<佐野城跡>
佐野城を訪問しました。別名は春日岡城。佐野氏が堅城の誉れ高い山城を放棄して、その麓に築いた城です。実際に訪問するまで「佐野氏は山城から平城(ひらじろ)に移った」と思いこんでいましたが、ここ佐野城も独立丘に築かれた山城でした。もといた山城(唐沢山城)とは比較になりませんが、これはこれで立派な城郭です。曲輪や土塁は勿論、立派な堀切跡を見ることができます。
■超エキチカ■城山公園口
佐野駅北側がそのまま城跡です。見えている平らな区画が三の丸跡。その先に見える斜面の上が二の丸になります。駅から徒歩0分。いや0秒ですね。一歩目から既に城跡です。
■城内■
<堀切>ほりきり
道になっていますが、これは堀の底の部分ですね。この空間は、本丸と二の丸を隔てる目的で堀を設けたなごりです。城用語では堀切(ほりきり)といいます。まぁ堀と思って頂いて結構です。それより、これは遺構として結構立派なものです。築城された時は、もっと深かったのかも知れません。
<橋の付近>
公園として整備され、通行しやすいように立派な橋が架けられています。同じ堀切の中でも、ここは少し高くなっていますね。土橋跡ではないでしょうか。この上に更に木造の橋を掛けて、本丸と二の丸を行き来していたのでしょう。
城の別名にもある「春日岡」は地名。この地にはもともと寺(惣宗寺)がありましたが、新たに築かれる城のために移転。惣宗寺は、現在では「佐野厄除け大師」の名で世間に広く知られています。
<曲輪>
南北に細長い独立丘に築かれた城です。縄張りは連郭式。本丸から南側に二の丸と三の丸、北側に出丸らしき区画を設けています。
<本丸にて>
佐野市による発掘調査が行われ、この付近で石畳の通路・そして石垣が発掘されました。通路の側溝や、この傾斜付近には井戸跡も確認されています。城内の水事情、見てみたかったですね。調査が終わると、形状を損なわないよう埋めてしまったそうです。残念。
<目印として>
発掘された石の一部を並べて、調査で確認された通路に沿って並べてあります。ここかぁ〜。目印にはなりますね。この通路に、現代の道では当たり前の側溝があって、左手の斜面へ流れて行ったわけですね。
<暗渠>※ここは飛ばして読んで!
城山公園の斜面で撮影。現在の排水技術だとこうなりますが、調査で発見された側溝も同じ役割を担っていたのでしょうね。城も年々進化します。そういう細かさが、戦国期の城とはちょっと違う気がします。※ちょっとマニアック過ぎますね。探索している本人は、こんなことが気になって仕方ありません。
■築城から廃城まで■
1602年から城の建設が始まり、1607年には城主・佐野信吉が唐沢山城から佐野城に移りました。ところが佐野氏は突然改易。おカネに関わる事件(大久保長安事件)に巻き込まれました。不正を疑われた者と親戚関係という理由です。佐野藩は廃藩。幕府直轄の地となりました(後に再興される佐野藩は佐野氏とは無縁の堀田氏です)。唐沢山城の放棄に始まり、突然の領地没収および身分剥奪です。ケチばかりつけられる佐野信吉。これも豊臣系当主の宿命でしょうか。
築城からまだ14年。佐野城は一部未完のまま廃城となりました。
■つわものどもが夢の跡■
<石碑>二の丸への入口
城造りと平行して、街の整備も進んでいました。小さな藩の新たな希望。佐野信吉は、この城を中心とした城下町を築き、繁栄することを夢見たわけですね。築城も、そして夢も半ばで終わってしまいました。
-------■ 佐野城 ■-------
別 名:春日岡城・春日城
築城年:1602年(慶長7)
築城主:佐野信吉
城 主:佐野信吉
廃 城:1614年(慶長19)
[栃木県佐野市若松町]
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2017年09月29日
2017年09月28日
過ぎたる城の終焉 唐沢山城
日ノ本を二分した関ヶ原の戦い。佐野氏は東軍につきます。徳川方ですね。後には佐野藩を立藩。居城は名城・唐沢山城。石高3万5千。立派な藩ですね。
<石碑と枡形>入口
■名城の終焉■
戦国の世を生き抜いた唐沢山城。しかし当主の佐野信吉は、唐沢山の麓に新たな城を築きます。これが関ヶ原の戦いから2年後の1602年の話。歴代当主が守り続けた山城は、攻め滅ぼされることなくその歴史に幕を閉じることになりました。
なんで〜!
これには諸説あります
@江戸の大火の話
見晴らしの良い唐沢山城から江戸の火災を発見し、良かれと思って早馬で駆けつけたものの、逆に家康の不興を買った。「江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか」ということです。
<天狗岩付近>
物見櫓があった付近です。眺めがいい。
江戸に限らず、あちらこちらが遠くまで見渡せます。情報のキャッチアップが早い。これはこの城の取柄でもありますので。
A山城禁止令
江戸から二十里(80q)四方は山城を禁止するという令がだされた。
<現地説明>
唐沢山城跡の案内ではその説を採用しています。
このほか、唐沢山城は天然の要害で、統治のための拠点としては不便だったという説もあります。そういう理由で使われなくなる城も確かにありますが、まだこの時期ですからね。この説はどうなんでしょうか。
当主が豊臣恩顧であることから警戒された。まぁ警戒されること自体は分りますね。@の「江戸の大火」の件ですが、佐野信吉は城そのものにケチを付けられた上に、無断で江戸に来たという点でも咎められました。駆けつけて消火活動にも参加してるんですがね。それでもケチがつく。合戦においては、呼ばれてないのに勝手に参戦し、大活躍して認められるなんて話も多いですが、そうはならない。家康は身内には人情味もありますが、天下を取るだけあって局面によっては非情。豊臣恩顧は、個別にどうであっても認めないのかも知れませんね。
まぁどれか特定の理由というより、ひと言では片付けられない複合的な理由があったのでしょうね。
<大炊の井>
水が枯れたことがない大井戸。籠城する兵たちの命を繋いできました。
普通に考えて、まだ戦国の余韻がぷんぷんと漂っているのに、同じ関東に難攻不落とまで言われた「外様」の城があるのは目障り。ストレートに言いにくくても、家康は難癖をつける天才ですからね。上杉征伐で挙兵したときも、言い掛かりを大義にしてしまいました。こののちの豊臣攻めも同じですね。佐野信吉が自主的に城を放棄したとしても、または正式に山城禁止令なるものがあったとしても、どちらも納得できます。
■つわものどもが夢の跡■
唐沢山城を居城としてきた佐野家。天下の覇権を争うほどの大きな勢力ではありません。だからこそ、長年にわたって強敵を退けたこの山城、そしてそのために終結した武将・城兵たちが愛おしく感じてなりません。世間に広く知られることもない兵ども。唐沢山の城跡はその夢の跡です。
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<石碑と枡形>入口
■名城の終焉■
戦国の世を生き抜いた唐沢山城。しかし当主の佐野信吉は、唐沢山の麓に新たな城を築きます。これが関ヶ原の戦いから2年後の1602年の話。歴代当主が守り続けた山城は、攻め滅ぼされることなくその歴史に幕を閉じることになりました。
なんで〜!
