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2022年05月24日
久しぶりの登山
運動会の代休を使って、久しぶりに山登りに出掛けた。
通常なら、部活動があるのだが、幸い(?)中間考査前で活動なし。終日休みを取れた、のは三月以来だ。
少し遅めに登り始めたが、今日は終日天気が良かった。天気も安定しており、終日雲すら発生したなかった。
平日ながらも山には多くの登山客がいた。
コロナ禍で登山を控えていた、中高年の登山客だ。このところ、ようやく元通りになりつつあるようだ。
二年前の夏に登った時は、マスクをつけたまま登山をしている人がいたが、今回はほとんどいない。マスクへの認識は、昨今変わり、「屋外ではつけない」というスタンスになった。かつて、マスクをつけたまま体育の授業を行い、その後死亡してしまった事例があったが、ワクチンを含め、コロナにかかわる悲劇は、未だにやむところがない。細菌兵器でもある新型コロナウイルスによる混乱は、この先も続くのだろう。
山は良かった。稜線を歩いていても、どこまでも遠くが見えている様な錯角にすら感じた。遠く雪を抱いた山は東北地方の山だ。私が登っている山にも、いくつかの残雪はあったが、山はすっかり春である。しかし、まだ植物は見えない。緑と言えば笹の葉くらいで、まだ芽吹いていないのである。山はようやく春の息吹を感じるころなのだ。少し標高を下ると、峰桜が咲いている。かわいらしく、愛おしい姿の桜だ。この先、季節とともに、さまざまな高山植物が咲いてくるのだろう。
自然は素晴らしい。
人を穏やかにしてくれる。
壮大な山の景色は、すべての悩みごとをも吹き飛ばしてしまう。
平日ということもあって、今回、子どもの姿は見られなかったが、そうした自然体験を少年期に経験しておくことは、とても大切なことだろうと思う。
雄大な山々に抱かれて、どこまでも続く深く濃紺の青空に吸い込まれつつ、私は山を歩いた。
いいリフレッシュとなった。
この先、もう少し仕事を頑張ろうという気持ちもなった。
何よりも、自然との一体感と、最大限の幸福感を得ることができたと思う。
山よ、ありがとう。
通常なら、部活動があるのだが、幸い(?)中間考査前で活動なし。終日休みを取れた、のは三月以来だ。
少し遅めに登り始めたが、今日は終日天気が良かった。天気も安定しており、終日雲すら発生したなかった。
平日ながらも山には多くの登山客がいた。
コロナ禍で登山を控えていた、中高年の登山客だ。このところ、ようやく元通りになりつつあるようだ。
二年前の夏に登った時は、マスクをつけたまま登山をしている人がいたが、今回はほとんどいない。マスクへの認識は、昨今変わり、「屋外ではつけない」というスタンスになった。かつて、マスクをつけたまま体育の授業を行い、その後死亡してしまった事例があったが、ワクチンを含め、コロナにかかわる悲劇は、未だにやむところがない。細菌兵器でもある新型コロナウイルスによる混乱は、この先も続くのだろう。
山は良かった。稜線を歩いていても、どこまでも遠くが見えている様な錯角にすら感じた。遠く雪を抱いた山は東北地方の山だ。私が登っている山にも、いくつかの残雪はあったが、山はすっかり春である。しかし、まだ植物は見えない。緑と言えば笹の葉くらいで、まだ芽吹いていないのである。山はようやく春の息吹を感じるころなのだ。少し標高を下ると、峰桜が咲いている。かわいらしく、愛おしい姿の桜だ。この先、季節とともに、さまざまな高山植物が咲いてくるのだろう。
自然は素晴らしい。
人を穏やかにしてくれる。
壮大な山の景色は、すべての悩みごとをも吹き飛ばしてしまう。
平日ということもあって、今回、子どもの姿は見られなかったが、そうした自然体験を少年期に経験しておくことは、とても大切なことだろうと思う。
雄大な山々に抱かれて、どこまでも続く深く濃紺の青空に吸い込まれつつ、私は山を歩いた。
いいリフレッシュとなった。
この先、もう少し仕事を頑張ろうという気持ちもなった。
何よりも、自然との一体感と、最大限の幸福感を得ることができたと思う。
山よ、ありがとう。
2022年05月22日
運動会
今年も運動会が終わった。
毎年のことながら、光輝く生徒たちの姿に感動する。
中1から高3までが、4団に分かれて競技を行う。
どれも真剣勝負だから、勝ったときの喜びはひとしおだ。
だからといって、たとえ負けたとしても、勝った団を祝福する。
勝っても、負けても、学びは多いのだ。
保護者をはじめとして、多くの観客もやってきた。
