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2022年09月27日

国葬を思う

本日、9月27日、日本武道館にて安倍元総理の国葬が営まれた。7月8日に銃撃により暗殺され、早々に岸田総理が国葬を行うことを決めたが、世論は日に日に国葬に対しての厳しさを増し、国論を二分する事態にまでなった。古くから、国論が二分される時は、国家存続の危機であるという。他国によって侵略されるときは、たいていはこうした状況下であるという。逆の見方をすれば、こうした状況に「持って行かれた」というのが現状だろう。

その大きな原因が、マスコミ報道である。当初、銃撃されてえ急逝した安倍元総理を惜しむ声を報道したが、次第に犯人を英雄視するようになり、そしてさらにはその犯行の元になったとして、旧統一教会ばかりを取り上げ、挙げ句の果てには、政治家たちと旧統一教会の関係を、あたかも魔女狩りの如く報道し続けた。こうしてメディアは、多くの国民を、亡くなった方を悼む」という日本の伝統をも覆すほどに、安倍憎しの方向へ誘導したのだ。もちろんここには、中国の工作員らの影響も大きいだろう。沖縄県知事の再選も、この報道のお陰と言ってもよく、またしても沖縄は、中国べったりの「日本とアメリカから独立する」と叫ぶ知事が当選してしまったのだ。一足早く、世論を二分する状態に持ち揉まれた沖縄の侵略が、また一歩近づいてしまった感がある。

今日の国葬にて、フランスのマスメディアは、「国民の60%が反対する国葬が行われた」と伝えたが、私はこの世論調査の結果も、きわめて怪しく、意図的に作られた数字のように思う。世論調査など、自社都合でいくらでも変えることができるし、聞き方によっては、いくらでも結果を誘導することができる。また、報道姿勢によって、世論誘導することなど朝飯前で、今回の場合も、国葬反対派については大きく報道し安倍氏のこれまでの業績を讃えた追悼集会などは、たとえその規模が大きかったとしても、ほとんど報道することなく、ただただ阿修羅の如く、髪を振り乱して絶叫する彼等を報道し続けた。これは単に視聴率かせぎとはいえないくらいの、偏向報道であり、いよいよ日本でもアメリカに引き続いて、左翼メディアによる極度の偏向報道があたりまえになったと感じている。

概して国葬反対派は高齢者が多い。そこに中国の工作員に近い野党の議員が加わって、日本人とはいえないような輩がデモを行っていた。これも、戦後の左翼教育の一つの集大成なのだろう。

左翼思想では英雄を認めたがらない。人はすべて平等であって、能力に差があってはいけないようなのだ。だから、優れた評価をされる人物の存在は許されず、そうした人物は徹底的に叩くという傾向がある。実際、歴史上の英雄であっても、存在しなかったことにしようとする。その観点から考えると、今回、安倍元総理が国葬で弔われることは、彼を英雄視することになり、これは許されざることになるのだろう。彼等は、国葬の費用についても言及しているが、実際費用が高額であるかのように誘導しているのはマスコミ報道であり、警備費が増えるのも、彼等反対派が勢いづいているかのように報道しているからである。国葬にかかる費用など、外国人留学生への補助と比べたら、ほんの僅かであるし、コロナ禍で国からのばらまきになれてしまった国民の心を逆なでするに、十分な偏向報道誘導がなされていると言えるだろう。

私は献花に訪れる若者や学生の姿を見て、若干胸をなで下ろす気持ちになった。まだまだ日本は生き残れるかも知れないという、淡い希望である。先日も産経新聞に高校生の国葬を巡る反対派への批判記事が載ったが、これを読んで、若者たちの方が、正しく、冷静に物ごとを見ているな、と思う。

法的根拠が希薄であるとか、国会軽視あるなどと、とってつけたような理由しか彼等は思いつかないのだ。国会内にも、日本の国益に反する主張を続け、左翼マスコミと連動して、国難を引き寄せいていると思われる議員がいる。私は彼等が本当に日本人であるのかすらも疑問に思う。