これには諸説あります
@江戸の大火の話
見晴らしの良い唐沢山城から江戸の火災を発見し、良かれと思って早馬で駆けつけたものの、逆に家康の不興を買った。「江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか」ということです。
<天狗岩付近>
物見櫓があった付近です。眺めがいい。
江戸に限らず、あちらこちらが遠くまで見渡せます。情報のキャッチアップが早い。これはこの城の取柄でもありますので。
A山城禁止令
江戸から二十里(80q)四方は山城を禁止するという令がだされた。
<現地説明>
唐沢山城跡の案内ではその説を採用しています。
このほか、唐沢山城は天然の要害で、統治のための拠点としては不便だったという説もあります。そういう理由で使われなくなる城も確かにありますが、まだこの時期ですからね。この説はどうなんでしょうか。
当主が豊臣恩顧であることから警戒された。まぁ警戒されること自体は分りますね。@の「江戸の大火」の件ですが、佐野信吉は城そのものにケチを付けられた上に、無断で江戸に来たという点でも咎められました。駆けつけて消火活動にも参加してるんですがね。それでもケチがつく。合戦においては、呼ばれてないのに勝手に参戦し、大活躍して認められるなんて話も多いですが、そうはならない。家康は身内には人情味もありますが、天下を取るだけあって局面によっては非情。豊臣恩顧は、個別にどうであっても認めないのかも知れませんね。
まぁどれか特定の理由というより、ひと言では片付けられない複合的な理由があったのでしょうね。
<大炊の井>
水が枯れたことがない大井戸。籠城する兵たちの命を繋いできました。
普通に考えて、まだ戦国の余韻がぷんぷんと漂っているのに、同じ関東に難攻不落とまで言われた「外様」の城があるのは目障り。ストレートに言いにくくても、家康は難癖をつける天才ですからね。上杉征伐で挙兵したときも、言い掛かりを大義にしてしまいました。こののちの豊臣攻めも同じですね。佐野信吉が自主的に城を放棄したとしても、または正式に山城禁止令なるものがあったとしても、どちらも納得できます。
■つわものどもが夢の跡■
唐沢山城を居城としてきた佐野家。天下の覇権を争うほどの大きな勢力ではありません。だからこそ、長年にわたって強敵を退けたこの山城、そしてそのために終結した武将・城兵たちが愛おしく感じてなりません。世間に広く知られることもない兵ども。唐沢山の城跡はその夢の跡です。
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2017年09月27日
山上道及と唐沢山城
戦国武将好きです。そして「花の慶次」ファン。今回とりあげる山上道及(やまがみどうきゅう)の存在を知ったのも「花の慶次」。原作の一夢庵風流記にも登場します。そこに描かれていた反骨の豪傑が、私にとっての山上道及。一騎当千のつわものです。
■マイナー武将■有名じゃない
経歴どころか生没も詳細不明。資料もあまり目にしません。そこで、今回は「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『上州八家の一つ山上氏に生まれ、上杉憲政及び長野業正の許、山上城主となるが弘治元年(1555年)、北条氏康に追われる。その後、足利の長尾当長を頼るが当長が北条氏康に降ると、氏秀(道及)は下野国佐野氏13代当主・佐野泰綱の家臣となる。』
[出典元:wikipedia]2017/9/27
もとの名は氏秀。改名して道及。この説明だと、「北条氏康」大嫌いといった感じですが、本当のところはどうだったのでしょうか。槍の名手とか、逸話はいろいろあります。あと、やや曖昧ながら、武田家にいたとか、関東に進出した滝川一益(織田家家臣)と地元大名の調整役を担ったという話もあります(私のイメージでは、調整役というより、我先に戦闘に加わりそうな感じですがね)。
とにかく、実在した人物です。生涯を通じてのストーリーが分りにくいものの、史実として確認されていることもいくつかあります。その一例が「佐野家の家臣」だったという実績。これは確か。重臣だったようですよ。佐野四天王の一角でした。
なにそれ?
はい。そもそも全国的には佐野家そのものがマイナーなのに、そのまた家臣ではインパクトが弱いですよね。片倉小十郎(伊達家)や直江兼続(上杉家)ですら、興味のない人にとっては「なにそれ?」かもしれません。では、なんでわざわざスポットライトをあてるのか。これは冒頭にも書かせて頂いたように『「花の慶次」に登場した』から。たったそれだけです。よくわからない関東牢人として登場。逆に謎めいたところに、得体の知れない魅力を感じてしまいます。
■はみだし武将■組織から出たり入ったり
上杉謙信や北条氏を何度も退けた15代当主の佐野昌綱。死後は息子の宗綱(むねつな)が16代目となりますが、男子なきまま世を去ってしまい、佐野家は家督問題で大もめとなります。生き残りを掛けて養子が検討されますが、小田原の北条派と常陸の佐竹派に意見が分かれます。山上道及は15代当主・昌綱の実弟である佐野房綱とともに佐竹氏を支持。しかし小田原北条氏からの圧力もあり、北条氏忠が佐野宗綱の娘を正室とするかたちで17代当主となりました。道及と房綱は佐野家を去ります。
そして1590年の小田原征伐。関東覇者の北条氏を攻める天下軍のなかに、道及と房綱の姿がありました。佐野家を出奔した道及は、秀吉に仕えていたのです。北条に奪われた佐野家奪回を期する房綱とともに、天下軍の進撃に寄与。関八州の詳細地図を自ら作成して提供したり、戦闘に加わるなどして功績を上げました。北条氏に支配されていた佐野家は房綱のものに。そして元重臣の山上道及ですが、その後どうなったかはっきりしていません。
■上杉家召し抱えの話■
謎の多い流浪の豪傑。北条氏が滅亡してから十年も後の話になりますが、上杉家(上杉景勝)に仕えたことが分かっています。「花の慶次」に登場するのもここから。同じく上杉のために出陣した慶次と、再会を喜び合うシーンです(そこでは滝川の陣以来の再会と言ってます)。
このころの上杉は会津120万石。これを警戒する徳川家康が、大軍を率いて上杉征伐に乗り出します。兵力を強化したい上杉家の新規召しかかえに応じ、山上道及は上杉に加担する道を選びました。
と、どうやらこのあたりまでは分かっているようですが、後は不明。「花の慶次」では、長谷堂城の戦いで大ケガをするところまで。その後は、どこでどうしたのでしょうね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城からの眺め>
山上道及もここから関東平野を眺めていたのかもしれません。私のイメージでは謎の関東牢人ですが、この地では立派な佐野家の重臣でした。佐野房綱と同じく、一度佐野家から飛び出したことで、逆に古巣を救うこととなりました。佐野房綱は当主(代行)という立場で佐野家を継ぎます。一方の山上道及、しばらくは佐野の地で暮らしたのでしょうか、、、(不明)。喰うに困る立場ではなかったと思いますが、十年後には上杉軍に加わっています。わざわざ不利な方に加担したわけですね。己の働きの場を求めて去った。私はそんなふうに受け止めています。
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■マイナー武将■有名じゃない
経歴どころか生没も詳細不明。資料もあまり目にしません。そこで、今回は「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『上州八家の一つ山上氏に生まれ、上杉憲政及び長野業正の許、山上城主となるが弘治元年(1555年)、北条氏康に追われる。その後、足利の長尾当長を頼るが当長が北条氏康に降ると、氏秀(道及)は下野国佐野氏13代当主・佐野泰綱の家臣となる。』
[出典元:wikipedia]2017/9/27
もとの名は氏秀。改名して道及。この説明だと、「北条氏康」大嫌いといった感じですが、本当のところはどうだったのでしょうか。槍の名手とか、逸話はいろいろあります。あと、やや曖昧ながら、武田家にいたとか、関東に進出した滝川一益(織田家家臣)と地元大名の調整役を担ったという話もあります(私のイメージでは、調整役というより、我先に戦闘に加わりそうな感じですがね)。
とにかく、実在した人物です。生涯を通じてのストーリーが分りにくいものの、史実として確認されていることもいくつかあります。その一例が「佐野家の家臣」だったという実績。これは確か。重臣だったようですよ。佐野四天王の一角でした。
なにそれ?