コロナ禍の中、運動会中は、お互い行き来はできないよう制限を設けた。食事場所もトイレも別である。だから、かつてのように、親子で会話しながらお昼を食べる、という姿は、もはやない。しかし、このように通常開催に近い形で、運動会が実施できることが、何年かぶりでもあり、ありがたいことなのだろう。
高2から、各団のリーダーが後輩たちを導く。
中学時代に彼等を教えている私は、「こんなにも成長したのか…」と感動する。
また高3の演舞も、彼等の中1、中2時代を知っている私は、感無量である。
「丹澤先生にお世話になった学年ですよ。どうでしたか?」
高3担当の先生が、私に畳みかける。
演舞が終わってからもなお、生徒が私に聞いてきた。
「どうでしたか?」
彼等としでも自信のあるものだったのだろう。
演舞では、これまでの学校生活や、ここまで育ててもらった両親への感謝の言葉に溢れていた。
この先、高3は一切の行事がなくなり、受験勉強一色になる。
例年どおり、団毎の応援合戦もある。
制限時間内に、ダンスや演舞、決意を発表する。
どの団も秀逸だ。
特に私はその中でも、白団に感動した。
いつも通りというか、私は、涙を流しながらシャッターを切り続ける…。
大した写真が撮れるわけでないが、いかにも撮影している姿をアピールしながら、心は大きく揺さぶられている。
生徒たちの姿は眩しい。
この先の世界を担っていく若者たちだ。
毎年のことながら、光輝く生徒たちの姿に感動する。
中1から高3までが、4団に分かれて競技を行う。
どれも真剣勝負だから、勝ったときの喜びはひとしおだ。
だからといって、たとえ負けたとしても、勝った団を祝福する。
勝っても、負けても、学びは多いのだ。
保護者をはじめとして、多くの観客もやってきた。
コロナ禍の中、運動会中は、お互い行き来はできないよう制限を設けた。食事場所もトイレも別である。だから、かつてのように、親子で会話しながらお昼を食べる、という姿は、もはやない。しかし、このように通常開催に近い形で、運動会が実施できることが、何年かぶりでもあり、ありがたいことなのだろう。
高2から、各団のリーダーが後輩たちを導く。
中学時代に彼等を教えている私は、「こんなにも成長したのか…」と感動する。
また高3の演舞も、彼等の中1、中2時代を知っている私は、感無量である。
「丹澤先生にお世話になった学年ですよ。どうでしたか?」
高3担当の先生が、私に畳みかける。
演舞が終わってからもなお、生徒が私に聞いてきた。
「どうでしたか?」
彼等としでも自信のあるものだったのだろう。
演舞では、これまでの学校生活や、ここまで育ててもらった両親への感謝の言葉に溢れていた。
この先、高3は一切の行事がなくなり、受験勉強一色になる。
例年どおり、団毎の応援合戦もある。
制限時間内に、ダンスや演舞、決意を発表する。
どの団も秀逸だ。
特に私はその中でも、白団に感動した。
いつも通りというか、私は、涙を流しながらシャッターを切り続ける…。
大した写真が撮れるわけでないが、いかにも撮影している姿をアピールしながら、心は大きく揺さぶられている。
生徒たちの姿は眩しい。
この先の世界を担っていく若者たちだ。
2022年05月20日
世界がおかしい
夏の参院選が近づき、ばらまき合戦が激しくなった。
これらは合法的な国民の買収である。
合わせて、岸田首相はバイデン米大統領の言いなりになり、ウクライナ支援に多額の資金を投入する。
昨日見た国からの通知に、ワクチン3回目接種の状況に応じて、各自治体に補助金を支給するというものだが、その中に、合わせて、「ウクライナからの難民受け入れの人数」も勘案するという、驚くべきものであった。
世界の趨勢は、ロシア悪、プーチンをヒトラーになぞらえているが、冷静に判断すれば、日本ではロシアの言い分は一切報道されない。欧米でもウクライナが劣勢な場面は一切報道されない。時にロシア兵の民間人救出を、ウクライナ人と称しで報道する。
これらを指揮しているのはバイデンだが、彼等はアメリカの報道機関を抑え、自分たちの都合の悪い報道はしない状況を作り出した。反対勢力は徹底的に叩き、表だって活動できないようにさえしている。どちらかと言えば、ヒトラーはバイデンの方だ。
自由な報道は世界から消え、一部の指導者の考えだけで、世界が動くようになってしまった。アメリカの民主党政権は本当に戦争好きのようだ。ウクライナを支援し、ロシアを刺激し、ヨーロッパ諸国と戦争をさせ、これを機にロシアを滅ぼし、プーチンを縛り上げたいと思っているようだ。
岸田首相は、完全にアメリカの良いなりである。