確かに日本は島国であり、近隣諸国との関係を維持しつつ、独立を保ってきた国家であることは間違いない。しかし昨今、独立国家としての気概が薄らいでいるように思える。すべてが諸外国のいいなりであり、特に中国の要求をすべて受け入れているかのようにも見えてしまう。これは、保守系の議員でも同じだ。一部、日本を中国の一部の省にするような勢力には、断固として負けてはいけないし、その策略にはまってはいけないのだ。その意味でも、マスコミ報道は、国益を無視したものになっていると思われる。

繰り返しになるが、「死んだ人を悪く言うものではない」という日本古来の伝統が、今回大きく踏みにじられた。私は。国葬反対と声を上げ、自らの主張のみを通そうと巣いる彼等の気持ちをあまり理解できない。もし彼等が、他の誰からも影響を受けず、自らのポリシーで反対を叫んでいるとしても、「だって嫌なんだもの」と、幼子がだだをこねている様に思えてならないのだ。一方で、でも見る、日本人ならば絶対に間違わない漢字を間違えて掲げている彼等の姿を見ると、やはり、他の勢力が関しているものと確信する。

政治家という者は、その生涯に功罪があろう。もちろん、安倍元総理の場合も、長く在位したことによる、奢りや慢心もあったであろう。ハイエナの如く、利権を求めてすり寄ってくる悪い輩もたくさんいたであろう。だが、間違いなく日本の一時期、総理大臣として国のために尽力した人物、安倍晋三であったことは間違いあるまい。その四を悼む気持ちを忘れず、つくづく静かにあの世に旅立たせてあげたかったと思う。残念である。

2022年09月26日

マラソンの授業

この時期体育の授業はマラソンになる。ほんの3回だけなのだそうが、学校内の特設ルートが彼等のマラソンコースになる。

概して生徒たちはマラソンが嫌いである。普段の体育の授業のように、「楽しい」という感情を抱く生徒は少ないはずだ。そればかりか、走れば「つらい」、「疲れる」というのが実情で、通常人気があり、楽しみな体育の授業の中では、きわめて嫌われる存在であると言える。

私は、授業をしながら彼等の走る様子をのぞき見る。

先頭集団は、マラソンに命をかけている生徒たちだ、日々ベストタイムを更新すべく、意欲的に走っている。恐らくは、この先思われる地区の駅伝の選手になるような生徒だろう。

次に走っているのは、いわゆる「真面目」な生徒たちである。彼等は、「めんどうだ」と思いながら、曲がりなりには走り、時に友だちと談笑しながらも走り去っていく。それでも、つらくなれば、途中で友だちを誘いつつ歩いてしまうのだ。

私は、よく「歩くな」と言っているが、どうやら体育科の先生たちは、「つらくなったら歩いていいよ。倒れても困るから…」などと言っているらしい。

だから生徒たちは、心おきなく歩くのである。本当は歩いた後に、再び走り出す方が、ずっと走っているよりも遥かにつらくなるにもかかわらず、一時の誘惑に、彼等は負ける。

次のグループは、端からやる気のない生徒たちである。彼等は初めから歩く。一人では恥ずかしいのか、必ずつるんで歩く…。いわゆる体育の授業泣かせの生徒たちである。

こうした事態にさすが体育科の先生たちも業を煮やしたのか、昨今、授業に学年の先生たちの参加を求めることになった。

一緒に走るもよし,写真を撮りながら励ますもよし、はたまたやんちゃな生徒たちと関わるもよし、と言った具合である。

やる気がないとは言え、もとより不真面目というわけではないので、そうした先生たちの目が彼等の刺激にもなる。だから、「つらいけど、ちょっとは走ってみるかな…」、という具合に、少しやる気を促すことになった。