はい。そもそも全国的には佐野家そのものがマイナーなのに、そのまた家臣ではインパクトが弱いですよね。片倉小十郎(伊達家)や直江兼続(上杉家)ですら、興味のない人にとっては「なにそれ?」かもしれません。では、なんでわざわざスポットライトをあてるのか。これは冒頭にも書かせて頂いたように『「花の慶次」に登場した』から。たったそれだけです。よくわからない関東牢人として登場。逆に謎めいたところに、得体の知れない魅力を感じてしまいます。
■はみだし武将■組織から出たり入ったり
上杉謙信や北条氏を何度も退けた15代当主の佐野昌綱。死後は息子の宗綱(むねつな)が16代目となりますが、男子なきまま世を去ってしまい、佐野家は家督問題で大もめとなります。生き残りを掛けて養子が検討されますが、小田原の北条派と常陸の佐竹派に意見が分かれます。山上道及は15代当主・昌綱の実弟である佐野房綱とともに佐竹氏を支持。しかし小田原北条氏からの圧力もあり、北条氏忠が佐野宗綱の娘を正室とするかたちで17代当主となりました。道及と房綱は佐野家を去ります。
そして1590年の小田原征伐。関東覇者の北条氏を攻める天下軍のなかに、道及と房綱の姿がありました。佐野家を出奔した道及は、秀吉に仕えていたのです。北条に奪われた佐野家奪回を期する房綱とともに、天下軍の進撃に寄与。関八州の詳細地図を自ら作成して提供したり、戦闘に加わるなどして功績を上げました。北条氏に支配されていた佐野家は房綱のものに。そして元重臣の山上道及ですが、その後どうなったかはっきりしていません。
■上杉家召し抱えの話■
謎の多い流浪の豪傑。北条氏が滅亡してから十年も後の話になりますが、上杉家(上杉景勝)に仕えたことが分かっています。「花の慶次」に登場するのもここから。同じく上杉のために出陣した慶次と、再会を喜び合うシーンです(そこでは滝川の陣以来の再会と言ってます)。
このころの上杉は会津120万石。これを警戒する徳川家康が、大軍を率いて上杉征伐に乗り出します。兵力を強化したい上杉家の新規召しかかえに応じ、山上道及は上杉に加担する道を選びました。
と、どうやらこのあたりまでは分かっているようですが、後は不明。「花の慶次」では、長谷堂城の戦いで大ケガをするところまで。その後は、どこでどうしたのでしょうね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城からの眺め>
山上道及もここから関東平野を眺めていたのかもしれません。私のイメージでは謎の関東牢人ですが、この地では立派な佐野家の重臣でした。佐野房綱と同じく、一度佐野家から飛び出したことで、逆に古巣を救うこととなりました。佐野房綱は当主(代行)という立場で佐野家を継ぎます。一方の山上道及、しばらくは佐野の地で暮らしたのでしょうか、、、(不明)。喰うに困る立場ではなかったと思いますが、十年後には上杉軍に加わっています。わざわざ不利な方に加担したわけですね。己の働きの場を求めて去った。私はそんなふうに受け止めています。
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2017年09月26日
唐沢山城奪回 帰ってきた弟
巨大な勢力の覇権争いに巻き込まれながらも、家を守り続けた下野国(栃木県)の佐野氏。関東覇者となった小田原北条氏とうまくやっていくつもりでしたが、西の方からもっと巨大な勢力が押し寄せてきました。
<唐沢山城跡の石碑>
■佐野当主に北条一族■
戦国末期、佐野氏は小田原北条氏から養子を迎えていました。北条氏忠です。上杉謙信や武田信玄と競い合った北条家三代目の氏康は、たくさんの男子に恵まれました。@(新九郎)A氏政B氏照C氏邦D氏規E氏忠F(上杉景虎)G氏光の八人。北条氏忠は六男ということになります。( )内はこの時に既に没していますが、他は四代目当主・氏政を筆頭に健在。関東の主要な城に城主として配置され、血縁による盤石な体制を敷いていました。佐野氏、そしてかつて難攻不落を誇った唐沢山城も、そのネットワークに組み込まれたわけですね。
■秀吉の小田原征伐■
関東覇者に危機が迫りました。豊臣秀吉の小田原征伐です。天下軍総数22万。結果は言うまでもありませんね。1590年、戦国大名としての小田原北条氏は滅びました。
さて、当主が北条一族の佐野氏はいったいどうなったのでしょうか。
当主・佐野(北条)氏忠は、天下軍が迫ると唐沢山城を出て足柄城の守備につき、最後は小田原城に籠城していました。そして戦後、兄二人(氏政と氏照)は切腹。氏忠は高野山行きとなりました。
佐野の家。唐沢山城も領地も没収され、お家断絶でもおかしくない状況です。
■帰ってきた弟■智将・昌綱の弟
佐野房綱(ふさつな)という武将がいます。この方は佐野家13代当主の息子です。そして、かつて上杉謙信と10度も戦った15代当主・昌綱の弟。長男と違って、武者修行のために諸国を回ったり、外との接点を多く持つ経験を積みました(結果としてですが)。兄亡き後は、兄の息子で16代当主の宗綱を補佐しました。
ところが、宗綱は嫡子のいないまま戦で討死。佐野家は家督問題で大もめとなります。軍事的理由から養子が検討され、房綱は佐竹氏を勧めますが、結果は北条一族の氏忠。
「じゃ出て行くぜ」
と言ったかどうだか、佐野房綱はこの時点で佐野家を去ってしまいました。
それから約5年後。豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。佐野家を出奔した房綱は、なんと豊臣家に仕えていました。関東に詳しい房綱は天下軍に貢献。前田利家や上杉景勝の軍にも同行しました。
唐沢山城落城。そして北条氏の本城・小田原城も落ちました。戦後処理(秀吉の命)として、房綱は佐野氏忠の領地と家督を継ぐことを許されました。北条家から当主を招いていた佐野家でしたが、豊臣に仕えた房綱が名代(当主代行)となることで断絶だけは免れたわけです。いま風に言うと、ずっと家出していた男が帰ってきて、家を救ったわけですね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城本丸跡の石垣>