世界からは、ほいほいお金を出してくれる都合のよい存在だと思われているのだろう。
イーロン・マスク氏がツイッターを買収しようとしているのも、健全な言論、意見が自由に発信できるようにしたいからである。アメリカ大統領戦で、一国の大統領の言論を封殺するなどという暴挙が許されてしまうのは、一企業としては明らかに越権行為であり、通常ならば、考えられない。これを正そうというのが、マスクしの考えだが、バイデンはこえをも潰そうと隠しているようである。
なんだか世界がおかしくなってきた。
いつ戦争が起きてもおかしくない状態になっている。
中国が広げたコロナウイルスが、巡り巡って中国に戻ってきて、大感染をおこしているのは因果応報としても仕方ないとしても、その中国を叩く代わりに、ロシアを攻撃するアメリカは、絶対に何かを隠している。もしかしたら、コロナウイルスの共同開発をしていたのかも知れない。
ワクチンだって実にあやしい。
厚労省は意図的に間違ったデーターのチラシを作り、国民の接種を促進した。
結果は、ワクチンを打っても大して変わらなかった。そればかりか、英国のデーターによると、接種者の方が感染リスクが高くなり、またその副作用による肉体への影響は計り知れず、さらには、多くの死亡者も発生している。恐らく厚労省の役人はワクチンなどほとんど打っていないだろうし、国会議員にしてもそうだろう。
世界は明らかにおかしくなっている。
何が正しくて、何が正しくないのかも分からない時代になってきた。
そんなある種、世紀末のような世界情勢に、我々はどう生き抜いたらいいのだろう…。
これらは合法的な国民の買収である。
合わせて、岸田首相はバイデン米大統領の言いなりになり、ウクライナ支援に多額の資金を投入する。
昨日見た国からの通知に、ワクチン3回目接種の状況に応じて、各自治体に補助金を支給するというものだが、その中に、合わせて、「ウクライナからの難民受け入れの人数」も勘案するという、驚くべきものであった。
世界の趨勢は、ロシア悪、プーチンをヒトラーになぞらえているが、冷静に判断すれば、日本ではロシアの言い分は一切報道されない。欧米でもウクライナが劣勢な場面は一切報道されない。時にロシア兵の民間人救出を、ウクライナ人と称しで報道する。
これらを指揮しているのはバイデンだが、彼等はアメリカの報道機関を抑え、自分たちの都合の悪い報道はしない状況を作り出した。反対勢力は徹底的に叩き、表だって活動できないようにさえしている。どちらかと言えば、ヒトラーはバイデンの方だ。
自由な報道は世界から消え、一部の指導者の考えだけで、世界が動くようになってしまった。アメリカの民主党政権は本当に戦争好きのようだ。ウクライナを支援し、ロシアを刺激し、ヨーロッパ諸国と戦争をさせ、これを機にロシアを滅ぼし、プーチンを縛り上げたいと思っているようだ。
岸田首相は、完全にアメリカの良いなりである。
世界からは、ほいほいお金を出してくれる都合のよい存在だと思われているのだろう。
イーロン・マスク氏がツイッターを買収しようとしているのも、健全な言論、意見が自由に発信できるようにしたいからである。アメリカ大統領戦で、一国の大統領の言論を封殺するなどという暴挙が許されてしまうのは、一企業としては明らかに越権行為であり、通常ならば、考えられない。これを正そうというのが、マスクしの考えだが、バイデンはこえをも潰そうと隠しているようである。
なんだか世界がおかしくなってきた。
いつ戦争が起きてもおかしくない状態になっている。
中国が広げたコロナウイルスが、巡り巡って中国に戻ってきて、大感染をおこしているのは因果応報としても仕方ないとしても、その中国を叩く代わりに、ロシアを攻撃するアメリカは、絶対に何かを隠している。もしかしたら、コロナウイルスの共同開発をしていたのかも知れない。
ワクチンだって実にあやしい。
厚労省は意図的に間違ったデーターのチラシを作り、国民の接種を促進した。
結果は、ワクチンを打っても大して変わらなかった。そればかりか、英国のデーターによると、接種者の方が感染リスクが高くなり、またその副作用による肉体への影響は計り知れず、さらには、多くの死亡者も発生している。恐らく厚労省の役人はワクチンなどほとんど打っていないだろうし、国会議員にしてもそうだろう。
世界は明らかにおかしくなっている。
何が正しくて、何が正しくないのかも分からない時代になってきた。
そんなある種、世紀末のような世界情勢に、我々はどう生き抜いたらいいのだろう…。
2022年05月14日
やっぱり最後は金か!?
