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2022年01月31日

子どもの写真

毎年立志式では、生徒たちの幼少期の写真を家庭から提供してもらう。
それは誕生日祝いの写真であったり、七五三の写真であったり、家族旅行時の写真であったりする。

それらをまとめて動画にして、生徒たちに流してみせるのだ。

初めは大騒ぎをしてた彼等も、全員分の写真がすべて流れ終わった頃には、「これまで受けた親の愛」を感じ、静かになっていく。

その写真をみて感動するのは生徒たちだけはない。
「愛」を感じた教員たちも泣き、親たちも涙を流す。

親にとって、もっとも「子どもから愛を受ける」時期が、子どもが幼少期の時である。

天真爛漫な、彼等の写真は、親たちにとっても宝物である。
スマホの待ち受けにしたり、引き延ばして部屋に飾ったりする。

そのうちの一枚を見た。
A君の写真である。

四、五歳くらいだろうか。
家のリビングで満面の笑顔を見せたその姿は、見る者を魅了する。

いわゆる「すべてイチコロ」の写真である。
こんな写真を見たら、誰もが心を躍らせる。

私は、試しに部屋に貼ってみることにした。

「この笑顔は、もしかしたら、悪いモノをよせつけない効果があるかも知れないな」、とほくそ笑む。

今でも十分可愛い生徒たちだが、その幼少期はそれに輪をかけて素敵だ。

しばらく部屋に飾っておこうと思う。

生徒が見たらきっと驚くだろうな…。

2022年01月30日

春の息吹

そろそろ春の息吹が感じられないかと、庭を散策してみたら、水仙が一輪咲いていた。
まだまだ小さい花なのは、寒さゆえのことだろう。

梅の木を見ると、やはり小さめの花が十輪ほど咲いている。
昨年たくさんの梅を収穫した梅の木だ。

先日も、この冬初めて、終日氷点下にならない日があった。
確かに、少しずつ春が近づいているように思う。
この先も、日差しに力がこもり、日中の温度も高くなる日も増えてゆくのだろう。

ホームセンターには、じゃがいもの種芋が出ていた。
そろそろ畑作りをしなくてはならないのだろう。

ミツバチたちは、相変わらず巣箱に閉じこもっているが、元気そうである。

まだまだ厳寒期が続くので、本格的な春まで何ヶ月もかかるが、気がつけば、少しずつ春へと歩みを進めてゆくのだろう。

まもなく1月も終わる。

時の流れは早い。
この一ヶ月何をしたのだろう。

そしてこの人生、何をなしえたのだろう。

山はこの先、更に積雪が増える。
このところ、週に一度くらいしか山は見えない。
毎日が雪なのだ。

スキー場もこの冬は積雪が多いが、近隣の施設のうち一つは、この三月で閉鎖されるのだそうだ。
ここ数年の雪不足とコロナによる来客減に加え、施設のメンテナンス費用の捻出ができないとのことだ。
私もよく利用していただけに、淋しい限りだ。
もっとも、齢を重ね、さすがに足腰が弱まり、スキーも苦しくなった。

春は着実に近づいている。

ただただ待つのではなく、何かチェンジ&チャレンジを加えたいと思う、この頃である。

2022年01月29日

日本の素晴らしさ

中2の総合学習発表会が行われた。
テーマは、「日本の素晴らしさ」である。

戦後の自虐史観を払拭すべく、「日本」という国の、置き忘れられた素晴らしさを発見し、自国に夢と誇りをもつべくテーマが設定されている。

学校教育を受けることで、間違った歴史観が植え込まれ、日本に対する誇りを失うようでは、教育が間違っていると言わざるを得ない。

その部分は、何としてもひっくり返さなくてはならないのだ。

一部地方の公立学校では、大騒ぎになりそうだが、私の学校では、当たり前のように、「日本の誇り」を語ることができるのは素晴らしい。

「日本を繁栄させる考え方」、「日本人の信仰」、「大東亜戦争から学ぶ日本のあるべき姿」「愛国心を取り戻すために」、「素晴らしい日本の文化」など、生徒たちが発表したテーマは、多岐にわたるものだった。