唐沢山城に入った佐野房綱は、家臣団から北条色を一掃。新たな体制作りに2年間奔走します。房綱に子はなく、更にあくまで当主代行という立場だったことから、秀吉家臣の富田氏から養子を迎えて佐野家当主とし、自分の役割を終えると隠居。佐野家を出奔した男、途切れそうだった佐野家の歴史を繋ぎました。
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<唐沢山城跡の石碑>
■佐野当主に北条一族■
戦国末期、佐野氏は小田原北条氏から養子を迎えていました。北条氏忠です。上杉謙信や武田信玄と競い合った北条家三代目の氏康は、たくさんの男子に恵まれました。@(新九郎)A氏政B氏照C氏邦D氏規E氏忠F(上杉景虎)G氏光の八人。北条氏忠は六男ということになります。( )内はこの時に既に没していますが、他は四代目当主・氏政を筆頭に健在。関東の主要な城に城主として配置され、血縁による盤石な体制を敷いていました。佐野氏、そしてかつて難攻不落を誇った唐沢山城も、そのネットワークに組み込まれたわけですね。
■秀吉の小田原征伐■
関東覇者に危機が迫りました。豊臣秀吉の小田原征伐です。天下軍総数22万。結果は言うまでもありませんね。1590年、戦国大名としての小田原北条氏は滅びました。
さて、当主が北条一族の佐野氏はいったいどうなったのでしょうか。
当主・佐野(北条)氏忠は、天下軍が迫ると唐沢山城を出て足柄城の守備につき、最後は小田原城に籠城していました。そして戦後、兄二人(氏政と氏照)は切腹。氏忠は高野山行きとなりました。
佐野の家。唐沢山城も領地も没収され、お家断絶でもおかしくない状況です。
■帰ってきた弟■智将・昌綱の弟
佐野房綱(ふさつな)という武将がいます。この方は佐野家13代当主の息子です。そして、かつて上杉謙信と10度も戦った15代当主・昌綱の弟。長男と違って、武者修行のために諸国を回ったり、外との接点を多く持つ経験を積みました(結果としてですが)。兄亡き後は、兄の息子で16代当主の宗綱を補佐しました。
ところが、宗綱は嫡子のいないまま戦で討死。佐野家は家督問題で大もめとなります。軍事的理由から養子が検討され、房綱は佐竹氏を勧めますが、結果は北条一族の氏忠。
「じゃ出て行くぜ」
と言ったかどうだか、佐野房綱はこの時点で佐野家を去ってしまいました。
それから約5年後。豊臣秀吉の小田原征伐が始まりました。佐野家を出奔した房綱は、なんと豊臣家に仕えていました。関東に詳しい房綱は天下軍に貢献。前田利家や上杉景勝の軍にも同行しました。
唐沢山城落城。そして北条氏の本城・小田原城も落ちました。戦後処理(秀吉の命)として、房綱は佐野氏忠の領地と家督を継ぐことを許されました。北条家から当主を招いていた佐野家でしたが、豊臣に仕えた房綱が名代(当主代行)となることで断絶だけは免れたわけです。いま風に言うと、ずっと家出していた男が帰ってきて、家を救ったわけですね。
■つわものどもが夢の跡■
<唐沢山城本丸跡の石垣>
唐沢山城に入った佐野房綱は、家臣団から北条色を一掃。新たな体制作りに2年間奔走します。房綱に子はなく、更にあくまで当主代行という立場だったことから、秀吉家臣の富田氏から養子を迎えて佐野家当主とし、自分の役割を終えると隠居。佐野家を出奔した男、途切れそうだった佐野家の歴史を繋ぎました。
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2017年09月21日
十年戦争 唐沢山城の戦い
ここは上杉謙信が10度も攻めたと言われる山城です。
■佐野氏の居城■
下野国の唐沢山城。標高241m、比高200mの山に築かれた山城です。城の起源は927年。平将門を鎮圧した藤原秀郷の居城として城が築かれました。その後一旦は廃城となりますが、1180年に子孫の藤原成俊が再興。佐野氏を名のり、ここから新たな歴史が始まります。
■関東一の山城■
佐野氏の居城・唐沢山城が、世間に名を馳せるきっかけとなったのは、十年にも及ぶ唐沢山城の戦い。特に上杉謙信との攻防です。この時の佐野氏の当主は、佐野昌綱(さのまさつな)。たいへん老獪な戦国大名でした。個人的には、武田家滅亡後の真田昌幸を思い出します。「表裏比興の者」と言われた真田昌幸。やはり複数の巨大な勢力の狭間で真田家を守り続けました。佐野昌綱の場合、直接的には越後の上杉謙信と小田原の北条氏康の板挟みですね。厳しい環境下、智将・昌綱の策略により、佐野氏は降伏・離反を繰り返すものの、唐沢山城そのものが落とされることはありませんでした。つまり、大きな意味では負けませんでした。これはもう当主の才覚あってのことだと思いますが、背景として佐野という場所の地理的な条件、そして堅固な唐沢山城の存在があったのだと思います。
■十年戦争■
『唐沢山城の戦い』は個別の合戦ではなく、1560年頃から1570年頃までの戦の総称です。舞台は唐沢山城。十年に及ぶ戦いの全てを紹介できませんが、降伏・離反といった知将・昌綱の交渉術だけではなく、実際に戦闘に至った部分を中心にご紹介させて下さい。自分が好きな山城「唐沢山城」に興味を持って頂けたら幸いです。
<城内の溜め池>
■軍神を二度退ける■
(はじまり)
1560年 謙信との共闘
昌綱の十年戦争は、上杉謙信との共闘で始まります。関東覇者を目指す小田原北条氏と戦いました。襲い掛ったのは北条氏政(のちの第4代目当主)。3万余の大軍で唐沢山城に迫ります。助けを求められれば放っておかない上杉謙信。駆け付けて北条軍を退却させました。さすがは謙信(私は上杉ファンです)。『これに感謝した佐野氏は、生涯上杉への忠誠を貫きました。おわり。』とならないところが、佐野昌綱の凄い所です。