「やっぱり金だよね。人は金で動くんだ。」
大会当日、近隣の先生がそう語った。
「部活手当が減ったから問題なんだよ。以前のように支給されれば、責任感も増すだろうから、その分一生懸命仕事をしなくてはいかなくなる。支給が減っているから、皆がやる気が減って、それでいて、部活指導もきつく感じるようになってしまう。部活を一生懸命やっている人が白い目で見られることもなくなるだろ? 金をもらってるんだから、やって当然だってことになるんだから…。」
私は、公立の先生はこんな風に考えているのだと改めて思った。幸か不幸か、私の学校では部活はもちろん、出張時にも一切の手当は出ない、そんな風に考えることはないだ。だが、公立の先生たちと話をすると、けっこう「お金」に対してシビアなことが分かる。
確かに仕事であるので、その対価としての給与が支払われ、それをもとに生活が成り立っているので、仕方のない面はある。本当は単にそうではあってはいけないと思うが、「お金でしか人が動かない」と考えるのは少し悲しい。
この辺りが、教員を聖職者と見るか、労働者と見るかの境目にもなるのだろう。
世の中にはたとえ給料が安くとも、「やりがい」を感じ、天職として仕事をしている人もいる。一方で、つねに不平不満に満ち、本来は恵まれた仕事であるにも関わらず、「こんな仕事なんか続けられるか」と叫ぶ人もいる。
私は少なくとも、教員はあるていど「天職としての仕事」と考え、「やりがい」を感じられないと、勤め上げることは苦しいだろうと思う。
もちろん、努めている中でいろいろな事は起こり、悩み苦しみ、仕事を続けるかを迷うこともあるだろう。だが、やはり「子どもが好き」で、「教えることが好き」で、「学校が好き」でないならば、教師という仕事は難しいだろうと思う。
「好きでなくて、部活動指導なんてやってられない」、というのも分かる。
きっとたくさんの時間を割き、時に家族を犠牲にしての部活指導だろう。
私が見ている野球部の先生たちは、皆情熱的で、皆が生き生きとしている。
彼等の姿を見ると、私も元気が出てくる。
「若いっていいな…」なんて本気で考えてしまう。
一方で、「やっぱり最後は金だよね」、と納得してしまう若者がこわい…。
大会当日、近隣の先生がそう語った。
「部活手当が減ったから問題なんだよ。以前のように支給されれば、責任感も増すだろうから、その分一生懸命仕事をしなくてはいかなくなる。支給が減っているから、皆がやる気が減って、それでいて、部活指導もきつく感じるようになってしまう。部活を一生懸命やっている人が白い目で見られることもなくなるだろ? 金をもらってるんだから、やって当然だってことになるんだから…。」
私は、公立の先生はこんな風に考えているのだと改めて思った。幸か不幸か、私の学校では部活はもちろん、出張時にも一切の手当は出ない、そんな風に考えることはないだ。だが、公立の先生たちと話をすると、けっこう「お金」に対してシビアなことが分かる。
確かに仕事であるので、その対価としての給与が支払われ、それをもとに生活が成り立っているので、仕方のない面はある。本当は単にそうではあってはいけないと思うが、「お金でしか人が動かない」と考えるのは少し悲しい。
この辺りが、教員を聖職者と見るか、労働者と見るかの境目にもなるのだろう。
世の中にはたとえ給料が安くとも、「やりがい」を感じ、天職として仕事をしている人もいる。一方で、つねに不平不満に満ち、本来は恵まれた仕事であるにも関わらず、「こんな仕事なんか続けられるか」と叫ぶ人もいる。
私は少なくとも、教員はあるていど「天職としての仕事」と考え、「やりがい」を感じられないと、勤め上げることは苦しいだろうと思う。
もちろん、努めている中でいろいろな事は起こり、悩み苦しみ、仕事を続けるかを迷うこともあるだろう。だが、やはり「子どもが好き」で、「教えることが好き」で、「学校が好き」でないならば、教師という仕事は難しいだろうと思う。
「好きでなくて、部活動指導なんてやってられない」、というのも分かる。
きっとたくさんの時間を割き、時に家族を犠牲にしての部活指導だろう。
