2022年06月04日

マスク狂詩曲

各地で運動中に熱中症になり、緊急搬送されるという事例が起こっている。全国でどれほどそうした事例があるかどうか分からないし、マスコミが、面白おかしく報道するので、ある意味偏った報道でもあるが、「学校現場で熱中症のために生徒が倒れている」、ということだけは間違いあるまい。

倒れて運ばれた生徒の親は、「何故、運動するのにマスクをつけさせるのか」と言う。
一方で、「マスクを外しなさい」と言えば、「なぜ強制的にマスクを外させるのだ」、というクレームが入る。さぞかし各地の学校現場は困惑しているに違いない。

コロナ禍が二年半経過し、日本ではマスク生活が当たり前になった。
一方で、恐怖心のため、大人も子どももマスクを外せない人も出てきた。
屋外ではマスクを外す、などと厚労省も指針を出したが、外を歩いている人を見ても、そのほとんどがマスクをしており、日本ではすっかりマスク人になってしまった感じだ。

学校現場では、一部「授業中も外して良い」とところもあるようだが、まだまだそこまでは到らないだろう。マスクをし続けることによる免疫低下と、飛沫感染を防ぐという両者を天秤にかけるとしても、その判断ができる人は、おそらくほとんどいまい。

私は、少なくとも運動をする際には、マスクを外すべきであると思っている。
実際、マスクをしたまま走ってみれば分かるが、かなりつらい。そのまま酸欠で倒れてしまいそうにもなる。合わせて、気温、湿度ともに高くなったならば、今度は熱中症の危険も伴う。

だから、学校の体育では運動時にはマスクを外し指導をすべきだと思う。
もし、マスクを外すことを渋る生徒、保護者が外すことに同意しない生徒がいたならば、彼等は、体育の授業を見学させるなどの措置が必要だと思う。

私はこれが最低限のマスク対策であると考える。

これから致死率の高い株が出てきたら、おそらくもっと深刻な状況になるのだろうが、現在のところ、そしてこれから夏を迎えるシーズンでは、この方法でやむなし、ではなかろうか。