↓
(佐野対上杉)
1561年 謙信を敵に回す
翌年、昌綱は謙信に従って小田原北条氏攻めに参加(小田原城の戦い)。上杉軍は進軍しながら武蔵国の城(忍城など)を支配下に治め、小田原城へ到着しました。しかしこの小田原城もまた守りの堅いことで有名です。当主の北条氏康は、のちに軍神とまで称される謙信が自ら総大将となっていることを警戒し、無駄な野戦は避けて籠城戦にもちこみます。上杉軍の包囲は1ヶ月にも及びましたが、結局城は落ちませんでした。この結末の背景として、北条氏康と同盟関係の武田信玄の動きがあります。上杉軍はこちらも警戒する必要があったため、城攻めを途中で断念したと考えられます。越後の龍が小田原まで来たのですがね。上杉謙信※無念だったでしょうね。
(厳密には、謙信はこの時まだ『長尾景虎』です。小田原攻めの帰り、鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と関東管領職を相続。そして名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めました。まぁ面倒なので、上杉謙信で通しますね)。
さてさて、今回主役の佐野昌綱の運命はいかに。
先述の通り、上杉謙信は宿命のライバル・武田信玄をけん制せねばならなくなりました。一旦越後へ引き上げてしまいます。新潟県です。関東からみて山の向こう側ですね。ギリギリまで攻め込まれた北条氏康、黙っている男ではありません。すぐに関東平野での勢力を取戻します。やがて唐沢山城にも北条軍が迫ってきました。この時、頼みの上杉謙信は川中島で武田信玄と戦っています。昌綱に援軍はありません。どうしますかね?相手はご近所の小大名ではなく、謙信・信玄と互角の北条氏康です。
佐野昌綱、北条氏康に降伏しました。
「おい、佐野!なにやってんだ」
と言ったかどうだか、今度は怒った上杉謙信が唐沢山城に襲い掛ります。ただ籠城で耐える堅城はなかなか落とせません。冬の到来により、上杉軍は去っていきました。
佐野昌綱、上杉謙信に勝ったとはいいませんが、負けませんでした。
越後の上杉謙信が、冬になると兵を退くのは良く知られています。雪の山を越えるのは大変ですからね。とりあえず佐野氏は安心。山の雪が無くなる頃まで、上杉軍が襲い掛かってくる心配はありません・・・。そう思うのが妥当。ところがこの冬、謙信は上野国の厩橋城( まやばしじょう ) 、現在だと群馬県前橋市の群馬県庁で年を越しました。山は越えなかったのですね。
謙信は春の足音が聞こえるとすぐ、唐沢山城へ再び攻め掛ります。しかし、この山城は本当に良くできた山城。戦上手の謙信をもってしても攻め切れませんでした。
二度目ですよ。あの上杉謙信を二度退けました。佐野昌綱及び唐沢山城は、このあたりから他国の者も知る存在となっていきます。メジャーデビューといったところですね。
■終わらない戦い■
(その後)
1564年 城の攻防戦
この時点で上杉に反旗を翻していた佐野氏。唐沢山城は、また上杉軍による攻撃を受けます。徹底抗戦の唐沢山城に対し、この時は上杉軍の猛攻撃が続き、三の丸・二の丸が破られました。本丸だけでも立派な山城ですが、ここまでくると時間の問題ですね。頼りの北条氏は、このとき国府台で里見氏と戦っている最中。援軍も期待できず、孤立したまま城が落とされる寸前です。城主・佐野昌綱は、佐竹義昭や宇都宮広綱の説得に応じて降伏することにしました。難攻不落と言われる唐沢山城が、実質攻め落とされた瞬間です。
佐野昌綱、万事休す・・・
ただ上杉謙信は当主の命までは取りませんでした。『義』を掲げる謙信としては、不義を正したかっただけ。上杉ファンとしてはそう受け止めたいですね。現実的な背景として、佐野氏に降伏を促した佐竹氏や宇都宮氏(同じ関東武士)の助命嘆願を、謙信が受け入れたようです。
戦国のいい話です。これで終りなら・・・
まだ終わりません。佐野昌綱はこのあとまた上杉謙信から離反。もう書ききれませんが、これまた北条氏の圧力です。謙信が川中島で武田信玄と5度目の激突をしている最中のことでした。以下は省略しますが、要するにこの時期の関東甲信越は「上杉」「武田」「北条」の三大勢力なのです。そこで生き残る。実際に生き残り続けた。これが佐野昌綱と唐沢山城の凄さと言えます。
■つわものどもが夢の跡■
関東三国志とも称される北条氏康・武田信玄・上杉謙信の勢力争い。この三勢力の動向は、ほかの関東武士たちの運命を翻弄し続けました。三人が没したのは1570年代(氏康1571・信玄1573・謙信1578)でした。唐沢山城の戦いは1560年頃から1570年の約10年。この厳しい時代に、城も潰されず、領地も奪われなかった佐野昌綱という人物。つわものですね。離反という武士としての汚名を受け入れる度量。これによって守られたものは、佐野の家と領民の暮らしでした。それこそが、当主たる者の優先課題。佐野昌綱の夢だったのだと思います。
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■佐野氏の居城■
下野国の唐沢山城。標高241m、比高200mの山に築かれた山城です。城の起源は927年。平将門を鎮圧した藤原秀郷の居城として城が築かれました。その後一旦は廃城となりますが、1180年に子孫の藤原成俊が再興。佐野氏を名のり、ここから新たな歴史が始まります。
■関東一の山城■
佐野氏の居城・唐沢山城が、世間に名を馳せるきっかけとなったのは、十年にも及ぶ唐沢山城の戦い。特に上杉謙信との攻防です。この時の佐野氏の当主は、佐野昌綱(さのまさつな)。たいへん老獪な戦国大名でした。個人的には、武田家滅亡後の真田昌幸を思い出します。「表裏比興の者」と言われた真田昌幸。やはり複数の巨大な勢力の狭間で真田家を守り続けました。佐野昌綱の場合、直接的には越後の上杉謙信と小田原の北条氏康の板挟みですね。厳しい環境下、智将・昌綱の策略により、佐野氏は降伏・離反を繰り返すものの、唐沢山城そのものが落とされることはありませんでした。つまり、大きな意味では負けませんでした。これはもう当主の才覚あってのことだと思いますが、背景として佐野という場所の地理的な条件、そして堅固な唐沢山城の存在があったのだと思います。
