関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。
<岩槻城跡>いわつきじょう
鍛冶曲輪の道灌橋
■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。
<白鶴城址碑>
岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。
実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。
■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。
三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。
しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。
<堀跡と沼>
<岩槻城址ノ記>
■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。
<元荒川>
新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。
<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。
<総構えの堀跡>
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です
実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。
<ふるさと散策路>
岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。
■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。
■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。
<岩槻城址公園>
新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。
<かつての沼>
埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。
<菖蒲池と八ツ橋>
巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
右折する堀。横矢が掛けられています。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
<堀障子が確認された場所>
発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。
<新曲輪付近>
この付近には櫓があったとされています
<城門>
黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。
<裏門>
こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。
■つわものどもが夢の跡■
室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。
------------■ 岩槻城 ■------------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏 北条氏
高力氏 大岡氏 他
廃城年:1871年(明治4)
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]
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------------(追 記)------------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了したそうです。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、岩槻城本丸跡であることはゆるぎない事実。また様子を見に訪問しようと思います。
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