今回は群馬県桐生市の山上城です。城址公園として綺麗に整備されている一方で、良好な遺構も残されている貴重な城跡。県の指定史跡となっています。
<山上城跡>
■山上氏■
山上氏は赤城山の麓を拠点とした上州の豪族です。藤原秀郷(俵藤太)を祖とする藤姓足利氏の一族です。毎回のようで恐縮ですが、この足利氏はいわゆる足利尊氏の足利とは祖が異なります。区別するために藤姓足利氏と呼ぶのが一般的です。その四代目当主・俊綱の弟が、山上氏の祖となる足利高綱です。この地を領して城を築き、山上氏を名乗りました。ここから上州豪族・山上氏の歴史が始まります。
■上州東部の有力者■
祖である高綱の子孫によって城も領地も継承され、一族はその地位を確実なものにしていきます。鎌倉時代は源頼朝に仕え、室町時代には関東管領である山内上杉氏の重臣となり、由良氏、薗田氏、桐生氏とともに東上州の四家として重要な役割を果たしました。現在の群馬県東部における名門だったわけですね。
■山上城跡公園■
<模擬櫓>
公園入口です。櫓はいかにも「観光用」という感じですが、城跡としての魅力は入ってからぞんぶんに味わえます。まぁ目印ということで。「新里村農村公園」の文字が見えますね。ここはもともと群馬県新里村でした。吸収され現在は桐生市となっています。櫓の裏側は駐車場、右手の建物は新里郷土文化伝習館。トイレも完備です。
<庭園>
駐車場を通過するとこんな景色が。橋を渡れば三の丸跡です。斜面が公園用の石垣となっていますが、それもここだけ。進んで行けば、ゆっくりと「土の城」を楽しめます。
■山上城の縄張り■
<縄張図>
丘陵地帯を利用した南北に長い城です。北側に堀切を設け、南へ向かって曲輪を直線に配置しています。いわゆる連郭式ですね。
南北650m×東西220mのほぼ長方形。北から順に北曲輪・本丸・二の丸・ 三の丸・南曲輪。これらが一直線に並んでいます。両側には更に曲輪を配置。シンプルな構造ですが、結構念入りな縄張りです。
<蕨沢川>わらびさわ
城は東西両側に川が流れる丘に築かれました。こちらは東側の蕨沢川。いわば「天然の堀」ですね。護岸が立派で水路のようですが、あくまで自然の川です。
<元町橋の供養塔>
城と直接関係ありませんが、自然の川である証として。江戸時代、ここに石の橋が架けられたなごりの石碑です。地味ですが、市指定重要文化財となっています。
■城内探索■
<芝生広場>
三の丸跡です。
<段差あり>
途中に段差があります。本来は別々の曲輪だったのではないかと個人的には思いましたが、一つとみなすようです。
<脇道へ>
三の丸の東側の脇道へ。別な曲輪への入り口です。
<腰曲輪>こしぐるわ
左手の斜面は先ほどの三の丸です。ここは腰曲輪です。縄張り図では腰郭と表記されていましたが読みも方も意味も同じです。主だった曲輪の斜面に補助的に設ける細長い曲輪を指す場合が多いですね。山城に特有の城用語です。
<東側を撮影>
腰曲輪から麓方面を撮影。すぐ下が見えています。城の守りを固めるのに、斜面の緩やかさや高低差不足を補いたい場合、こういった腰曲輪が設けられます。
<堀切>
一段低くなっている腰曲輪から、三の丸と二の丸の間の堀切を撮影。繋がってますので、堀の底を歩いてみますかね。
<堀切>
いい感じの堀切です。まぁ先ほどの芝生広場と、次の区画との間の溝を歩いているということですね。昔はもっと深かったのでしょう。
<二の丸>
ずっと同じ景色なんで二の丸側へ。
<遺構>
市民の憩いの場だった芝生広場の三の丸と違って、こちらはいかにも城跡。夏草や、つわものどもが夢の跡です。
<土塁>
この塁は物見台でもあったのでしょうかね。
<本丸>