私が見ている野球部の先生たちは、皆情熱的で、皆が生き生きとしている。
彼等の姿を見ると、私も元気が出てくる。
「若いっていいな…」なんて本気で考えてしまう。
一方で、「やっぱり最後は金だよね」、と納得してしまう若者がこわい…。
2022年05月13日
大会初日
春季大会初日は雨のため順延になった。
終日雨との予想なので仕方ないのだが、私としては試合をしてしまいたかったという気持ちもある。明朝になっても雨が止んでいるかどうか分からないし、一日ズレるということは、日曜日も月曜日も試合が行われるわけで、私の予定も大きく変わってしまう。
ほとんどの学校で、部活動には手当が出るが、私の学校ではそうしたものは一切ない。一見、完全なるボランティアにも見えるが、要は、「それも業務のうち…」、ということなのだろう。今回の大会では、食事代も私が負担、これが順延に伴い2日にわたる。また、会場までのバス送迎も、私が運転する。中高一貫なので、当然当日は授業日。授業の手当も考えておかなくてはいけない。一回の大会だけでも、けっこう過酷な仕事が押し寄せる。
「私も、もうそんなに若くないんだよな…」、と思ったら、いつの間にか近隣の野球部の顧問の中では、最高齢になってしまった。たいていの年配の先生方は、管理職になられ、教頭やら校長になる年齢だ。そうでなくても、教務主任などを勤め、第一線の野球部指導からは引いている。
今回、私は審判を若手の先生に任せたが、彼にとっても最低二日連続で大会の審判をするのは負担だったろう。「難しいです。厳しいです」と、直接私に言わなかったが、明らかに負担感というか、苦しさがにじみ出ていた。本当に申し訳ない。
しかし、私は十年以上、こうした仕事を続けている。
ふと、「私とかかわった生徒たちは幸せなのだろうか」、などと考えてしまう。
いつもどおりに4時半に起き、5時半に生徒を集合させ、バスに荷物を積み込み、弁当を取りに行っている間に、LINEで「順延」連絡が入った。再び学校に戻り、荷物を下ろし、生徒たちは授業の準備。私は食事の手配。そして授業…。夜には、学習会もある。
また明日、同じパターンの生活だ。
学校行事とも重なっているので、大会中、会場を往復しなくてはいけない。今日よりさらに大忙しになる。
残念ながら、雨は明日の朝まで降り続くようだ。
おそらくは、予定通りの試合開始はできまい。
それでも気持ちを切らさず、逆に高めて、明日の試合に臨もうと思う。
生徒たちにとっては、数少ない晴れ舞台なのだから…。
終日雨との予想なので仕方ないのだが、私としては試合をしてしまいたかったという気持ちもある。明朝になっても雨が止んでいるかどうか分からないし、一日ズレるということは、日曜日も月曜日も試合が行われるわけで、私の予定も大きく変わってしまう。
ほとんどの学校で、部活動には手当が出るが、私の学校ではそうしたものは一切ない。一見、完全なるボランティアにも見えるが、要は、「それも業務のうち…」、ということなのだろう。今回の大会では、食事代も私が負担、これが順延に伴い2日にわたる。また、会場までのバス送迎も、私が運転する。中高一貫なので、当然当日は授業日。授業の手当も考えておかなくてはいけない。一回の大会だけでも、けっこう過酷な仕事が押し寄せる。
「私も、もうそんなに若くないんだよな…」、と思ったら、いつの間にか近隣の野球部の顧問の中では、最高齢になってしまった。たいていの年配の先生方は、管理職になられ、教頭やら校長になる年齢だ。そうでなくても、教務主任などを勤め、第一線の野球部指導からは引いている。
今回、私は審判を若手の先生に任せたが、彼にとっても最低二日連続で大会の審判をするのは負担だったろう。「難しいです。厳しいです」と、直接私に言わなかったが、明らかに負担感というか、苦しさがにじみ出ていた。本当に申し訳ない。
しかし、私は十年以上、こうした仕事を続けている。
ふと、「私とかかわった生徒たちは幸せなのだろうか」、などと考えてしまう。
