<伴天連屋敷跡>バテレン
金沢城下にあった伴天連屋敷跡に関する説明板と甚右衛門坂の名を記した石柱です。
まずは説明板の内容を転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。
慶長19年(1614年)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。』
右近は、キリシタン大名として知られる高山右近のことですね。戦国の世にありながら、人生の大半をキリスト教に捧げた武将です。説明文には江戸幕府による追放が紹介されていますが、キリシタン故の苦難はそれ以前から始まっていました。
6万石の大名になりながら、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)により追放されてしまいます。まぁ正確には、本人が領地や財産より信仰を選んだということになります。
そんな右近を客将として迎え入れたのが、前田利家でした。右近は武将として優れ、築城の名人でもありました。城下の整備にも関わり、約26年間を金沢で過ごしました。説明文によれば、その間右近を慕い、キリシタン武将や加賀藩士がこの地に集まったようです。その終焉が、1614年のキリシタン禁教令ということになります。
つぎに
甚右衛門坂について
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。基本的に一般人は立入禁止です。警備の方にお願いして、写真だけ撮らせて頂きました(撮影した日は一時的に雨となり濡れています)。加賀前田家の居城として有名な金沢城ですが、その始まりは本願寺による金沢御堂の創建です(1546年)。つまり、この地はいわゆる加賀一向一揆の拠点だったということです。そこへ佐久間盛政が率いる織田軍が攻めかかった際(1580年)、本願寺方の浪士である平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。
敵方のヒーローの名が坂の名の由来?何となく前田家にとって都合の良い名とは思えないのですが、そう呼ばれているのだから、そのまま受け止めます。
話を宣教師の屋敷へ戻すと
伴天連屋敷は甚右衛門坂の下周辺にあったとされますが、そのご近所といっていいところに、前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷がありました。
<黒門前敷地>
夫である宇喜多秀家が島流しとなったあと、加賀藩の支援を受けながら豪姫が余生をおくったと伝わる場所です。すぐ近くの伴天連屋敷への出入りや、高山右近との交流もあったかもしれませんね。ちなみに、山右近の屋敷は金沢城の南側ですが、ここから大した距離ではありません。
人望が厚い高山右近の影響を受けて、キリシタンとなった者も多いと伝わります。影響を受けた人の名をあげたらきりがありませんが、有名な戦国武将では、蒲生氏郷や黒田孝高などもそれに該当します。また、キリスト教宣教師の屋敷が城のすぐ近くにあったのですから、加賀藩そのものも、キリスト教信仰に理解を示していたのではないでしょうか。幕府の命で高山右近は日本を去りますが、信仰を貫いた生きざまは、多くの人の心に残り続けました。
ということで
金沢に長く滞在していたキリシタン・高山右近ゆかりの地のご紹介でいた。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:伴天連屋敷跡
(甚右衛門坂付近)
[石川県金沢市尾山町]7-41
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■参考及び出典
・現地説明板
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
・Wikipedia:2023/10/21
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