2023年04月13日
自己犠牲か自己満足か
もう十年近く前になるが、担任している中学生が生徒がインフルエンザに罹った、
隔離していた生徒を見舞ったが、なかなか苦しんでいたので、とても心が痛んだ。
そのとき、ふと、「彼が楽になるなら、私はどうなってもいい…」と考えてしまった。両親と離れて暮らしていたので、自分自身が親代わりのつもりでいたのである。
この思いは、果たして「愛」の思いなのか、それとも、単なる「自己満足」なのか…。
きっと純粋な「愛」でなく、おそらくは「愛」もどきであって、「爽やかな風のごとき愛」ではなく、細かな砂塵が混ざっていたようにも思う。風の中に砂つぶが混ざっていれば、爽やかさが消えてしまう。
その砂塵に相当する部分は、思うに、「私が救ってみせる」という慢心であり、「自分がこの生徒の担任である」という過ぎた自負心であったと思う。
やはり、その思いは、決して「自己犠牲」的なものではなく、単なる「自己満足」であったのだろう。
自信を持って教員としていき、担任の仕事を成し遂げることは大切なことだ。
だが、一方で、ときに「慢心」のような、転落を招く思いがわき上がってくる。
だから、時々そうした思いを矯めて、純粋な心を維持しなくてはいけないのだが、ついつい日々の仕事の忙しさに忙殺され、一番大切なことを忘れてしまう。
今の私は、だいぶコントロールできるようにはなってきたが、なかなか心を整えることは難しいことだ。
その翌日、私はインフルエンザに罹患した。
そのことが、すべてを物語っている。
私の思いは純粋ではなかったのだ。
今でも、この出来事を自戒している…。
隔離していた生徒を見舞ったが、なかなか苦しんでいたので、とても心が痛んだ。
そのとき、ふと、「彼が楽になるなら、私はどうなってもいい…」と考えてしまった。両親と離れて暮らしていたので、自分自身が親代わりのつもりでいたのである。
この思いは、果たして「愛」の思いなのか、それとも、単なる「自己満足」なのか…。
きっと純粋な「愛」でなく、おそらくは「愛」もどきであって、「爽やかな風のごとき愛」ではなく、細かな砂塵が混ざっていたようにも思う。風の中に砂つぶが混ざっていれば、爽やかさが消えてしまう。
その砂塵に相当する部分は、思うに、「私が救ってみせる」という慢心であり、「自分がこの生徒の担任である」という過ぎた自負心であったと思う。
やはり、その思いは、決して「自己犠牲」的なものではなく、単なる「自己満足」であったのだろう。
自信を持って教員としていき、担任の仕事を成し遂げることは大切なことだ。
だが、一方で、ときに「慢心」のような、転落を招く思いがわき上がってくる。
だから、時々そうした思いを矯めて、純粋な心を維持しなくてはいけないのだが、ついつい日々の仕事の忙しさに忙殺され、一番大切なことを忘れてしまう。
今の私は、だいぶコントロールできるようにはなってきたが、なかなか心を整えることは難しいことだ。
その翌日、私はインフルエンザに罹患した。
そのことが、すべてを物語っている。
私の思いは純粋ではなかったのだ。
今でも、この出来事を自戒している…。
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