マスクを外させない保護者の家庭では、自宅でもマスクをし続けているのだろうか。
通勤から戻った大人たちの対策は、そうしているのだろうか。

ただただムードであったり、自分の価値観の押しつけであったり、恐怖心からのものであるなら、何かしら別の対策が必要になるだろう。

ただでも忙しい学校現場に、また一つ、悩みの種が増えた…。

2021年11月24日

習慣の力

継続の力は偉大である。
私も、小学校の時、臨時で来て下さった先生から、「継続は力なり」という言葉を徹底して教え込まれた事を思い出す。

努力して継続していることがいつしか習慣になれば、その習慣の力は更に大きな力となって、成果をもたらしていく。

私も何か新たな一手を打たねばと、いろいろやってはいるが、習慣の力にまで達しているのは、まだまだ数少ない。

ついついさぼってしまうのは、完全に習慣化できていないのだろう。

生徒達には、「ほんの五分でもいい…」、と話はしているが、自分もあまりできていないのだから、若干説得力に欠ける…。

習慣化すると、難なくこなすことができるので、精神的にも肉体的にも負担が少なくなるのだろう。

それが、たとえ短い時間で毎日の生活のルーチンに組み込まれれば、いつしか大きな仕事になっているのだろう。

私もやりたいことはたくさんある。
しかし、最初の一鍬、そしてその後の継続が難しいのだ。

これは、子どもで大人でも同じだ。
継続と習慣には強い意志の力がいる。

元来怠け者の私は、なかなか難しいようだ、

焦らず、一歩ずつ。
欲張らず、でも前進。

小学校の先生が言っていたことを今でも思い出す。

「のろくたってのろくたっていいんだよ。止まらなければいいんだよ。」

希望の言葉だ…

追記
このブログも、投稿が1000回を越えたようだ。大したことではないが、折々の記録になはっているのだろう。これも微かな習慣の力と言えるのか…。




2021年10月17日

スマホを捨てて…

『スマホを捨てて本を読もう』というキャッチフレーズがある。

確かにスマホは人々の時間を奪い、知的作業を著しく低下させ、頭を悪くする。

一方で、常習性を生み、ある意味麻薬と同じような症状すら引き起こす。

少し前に、韓国でゲーム依存になった子どもを治療するプログラムを見たことがあるが、禁断症状によって暴れる子どもたちの姿は、悲惨そのものだった。

スマホもゲーム依存と同じなのだろう。
これにより、学力は低下し、刹那的な生活スタイルしか遅れなくなる。

おそらく、そうして育った子どもたちが社会人になった場合、その国は衰退の一途をたどるのだろう。

常にスマホを持ち歩き、手放すことができない生徒も多い。
「一番、無くなってしまうと困るもの」が、今やスマホなのだ。

勉強中、LINEの着信が入ると、それを見る。
途端に脳はスマホにシフトし、勉強効果は急低下。
誰からからのメッセージならば、恐らく返信して、またそのレスポンスを待つのだろうから、そんな風では、勉強していることにはならないだろう。

ひとたび中毒性になった人が、これを乗り越え、自制するのは、とても難しいはずだ。

ある中1生徒が、「スマホの使用時間を5分に制限します」、と宣言した。

なかなかハードルが高そうだが、使用時間が5分になるようならば、もはたスマホを所持する必要性はあるまい。

「みんな持っているから…」と、スマホを持たせる親たち。
ギガが使い放題に設定する親たち。
それでいて、使いすぎをたしなめられず、学校に押しつけてくる親たち。

どの学校でも、おそらく問題になっているのだろう。

もちろん、『けじめ』ある使用ができれば、ある程度使用は許されるのだろうが、なかなかできないのが、人間の弱さでもある。

総白痴化計画にも見えなくもない、スマホの人類への侵食。

恐ろしい…。

2021年10月13日

世の中の役立たない人

「世の中の役に立たない人というのは、いないのじゃ。誰もが必ず何かの役に立っている。」

先日見ていた少林寺の映画で、高僧が、そう言って若者を励ましていた。

これは勇気の言葉だ。

人は気持ちが落ち込んでくると、「自分は世の中で役に立っていない人間である」と思う。
これが過ぎると、「この世にいなくても言い存在」と思い、自殺してしまう場合だってある。

『この世に価値のない人間なんて一人もいない。』
ということを、心底信じられるか。
自分が、世の中の役に立っているという自覚が、明日への活力となり、エネルギー源となる。

この映画は、2011年の香港、中国の合作映画だが、完全に中国共産党の支配下での映画製作になれば、こうした勇気の言葉もカットされてしまうかも知れない。
主人公は、命を賭けて、かつての部下の悪行をいさめ、改心させようとする。

共産主義の中国にとっては、こうした宗教的人格者が出現しては困るはずだ…。

学校でも、クラスに居場所がない生徒は、「自分がクラスで役に立っていない」と感じている。

だから、クラス替え当初の担任の一番の仕事は、一人ひとりの存在意義を自覚させ、誰もがクラスの一員として役割があるように死力を尽くす。

ひとたびクラスが『安心空間』となれば、多少の悩みにも耐えられ、学校生活をやってゆけるのだ。

就職後の会社組織なども同じだ。
上司は、死力を尽くしてはくれないかもしれないが、「自分が組織にとって必要な人材である」ことを自覚できなければ、その社会ではやっていくことはできまい。

「君には、こんないいところがあるよ。そのことは、みんなの役に立っているよ。これは、みんなの見本にしてもいいくらいのことだよ。本当にすごいことだし、口には出さないけれど、たくさんの人がありがたいと思っているはずだよ。」