いずれも、説得力があり、見学者たちを納得させたであろう。

もちろん、そうした「仕込み」は、学年の先生たちが念入りに行っている。

いずれの発表にも、利他の精神が流れている。
「自分がよかれ」というよりも、日本そして世の中がよくなるために、どうすれば良いか、という視点がある。

また歴史に学んだり、現状日本の問題点を考察したり、となかなか聞き応えがある。

彼等は必死で大きなテーマに向かっているのか、「ちょっと原稿を見すぎかな」、とも思ったが、だんだんと自分の言葉で発表できるようになっていくだろう。

いずれも、秀作ぞろいだった。


午後には、立志式が行われ、一人ひとりが『志』を発表した。

彼等の発表に、多くの参加者が涙したことも銘記しておこう。

2022年01月27日

コロナ禍の生活

陽性者が日々増え続けている。
オミクロン株は重症化が少ない上に、無症状も多いようで、さすがにいろいろな批判がでるようになった。

ワクチンを打てば、マスクを外した生活ができ、会食もでき、イベントの人数制限もなくなり、旅行にも自由に出掛けられ、時短要請などもなくなる…、と信じて、国民の8割ほどがすでに二度目のワクチンを接種したようだが、結局、何も変わらなかった。

すべての制限は、そのままで、学校や職場でもマスク生活が続いている。

ここに来て多くの県が、蔓延防止等重点措置となり、飲食店の時短要請が出てしまったが、この全体主義的国民支配に、人々がどこまで耐えうるだろうか。

昨今では、テレビ番組でも、公然と批判が出るようにはなったが、まだまだ政府はワクチン一色。未だに、「ワクチンさえ打てば、すべては上手くいく」と思っているようだ。

諸外国では、ワクチン強制接種に反対する大規模な運動が起きている。
「ワクチンがどれほどの効果があるか」というよりもむしろ、この先ワクチン接種者がどのような健康被害を受けるかも分からないまま、全員に接種しようとする為政者に対する反発なのだろう。

PCR検査だって、開発者のマリス博士は「感染判定に使ってはいけない」と強く警告していたにもかかわらず、今は当たり前のように使用され、数多くの検査をすることで陽性者をたたき出し、マスコミはそれ幸いと、嬉しそうに感染拡大を報道し、人々に恐怖を煽っているように見える。

今のところ感染者のいない私の学校では、何ごともなく学校が運営されている。
もちろん、一般的な感染防止策は行っているが、あまり制限はない。

保健所の濃厚接触者判定が面倒なので、マスク着用は強制しているが、マスクをしていようが感染するとなれば、もはやあまり意味をなさなくなっているようにも思う。

たとえ無症状だろうが、陽性者が一人でも出れば、学級閉鎖や休校にし、時差登校だの、オンライン授業だのと、学校現場は翻弄されている。

もちろん、放浪されているのは学校だけではなく、社会全体が、一部の人間に翻弄されているようにも思える。

おそらくこの先何年も、この混乱は続くのであろう。

どこで国民が「おかしい」と気づくか。

日本人の性格からして、やはり日本よりも外国の方が先だろう…。

2022年01月26日

喜怒哀楽

人間は喜怒哀楽があるが、宗教修行者は、大きく心を揺さぶられてはいけないとされる。

大いに喜び、激しく怒り、深く哀しみ、大いに楽しむ。

このうち一番危険なのは、「激しく怒る」ことで、次に危険なのが、「深く哀しむ」ことであろう。

これがあまりに頻繁に起こるならば、人間というよりも、むしろ動物に近い、ということになる。

私は雄の柴犬を2匹買っていてる。
以前「雄犬同士は仲良くできない」、と聞いていたが、基本的には争うことはしない。
一緒に連れて歩いても、途中でケンカをすることはない。
ただ、彼等に餌をあげたとき、その餌をもう一匹が奪おうとする仕草を見せると、激しく怒る。
そんなとき、「まさに動物だな…」と思う。
人間だったら、ここまでは怒らないだろうな、と思う。

私はいくつかの学校を経験しているが、確かに「よく怒る」人の多い学校はある。

そんなときは、職員室が修羅場になるし、職員会議も大荒れになる。
聖なる学校現場としては、不適切であろうと思う。

幸い、私が務めている学校では、「怒り」の波動が少ない。
職員室で怒声が飛び交うことなど、ありえない。
意見の差があり、やや「言い争い」になることはあっても、ほんの短い時間で流れていく。