先日、学校説明会で高校二年生が学年合掌を披露した。「高校生でも皆で歌うことができるんですね」と感動されていた参加者がいた。

マラソンでも、そう思われるような、そんな授業になればいいな、と私は思って老いるのだが…。

2022年09月21日

クラスの掌握

ある意味、担任は試行錯誤の連続だ。
良かれと思ってやってみたことが裏目に出たり、逆に、大して考えていないのに上手くいったりする。

私が担任であったときも、日々格闘し、いろいろ試しては失敗し、あるいは時にうまくいき…、を繰り返していたように思う。

そうした積み重ねが、担任としての経験値を高め、自然に「真の担任」への進化していくのだろう。

私は、以前のように若手の先生にいろいろとアドアイスをする機会がめっきり少なくなった。

彼等の姿を見て、「経験から学べばいい…」、と遠くから眺めている部分もある。
事実、私自身もそうやって経験値を高めてきたのだ。

一方で、平凡な教員である私にアドバイスを求めようという若手教員も少ない。
自分で解決しようという姿勢は素晴らしいので、私はそれを取り立てて非難することもない。

先日、文化祭のクラス劇の写真を担任に印刷して渡した。文化祭を終えて数日後のことである。それから二週間以上経ったが、一向にそれらを張り出す気配がない。

別にどう使うかは、担任の判断でよいとは思っているが、担任はおそらく生徒任せでそのフォローをしていないのだろう。

事実、「〇〇ちゃんに渡してあるんですけど…」、と言う。
クラスの生徒をうまくコントロールするのは担任の大切な仕事。
学年が上がり、彼等の自主性を尊重するも、それでいながら、きちんと彼等を掌握することを忘れてはならないのだ。

一見、自由にさせてもらいつつ、裏では担任がきちんとグリップしている。彼等は、「自分でやった」と思うも、裏では担任が動かしている…。そんな指導方法が理想なのだろう。

たいていの若手の教員は、スピードが求められる事柄が進んでいないときに、生徒のせいにする。

本当は、生徒のせいなのではなく、担任自身の自覚が足りないのだが、彼等はなかなかそれに気づかない…。

私もたまには声を掛けないといけないのかな…、と思う。




2022年09月19日

アイスバーガー

このところ、できるだけ休日をい作り、リフレッシュの機会を得るようにしている。部活を毎日やっていると、下手をすると何ヶ月も「休み無し」状態になるが、それでは、「選手も私もきつかろう…」という思いもある。もしかしたら、私のサボり癖がついたのかも知れないが、中学の部活なのだから、時折は「オフ」の日も必要だろう。

今日も、ぶらっと列車旅に行った。 最寄り駅から各駅停車で、いくつもの路線を乗り継ぎ、近県の気動車に乗ってきたのだ。

折しも台風接近中で、時折ざっと雨が降ったり、青空がでたりと、忙しい天気だったが、車窓から見る秋の景色は、実に楽しく、心地よい者だった。

各駅停車の旅は、乗り継ぎが難しく、あまり遠くまではいけないので、距離を100qそここそにして、折り返してくるルートにした。100qを超えれば、途中下車もできる。実際は日帰りだが、切符の有効期限も二日になる。往復にすれば、さらに伸びる。

目的の終着駅には、取り立てて目的があって出掛けたわけではないが、少し時間があったので、町中をぶらつくことにした。この町には有名なソウルフードである『アイスバーガー』がある。