そんな励ましは、生徒たちの成長に役立つばかりか、自分の居場所を見つけられ、さらに向上していこうというエネルギーになる。

映画の一言だって、人を救うことがあるのだ。

2021年10月02日

育ちが悪い

明治天皇の玄孫のT氏が言う。
「ポケットに手を入れる奴は、育ちが悪いんです。」

もともとはKK氏の態度を見て、そのように発言されたのだが、これには私も、ある程度同意できる。

昨今は、簡単にポケットに手を入れる。
寒いからというよりも、そういう人は、ある意味、癖になっているだ。

中には、先生と話をするときにも、ポケットに手を入れながら、なんていう姿も見かける。

ドラマの影響だろうか。
かつて和服の懐手だろうか。

「洋服のポケットは、本来手を入れるためのものではないのです。」
T氏はそう力説する。その上で、

「皇室をはじめ、諸外国でも立場のある人が、ポケットに手を入れるなどということは絶対にありません。」

「人と話をするとき、ポケットに手を入れてしまうのは、とても失礼なことだし、みっともない。品のかけらもない。」

そう、力説された。
「子どもには、家庭で三歳までに教育すべき内容です。そのように育てられた子どもは、非礼であることを知っている大人になりますが、それを知らないということは、まさに育ちが悪いとしか言いようがないのです。」

『育ちが悪い』と言われると困る保護者も多いのだろうが、大人でもこの「常識」を知らない人がいることを思えば、言葉はきついが、その趣旨は理解できる。

そんな話を生徒に話してみた。

効果てきめんであった。
ポケットに手を入れる生徒が激減したのだ。

「『知る』ということは、行動をも変えるものだ」、と改めて感じた。

しばらくは、ポケットに手を入れている大人たちを偏見の目で見てしまいそうだが…。




2021年09月30日

実るほど…

田んぼの稲刈りが進んでいる。
たわわに実る稲穂は、重たそうに頭を垂れて、まるで収穫を待っているかのようだ。

実ほど 頭を垂れる 稲穂かな

古くから日本に伝わる言葉である。
徳ある人ほど謙虚である、ことを稲穂に例えた言葉だ。

とかく成長すればするほど、自己中心的になりやすい。
「私が成功者なのだ」などと、身の程知らずの発言が出るようになると、人はすでに転落が始まっている。

米作りのため、稲を育てるのは、時間も手間もかかる重労働である。
そのご褒美として、米ができるのだろう。
成功の部分だけを見てはいけないということだ。

たとえ中高生であっても、「その成功は自分一人の力によるものではない。数多くの人の、支えがあってのことだ。目に見えない部分でも、助けられているはずだ…」、ということを思い巡らせることができないならば、その慢心は、大人になっても続いていくことになるのだろう。

だから、私は、縁あって出会った生徒たちに、必ずこの言葉を伝えることにしている。
もちろん、自分自身への自戒を込めて…。

一抹の不安は、現代っ子、都会っ子に米作りの苦労がわかるだろうか、ということだ。

下手をすると、稲穂すら見たことがない人もいるのだろう。

日本人は当たり前のように米を食べている。
米を食べれば、力も湧く。

「いただきます」は食物への感謝の言葉だ。

『成功は人の恩』

実家に飾られていた言葉だ。

大昔、弟が「成功は人の思い」と読んで家族に笑われたことを思い出した。

人は一人では生きては行けない…。

2021年09月25日

無意識の意識

何ごとにも長けてくると、無意識のうちにできるようになる。

例えば、野球のピッチング。
初めて教えてもらうときは、意識をしなくてはいけないことが、山ほどあるが、できるようになれば、最初に意識していたことは、無意識のうちにでき、別の部分に意識をはらうことができるようになる。
逆にその境地にまで達しないと、実際ピッチャーを務めることなどできないだろう。

教師が教室で授業をするときも同じだ。

新人の先生が授業をする際、意識してなさねばならないポイントは数多い。
多くは、教科内容を教えることばかりに集中して、生徒との関係を築けないが、その部分こそ、意識して、授業しなくてはならないのだ。

