今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。
<岩槻城跡>
豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。
■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。
指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。
<伊達城推定地の台地>
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。
■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。
<大和田陣屋>
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。
■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。
敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。
旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。
■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。
『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。
<高天神城>
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。
この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?
ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
<岩槻城裏門>
つわものどもが夢の跡
■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城
[検索日2020/8/29]
-----------(追 記)-----------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ』
大和田陣屋跡
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高天神城跡
→『記事へすすむ』
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