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2021年11月20日

人事面談

教頭との人事面談があった。
毎年必ずこの時期に行われるものである。

必ず尋ねられるのが、仕事をしている中での「良かった点」と「悪かった点」である。

学年の居候になってはや三年目。
担任も学年主任も外れた私の仕事量は各段に減った。
保護者とのやりとりも激減して、心を揺らすこともほとんどなくなった。

私にとっても一番のストレスは、保護者対応であったので、その意味では心の平静を保つことができていて、とてもありがたい。

「子どもが好きなだけでは駄目なんです。彼等が卒業後、どのように成長していくかまで考えて、指導してください。」

数日前、校長が皆に伝えた。

確かに、教員で子どもが嫌いな人は、あまりいないだろうが、卒業まで意識する教員も少ないのではないか。

面談は、例年通り当たり障りもなく終わった。
大して仕事をしていない私に、言うべきことはあまりないのかも知れない。

「本当に私は、この職場で役に立っているのだろうか…。」
と考えてしまう。

優秀な若手も育ってきている。
カウントダウンはしたくはないが、時の流れもとても早い…。

何とかこれまでの経験で得た智慧を、若手に伝えなければなるまい。

「聞かれればいろいろアドバイスするのですが…。」
私は教頭からの問いにそんな風に答えた。

「昨今は、聞いてくる若者が少なくなっていますからね…。」
彼も、そのことを感じているらしい。

世代が変わると、特徴が変わってくる。
それを見て、「今の若者は…」と言われて続けて人類の歴史は刻まれている。

若者なりの良さもあるのだろう。

教育の中の普遍的な真理を追究しつつ、我々の仕事は続いている…。




2021年11月19日

部分月食

ほぼ皆既の部分月食があった。
中秋の名月から3回目の満月である。

月が昇ってくる時には、すでに半分くらい掛けていた。
左半分が掛けているこのような姿は、月食時にしか起こらない。

月の満ち欠けでは、太陽の方向が光っているからだ。

程なく月は薄雲の中に隠れたが、そんな頃、南の空にISS(国際宇宙ステーション)が飛ぶ。

その後、食の最大まで雲が多くなってしまったが、ちょうどその頃から雲が切れ始め、まさに「皆既月食」のような月が見えた。

手持ちの撮影ではなかなか限界があるが、まずまずの月食写真は撮れた。

部分月食はあまり面白くない(見栄え的に一般の人の興味をそそらない)が、98%近くまで欠ける部分月食ならば、ほぼ皆既月食なので、エンターテイメント性があるだろう。

『満月の夜。月がだんだんと欠けて、皆既になると、見えなかった暗い星々が空一面に洗われる』様は感動的だ。

満月がいかに明るいかを実感できることだろう。

今回は、欠けたままの月の出なので、長い月食期間を観察するのも少し節約できたはずだ。

月食を見た生徒たちは、何を感じたのだろうか。

暗闇の中で、多くの人が、東の空を見上げているのは、若干滑稽でもあった。
マスコミが140年ぶりだなどと扇動したこともその理由だろう。

皆既月食くらいならば、概ね数年おきには見ることができる。

秋空の空気の澄んだ空に、ぽっかり浮かぶ赤銅色の月は、日本国中の人たちが、何かを感じながら眺めたことだろう。

自然現象は美しい。

ある生徒が言った。
「この美しい自然を守らなきゃ…。」

かの国に工作された昨今の左翼環境論者の思いとは違う。
純粋に自然を見て、美しいと思う心だ。

かつて日本国中が、光化学スモッグで覆われ、空気が汚れていた時代とは異なり、今は、空が綺麗になった。

人間は自然とともに生きている…。





2021年11月18日

研究授業

つくづく私の学校の先生方は『愛』に溢れていると思う。

今日、若手のM先生の研究授業が行われた。
女性の数学の先生で、二年目である。

M先生の研究授業は、習熟度の関係で私も同時に授業だった。
だから、ちらっと覗くくらいしかできなかった。

本来授業見学は、最初から最後まで見るのが礼儀なのだが、仕方あるまい。
私は、ちらっと授業を覗いた。

「なかなか頑張っているな…」、と思った。

放課後、研究会が行われたが、見学された先生たちは口をそろえて、M先生を褒め称えた。

『褒めて、励まして、さらにやる気を引き出し、さらなる力を発揮してもらう』
というスタンスなのだろう。

私には苦手なことだ。
若手の先生には、時に心を鬼にしてでも伝えるべきことは伝えなくてはならないだろう。
私には、そのスタイルも『愛』であると思う。

私の学校では、このところ若手の先生方が増えてきているが、彼等は順調に成長している。
いろいろな試行錯誤を重ねながら、悩み、苦しみながらも、一人前の教師になりつつあるのだ。

