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第331回 聖路加病院(一) [2016/08/23 17:22]
文●ツルシカズヒコ
一九二一(大正十)年二月十三日の正午、野枝は福岡から上京した叔父・代準介の乗った列車を横浜駅で迎え、すぐに「病室」に戻った。
村木には魔子を連れて鎌倉に帰ってもらった。
大杉の熱は少しも下がらなかった。
大杉は体が非常にだるいと訴えたが、元気はいつもどおりで、平常どおりに話し、妊娠中の野枝の体の心配までしてくれた。
二月十四日、大杉の入院が決定した。
『労働運動』の仕事、..
第320回 コミンテルン(三) [2016/08/10 23:05]
文●ツルシカズヒコ
大杉が上海に着いたのは一九二〇(大正九)年十月二十五日ごろだったが、その翌日、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)、陳独秀(中国共産党初代総書記)、呂運亨(大韓民国臨時政府外交次長)ら六、七人が一品香旅館にやって来た。
それから二、三日おきに陳独秀の家で会議を開いた。
支那の同志も朝鮮の同志もヴォイチンスキーの意向にほぼ賛成しているようだったが、大杉はそういうわけにもいかず、会議はいつも大杉と..
第209回 霊南坂 [2016/05/23 14:05]
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
..
第207回 河原なでしこ [2016/05/22 18:51]
文●ツルシカズヒコ
御宿から帰京した野枝は第一福四万館の大杉の部屋に転がり込んだ。
一九一六(大正五)年七月十三日の夜、野枝は大杉に見送られて東京駅から大阪に向かった。
東京駅は大勢の人でごった返していて、なんだか急かされるような出発だったので、野枝の気持ちは落ちつかなかった。
鶴見あたりになって、ようやく野枝の気持ちは落ちついてきた。
沼津までは車内が混雑していて、体を曲げるのも窮屈だったが、沼津でボー..
第200回 福岡日日新聞 [2016/05/20 20:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月二十日、野枝は『福岡日日新聞』に掲載された「この頃の妾」を脱稿した。
叔父・代準介に宛てた手紙形式の原稿である。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「この頃の妾」解題によれば、『福岡日日新聞』のはしがきには、こうある。
「新しい女として知られた雑誌『青鞜』伊藤野枝は五年間の結婚生活を弊履の如く棄て其夫辻潤と二人の子を棄てゝいよ/\新しい女に成り澄ましました。
斯して彼は..
第39回 青鞜 [2016/03/22 18:12]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。
乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。
野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。
野枝..
第28回 わがまま [2016/03/20 13:56]
文●ツルシカズヒコ
登志子や従姉の家は博多の停車場から三里余りもあった。
その途中でも野枝は身悶えしたいほど、不快なやり場のないおびえたような気持ちになった。
従姉の家に立ち寄った後、安子が従姉の家に泊まることになったので、登志子と男が一緒に帰ることになった。
挨拶をして従姉の家の門を出るやいなや、登志子は後ろも振り向かずにできるだけ大急ぎに、袴の裾を蹴って松原が続く町の家の方に歩いて行った。
登志子はひたす..
第17回 謙愛タイムス [2016/03/17 17:08]
文●ツルシカズヒコ
一九一一(明治四十四)年一月十八日、大逆事件被告に判決が下った。
被告二十六名のうち二十四人に死刑判決、うち十二名は翌日、無期懲役に減刑された。
兵庫県立柏原(かいばら)中学三年生だった近藤憲二は、この判決を下校途中の柏原駅で手にした新聞の号外で知った。
社会問題に無関心であった私は、そのなかに僧侶三人(内山愚堂、高木顕明、峰尾節堂)がいるのを見て、おやこんな中に坊主がいる、と思ったぐらいだ。..
第14回 編入試験 [2016/03/15 13:00]
文●ツルシカズヒコ
一九一〇(明治四十三)年一月、前年暮れに上京した野枝の猛勉強が始まった。
代準介は野枝を上野高女の三年に編入させるつもりだったが、野枝は経済的負担をかけたくないことを理由に、飛び級して四年に編入するといってきかなかった。
代家は経済的に逼迫などはなく、どちらかといえば裕福で、そんな気遣いはいらぬ所帯である。
ノエは学資の負担を建前とし、従姉千代子と同じ四年生に拘り、その意思を曲げなかった。..
第13回 伸びる木 [2016/03/14 20:37]
文●ツルシカズヒコ
野枝はこの閉塞状況を突破するために、叔父・代準介に手紙を書いた。
自分も千代子のように東京の女学校に通わせてほしいという懇願の手紙である。
それは自分の向上心、向学心、孝行心を全力でアピールする渾身の毛筆の手紙だった。
三日に一通ぐらいのわりで、しかも毎回五枚十枚と書きつらねてある。
キチさんの話では、とにかく「よくもまあ倦きもせんものだと思うぐらい『東京で勉強すれば私はきっと叔父..
第12回 東の渚 [2016/03/14 14:24]
文●ツルシカズヒコ
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、一九〇八(明治四十一)年暮れに代準介が一家を連れて上京したのは、セルロイド加工の会社を興すためだった。
長崎の代商店の経営は支配人に任せての上京である。
この分野では日本でも相当に早い起業であり、頭山満の右腕であり玄洋社の金庫番、杉山茂丸あたりのアドバイスがあったらしい。
代準介は杉山とも昵懇だった。
代キチは「とにかく頭山先生と玄洋社の加勢をしたかっ..
第6回 代準介 [2016/03/09 22:30]
文●ツルシカズヒコ
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p506)によれば、一九〇八(明治四十一)年三月、周船寺高等小学校三年修了後、野枝は長崎に住む(長崎市大村町二十一番地)叔母・代キチのもとへ行き、四月、西山女児高等小学校四年に転入学した。
野枝、十三歳の春である。
代キチは野枝の父・亀吉の三人の妹の末妹だが、妹の中で一番のしっかり者だった。
キチの夫・代準介(一八六八〜一九四六)は実業家として財..
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