いつもどおりに4時半に起き、5時半に生徒を集合させ、バスに荷物を積み込み、弁当を取りに行っている間に、LINEで「順延」連絡が入った。再び学校に戻り、荷物を下ろし、生徒たちは授業の準備。私は食事の手配。そして授業…。夜には、学習会もある。
また明日、同じパターンの生活だ。
学校行事とも重なっているので、大会中、会場を往復しなくてはいけない。今日よりさらに大忙しになる。
残念ながら、雨は明日の朝まで降り続くようだ。
おそらくは、予定通りの試合開始はできまい。
それでも気持ちを切らさず、逆に高めて、明日の試合に臨もうと思う。
生徒たちにとっては、数少ない晴れ舞台なのだから…。
2022年05月10日
叱られ方
大人でも子どもでも「叱られ方」は大切だ。
学校では「子どもを叱る」ことが教師の仕事の一つだが、中には叱られ方を知らない生徒もいる。
彼等に共通しているのいは、素直でないということだ。
つまり、叱られながらなお、言い訳を考えているということで、更に言えば、心の底では、「自分は悪くない」とか頑なに思っているということでもある。
中には調子者の生徒もいて、「すいません、すいませ〜ん」とおちゃらけているようでも、心では反省の思いを示していたり、神妙な面持ちで、反省の態度を見せたりと、いろいろだ。だが、一番始末が悪いのが、この自己中型ともいうべき、つねに自分の保身を考え、言い訳を考える。そんな風だから、反省の言葉もなければ、その姿勢もない。
中には、誤りを指摘しても、「そうですか」と言い、そんな風で困ると、と言っても、「いいですよ」などと言ってのける生徒だっている。
おそらく叱られ方を知らないのだろう。
過去、学校でも家庭でも、そうした機会がなかったか、極めて少なかったか、あるいはこれまでもそのようにして切り抜け、嵐が過ぎるのを待っていたのだろうと思う。
彼等は本当に困ったことが起こらなければ、自らの姿勢を変えるということはないのかも知れない。
だが、そういう厳しい指導に限って、親に泣きつき、指導の行き過ぎだなどと、クレームをつけてくることも多いのだ。
教員生活をして三十五年近くになるが、なかなか難しい世の中になった。
日々がこんな風だと、教員へのなり手も減る一方かも知れない。
それでも救いは、彼等の成長。
その姿に喜び、かすかなやりがいと喜びを感じるのだ。
「あいつ、ずいぶん成長したな…」、と思うときがささやかな幸せだ。
もちろん、私のせいではない。
生徒が、自分で成長したのである。
しかし私は、折に触れて叱る。
駄目なものは駄目。間違っていることを指摘する。
それをやらなかったら、もはや教員ではないのだから。
学校では「子どもを叱る」ことが教師の仕事の一つだが、中には叱られ方を知らない生徒もいる。
彼等に共通しているのいは、素直でないということだ。
つまり、叱られながらなお、言い訳を考えているということで、更に言えば、心の底では、「自分は悪くない」とか頑なに思っているということでもある。
中には調子者の生徒もいて、「すいません、すいませ〜ん」とおちゃらけているようでも、心では反省の思いを示していたり、神妙な面持ちで、反省の態度を見せたりと、いろいろだ。だが、一番始末が悪いのが、この自己中型ともいうべき、つねに自分の保身を考え、言い訳を考える。そんな風だから、反省の言葉もなければ、その姿勢もない。
中には、誤りを指摘しても、「そうですか」と言い、そんな風で困ると、と言っても、「いいですよ」などと言ってのける生徒だっている。
おそらく叱られ方を知らないのだろう。
過去、学校でも家庭でも、そうした機会がなかったか、極めて少なかったか、あるいはこれまでもそのようにして切り抜け、嵐が過ぎるのを待っていたのだろうと思う。
彼等は本当に困ったことが起こらなければ、自らの姿勢を変えるということはないのかも知れない。
だが、そういう厳しい指導に限って、親に泣きつき、指導の行き過ぎだなどと、クレームをつけてくることも多いのだ。
教員生活をして三十五年近くになるが、なかなか難しい世の中になった。
日々がこんな風だと、教員へのなり手も減る一方かも知れない。
それでも救いは、彼等の成長。
その姿に喜び、かすかなやりがいと喜びを感じるのだ。
