2022年01月26日
喜怒哀楽
人間は喜怒哀楽があるが、宗教修行者は、大きく心を揺さぶられてはいけないとされる。
大いに喜び、激しく怒り、深く哀しみ、大いに楽しむ。
このうち一番危険なのは、「激しく怒る」ことで、次に危険なのが、「深く哀しむ」ことであろう。
これがあまりに頻繁に起こるならば、人間というよりも、むしろ動物に近い、ということになる。
私は雄の柴犬を2匹買っていてる。
以前「雄犬同士は仲良くできない」、と聞いていたが、基本的には争うことはしない。
一緒に連れて歩いても、途中でケンカをすることはない。
ただ、彼等に餌をあげたとき、その餌をもう一匹が奪おうとする仕草を見せると、激しく怒る。
そんなとき、「まさに動物だな…」と思う。
人間だったら、ここまでは怒らないだろうな、と思う。
私はいくつかの学校を経験しているが、確かに「よく怒る」人の多い学校はある。
そんなときは、職員室が修羅場になるし、職員会議も大荒れになる。
聖なる学校現場としては、不適切であろうと思う。
幸い、私が務めている学校では、「怒り」の波動が少ない。
職員室で怒声が飛び交うことなど、ありえない。
意見の差があり、やや「言い争い」になることはあっても、ほんの短い時間で流れていく。
一方で、哀しみに打ちひしがれ、自らを責め続けている人も見当たらない。
どちらも、天国的とは言えず、教育現場としてはふさしくない感情であろう。
もちろん、悪に対する怒り、聖なる哀しみというものもある。
だがそれは、心を激しく揺さぶり、我を忘れるようなものではないだろう。
この2つの感情が行きすぎると、穏やかな心を維持することができず、正しい判断の中での教育活動が妨げられるということになる。
このことは教室でも同じだ。
教師が冷静な心を保つことができなければ、生徒を叱ることなどできまい。
ましては大人としての、人間としての、あるべき姿を彼等に示すこともできまい。
大いに喜び、激しく怒り、深く哀しみ、大いに楽しむ。
このうち一番危険なのは、「激しく怒る」ことで、次に危険なのが、「深く哀しむ」ことであろう。
これがあまりに頻繁に起こるならば、人間というよりも、むしろ動物に近い、ということになる。
私は雄の柴犬を2匹買っていてる。
以前「雄犬同士は仲良くできない」、と聞いていたが、基本的には争うことはしない。
一緒に連れて歩いても、途中でケンカをすることはない。
ただ、彼等に餌をあげたとき、その餌をもう一匹が奪おうとする仕草を見せると、激しく怒る。
そんなとき、「まさに動物だな…」と思う。
人間だったら、ここまでは怒らないだろうな、と思う。
私はいくつかの学校を経験しているが、確かに「よく怒る」人の多い学校はある。
そんなときは、職員室が修羅場になるし、職員会議も大荒れになる。
聖なる学校現場としては、不適切であろうと思う。
幸い、私が務めている学校では、「怒り」の波動が少ない。
職員室で怒声が飛び交うことなど、ありえない。
意見の差があり、やや「言い争い」になることはあっても、ほんの短い時間で流れていく。
一方で、哀しみに打ちひしがれ、自らを責め続けている人も見当たらない。
どちらも、天国的とは言えず、教育現場としてはふさしくない感情であろう。
もちろん、悪に対する怒り、聖なる哀しみというものもある。
だがそれは、心を激しく揺さぶり、我を忘れるようなものではないだろう。
この2つの感情が行きすぎると、穏やかな心を維持することができず、正しい判断の中での教育活動が妨げられるということになる。
このことは教室でも同じだ。
教師が冷静な心を保つことができなければ、生徒を叱ることなどできまい。
ましては大人としての、人間としての、あるべき姿を彼等に示すこともできまい。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/11229756
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック