土博物館)。本来は城内の別の場所にあったそうですが、いまは本丸跡に毅然と佇み、忍城のシンボルとなっています。
ということで
「のぼうの城」の舞台にもなった忍城のご紹介でした。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:忍城
[埼玉県行田市本丸]
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2017年04月29日
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