さいたま市桜区に中世の城跡を訪ねました。遺構とは出会えませんでしたが、畠山重忠のなごりを感じる場所でした。
■ 道場館跡 ■どうじょう
道場館は、かつてこの地を領したとされる畠山重忠の居館跡と伝わります。同じ桜区内でこの場所から比較的近い丘に、畠山重忠の家臣の城跡とされる真鳥城(真鳥山城)跡があり、双方に何らかの関係があったのではないかと考えさせられます。
<推定地付近>
この空地と向う側の公園付近が館跡と考えられています。広大な館だったようですが、宅地化により現在は何も残されていません。堀跡がかつては確認できたそうですが、周辺と比較して要害性は無く、いわゆる戦いを意識した雰囲気は感じられません。まぁ有事と平時とでは必要とされる館の形も異なるでしょうから、特に疑問はありません。
<金剛寺>
道場館跡付近の金剛寺です。ここも館跡?諸説あるようです。
<道場天満宮>
金剛寺のお隣は道場天満宮。金剛寺境内に古くから祀られていたそうです。
<説明板>
説明文のなかに、畠山次郎重忠の文字を見つけました。ちょっと嬉しかった瞬間です。
以下は抜粋になります。
『このあたりに、昔、大伽藍(大きな寺院)がありましたが、保元の乱(1156)の兵火のために焼失しその後建久年中(1190年代)畠山次郎重忠が当地を領していたとき、土中から観音像を得、これがもとの大伽藍の本尊であったと考え、守護仏とし、一宇の道場を営んだということです。』
畠山重忠といえば、鎌倉幕府創立期にかけて活躍し、「坂東武士の鑑」とまで呼ばれた武将。心清らかな重忠が、土に埋もれていた観音像と出会ったことが、金剛寺の始まりということですね。館の痕跡は確認できませんでしたが、この地が畠山重忠ゆかりの地ということで、何となく満足の訪問となりました。
重忠は鎌倉で緊急事態という虚偽の報せを信じ、急ぎ駆けつけるべく菅谷館を出ました。菅谷館とは重忠の当時の拠点で、現在の埼玉県嵐山町に位置しています。
ここからは個人的な妄想に過ぎませんが、鎌倉への長い道のり、鎌倉街道に近い道場館にもしかしたらたち寄ったかもしれませんね。わずかな兵しか連れていなかった重忠は、鎌倉に入る前に帰らぬ人となりました。この騙し討ちが1205年のお話ですので、もし道場館に重忠本人の出入りがあったとするなら、この時が最後ということになります。
などと考えながら現地をあとにしました。
以上です。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。
--------■ 道場館 ■--------
別 名:堀の内
築城年:不明
築城者:不明
城 主:不明(畠山重忠?)
廃 城:不明
[埼玉県さいたま市桜区道場]
--------(追 記)--------
文中の真鳥城跡については別途投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
2017年07月17日
記事→『ひなたの丘城 真鳥城』
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