私はこれを食べに、汗だくになりながら駅から二十分ほど歩く。
その店は、地元の小さなマーケットだった。

安倍元首相が、襲撃の少し前、選挙応援の為に訪ねて食べた「アイスバーガー」である。

これは美味だった。
焼きたてのバーガーはパリパリっとして、あつあつ…、その間に冷たいアイスクリームが挟んである。

「すぐ召し上がってくださいね。」
店員さんがそう告げる。

そりゃ、そのまま置いておいたら、アイスは溶け、パンも冷たくなってしまう。

私は、店の前の踏切に、乗ってきた気動車が折り返して通過することを知っていたので、列車が来る前にと、慌てて食べた。

しかし、非常においしかった。
また食べたいと思った。
最高のおやつだ。価格も二百円台とリーズナブルだ。

その後、駅までの戻る際、激しい雨に全身ずぶ濡れになった。
しかし、それも心地よかった。

いつの間にか空は晴れ渡り、青空になった。

楽しい列車旅、最高のリフレッシュになった。



2022年09月12日

草取りの効用

試合の次の日の練習。二人の選手がユニフォームを着ていなかった。
聞けば、「試合の次の日は休みだと思っていたら選択をしてない」とのこと。
一事が万事、この甘さである。

練習前、私は全員を集め、少し長めの話をした。

今回、中3でもとキャプテンの生徒をお手伝いに連れて行って、スコアを書いてもらったり、アドバイスをしてくれた。

だが、選手たちの誰一人と、試合の振り返りの日誌に、感謝の言葉の一つも書いていなかったのだ。

そればかりではない。試合中、ミスをして笑って誤魔化す選手、自暴自棄になり、勝手に落ち込んでいる選手などなど、あまりに情けない状態であったのだ。

私は、これらを一つひとつ指摘し、改善を促し、グランドの草取りをしながら、自分自身を見つめるように指示をした。

この夏、グランドは草だらけになった。
毎日少しずつ、草を抜いているが、まだ内野の五分の一程度しかできていない。

彼等は、はじめて、一言も話をすることなく、黙々と草取りをした。

「心を見つめる」ということは、こういうことなのだろう。

私は、「草取りをしながら、昨日の試合を振り返ってみなさい。また、これまでの自分の練習への取り組み、意識についてもかんがえてみなさい」、と指示した。

ほんの十数分の間だったが、内野の草のない領域は、少しだけ広がった。

きっと、彼等の心の成長も、少しだけ高まっただろう。

草取りにはこんな効果もあったのか。

彼等の意識が少し高まるといい…。





2022年09月11日

初試合

新人戦のシード決め試合に出場した。

このチームとして初試合である。

本来なら、夏休みから何度も練習試合を重ね、その発表の場としての試合になるのだろうが、残念ながらコロナ禍の中、活動が制限され続けた我がチームはそのようにはならなかった。たいてい他校が活動を開始した頃、コロナが流行、出鼻をくじかれるかのように、試合のできない期間が続いてしまったことも事実だ。

だが、そうした状況は、全国どこにでもあるはずだ。
要は、選手の意識、そして指導者の意識の問題だ。

いかに「やる気」を起こさせ、モチベーションを高め、それを維持するか。
これが指導者に求められるはずである。

その点、残念ながら私は、指導者として合格点はもらえないはずだ。
時勢に流され、環境を言い訳にし、時に選手に責任を押しつけた感がある。
猛省しなくてはなるまい…。

助っ人を含めた寄せ集めチームで、そのほとんどが試合経験が初めての状態ではあるが、やはり圧倒されて負けてしまえば、彼等だって悔しいだろう。

一年生ピッチャーに翻弄され、一年生ばかりのチームにコールド負けするのは、たまらないはずだ。

そうした焦りともいえる感情が、簡単なゴロをはじき、フライを捕りこぼし手しまうことにつながっている…。

すべては私の指導力のなさが原因だ。

しかしまだまだこれからのチームだ。一ヶ月後の新人戦に向けて、彼等を引っ張ってゆこうと思う。

過去の栄光にすがることなく、今の生徒(選手)と向かい合いたい。

それが今できる私の最大の仕事なのだから…。




2022年09月10日

仲秋の名月

事務長が、「生徒も月を見る機会があるといいですね…」と言う。
私と年齢が近い彼が、自然を愛でる心があるとは知らなかった。失礼ながら、もっとモノを重視する方だと思っていたからだ。