さすがに、常に自ら向上しようと思い、行動し、それについて時に反省するスタイルで仕事をしている人の進歩は早い。

私も、彼等の頑張りに刺激され、自らの怠惰を反省しなくてはならないくらいだ。

授業には授業特有の技術がある。
これを法則化して、全体の底上げをした方もいるが、こうしたコツは学んだ方がいい。

その上で、のちのち自らのスタイルに変えていくのがよいのだろう。

授業は毎日ある。
その中で、教員が学ぶべき事は多い。

惰性と怠惰に陥らず、日々進化、向上を目指すことが、いつまでも現役の教員であり続けるための必要条件なのだろう。




2021年11月17日

合唱練習

来月の合唱コンクールに向けて、クラスでの合唱練習に熱が入っている。
彼等は、朝練、昼練、夕練と、準備に余念がない。

そうは言っても、歌うことが苦手な生徒だっているわけで、クラスをまとめ上げるのは、なかなか大変なことなのだ。

中には、高校生でありながら、合唱練習を逃げ回っている女子生徒もいる。
自己中なのだが、発達の偏りがある生徒でもある。

合唱練習になると、普段から元気な音楽のM先生が更に元気になる。

合唱コンクールを仕切り、成功に導くため、毎年死力を尽くしてくださってくれるのだ。

すべてのクラスの合唱指導を行い、伴奏者や指揮者の個人レッスンもする。
合わせて、音楽性の解釈や歌の解釈はもちろん、クラスをまとめ上げるためのアドバイスすらするのだ。

こうなると、各担任たちは、M先生のご指示を仰がないといけなくなるのだ。
「どんな指導をされても良いですが、私は手を出しませんよ。」
という具合に、へそを曲げられるのだ。

それもM先生のキャラクターなので、私はもはや何とも思っていないが、「合唱コンクールを成功に導きたい」という熱意の表れなのだろう。

コンクールは、クラス担任の力量も影響する。
どれだけクラスをまとめ上げられるかは、生徒のパートリーダーだけでは難しいからだ。

担任も時に介入するが、パートリーダーが主導したように見せ、結局、自主性を培おうとするのだ。

「丹澤先生、中高とも合唱コンクールの写真を撮ってもらえますか?」
とM先生からお願いが来た。

マスクをして歌う合唱コンクールの生徒写真など、怪しい写真にしかなるまい。
歌い終わったあと、これ見よがしにマスクを外しての撮影も、何となく違和感がある。

一人ひとりの間隔を一メートル以上開けるというのも、透け透けの立ち位置で、写真撮影には馴染まない。

「それでも撮るんですか? M先生!」

さて、彼等は私を泣かせることができるかな…。

2021年11月16日

誕生日ケーキ

何人かが誕生日だったので、コンビニケーキをプレゼントした。
誕生日に祝ってもらえるというのは、嬉しいものだ。

私だって、口では「祝ってもらわなくていい。歳をとるだけだ」、などと強がりを言っているが、心の奥底では、「ありがとう」と思っている。

ケーキには人を幸せにする効果があるようだ。
世の人々で、ケーキを食べながら怒り狂う人も、苦しみに打ちひしがれる人もいないだろう。

ただ、感動のあまり泣き出したり、過去の出来ごとを思い出し涙する人はいる。

「ほら、食いな!」
ぶっきらぼうに言う私。

「いただきま〜す!」
と、満面の笑顔で食べる子ども。

親たちは、どんなに出費しても、その姿だけで満足する。
子どもの幸せが、自分の幸せだと思うからだ。

これが『愛』なのだ。
親子愛なのだが、この『愛』がさらに拡がると、「他の人の幸せが、我が幸せ」という状態になる。

こうした生き方をしている人が「天使」なのだろう。

ひととき親代わりも務めなくてはいけない立場。
誰にも…、という訳にはいかないが、時々気が向いたときにプレゼントする。

ついでに私自身もご相伴にあずかると言うわけだ。

「お祝い事にケーキ」、というスタイルは、すっかり日本に根付いてしまったようだ。
私は、和菓子も洋菓子も好きなので、大歓迎である。

「本当はホールケーキにしたかったけど、間に合わなかったから、コンビニケーキでごめんね…。」

彼等の親も、きっと同じ思いになるだろう…。

2021年11月15日

平常テスト

先日中1で行った、比例と反比例の求式のテストがさんざんだったので、再テストをした。
一週間くらい時間の余裕があったのだが、同じ問題をして平均点は14点しか上がらなかった。