私の学校では、若手の先生には何度も公開は授業を行ってもらう。

ベテランの先生がその授業を見て、いろいろとダメ出しをするのである。
それを「愛のメッセージ」と呼んでいる。

私立学校なので、他校への異動もないので、できるだけ早く授業の上手な一人前の先生になって欲しいという、学校のとしての切実な願いと施策なのだ。

授業の上手なベテランの先生の多い学校では、新人教員は、生徒にも鍛えられる。
一部の進学校のように、「分からない授業」に対しては容赦なく攻撃を加える生徒はいないが、生徒達は、授業が上手でないことは、感じ、授業評価の際には、きちんとその成績をつける。

その評価は管理職以外に公開されることはないが、彼等のコメントを見れば、その評価も自ずと分かるものだ。

授業の一時間を任され、その責任を負う教員の責任は重い。
「教えること」だけが仕事なのではなく、そこには教師としての全人格で当たらなければ、一年間を通して生徒たちの信頼を得ることもできないし、学力を向上させるというミッションを果たすこともできない。

授業開始時に、生徒の前に立てば、見えてくるものがあるのだ

それは無意識のうちに感じる、その日のクラスの雰囲気、波動である。

無意識に感じる領域が増えれば、意識する視野が増える。
その意識をもが無意識の領域に達すれば、さらに広い視点で見ることができる。

達人、ベテランはそうやって作られていく。

そうした彼等も、はじめは新人。

無意識になるべく意識してこそ、その息に達する道を歩むことができるのだろう…。

2021年09月20日

友達ってなんだろう

学校生活をしていると、最低でも何人かの『友達』はできる。
クラスや部活で親しくなることで、自然に『友達』になるからだ。

そんな『友達』とは、一緒に話したり遊んだり、たとえ趣味が違っていても、何かしたの共通の関心事があるのだろうから、話題に途切れたり、疎遠になってしまうことは少ない。

だが、その関係が薄い状態だと、クラス替えを行うことで、『友達』から、一歩引いた『知り合い』に変わってしまうこともある。

「クラスが変わっちゃったら、ほとんど話さなくなっちゃったね…。」
なんて、久しぶりの会話がなされた場合、やはりその関係は薄くなっているのだろう。

学校を卒業し、お互い違う進学先に進んだ場合も、このようなことは頻繁に起こる。

おのおのが、異なる学校に入れば、また新たな人間関係ができる。
そこで、新しい『友達』が作られるわけだ。

人は、そうやって、次々と訪れる新しい環境の中で、『友達』を作っていく。

社会人になると、いわゆる『友達』は、職場関係でも構築されるが、こちらはなかなか難しいようである。

しかし、かつての『友達』との縁も薄くなり、そうなると、ますます人間関係が希薄になる。

その意味では、長くひと所に生活することで構築された、『幼なじみ』からの友人関係は、一生の『友達』になるのだろうし、それは、多少の年齢差をも乗り越える。
その意味では、地元の友達は、まさに宝だ。

先日、給湯室で若手の先生が、「丹澤先生と学年が変わったら、ほとんどお話しなくなってしまいましたね」、と話しかけてきた。

確かにその通りだ。

朝早く職場に行き、夜遅く自宅に戻るような自宅と職場の往復だけの生活をしていれば、休日や趣味の世界での知り合いを持っていなければ、本当に希薄した人間関係になってしまう可能性もある。

職場で深い人間関係を築けるならば幸いである。

仕事上だけのやや打算的な関係から、より深い人間関係があれば、職場もさらに充実したものになろう。

私のようなシャイな性格だと、当然『友達』は少なくなるのだが、「人として生きている限り、一人では生きていけないものだな」、と改めて思う。

生徒たちには、一生の『友達』をぜひ作ってもらいたいものだ。




2021年08月28日

学校現場はブラックか

時々、SNSで教員とおぼしき人が、学校現場の苦しさを呟く。

このところの二学期開始についても、「オンラインなのか対面なのか、も分からない。そのうえ検査もやるという。感染者が出たら、学校の責任。まさにブラック」、のような投稿があった。