確かに仲秋の名月は年に一度。天気が悪ければ、月は見えない。
しかし、澄んだ秋の空に、低めに南中する輝く満月は、古くから日本人の心を魅了してきた。

世知辛いい世の中、日本人の誰もが、せめて月を愛でて心を落ちつけて欲しいと思う。

そんな風に思っていたら、「昨晩は〇〇と15分月を見ていました…」、という中学生の男子生徒がいた。Yである。

Yは小柄で物静かながら、コツコツタイプの努力家。中学生にはめずらしい沈思黙考の生徒である。

果たしてYは月を見て、何を思ったのだろうか。まさか、密教の阿字観にも似た、満月瞑想をしていたわけではあるまいが、何かしらの気づきがあったに違いない。

日常の雑踏から逃れ、自然の姿に思いを馳せ、脱日常を経験することは時に必要なことだろう。

「満月の時は、懐中電灯なくても夜道を歩けるし、大きな字なら本だって読めるんだよ…。」
授業で生徒たちにそんな話もする。

都会っ子にとっては、夜は街頭や店の照明の明かりしか感じないだろうが、月明かり、場合によっては星明かりだってあるのが、夜の空だ。

「スマホを置いて本を読もう」と言われ続けているが、私は「スマホを置いて星を見よう」と言いたい。

スマホやインター-ネットは便利だし、確かに調べ物には気軽に使えるツールだか、そこには情緒がない。

人間生活から情緒を失ったら、もはや機械に使われている生活になってしまうだろう。

私は、昼夜問わず、毎日空を見上げている…。




2022年09月06日

コロナ禍の混乱

岸田首相がまた呟いた。
コロナ陽性者(症状あり)の療養期間を10日から7日に短縮するのだという。

私はふと考えた。
いつから日本は、「国がすべてを決め、国民に周知するだけの期間になったのだろう」と…。

首相が発表するのだから、そのように変わっていくのだろうが、何となく違和感を感じる。
ひとたび権力をつかんだ彼等は、果たしてそれを手放すのだろうか…、ということだ。

多額の税金をつぎ込んで海外からワクチンを買い、それを国民に接種させる。
近隣の市では、早速、オミクロン株対応ワクチンを始めるのだそうだ。
だったら、三回目、四回目と効かないワクチンを打ち続けたというのか。

当初、ワクチンさえ接種すれば、マスク無し生活ができると言った。
それができないと分かると、死亡率低下と言った。
それでも説得力がなくなると、重症化予防と言い、基礎疾患のある人対策と言う。

いずれも説得力に欠ける。今や、ワクチン接種者の方が感染率が高まり、ワクチン接種後、基礎疾患のある方が突然死を起こしている。しかも、国は、ワクチンとの因果関係不明として、ほとんど公表していない。

ワクチンに反対する人の声は、封殺され、国の都合の良い情報だけがマスコミにも流れている…。

もはや、国民が正しい情報を得る術は、極めて困難になった。

「2類だからだよ…」、と皆は言うのだろうが、私はどうしても不可解な思いを感じざるを得ない。

文化祭が終わり、校内でもまた、陽性者が出始めた。
今回は、ホテルエントリーの結果、スムーズに隔離されたようである。

果たして、5類に変更されたとき、国民は医療費を始めとする諸経費の負担に耐えられるのだろうか。

ひとたび、味わった「税金でまかなわれる」という感覚は、そうやすやすとは手放す事はできないのではないだろうか…。

コロナ禍の中、社会生活は少しずつもとに戻りつつあるが、一方で、「コロナのせい」にすることができないような時代が、近づいているようにも思える。

首相は辞めれば終わるが、国民はそうはいかない。

学校現場の混乱は、まだまだ続くようだ。
どの学校では、負担は増すばかりだ。





2022年09月05日

山登り

今年は精力的に山に出掛けるようにしている。

大自然の中で、必死に登り、汗だくになっても、吹き抜ける爽やかな風が心地いい。
そればかりか、全身がリフレッシュされ、そのことが明日への活力につながるのだ。
たとえ苦しい登りに、「もういい加減にしてくれ」という思いが出てきたとしても、ほんの一週間もすれば、また登りたくなってしまうのである。