中には、点数が下がっている生徒もおり、なかなか手強い。

この辺りが、成績が低めの生徒の特徴なのだろう。
授業中は、「三歩歩いたら忘れるんだ」、などと揶揄することもあるが、まさにその通りで、やってもやっても忘れてしまう。

もちろん、勉強というものはその通りなのだが、数学は暗記科目ではないので、いわば定着していないのだ。

中には勉強したのにもかかわらずできない、という生徒もいて、ずいぶん悔しがっていた。

この気持ちは分かる。

私もどちらかと言えば、このタイプで、同じ問題でも日によってできたり、できなかったりする。

計算間違いをするときは、ひたすら間違う。
加齢なのか、もともとの頭が悪いのか、自分でも理解不能に陥ることすらある。

そうは言っても、中学校数学の基礎の基礎の部分。
訓練すれば、全員ができるようになるはずである。

「教え方は間違ってはいない」、と信じたい。
あとは、ひたすら演習を繰り返すだけだ。

同じ事の繰り返しだが、教員側が飽きてしまったら終わりだ。
根比べのようなものだ。

「毎時間、テストをしなくてはだめなのかな…」、とも思う。

「演習方法も工夫しないと…」、と授業を振り返る。

何年教壇に立っても、悩みは尽きないものだ。




2021年11月14日

星降る中で…

日の入りが16時半より前になった。最大でもあと4分ほどしか早まらないので、ある意味一年中で一番日の入りが早い時期になったということだろう。このような状態がこの先二ヶ月ほど続く…。

そんな中での部活動。
グランドに臨時のライトを付けての練習。
せいぜいバックネット付近が多少照らされる程度ではあるが、何もなければ漆黒の闇になるので、これだけでもありがたい。

日没が早くなり、できることをできるだけ行う練習に切り替わった。
よその学校では下校時間が繰り上がっているので、放課後三十分も活動時間がないらしいが、こちらは、何時間かはできる。

ライトを消すと、満天の星空が出現する。

都会では見ることのできない星の数である。
星座の形が全部分かる。

学校では、グランドの照明を始め、数多くの電灯のために、これほどの星は見えない。

だが、私たちが練習しているグランドでは、見渡す限り一切の街灯が見えないのだ。

こんな漆黒の闇に、一人取り残されたら、さぞかし不安にはなろうが、そんなときでも、星たちが慰めてくれそうだ。

「はい終わり!」

私の合図で。「片付け」という号令がかかる。
道具を片付け、グランド整備をして、ユニフォームから汚れていない服に着替えて自動車に乗り込む。

グランドまでは、学校から5qあるので、私が運転して送迎しているのだ。

こんな時、曇っている時の空は暗い。
そのまま、闇に吸い込まれそうな気すら起こる。

だから、星降る夜には、幸せな気持ちになる。

大分寒くなってきたが、星たちが私たちを励ましてくれる。

そんな星降る中での練習が春になるまで続くのだ。

2021年11月13日

父の思い出 その3

母方の祖母の葬儀の時、火葬を待つ間、親戚が一堂に会した。
その時私は、父の隣に座っていた。

父の手は、すでに皺だらけの老人の手になっていた。

今、私の手も、当時の父の手に近づきつつある。

人生の苦労が手に現れている気がした。
この頃には、父とは普通に会話ができるようになってはいたが、お互い遠慮していることには変わりなかったと思う。

生前、元気だった頃の父は、早朝から犬の散歩をしていた。
一時間以上もの間、毎日何キロも歩いていたようだ。

今、私は毎朝、暗闇の中で犬の散歩をしている。

「なんだ、結局同じじゃないか…。」
と、時々思う。

父のように酒を飲んで暴れることはないが、すぐにキレてしまう性格は、なかなか直すのに時間がかかった。
好きなことに没頭するのは、父親譲りなのだろう。

私は、この父のもとで育ち、たくさんの学びを得たように思う。

言葉の調律、心のコントロール…。
家族のために全力で働く姿勢。
家族関係のあり方。

もしかしたら、私にとっては反面教師になる部分が多かったかも知れないが、そのお陰で今の私があるのだ。

父の逝去後、私は何度か父と話をした。

「もう、還らなきゃいけないのか?」
精進落としで父はそう呟いた。

その後、父は迎えが来てあの世に旅立っていったようだ。

父さん、ありがとう…。

2021年11月12日

父の思い出 その2

祖母は父の実の母親ではなかった。
父とその兄が幼い頃に、実の母親は亡くなったため、妹であった祖母が、実の子のように育てたのだ。

だが、父はその事実を知らされていなかった。
父がその事実を知ることになるのは、大学を中退し、多くの入社試験を受けるも、すべて不採用になった事実を突きつけられたときだ。