■十年戦争■
『唐沢山城の戦い』は個別の合戦ではなく、1560年頃から1570年頃までの戦の総称です。舞台は唐沢山城。十年に及ぶ戦いの全てを紹介できませんが、降伏・離反といった知将・昌綱の交渉術だけではなく、実際に戦闘に至った部分を中心にご紹介させて下さい。自分が好きな山城「唐沢山城」に興味を持って頂けたら幸いです。
<城内の溜め池>
■軍神を二度退ける■
(はじまり)
1560年 謙信との共闘
昌綱の十年戦争は、上杉謙信との共闘で始まります。関東覇者を目指す小田原北条氏と戦いました。襲い掛ったのは北条氏政(のちの第4代目当主)。3万余の大軍で唐沢山城に迫ります。助けを求められれば放っておかない上杉謙信。駆け付けて北条軍を退却させました。さすがは謙信(私は上杉ファンです)。『これに感謝した佐野氏は、生涯上杉への忠誠を貫きました。おわり。』とならないところが、佐野昌綱の凄い所です。
↓
(佐野対上杉)
1561年 謙信を敵に回す
翌年、昌綱は謙信に従って小田原北条氏攻めに参加(小田原城の戦い)。上杉軍は進軍しながら武蔵国の城(忍城など)を支配下に治め、小田原城へ到着しました。しかしこの小田原城もまた守りの堅いことで有名です。当主の北条氏康は、のちに軍神とまで称される謙信が自ら総大将となっていることを警戒し、無駄な野戦は避けて籠城戦にもちこみます。上杉軍の包囲は1ヶ月にも及びましたが、結局城は落ちませんでした。この結末の背景として、北条氏康と同盟関係の武田信玄の動きがあります。上杉軍はこちらも警戒する必要があったため、城攻めを途中で断念したと考えられます。越後の龍が小田原まで来たのですがね。上杉謙信※無念だったでしょうね。
(厳密には、謙信はこの時まだ『長尾景虎』です。小田原攻めの帰り、鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と関東管領職を相続。そして名を上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改めました。まぁ面倒なので、上杉謙信で通しますね)。
さてさて、今回主役の佐野昌綱の運命はいかに。
先述の通り、上杉謙信は宿命のライバル・武田信玄をけん制せねばならなくなりました。一旦越後へ引き上げてしまいます。新潟県です。関東からみて山の向こう側ですね。ギリギリまで攻め込まれた北条氏康、黙っている男ではありません。すぐに関東平野での勢力を取戻します。やがて唐沢山城にも北条軍が迫ってきました。この時、頼みの上杉謙信は川中島で武田信玄と戦っています。昌綱に援軍はありません。どうしますかね?相手はご近所の小大名ではなく、謙信・信玄と互角の北条氏康です。
佐野昌綱、北条氏康に降伏しました。
「おい、佐野!なにやってんだ」
と言ったかどうだか、今度は怒った上杉謙信が唐沢山城に襲い掛ります。ただ籠城で耐える堅城はなかなか落とせません。冬の到来により、上杉軍は去っていきました。
佐野昌綱、上杉謙信に勝ったとはいいませんが、負けませんでした。
越後の上杉謙信が、冬になると兵を退くのは良く知られています。雪の山を越えるのは大変ですからね。とりあえず佐野氏は安心。山の雪が無くなる頃まで、上杉軍が襲い掛かってくる心配はありません・・・。そう思うのが妥当。ところがこの冬、謙信は上野国の厩橋城( まやばしじょう ) 、現在だと群馬県前橋市の群馬県庁で年を越しました。山は越えなかったのですね。
謙信は春の足音が聞こえるとすぐ、唐沢山城へ再び攻め掛ります。しかし、この山城は本当に良くできた山城。戦上手の謙信をもってしても攻め切れませんでした。
二度目ですよ。あの上杉謙信を二度退けました。佐野昌綱及び唐沢山城は、このあたりから他国の者も知る存在となっていきます。メジャーデビューといったところですね。
■終わらない戦い■
(その後)
1564年 城の攻防戦
この時点で上杉に反旗を翻していた佐野氏。唐沢山城は、また上杉軍による攻撃を受けます。徹底抗戦の唐沢山城に対し、この時は上杉軍の猛攻撃が続き、三の丸・二の丸が破られました。本丸だけでも立派な山城ですが、ここまでくると時間の問題ですね。頼りの北条氏は、このとき国府台で里見氏と戦っている最中。援軍も期待できず、孤立したまま城が落とされる寸前です。城主・佐野昌綱は、佐竹義昭や宇都宮広綱の説得に応じて降伏することにしました。難攻不落と言われる唐沢山城が、実質攻め落とされた瞬間です。
佐野昌綱、万事休す・・・
ただ上杉謙信は当主の命までは取りませんでした。『義』を掲げる謙信としては、不義を正したかっただけ。上杉ファンとしてはそう受け止めたいですね。現実的な背景として、佐野氏に降伏を促した佐竹氏や宇都宮氏(同じ関東武士)の助命嘆願を、謙信が受け入れたようです。
戦国のいい話です。これで終りなら・・・
まだ終わりません。佐野昌綱はこのあとまた上杉謙信から離反。もう書ききれませんが、これまた北条氏の圧力です。謙信が川中島で武田信玄と5度目の激突をしている最中のことでした。以下は省略しますが、要するにこの時期の関東甲信越は「上杉」「武田」「北条」の三大勢力なのです。そこで生き残る。実際に生き残り続けた。これが佐野昌綱と唐沢山城の凄さと言えます。
■つわものどもが夢の跡■