ある意味、山の魔力だが、その魔力ゆえに、私たち人間にも、おおいなるエネルギーをもたらしてくれているようだ。

今回は、少し長めのルートを歩いた。
天気予報は悪くなかったが、朝の天気は曇天である。
山が近づくにつれて、雨が降り始め、視界が見えなくなった。
「こりゃ、とんでもない山登りになるかな…」、と不安をよぎらせながら車で登山口まで走る。

ところが、標高をかせぐうちに天気が一変した。
いつしか青空が拡がり、どこまでも続く紺碧の空になった。
下界は雲海で包まれている…。

山頂から見る下界の景色は、近くの山と雲ばかりであった。
しかし空はほぼ快晴。ギラギラと太陽が輝いている。

程なく、中腹の樹林帯を歩く。
景色が見えなくなった分、初めて歩く先の見えなルートに不安と期待を感じながらも、水の音が聞こえてきた。

登山道を横切るように、湧いた水が流れている。
水はとても冷たく、手をつけているとしびれるほどの冷たさだ。
その水で、汗だくの顔と腕を流す…。

最高の気分。
これまでの疲れも吹き飛んだ。

午後になって、山は霧に包まれた。
雲の中に入ったのだ。

下山し、硫黄泉にはいって疲れを癒やす。

こんな贅沢なリフレッシュ方法は他にあるのだろうか。

圧倒的多数の生徒たちは、この山の感動を知らずに育っていく…。




2022年09月04日

文化祭の劇発表

例によって写真係だった私は、準備を含めた文化祭の期間、クラス劇をすべて三回ずつ見た。計算すると21回、撮影しながら劇を見たことになる。

本番二日目に審査員が入り、順位が決められたが、不遜ながら私ほどこのように劇を見続けた者もいまい。

どの劇も気合いが入っており、見応えがあった。

最初から仕上がりが良かったのが、経験豊かな高2の劇。2クラスあったが、どちらもバイタリティ溢れ、迫力があった。彼等は中学時代も劇をやっており、さまざまなノウハウも体得しているのだ。

一方で、中学生の劇は、担任たちに引っ張られながら曲がりなりにも形にするという具合で、見ていてドキドキするものがあった。これが準備リハーサルの日。

文化祭の初日。本番一回目では、中学生、特に中1が急激に進化した。「本番に強い」のは私の学校での伝統だが、これほどとは思わなかった。その反面、高2の劇が伸び悩み、昨日様なバイタリティも迫力も感じなかった。もちろん、キャストたちは、私の望遠レンズで見ても、汗だくになって演技をしているので、真剣そのものなのだが、ちょっと前日よりは落ちてしまった感があった。中2、中3も順当に進化している。

私は、中2のあるキャストに、一言だけアドバイスした。すでに劇団の演技指導を受けている生徒ではあるが、少し元気のなく、力ない演技に見えたからである。

「目力を大切にしなさい。その間をとり、言葉にも思いと力を込めなさい…。」

果たして三回目。本番二日目である。

この日の中1のあるクラス、中2の別のあるクラスの発表は秀逸だった。その他の中学のクラスも仕上がりが良かった。中3も元気だった。しかし、高2は日に日にレベルが落ちた。

アドバイスをしたキャストは、光輝き、これまでで最高の演技だった。まさに、演技する側と客席が一体化し、非の打ち所がなかった。

脚本は生徒が書いたものだが、その台詞にはドキッとするものも多かったことも追記しておこう。

「僕はお母さんを信じている。だから、お母さんが信じている神さまを信じる…。」

信仰はこのようにして世代間に継承されていく。二世問題で荒れている宗教批判は、そんな軽薄なものではないのだ。




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