「あいつ、ずいぶん成長したな…」、と思うときがささやかな幸せだ。
もちろん、私のせいではない。
生徒が、自分で成長したのである。
しかし私は、折に触れて叱る。
駄目なものは駄目。間違っていることを指摘する。
それをやらなかったら、もはや教員ではないのだから。
2022年05月05日
生徒の成長
GWは好天に恵まれた。
毎日部活動ができたのである。-1日から5日まで、きちんと練習することができた。
本来ならば、練習試合を何件か入れるべきなのだろうが、コロナ禍とチーム事情により、結局大会を試合をすることなく迎えてしまいそうだ。
大会の時くらいしか顔を合わせることがなくなっている他校の顧問の先生との接点は、年々薄くなりつつある。以前のように懇親会で親しく話をする場もなくなった。まさに受難の時代である。
私自身、何をしたかと言えば、部活と若干の畑仕事くらいだ。
事務仕事をしなかったことが幸いしたのか、首肩のこりはかなり改善された。
だが一方で、胃痛が激しくもなった。
どこかが改善されると、こんどはまた別の場所で不具合を起こす。
「歳をとる」ということは、こういうことなのだと、身をもって知った。
山では何度か雪が降るくらい冷え込んだ日もあったが、日中は比較的暖かくなった。一方で、紫外線が強くなり、少しの日なたでも日焼けをするようになった。
今月は、運動部の大会や、運動会、中間考査がある。次々と行事が押し寄せる忙しく回っていくのだろう。
そんな中でも、生徒が少しずつ成長していくのを見るのは楽しい。
一年前、二年前と比べると、まるで別人のようになっている。
精神的にも肉体的にも、今は劇的に進化する時期。
それを毎日の様にそばで見守り、導くことができる教員は、なんと幸せな仕事なのだろうと思う。
社会では教員不足が問題となっているが、本当の意味の教師としての喜び」は、今の若者には通じないのだろうか。あるいは、そういう喜び以上に、ブラックな部分が目立つのだろうか。
相変わらず送球ミスの多いチームだが、それなりには上達しているように見える。
「もしかしたら、去年よりバランスはいいんじゃないですか?」
コーチがそう呟いた。
彼等と友に、私自身も進化しなくてはいけないな、とい思う。
毎日部活動ができたのである。-1日から5日まで、きちんと練習することができた。
本来ならば、練習試合を何件か入れるべきなのだろうが、コロナ禍とチーム事情により、結局大会を試合をすることなく迎えてしまいそうだ。
大会の時くらいしか顔を合わせることがなくなっている他校の顧問の先生との接点は、年々薄くなりつつある。以前のように懇親会で親しく話をする場もなくなった。まさに受難の時代である。
私自身、何をしたかと言えば、部活と若干の畑仕事くらいだ。
事務仕事をしなかったことが幸いしたのか、首肩のこりはかなり改善された。
だが一方で、胃痛が激しくもなった。
どこかが改善されると、こんどはまた別の場所で不具合を起こす。
「歳をとる」ということは、こういうことなのだと、身をもって知った。
山では何度か雪が降るくらい冷え込んだ日もあったが、日中は比較的暖かくなった。一方で、紫外線が強くなり、少しの日なたでも日焼けをするようになった。
今月は、運動部の大会や、運動会、中間考査がある。次々と行事が押し寄せる忙しく回っていくのだろう。
そんな中でも、生徒が少しずつ成長していくのを見るのは楽しい。
一年前、二年前と比べると、まるで別人のようになっている。
精神的にも肉体的にも、今は劇的に進化する時期。
それを毎日の様にそばで見守り、導くことができる教員は、なんと幸せな仕事なのだろうと思う。
社会では教員不足が問題となっているが、本当の意味の教師としての喜び」は、今の若者には通じないのだろうか。あるいは、そういう喜び以上に、ブラックな部分が目立つのだろうか。
相変わらず送球ミスの多いチームだが、それなりには上達しているように見える。
「もしかしたら、去年よりバランスはいいんじゃないですか?」
コーチがそう呟いた。
彼等と友に、私自身も進化しなくてはいけないな、とい思う。