関東三国志とも称される北条氏康・武田信玄・上杉謙信の勢力争い。この三勢力の動向は、ほかの関東武士たちの運命を翻弄し続けました。三人が没したのは1570年代(氏康1571・信玄1573・謙信1578)でした。唐沢山城の戦いは1560年頃から1570年の約10年。この厳しい時代に、城も潰されず、領地も奪われなかった佐野昌綱という人物。つわものですね。離反という武士としての汚名を受け入れる度量。これによって守られたものは、佐野の家と領民の暮らしでした。それこそが、当主たる者の優先課題。佐野昌綱の夢だったのだと思います。
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タグ:関東七名城
2017年09月20日
関東一の山城 唐沢山城
<本丸の石垣>
城跡巡りは基本一人ですが、この日は旧友のクルマで登城。関東一の山城を探索しました。
■唐沢山城■ からさわやまじょう
栃木県南部の唐沢山。佐野市中心部からは北方約5qに位置します。唐沢山城はその標高247mの山に築かれた中世の城。頂上が本丸、要所に曲輪を配置した山城です。説明するより下の縄張り図を見て頂くほうが早いですね。こんな感じです。
<縄張り図>現地撮影
連郭式の山城です。平面図でこの凝った構造。ここに高低差という地の利が加わります。難攻不落の名城です。この縄張り図で左手に見える山も城の一部。逆側の右手にも曲輪が配置され、下には深い谷が刻まれています。
■関東一の山城■
今年(2017年)続日本100名城に選ばれました。それはそれでめでたい話ですが、個人的には、そもそも「日本100名城」に入っていなかったことが不思議です。日本でベストテン以内とまでは言いませんが、100位だったら余裕で入れる城のはずです!※あの上杉謙信も手をやいた堅城。中世の関東としては稀な石垣。出土品も多数。こういう言い方は適切ではないかもしれませんが、適度な時期に廃城となったことから、中世のなごりを充分に感じさせる貴重な城跡です。関東を代表する、いや、関東一の山城です!※
※いろんなご意見あるかと思いますが、個人ブログですのでご容赦下さい。
■佐野氏の居城■
築城者は藤原秀郷といわれています。その子孫である佐野氏が再興し、その後代々当主が居城としてきました。特に第15代当主・佐野昌綱の時の「唐沢山城の戦い」は有名です。越後の龍・上杉謙信との間で約10度にわたって戦いながら、城が完全に落とされることはありませんでした。難攻不落の山城。関東七名城の一つに数えられる名城です。
<枡形虎口>入口
戦国期後半以降の城に多い枡形虎口(ますがたこぐち)。今は石垣だけですが、門などが設置されていた入口ですね。奥まで見えないように視界が遮られています。現地の看板だと「くい違い虎口」。直進を防ぐ効果もありますね。この「くい違い虎口」と、侵入口に設けるマス状の方形の空間。これをセットで枡形虎口と呼ぶ場合が多いですね。いざという時に攻め手を撃退しやすいようにしておくための工夫。決して珍しくはないですが、中世の城でありながら重厚感があるのがいいですね。この城の歴史は長いですが、技術的にみて江戸時代直前くらいでしょうかね。なんて、入口なのに、早くもワクワクします(入口からこんなに説明したらキリがない。そのくらい見どころの多い城跡です)。
■二大勢力の狭間■
北関東は越後の上杉氏と小田原の北条氏の二大勢力が激突する場所。普通なら両勢力に翻弄されそうなものですが、佐野氏は堅固な城と智将・佐野昌綱の才覚で何度もピンチを乗り切りました。
関東の拠点としてこの地をおさえておきたい上杉謙信は、幾度となく唐沢山城へ攻め寄せます。しかし籠城で耐え忍んだり、あるいは追い返したり、またある時は一旦降伏したり。謙信にしてみれば、当主の老獪さも含めて「思い通りにならない城」ということですね。唐沢山城が北条氏の大軍に取り囲まれた時、援軍として駆け付けたこともあります。しかし去って行くといつのまにかまた北条と上手くやっていたりする。「お前、約束が違うだろ!」と私だったら怒ってしまいますね。ただ客観的にみて、本気で唐沢山城を居城とする佐野氏を滅ぼそうとすると、攻める側もそれなりの痛手を覚悟する必要があります。戦わずして勝ちたい、そして味方になって欲しいという思いもあったのでしょう。
<大炊の井>
水が枯れたことがないという溜池です。築城の際、厳島神社に祈願して掘られました。調査の結果、深さは9mもあり、下まで石垣で覆われています。円の直径は8m。籠城戦の多かった山城にとって、城兵の強い味方ですね。
<四つ目堀と神橋>
これは山の斜面を削った堀。つまり堀切ですね。向うに立派な石の橋が見えますが、城が現役の時は木造の橋。有事には外せるようになっていました。一つ目堀から始まって、ここは四つ目堀。
<山と山の谷間>
神橋とは逆方向の四つ目堀。右手は唐沢山の頂上へ向かって帯曲輪(おびくるわ)が続きます。左手は外曲輪ということになりますが、もう少し進むと小さな山となっています。この四つ目堀、山と山を隔てる谷にもなっています。
<城内高低差>
曲輪の配置を確かめながら探索。整備されていながら、とにかく遺構が多いですね。
段差をつけた城内。ここを少しずつ登りました。
<本丸付近>
二の丸から本丸(山頂)へ登る石段。登った先には藤原秀郷を祀る神社(唐澤山神社)本殿があります。藤原秀郷はこの城の築城者であり、将門の乱を鎮圧した伝説の武将ですね。そして佐野氏の先祖。城好きに限らず、純粋にこの神社を訪問する方も多いらしく、正月にはたくさんの初詣客で賑わうそうです。
本丸周辺の石垣ですが、本当に見事です。同時に、時代を考慮すると大変珍しいですね。まだ土の城が主流の時代です。唐沢山城も、もともとは土の城。石が積まれたのは、早くても戦国末期ではないでしょうか(個人見解)。また、明治になって本丸が神社になる時に、かなり手を加えたようです。
ときどきこんな大きな石も。石垣がかなりきっちりしているところと、ややラフな場所があります。
この付近には岩山が多く、石の調達はそんなに困らなかったのかもしれません。ただ積み上げるには技術が必要。やはり中世の関東では希なケースです。凄い!