ちょっと飛ばして本丸へ。三の丸付近から始まって、北へ向かって探索を続けている最中です。「本丸跡広場」となっているので、むかしはここも草を刈って、人が集まるような場所だったのかもしれませんね。
<遺構>
似た景色が続きますので、ちょっと違う画像を。本丸付近から腰曲輪を経由して東側へ下るとお寺があります。
<常広寺方面>
本堂裏手に出ます。城の縄張り図はこの付近で撮影しました。
<八雲大龍神を祀るお堂>
<龍神橋>
<常広寺本堂正面>
<常広寺入口>
曹洞宗のお寺院で、詳細は不詳ながら戦国末期に山上郷右衛門顕将という人物により創建されたとされています。境内はもっと充実していますが、ご紹介はその一部だけ。すみません。で、また城の話に戻しますと
<境内の土塁>
<竹藪にも土塁>
常広寺の裏手の竹藪です。ここにも土塁があります。山上城のもっとも北側の遺構ということになります。
<城周辺の眺め>
赤城山の南麓に位置し、水の豊富な場所です。かつては湿地が広がっていたのかもしれませんね。
<また堀切>
東側を探索したので、城をつっきって西側へ移動
<西側の遺構>
西側は東側より複雑な腰曲輪です。
<最後に>
この道もかつての堀切。城址公園の南側にも曲輪があったようです。左が城址公園。右手が縄張り図にあった南曲輪になります。
まぁだいたいこんな感じですかね。
■北条氏の勢い■
長らく山上氏の拠点だった山上城ですが、関東での勢力拡大を続ける小田原北条氏に奪われることになります。1555年、城主山上氏秀は北条氏康に攻められ、城を追われました。これにより、山上城は北条氏の支配下に。ただ、ずっとそのままとならないのが如何にも激戦区の城ですね。周辺の城と同様、覇権を争う北条・上杉・武田に翻弄され、城主はめまぐるしく変わりました。
■山上氏秀■
山上氏としては最後の城主となった氏秀は、下野(栃木県)へ逃れます。当初は足利の長尾当長を頼りましたが、当長が北条氏康に従ったため、佐野へ逃れます。
北条氏康だけは許せねえ!
そんな感じでしょうか。佐野氏に仕えて、やがて重臣となります。ただその佐野氏も北条にくだることに。氏秀は佐野家を去ります。その後の詳細は不明な点が多いながら、秀吉の北条征伐の時には、豊臣軍に味方したことがわかっています。ここでようやく借りを返したわけですね。
■ちょっと話がそれますが■
北条氏康に城を奪われた山上氏秀、別名が沢山あります。照久、氏成、道休、道牛、道及。ん?道及!
そう、あの山上道及(どうきゅう)です。
だからなに?という話ではありますが、「花の慶次」のファンの方は聞き覚えがあるのではないでしょうか?謎の多い関東牢人として登場しましたね。ここをもっと書きたいのですが、佐野市の唐沢山城とセットで既にご紹介させて頂いたので、良かったらそちらを覗いてみて下さい。
記事→「山上道及と唐沢山城」
■膳城と山上城■
山上城跡から徒歩圏内に同時代の膳城跡があります。あまりに近く、何らかの関連があったはずですが、詳細は明らかではありません。山上城と膳城は、一体ではなかったのかとする説もあります。また、山上氏が去ったあと、城主が二つの城を兼任した時期もあるようです。ということで、あくまで参考としてのご紹介です。
■つわものどもが夢の跡■
廃城については、はっきり解っていません。すぐ近くの膳城とほぼ同じ運命をたどったと考えられることから、武田が滅亡した時期、あるいは小田原北条氏が滅亡した時期ではないかと思われます。いずれにしても、中世で幕を閉じた城跡です。
-------■ 山 上 城 ■-------
築城者:山上高綱
築城年:不明
城 主:山上氏 北条氏
上杉氏
廃 城:不明
現 状:山上城跡公園
[群馬県桐生市新里町山上]
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