今回はかつて陣屋が設けられていたとされるエリアに残る土塁跡の話です。場所は埼玉県新座市です。
<土塁跡>
■野火止陣屋■のびどめ
まずは現地のバス停から
<バス停>
陣屋というバス停。城跡好きがわくわくするような名前です。地図上は存在していませんが、陣屋は地名(古い地名・小字)です。このバス停から歩いて数分のところに、お目当ての土塁があります。
<現地到着>
ありました。土塁です。そして説明板も設置されています。
<説明板>
詳細が記されています。ここでは「野火止用水陣屋堀」となっていますね。ちょっと長いので抜粋させて頂きます。新座市教育委員会さん、部分的な引用で申し訳ございません。
『松平伊豆守信綱は江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を得ました。承応四年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止が開削されます』とのこと。そして『寛文三年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました』とあります。つまり支流も造られたということですね。それらが平林寺堀、陣屋堀と呼ばれたようです。
さて、ここまでは野火止用水の説明なので、もうちょっと引用させて頂きます。いよいよ陣屋の話です。『松平信綱の孫である輝貞が、高崎藩主であった際に、先祖が開拓し、墓を造営した土地を飛地として管理することが許されたため、高崎藩の陣屋が置かれました』とのこと。
[出典:現地説明板]
なるほど。いわば藩の出張所のような役割を担うために陣屋が設けられたということですね。説明の最後に、信綱の時代に、新田開発の拠点として既に既にあったという説もあることが付け加えられています。ただ、他の文献でも、陣屋は平林寺を守るために設けられたという見解が多いので、私はそちらの説を信じることにします。
ちょっと補足すると、川越城主の座は信綱を含め松平家で三代続きますが、のちに他家が入り、野火止も他家の支配するところとなります。信綱の孫で高崎城主の松平輝貞が幕府の許しを得たことで、野火止は再び松平家の知行地となり、平林寺前に出先機関として陣屋が置かれたということですね。
<平林寺>
松平伊豆守の墓所がある平林寺。埼玉県が誇る名刹です。陣屋はこの寺を守るために設けられました。そして、そこに住む武士の生活水として陣屋堀も開削されました。
<盛土>
■つわものどもが夢の跡■
土塁は堀(用水)の堤を兼ねていたというお話があります。また、現地の説明板も陣屋の土塁という表現ではなく、陣屋堀となっていました。つまり陣屋の用水跡と受け止めた方が良いような説明となっています。
ただまぁ、用水路が陣屋の外堀的な役割を果たしていたとも思えるので、私はあくまで陣屋の遺構と受け止めたいと思います。そのへんは城跡好き会社員のブログですので、寛容にお受けとめ下さい。
<土塁>
陣屋に出入りした武士たちも眺めたであろう土塁のなごりです。
■訪問:野火止陣屋
(野火止用水陣屋堀)
[埼玉県新座市野火止]1丁目
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