一方で、哀しみに打ちひしがれ、自らを責め続けている人も見当たらない。

どちらも、天国的とは言えず、教育現場としてはふさしくない感情であろう。

もちろん、悪に対する怒り、聖なる哀しみというものもある。
だがそれは、心を激しく揺さぶり、我を忘れるようなものではないだろう。

この2つの感情が行きすぎると、穏やかな心を維持することができず、正しい判断の中での教育活動が妨げられるということになる。

このことは教室でも同じだ。

教師が冷静な心を保つことができなければ、生徒を叱ることなどできまい。

ましては大人としての、人間としての、あるべき姿を彼等に示すこともできまい。




2022年01月25日

教える側の姿勢

どうやら私が考えている以上に、中1の生徒たちの学力レベルは低いようだ。

今までのような教え方では、なかなか理解してもらえない。
「聞けば分かる」と思っている私が傲慢なのだろうが、「聞いていない」ということも多く、結局、指導力不足なのだろう。

古の頃から教える側は、同じような悩みを抱えていたに違いない。

もっとも、教わる側が意欲的で、先生の言葉を「一言も聞き漏らすまい」としている時には、教える側も真剣勝負だ。

ということは、私の真剣さが欠けているのだろうか。

「話を聞く」ということは、その姿勢も意欲も、学習には極めて重要な要素である。
教える側は、「聞かせる」工夫と努力を日々研鑽すべきだし、それが上手くいけば、彼等の学力向上も望まれる。

いやいや授業を受けていても、面倒だな、と思っていても、授業は成立しない。

教える側は、いかに授業をドラマチックにかつ、楽しく、わかりやすく、そして期待感溢れるものにしなくてはならないのだろう。

私が二十代のとき、それはまだ正式な教員になる前ではあったが、一人、夜歩いている時には、授業をシミュレーションしていた。

こんな風に教えたらどうだろう。こんな問いかけをしたらどうだろう。
そして、こんな工夫をしてみたらどうだろう、と考えていたものだ。

今となっては、その頃が懐かしい。

日々進化することが、教員にも求められる。

2022年01月24日

先輩の力

今日も、OBが練習に来てくれた。

「何だよ。今日も休みなのかよ…」、と言いながらも、私は嬉しかった。
昨日に引き続いてのOB参加。
夕方からの練習なので、17時には日没を迎えてしまうが、今日もいい練習になった。

中3に加え、高1もやってきて、一人ひとり丁寧に技術指導をしてくれた。

部員たちも、歳の離れた先輩から直接指導を受ける機会など、そうそうあるわけではない。
しかも、お手本まで示してくれるのだから、本当にありがたかったに違いない。

普段も、練習後の自主練で、グランドに戻った時にも、多少のアドバイスはしてもらってはいただろうが、練習中、ずっと教えてもらえる機会は、貴重なものだったろう。

OBたちは、終始大声を出し、後輩たちを指導し、練習を盛り上げてくれた。

「やっぱり先輩たちが来ると、楽しいな…。」

私は心からそう思う。

若干元気もなく、大会出場すら危ぶまれた中に、先輩たちの檄が飛ぶ。

「毎日練習できることを当たり前だと思わず、その日の目標をきちんと決めて、練習するんだ。」

「嫌々練習するんじゃなくて、やらせてもらっていることに感謝の思いを持つことが大切だ。」

彼等はいつの間にか先輩になっていた。

二時間弱ほどの短い時間だったが、いい練習になった。
私も元気をもらった…。

結局、子どもたちと関わる中で、一番エネルギーをもらっているのは、他ならぬ私自身なのだろう。

この恩返しは果たしてできるのだろうか…。

2022年01月23日

元気復活

引退した先輩たちが野球部の練習に来てくれた。
私の学校では、夏の大会が終わった中3は、そのまま高校野球に行く。
高校野球はほとんど休みがないが、今は冬の時期ということもあり、めずらしくオフだったようで、彼等が中学野球部に来てくれたのだ。