戸籍を調べたら、自分には母親がいなかったことが分かったのだ。
父の父親は、戦時中に亡くなっているので、両親がいなかったという事実を、就職時に突きつけられたのだ。

その恨みを長らく抱えてしまった父は、ことあるたびに祖母と対立するようになる。
何故か、実の息子ではなく、育ての息子、しかも次男の家に同居することになった祖母と父の対立は、自然の流れのようにも思える。

父と祖母はほとんど口を利かなくなった。
祖母が一言何かをいうと、父は「うるさい」と制した。
それでも気の強い祖母は何かを言い返す。
当然、その後は大げんかになる。

私はその修羅場が耐えられなかった。
いち早く、逃げ出したいと思った。

だから、大学生になると、ほとんど家には帰らなくなった。
ちょうどプログラミングのアルバイトもあり、家に帰るのは週に一度くらいになった。
また、大学のサークルで天体観測もしていたので、それにかこつけて、家にはますます寄りつかなくなったのだ。

父とはほとんど会話をすることなく過ごした。
たまに会ったとき、少し声を掛けられ、その返事をするくらいになった。

幼い時に受けた心のダメージが、私自身の中で、全然昇華しきれなかったのだ。

だから、父とは一緒に酒を飲むことこともなかった。
父親なら、成人した息子と酒を飲むことは、楽しみでもあったろうに、私は、かたくなに拒否し続けた。
酒を飲んでくだを巻き、暴れる様は、私には反面教師でしかなかったのだ。

だが、私はたくさんの酒が飲めた。

大学生の私は、毎日のように飲み歩き、下宿している友人のもとに転がり込んでいた。

今から思い返すと、父は淋しかったに違いない。
私には弟もいるが、彼は上手に振る舞っていた。
だが私は、彼のようにはできなかった。

ずっと父をうっとうしく思っていたのだ。

父の人生を思えば、別に特別なことではなく、一般的な人間として普通の行動だったようにも思う。

苦しみや悲しみ、淋しさを酒で紛らわせていたのだろう。
幸いギャンブルはしなかったようで、多額の借金を作り、家族に迷惑をかけることはなかったようだ。

そんな父とは、最期まで和解することなかった。




2021年11月11日

父の思い出 その1

「両親への反省と感謝」を考える機会があり、父親のことを思い出しだ。
父には、「申し訳ない」という気持ちと、「育ててくれてありがとう」、「父親になってくれてありがとう」という思いが強くなった。

私は父とは余り仲がよくなかった。
幼い頃から、祖母との対立が激しく、時に、殴る蹴ることもあり、そのたびに私はわなわな震えていたのだ。

小学生中学年だった頃、祖母と父親がけんかしている中、私は勇気を出してそれを止めに入った。

びっくりした二人は、そこでけんかをやめた。

お婆ちゃん子だった私は、その後も折に触れて、父と祖母の対立に胸を痛めた。

父は、酒を飲むと暴れることが多かった。
家にいて飲まないことはないから、毎日暴れる可能性もあった。

父がぶつかるのは、祖母だけではない。
母とも対立し、夫婦げんかも耐えなかった。

「ぼくは、どうしてこの家に生まれてきたのだろうか。どうしてこの家は地獄なんだろう…。」

幼かった私の心は、次第にすさんでいってしまった。

そして、団地の五階に住んでいたこともあり、
「ぼくがここから飛び降りれば、けんかが止まるのではないか…。」
と、真剣に考えたことは、一度や二度ではなかった。

食事中も、ひやひやしながら、何もしゃべらずに食べた。
何かを言うと、そこから父親が介入し、あっという間に言い争いになる。

そんな食事は嫌だった。
だから、ほとんど噛まずにさっと食べ、すぐに食卓を離れた。
楽しく美味しかったという思い出は、ほとんどなかった。

そんな風だから、父親を敵視するように、嫌ってしまうのも自然な流れであったのだ。

だが、今なら分かる。

大黒柱として家族を支えようと、日中、必死に仕事をしてきて、唯一の安らぎであるはずの家庭が、父親にとって唯一の城であったのだ。

私は、もっと「よく分かる」子どもであるべきだったのだろう。

この父と母のもとに私は生まれてきたのだ。

学ぶべきことはたくさんあったはずだ。

当時は不平不満だらけだったが、父親も苦しかったのだろう…。
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