2021年11月30日

期末考査

期末考査が始まった。

考査前と考査中は部活がないので、日中であっても少し時間が取れる。
生徒たちには申し訳ないが、こんな時期にはすこしのんびりできる。

中1のある教室には、「5分前には片付け自ら座り、静かに運命を受け入れること」と記されていた。
何だか「運命を受け入れる」部分が面白くて、見入ってしまった。

試験が始まれば、もうジタバタできない。
自分の勉強成果を、答案に記すだけになる。
そんなときに、慌てて焦ってしまえば、覚えたものすら思い出せなくなるし、計算間違いもする。

勉強結果が「運命」かどうかの議論はあるが、「ここまで来たら、ジタバタしないで、自ら結果を受け入れなさい」とも読める。

学校の勉強は、確実に「因果の理法」が働く。
つまり、「きちんと勉強できた人は、相応の成績になり、そうでなかった人は、それなりの成績になる」ということだ。
「原因結果の法則」と言っても良い。

このように「やればやるだけ成果が出る」という成功体験は、学齢期ならでの修行で、この部分をきちんとできるかできないかが、その後の人生における生き方を左右するのだ。

「学生時代にいい加減だった奴は、社会人になってもいい加減だ」、などと言われることもある。

どこかで『心』変わりをし、自らの行動を劇的に変えない限り、こうしたことは十分起こりうる。

これは成績とは関係ない。
たとえ成績が良くても、適当に誤魔化し、要領よく過ごしていた人は、大人になっても同じようなことをする。

一方、たとえ十分な成果がでなくとも、努力を重ねて年月を過ごした者は、信頼のおける大人になるものだ。

学校時代に、その萌芽は見えているようでもある。

性格はなかなか変えられるものではないが、「ただただ要領良く生きる」ことや、「減点主義で失敗を怖れてチャレンジしない生き方」は、変えるべきものであることだけは、伝えていきたい…。

2021年11月29日

静かに過ごす

連日の降雪が終わり、今朝は山がきれいに見えた。
冬型が強まると、山には雪がかかる。
正確に言うと、山雪型の冬型のときでだが、こうした日には山に雪雲がかかり、雪が降る。

誕生日の朝である。

今年もたくさんの人に祝ってもらえた。

生徒たちは毎年忘れずに覚えていてくれる。

「こんな日は、静かに過ごしたいな…。」

どこに行っても、生徒たちが声をかけてくれたり、何かしらのプレゼントを持ってきてくれるので、ちょっと申し訳ない気持ちになる…。私は、一人静かに過ごすことにした。

私の学年では、誕生日になると先生方がメッセージカードを書き、プレゼントをする。
忘れていたが、今回は私の番。

このメッセージも、褒めすぎとも言えるようなものばかり。
私が思っている以上に、私の存在は大きいようだ。
それほどまでに自己卑下すべきではないのだろう…。

自らを愛せない者は、真に他の人を愛することができない、という。
私も、このように徹底的な愛の言葉を、他の人に投げかけなければならないのだと反省した。

プレゼントも、結構高価なものだった。ありがたく思う。

夕食は、スーパーで買ったお寿司に自家製の鍋料理。

「たまには自分へのご褒美だ!」、と思うことにした。

「一年一年、自分自身も成長していかなくてはいけないな…。」

できないことを考えるのではなく、「どうやったらできるか」を考えよう。
やりたいと思うことは、どんどんチャレンジすればいい。

怠け心と戦い、今日も一歩、駒を進めよう。

誕生日は、気持ちを新たにしてくれる。

皆さん、ありがとうございました。

2021年11月28日

怠け者

日中かなり寒く、あまり外回りの仕事をしようという気持ちになれなかったのだが、柿の木の剪定だけはした。
下手な剪定だと、来年実を付けるかどうか分からないが、あまりに高くなりすぎても、手入れに困る。

外は寒く、畑の手入れも憚られたし、メルカリへの出品作業もやる気が起こらない。

考査前の日曜日で、めずらしく一日フリーだったのに、何だか怠惰な一日を過ごしてしまった。

「こんな生活をしてしまったら、退職後は大変なことになるぞ…」、と自覚しつつも、体は動かない。

仕事もそうだが、やはりToDoリストは作っておく必要があるのだろう。

怠け者の私は、時々、こんな風に無為な休日を過ごしてしまう。

目の前にあるあまりに多くの「やるべきこと」を見ると、やはり挫けてしまう。
雪かきのように、少ない量ながらもこつこつと、繰り返しの作業をしなくてはならないのだろう。