彼等が来ると、後輩たちには刺激になる。
練習も楽しくなる。
アドバイスもしてくれる。
自然と声も大きくなる。

寒さに縮こまって、元気のなかった部活動が、俄然元気になった。

私も見ていた楽しいし、彼等も嬉しいだろう。

「いよいよ先輩たちが引退して自分たちの時代になった」、といざ活動してみると、思い通りにならないことばかりのはずだ。

それが、しばらく続くと、自分ではどうしたらいいか分からなくなる。

そんなとき、ぶらっと、先輩たちが来てくれると、新鮮味が生まれ、また原点を思い出すことになる。

今日の部員たちは元気が良かった。

人数が少ないながらも、いい練習ができた。

今日来た二人の中3は、どちらかというと、なかなか上手くならず苦しんでいた選手だったが、高校野球で鍛えられ、だいぶ逞しくなった。

「失敗しても、ポジティブな声を掛け続けていいね…。」

そんなことを振り返り時に中3が言った。

かすかに文化は受け継がれている…。

私は、ちょっと嬉しい気分。

2022年01月22日

偉人研究

中1の総合的な学習の発表会が行われた。
テーマは、『偉人研究』である。

各自が選んだ「偉人」を徹底的に研究し、発表する。
彼等が選んだ「偉人」は、一人ひとりの生徒たちにとって、何かしら「気になる」部分があり、惹かれたのであろう。

昨今の左翼教育、自虐史観教育により、教科書から次々と「偉人」が排除され、いわゆる『偉人』の存在を認めない、という流れがあるようだが、これには断固反対する。

歴史は、彼等「偉人」たちの活躍によって、その転換点で大きく変わってきたのだ。
自らの生命さえ惜しまず、奉仕に生きた彼らの人生が、人々の共感を生み、影響を与え、新たな歴史を作ってきたのだ。

昨今、百田尚樹氏の「日本国紀」がベストセラーになっているが、まさに戦後の自虐史観を払拭する役割を担っていると言える。

彼等「偉人」たちの実績は、決して一朝一夕のものではなく、全生命を賭けた人生そのものなのだろう。

生徒たちにとっては、その生き方や考え方、無私の精神、正義感、勇気や行動力、など、この先の自らの人生に大いに参考になり、範とすべきものがあるはずだ。

「人生の模範となる生き方」、として生徒たちはその偉人を選んだに違いない。

「偉人研究」は、単に偉人を紹介するにとどまらない。
その学びを通して、「自分はどんな生き方をしていくか」までも宣言するのである。

「僕は、〇〇の生き方に学び、勇気を持って正義を貫く人生を生きていきたいと思います。この先は、積極的にリーダーをやって、経験を積み、いろいろな困難に負けないような学校生活をおくります。ご静聴ありがとうございました。」

こうした生徒たちの発表に、見学者たちはたいてい涙ぐむ…。

子ども時から志を持って生活していれば、自ずとその人生も変わって行くだろう。

いい学校行事だと思う。

2022年01月18日

合格発表

中学入試の合格発表が終わると、正月明けから続いた入試業務も一段落である。
今回は、細かなミスが多く、多少バタバタしたが、高校入試では、そうしたことがないようさらに注意したい。

とは言っても、すでに高校入試の願書は届き、私はすでにその処理に入っている。
だが、中高一貫ということもあり、高校入試は中学入試よりも人数が少なく、少し気持ちに余裕が出る。

併せて日程的にも時間があるので、授業と平行していてもあまり苦にはならない。

入試の合格発表は、人生の岐路となる大変な出来事だ。
毎年仕事だからといって、絶対に「慣れて」はいけないし、ましてや「惰性」で仕事をしてもいけない。

受験生、そしてその家族の人生がかかっているのだ。

彼等は様々なドラマのなかで、受験を決め、入試を受け、その結果を待つ。

たとえ合格したからと言って、何もかもがハッピーというわけでもない。
場合によっては、親たちが入学金等の金策に奔走し、さらに苦労を抱えることにもなるからだ。

「子どもためなら…」、と一大決心をして臨む入試。
特に中学入試は、「誰もが受ける」ものではないので、より慎重にならざるを得ない。

それぞれの家庭の教育方針があり、いろいろな理由により学校を選んでいただき、受験していただいたのである。

その思いをも忖度して、入試業務に当たらねばなるまい。

今年も、親を説得してようやく受験にこぎつつけた小学生の受験生がいる。
合格後、本当に学費を払ってくれるのかすら分からない。

12歳にして人生の覚悟を決め、親を説得し、自ら希望する道を歩もうとする姿には感動する。

入学式で、新たな彼等の出航を祝福してあげたいものだ。
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