私は「ブラック」という言葉はあまり好きではない。
要は、「大変な職場なのだ」ということを主張したいのだろうが、大変なのは何の仕事でも、どこの仕事でも同じだ。

もちろん、労働条件的に、法的にも違反し、いわゆるブラックとして、従業員を苦しめてている組織もあるだろう。

だが、学校現場をブラックとして定義してしまうと、日本中がブラックになってしまう。

そもそも、教員を志望してこの職に就いているはずだ。
思っていたのとは違う、という思いもあるだろう。
ことのほか自由時間がなく、憎体的にも精神的的にも、もう限界、と思うこともあるだろう。

かつては教師は聖職者とされた。
私は今でも、そうあるべきだとは思っているが、多くの教員は、聖職者であるという意識も自覚も、思いもないだろう。

単に労働者としての位置づけならば、学校という現場、教師という仕事は、面倒なことが多く、苦しくつらい仕事になるのだろう。そういう意味では、ブラックになる。

だが、聖職者としての意識があれば、話は別だ。
「この子らのために…。」
という意識が強ければ、教員としての仕事はやっていける。

一方で、「こんな仕事、こんな給料じゃ、やってられない。心身ともにもう限界だ」と思えば、続けることは困難であろう。

私は、「教員をやめる」、という選択肢以外に、「しばらく休む」、という方法もあるのではないか、と思う。

「休職」、とまでは大げに差ならなくても、数週間もしくは、何ヶ月か、お休みして、リフレッシュできるシステムがあったらいいな、と思う。

充電しながら、自らを振り返り、それでもなお、「続けられない」と思うならば、この職を去ることも仕方ないだろう。

だが、本来「子どもが好き」でなった職業。

「休む」ことも、次なるクリエイティブな仕事のためにも、必要不可欠であろうと思うのだが…。





2021年07月17日

性教育 その2

昨今は「男らしく、女らしく」という考えが、社会全体としてタブーになりつつある。
学校でも、様々な対処が必要になってしまった。

肉体的な性と心の性が異なる、ことが原因とされているが、霊的にはそれだけではない。ここでは言及を避けるが、最低限、「男女は競い合うのではなく、助け合うのだ」という考えを教育しなくてはいけないと思う。

男女は同じではない。
違いを認めつつ、その生き方をする。
互いに全く同じになろうとすればするほど、その歪みとともに、苦しい生き方になる。
男女同権は男女同一ではなかろう。

昨今、中学生男子の精通年齢が遅延化しているという。女子の初潮はあまり変わっていないようなのだが、もしかしたら人類の体に何か変化が起きているのかも知れない。
一方で、統計上は遅くなっていたとしても、当然、早熟な子どももいるので、精通ということだけで見ても、小4あたりから高2の頃までと、8年くらいの差があり、指導上はなかなか厳しいものがある。

かつての様なヘアヌード週刊誌は消え去ったが、今はネットでは、性情報が氾濫している。
フィルタリングなどは簡単にすり抜け、小学生でも簡単に検索できてしまう。

そんな環境の中で、正しい性情報を伝えることは極めて困難だ。
それを学校が担うには、相応の力量のある先生が必要なのだろう。

プライベートな部分でもあり、その恥ずかしさを乗り越えた上での、真剣さが求められる。

妊娠を避けるための避妊を教えることは、性行為を推奨しているわけではない。
ただただ性行為を禁止することもできないし、たとえ禁止したからといって、守れるものでもない。

「今からセックスしてどういうこと?」、と娘に叱った母親が、「お母さんたちは結婚前にセックスしていないの?」、と返されることだってある。

と言って、中絶の恐怖を煽ることでだけ、抑止力とするのもいただけない。

プラトニックラブを化石化する風潮もだめだ。

結局、「男女が互いに尊敬しあう関係を築けたときにこそ、その行為が神聖なものになっていく」、という思想が広がらなければ、根本解決にはならないだろう。

経験者数を自慢にするような男女は、ろくな大人にならない。

性教育は、人間教育の根本に関わる重要なことがらである。

やはり肉体だけの解決策ではうまくいくまい…。
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