久しぶりに隠れ家に来た高3のYが、「荷物、増えましたね…」、と言う。

確かに、整理もせず、広い家で物ばかりが増えていく。
不要品は売ってしまおうと、前の家の持ち主に「要らない物は置いておいてくださって結構です」と言ったが、自分の物に加え、さらに荷物が増えてしまったのだ。

「なんとかせねばいなんな…」、と思いつつ、休日になると何もせずに終わる。
そして、何ヶ月、何年と経つわけだ。

年寄りの家が不要品だらけなのは、その理由が分かるような気がする。

「いつか使うだろう…」、は、「いつになっても使わない」のだ。

まとめ売りできるように整理をすることだって、手間なのだ。
だが、それを仕事と思えば、多少はモチベーションが高まるか…。

私は、まだまだ無為な時間が多すぎるようだ。

2021年11月27日

一足早い誕生日

中3の授業の時、私の誕生日を祝ってくれた。
ちょうど誕生日の当日、中3の授業がないので、二日ほど早くお祝いをしようという作戦のようであった。

一人ひとりのメッセージの書かれた色紙をもらった。

どれも私にとっては過分なほどの励ましばかりだった。
彼等も大人になったのだろう。

以前から、「誕生日はあまり嬉しくない」、とは言ってきたが、今回K君が鋭い言葉を私に投げかけた。

「丹澤先生、歳を取るの嬉しくないとは思いますが、一年経つたびに、『今年も生かされて良かった』と思えばいいんじゃありませんか。」

なるほど、私は自分のことばかりで、日々「生かされている」ことへの感謝の思いを忘れていたようだ。

「命があることそのものがありがたい」ことで、人はその中で人生修行をしている。
そんなことを生徒に教えられた。

K君は、色紙の中に、「いつか将来、先生が僕の教え子だと胸をはって言えるような、そんな世の中に役立つ人間になります」と書かれていた。

中1のときから折に触れて私に懐いてくれていた信頼のおける生徒である。
今は生徒会長も務めている。

私は老眼鏡をかけてもなお見えにくい、彼等の書いた小さな字を見ながら、「本当にありがたいな…」と思った。

私が楽しく授業をしていると、彼等も楽しい気持ちになるのだろう。

色紙の真ん中には、私の好物のモンブランがフルカラーで描かれていた。
その様は、とても美しく、美味しそうでもあり、それでいて品があった。
どうやらSさんが描いたらしい…。

ほっこりとした気分になった…。

2021年11月26日

授業のアンケート

二学期の授業アンケートが行われた。
合わせて、生徒が先生の評価をする。
例年、この評価の上位者が公開授業を行う。

私は、この歳になり、生徒達の評価が怖くなくなったが、若手の先生方は、戦々恐々なのかも知れない。

いわゆる「まともな授業」ができるようになるまで、早くて五年、たいていは十年くらいかかる。

私の場合、大学院時代、母校での非常勤が二年。この辺りは試行錯誤ながらも、新人としてはまずまずだったと思うが、その後、私立学校で専任となったときには、三年以上苦しんだ。

授業が安定するには、やはり十年近くかかったのではないだろうか。

自分では「よい」と思っていても、客観的にはどうだか分からない。
授業が分かりやすく楽しくても、生徒の実力が上がらない、ということもしばしばだ。

私の非常勤の時だって、母校ということ、大学院生であることへの甘えがあったことは否めない。

授業のアンケートでは、授業担当者への要望が書かれる。
私はもう何を書かれても動じないが、若手の先生たちには「結構こたえる」ようで、熱心な先生方は、名前部分が切り取られたその要望を、丁寧にメモされている。

若手の先生たちは、「授業が上手くいかない」だけでなく、その他の仕事上でも、さまざまな問題が起こるので、「まともな授業ができる」前に、教員を辞めてしまう人もいる。

苦難困難に打ちひしがれて、情熱ややる気を見失ってしまうのだ。

だから我々年配者は、彼等若手の先生たちが、気分良く、やりがいを感じて仕事ができるように、「励まして、励まして、励まして…」あげることが必要なのかも知れない。

「教員の世界は先輩の技術を『盗む』ものだ」、などという時代ではなくなってしまった。

独りよがりの年寄りの言うことなど、若手の先生は聞き流してしまう。

それよりも、生徒たちのためには、彼等を「真の教員」へと育てていくことが大事なのだろう。

授業アンケートを終えて、そんなことを考えた…。

2021年11月25日

スマホの闇

どこの学校でもスマホの扱いには苦慮しているに違いない。
今や、スマホが「一億総白痴化計画」を担う道具になっているようにも見える。

私自身、どこにいても、捕まえられてしまうスマホの存在はあまり嬉しくない。
たいてい連絡があるのは、仕事上の急用なのだろうが、その急用も嫌だが、その時表示される管理職らの表示を見るのも嫌だ。

