せっかく深谷市に来たので、川沿い散歩も兼ねて『城跡とされる場所』を訪ねました。
<現地>
目標としたのは唐沢川に架かる橋です。その東側に石碑と説明板がある。たったそれだけの情報で川沿いを歩きました。
■ 訪問記 ■
<唐沢川>
こちらは利根川水系の唐沢川です。深谷市の北側は利根川となっており、この川も南から北に向かって流れています。その流れに沿っててくてくと。大まかに言えば低い方へ向かって歩いていています。
<川が交差する地点>
城跡とは関係ありませんが、ちょっとここで足が止まりました。唐沢川に向かって直進してくる川を発見。福川といいます。分かりにくいので筆をいれさせてもらいました。赤↓が橋、青い線が福川です。合流するのではなく、唐沢川を潜って通過するんですね。だから何?といわれればそれまでですが、水路好きなので。こういうのを「伏せ越し」といいます。治水に力を入れている証と受け止めることもできますね。
<現地到着>
さてさて、けっこう歩いてやっと到着。遺構は無いと知りつつも、立派な石碑に一安心した瞬間です。ただ、このあと想定外の事実を知ることに。
<石碑>
唐沢放水路記念碑?あら、城跡とは関係ないのですね
事前のネット検索で、この光景は頭に入っていましたが、城と関係あるのは隣の説明板だけのようです。石碑と説明板がセットと思い込んでいました。まぁ何もないよりいいですかね。この地点には、説明板を立ててくれた方々の思いが込められているのですから。
<説明板>
深谷上杉氏家臣の城があったようです。戦国末期、深谷城を本拠とする深谷上杉氏は小田原北条氏の配下となっていましたが、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、この地にあった城は廃城になったようです。
情報が少ないため、以下に現地説明板を抜粋させて頂きます。
『深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。』
[出典:深谷上杉顕彰会説明文]
築城者は深谷上杉氏の家臣・岡谷香丹(おかのやこうたん)。城は周囲より高台となっていたが、レンガの原料として削られ姿を消した。ということですね。現地は他には何もないようなので(空堀跡があると聞きながら確認できず)、説明文にあった諏訪神社を訪ねることにしました。
<諏訪神社>
城の鎮守とされた諏訪神社です。城跡の説明板から南へ向かって少し歩いたところになります。
<社殿>
<盛り土>
境内の隅に土を盛った跡があります。土塁?確証はありません。
ところで
地名の皿沼。気になる名前です。地名がその土地の地形などを表しているケースは多いですからね。
「サラ」はいろいろ解釈ができますが、新しいとか浅いとか、そんな意味ですかね。新しい沼?人が新しく開拓した沼地?あるいは浅い沼?浅く広がる沼のような湿地?だからサラ沼。いずれにせよ、城は地名から連想されるような低湿地に築かれたのでしょう。そう受けとめることにしました。
■つわものどもが夢の跡■
深谷上杉氏の本拠・深谷城の北を守備するための出城です。深谷城が深谷上杉氏の手を離れる時に、城としての役割は終りました。
--------■ 皿沼城 ■--------
別 名:上敷免城
築城主:岡谷香丹
築城年:1492年(延徳3)
城 主:深谷上杉氏
(岡谷香丹・清英)
廃城年:1590年頃(天正18)
[埼玉県深谷市上敷免]字皿沼
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