LINEなどを登録しようものなら、頻繁に通知が来る。
生徒達が、この通知を気にしながら勉強しているようでは、学習内容の定着はますます定価するだろう。

既読マークがないと不安になる。
グループに入らないと疎外感が大きくなる。
YouTubeで時間を潰し、知的生活から逃れていく。
ゲームにはまり、スマホを手放さない。

ある意味中毒である。
聞けば、スマホを手放す生活は考えられず、彼等は「命より大切」と思っているふしがある。

電話機能に絞ったキッズ携帯もあるが、コンピューター昨日としてのスマホは、メーカーの戦略としか思えない。

3G帯を開放するために、ガラケーを廃し、さまざまな機能を付加したスマホを国民に売りつけ、中毒化させているようだ。

いっそのこと、スマホ所持に年齢制限を設けてはどうだろう。

私見だが、子どもにスマホは必要ない。

ここまで広まったスマホの制限は、現実問題としては難しいだろうが、「人間としてもっとも大切なもの」を捨て去ろうとしているような現実は、変えていかなくてはいけないだろう。

子どもたちには、ネットの闇もそのまま入ってくる。

あらゆる欲望をそそり、自制心を失わせ、刹那的な知識で知的好奇心を破壊する。

私の学校でも、中学生には来年度から大幅な制限を掛ける予定だが、なかなか一筋縄ではいかないだろう。

2021年11月24日

習慣の力

継続の力は偉大である。
私も、小学校の時、臨時で来て下さった先生から、「継続は力なり」という言葉を徹底して教え込まれた事を思い出す。

努力して継続していることがいつしか習慣になれば、その習慣の力は更に大きな力となって、成果をもたらしていく。

私も何か新たな一手を打たねばと、いろいろやってはいるが、習慣の力にまで達しているのは、まだまだ数少ない。

ついついさぼってしまうのは、完全に習慣化できていないのだろう。

生徒達には、「ほんの五分でもいい…」、と話はしているが、自分もあまりできていないのだから、若干説得力に欠ける…。

習慣化すると、難なくこなすことができるので、精神的にも肉体的にも負担が少なくなるのだろう。

それが、たとえ短い時間で毎日の生活のルーチンに組み込まれれば、いつしか大きな仕事になっているのだろう。

私もやりたいことはたくさんある。
しかし、最初の一鍬、そしてその後の継続が難しいのだ。

これは、子どもで大人でも同じだ。
継続と習慣には強い意志の力がいる。

元来怠け者の私は、なかなか難しいようだ、

焦らず、一歩ずつ。
欲張らず、でも前進。

小学校の先生が言っていたことを今でも思い出す。

「のろくたってのろくたっていいんだよ。止まらなければいいんだよ。」

希望の言葉だ…

追記
このブログも、投稿が1000回を越えたようだ。大したことではないが、折々の記録になはっているのだろう。これも微かな習慣の力と言えるのか…。




2021年11月23日

防災放送

珍しく地元の集まりがあった。
「防災放送が聞こえないので、各家庭に防災無線を置いて欲しい」という陳情の結果報告だ。

結論から言うと、議会では陳情不採択について賛成多数とのことで、地元からの要望は却下されたという。

防災放送は、豪雨などの自然災害時に、非難を促すものだが、スピーカーで放送するタイプのものは、各地で「聞こえない」という声が多いようだ。

確かに、激しい風雨の中での放送は、各家庭に伝わるのは難しいだろう。

一方で、「昨今はスマホによる災害情報も流れるので、取り立てて困ることはないだろう」というのが、議員さんたちの考えらしい。

だが、問題は、スマホを持たなかったり、持っていても近くに置いていない一人暮らしの高齢者に、どのように情報を伝達するか、ということになる。

山間部には孤立世帯も多く、基本的に情報は届かないと見て良い。

その中で、地元の青年による消防団が、悪天の中、一軒一軒周り、避難を促すということをしているようだ。

まだ余裕のあるうちは良いが、一気に増水して浸水してしまったり、あっという間に崖崩れが起こってしまうような地域では、二次災害の恐れも否めないのだ。

過疎化、高齢化により、田舎の自治体はどこも苦しい対応を迫られているのだろう。

こんな時に、地元の声をよく聞いてくるのが共産党の議員だったりする。

なんともおかしな話だ。

「俺らが文句を言ったら、〇〇議員は俺らを見ても挨拶もしなくなったんだ…。」
そんな声も聞こえてくる。

すべては人間関係。
真摯に住民の声を聞き、それを政策として行っていくのが地方議員の仕事だろう。

相反する意見も起こる。
予算も少ないので、できることも限られている。

難しい舵取りなのだろう。

さて、どうしたものだろう…。




2021年11月22日

学びの機会

人は五体満足で生まれることすら奇跡であるのだが、その上、発達の偏りなどもなく育つというのは、さらに希有なことなのだろう。

だが、そうした人の存在は、時に人間社会に大きな学びの機会を与えてくれる。

中2のS君がまた暴れた。
「殺してやる!」と、バットを持って中1を追いかけた。

私たちや他の生徒たちから見れば、ほんのささやかなことなのだろうが、Sからしてみると、生きるか死ぬかの大事件になるようだ。

悪いのは中1の方で、親しみを込めてちょっかいを出したことが原因だ。

Sにとっては、馬鹿にされるような態度が、「我慢ならない」のだ。
今回は、「後輩が、先輩を甘く見た」ために起こってしまったようである。

当然、誰かがSを止めなければ、下手をすれば殺人事件になる。

ため込んだ怒りが、あるとき頂点に達し爆発すると、S自身も、自分が分からなくなる。

霊的には、怒りを溜めた心が、阿修羅霊などに同通し、完全憑依されるのだ。
心が落ち着き、自分自身を取り戻せば、何ごともない。
何故、怒ってしまったのかもわからなくなる。

何ごとにおいてもSが機嫌良く行動できるように、周りで最大限の配慮をすることで、「怒りの感情」を沸き立たせないようにすることはできるが、一方で、本人自身の努力も必要になってくる。

この先、年齢が上がりなお、あまり改善できなければ、犯罪を行ってしまうことにもなりかねないのだ。

周りの生徒たち、先生たちも、Sに学ぶことは多いだろう。

それを期待するから、一緒に生活させているという面もある。

きっとS君にしかできないことがある。
そも特徴をさらに伸ばし、人間関係の部分を矯めていけば、社会人になっても自立してゆける。

「中学生には厳しいだろうな…」、とは思いつつも、貴重な学びの機会であることは間違いあるまい。

2021年11月21日

紙の無駄という幻想

教育現場ではタブレットが花盛りである。

昨今は、一人一台ずつのタブレット端末を配り、場合によっては自宅でも利用できる。
年寄りの私は、「そういう時代なのか」、と半ば諦めてはいる。

だが、『本』が『画面』になるだけでは、その教育効果は高くあるまい。
タブレットなりの、工夫なり、その特性が利用されなければ、時に危険なおもちゃを生徒達に与えるだけであろう。

スマホによるSNS系でのいじめを考えれば、同じような事件は、当然予想できるはずだ。
なりすましや、セキュリティホールを突いたハッキングなど、その種類も一気に増加する。

仮にこれらの対策がすべてなされたとしよう。
その時、タブレットは何をするものなのだろうか。

教科書がタブレットに変わったのだろうか。
ノートがタブレットに置き換わったのだろうか。

私は、はやり紙に書いてこそ、記憶に定着し、頭脳を鍛えられるように思えてならない。

確かに学校現場では大量の紙が消費され、しばしば「無駄」とされる。
だが、その紙は、生徒たちが何度も何度も演習するためならば、もはや「無駄」ではあるまい。

タブレットにしたから紙の量が減るというのなら、それは彼等の演習スタイルを崩し、新たな文明実験を始めたということになる。

紙の消費を自然破壊と結びつける人もいるが、おそらくは間違いであろう。
割箸は、資源を無駄にしないためのとても良い方法であることが知られている。

情緒でものごと判断しては駄目だし、単にイメージで世論を誘導しようとするマスコミの報道姿勢にも誠意が感じられない。

「ゲーム感覚で使えば、生徒を飽きさせることなく勉強させることができる」、らしいが、そもそも飽きさせるような授業をしてしまうのは、教師の責任でもある。

情報社会なので、その利用の方法はいろいろあってよい。
その検索や記録が得意な機器を使うことにも反対しない。

だが、人間が思考し、新しい価値を創造するには、沈黙の時間が必要だろうし、「書くこと」、「じっくり読むこと」が不可欠なはずだ。

年寄りの戯言だろうか…。
ファン
検索
<< 2021年11月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新記事
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
丹澤三郎さんの画像
丹澤三郎
プロフィール
リンク集
おすすめ