<別な登山道>
杉曲輪方面へつづく道、こちらから登城してくる方もいます。右手は谷になっています。細長い尾根を削り、曲輪を配置しています。
<城内の小山>
避来矢山(ひらいしやま)といいます。山中には大きく分けて3つの曲輪らしき区画がありました。当時どのように使われたかはよくわかりません。もっとも高い曲輪に、取り残されたような建造物を見つけました。根古屋神社跡。『跡』です。かつて藤原秀郷が建造した神社がここにあったようです。江戸時代に、麓に移されました。唐沢山城が廃城になってから、そうとう後です。不便な場所なので、移設されたということですね。現在のこの建物は、唐澤山神社に功績のあった方々の霊をまつる霊廟とのことです。
<物見へ登る道>
ちょっと戻って、これは最初の入り口(枡形虎口)付近になります。かつては物見櫓があった場所。この細い道を登りきると『天狗岩』と絶景が待っています。
<天狗岩>
ここに登って景色を眺めました。マネする方は足元気を付けて下さい。ここは崖と谷の山城です。
<奇岩>
これ天然の岩です。かつての物見櫓付近は、こんな岩ばかりです。
<関東平野>
関東平野 が一望できます。この日はやや霞んでいますが、空気が澄んでいる日は、東京の高層ビルが見えるそうです。いわゆる「関八州」が(ほぼ)見渡せる山城です。
こんな逸話があります。ここから江戸の大火が見えたので、早馬で江戸に駆け付けた当主・佐野信吉。本人は見舞いのつもりでしたが、徳川家康から「江戸を見下ろせる所に城を構えているのか」と逆に不興を買うことになりました。佐野氏が最終的にはこの堅城を放棄したことと、関係あるかもしれませんね。
■つわものどもが夢の跡■
激戦の関東で、名だたる戦国大名に何度も攻め込まれながら落ちなかった山城。1602年、佐野氏が唐沢山の麓に築いた佐野城へ移ったことで廃城となりました。攻め落とされたのではなく、自主的に幕を閉じました。
----------■唐沢山城■----------
別 名:栃本城、根古屋城
築城者:藤原秀郷
築城年:927年(延長5)
改修年:1180年(治承4)
改修者:佐野成俊(藤原成俊)※
※30年を費やし改修
再改修:1491年(延徳3)
改修者:佐野盛綱
城 主:佐野氏歴代
廃 城:1602年(慶長7)
[栃木県佐野市富士町]
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城跡巡りは基本一人ですが、この日は旧友のクルマで登城。関東一の山城を探索しました。
■唐沢山城■ からさわやまじょう
栃木県南部の唐沢山。佐野市中心部からは北方約5qに位置します。唐沢山城はその標高247mの山に築かれた中世の城。頂上が本丸、要所に曲輪を配置した山城です。説明するより下の縄張り図を見て頂くほうが早いですね。こんな感じです。
<縄張り図>現地撮影
連郭式の山城です。平面図でこの凝った構造。ここに高低差という地の利が加わります。難攻不落の名城です。この縄張り図で左手に見える山も城の一部。逆側の右手にも曲輪が配置され、下には深い谷が刻まれています。
■関東一の山城■
今年(2017年)続日本100名城に選ばれました。それはそれでめでたい話ですが、個人的には、そもそも「日本100名城」に入っていなかったことが不思議です。日本でベストテン以内とまでは言いませんが、100位だったら余裕で入れる城のはずです!※あの上杉謙信も手をやいた堅城。中世の関東としては稀な石垣。出土品も多数。こういう言い方は適切ではないかもしれませんが、適度な時期に廃城となったことから、中世のなごりを充分に感じさせる貴重な城跡です。関東を代表する、いや、関東一の山城です!※
※いろんなご意見あるかと思いますが、個人ブログですのでご容赦下さい。
■佐野氏の居城■
築城者は藤原秀郷といわれています。その子孫である佐野氏が再興し、その後代々当主が居城としてきました。特に第15代当主・佐野昌綱の時の「唐沢山城の戦い」は有名です。越後の龍・上杉謙信との間で約10度にわたって戦いながら、城が完全に落とされることはありませんでした。難攻不落の山城。関東七名城の一つに数えられる名城です。
<枡形虎口>入口
戦国期後半以降の城に多い枡形虎口(ますがたこぐち)。今は石垣だけですが、門などが設置されていた入口ですね。奥まで見えないように視界が遮られています。現地の看板だと「くい違い虎口」。直進を防ぐ効果もありますね。この「くい違い虎口」と、侵入口に設けるマス状の方形の空間。これをセットで枡形虎口と呼ぶ場合が多いですね。いざという時に攻め手を撃退しやすいようにしておくための工夫。決して珍しくはないですが、中世の城でありながら重厚感があるのがいいですね。この城の歴史は長いですが、技術的にみて江戸時代直前くらいでしょうかね。なんて、入口なのに、早くもワクワクします(入口からこんなに説明したらキリがない。そのくらい見どころの多い城跡です)。
■二大勢力の狭間■
北関東は越後の上杉氏と小田原の北条氏の二大勢力が激突する場所。普通なら両勢力に翻弄されそうなものですが、佐野氏は堅固な城と智将・佐野昌綱の才覚で何度もピンチを乗り切りました。
関東の拠点としてこの地をおさえておきたい上杉謙信は、幾度となく唐沢山城へ攻め寄せます。しかし籠城で耐え忍んだり、あるいは追い返したり、またある時は一旦降伏したり。謙信にしてみれば、当主の老獪さも含めて「思い通りにならない城」ということですね。唐沢山城が北条氏の大軍に取り囲まれた時、援軍として駆け付けたこともあります。しかし去って行くといつのまにかまた北条と上手くやっていたりする。「お前、約束が違うだろ!」と私だったら怒ってしまいますね。ただ客観的にみて、本気で唐沢山城を居城とする佐野氏を滅ぼそうとすると、攻める側もそれなりの痛手を覚悟する必要があります。戦わずして勝ちたい、そして味方になって欲しいという思いもあったのでしょう。
<大炊の井>
水が枯れたことがないという溜池です。築城の際、厳島神社に祈願して掘られました。調査の結果、深さは9mもあり、下まで石垣で覆われています。円の直径は8m。籠城戦の多かった山城にとって、城兵の強い味方ですね。
<四つ目堀と神橋>
これは山の斜面を削った堀。つまり堀切ですね。向うに立派な石の橋が見えますが、城が現役の時は木造の橋。有事には外せるようになっていました。一つ目堀から始まって、ここは四つ目堀。
<山と山の谷間>
神橋とは逆方向の四つ目堀。右手は唐沢山の頂上へ向かって帯曲輪(おびくるわ)が続きます。左手は外曲輪ということになりますが、もう少し進むと小さな山となっています。この四つ目堀、山と山を隔てる谷にもなっています。
<城内高低差>
曲輪の配置を確かめながら探索。整備されていながら、とにかく遺構が多いですね。
段差をつけた城内。ここを少しずつ登りました。
<本丸付近>
二の丸から本丸(山頂)へ登る石段。登った先には藤原秀郷を祀る神社(唐澤山神社)本殿があります。藤原秀郷はこの城の築城者であり、将門の乱を鎮圧した伝説の武将ですね。そして佐野氏の先祖。城好きに限らず、純粋にこの神社を訪問する方も多いらしく、正月にはたくさんの初詣客で賑わうそうです。
本丸周辺の石垣ですが、本当に見事です。同時に、時代を考慮すると大変珍しいですね。まだ土の城が主流の時代です。唐沢山城も、もともとは土の城。石が積まれたのは、早くても戦国末期ではないでしょうか(個人見解)。また、明治になって本丸が神社になる時に、かなり手を加えたようです。
ときどきこんな大きな石も。石垣がかなりきっちりしているところと、ややラフな場所があります。
この付近には岩山が多く、石の調達はそんなに困らなかったのかもしれません。ただ積み上げるには技術が必要。やはり中世の関東では希なケースです。凄い!
<別な登山道>
杉曲輪方面へつづく道、こちらから登城してくる方もいます。右手は谷になっています。細長い尾根を削り、曲輪を配置しています。
<城内の小山>
避来矢山(ひらいしやま)といいます。山中には大きく分けて3つの曲輪らしき区画がありました。当時どのように使われたかはよくわかりません。もっとも高い曲輪に、取り残されたような建造物を見つけました。根古屋神社跡。『跡』です。かつて藤原秀郷が建造した神社がここにあったようです。江戸時代に、麓に移されました。唐沢山城が廃城になってから、そうとう後です。不便な場所なので、移設されたということですね。現在のこの建物は、唐澤山神社に功績のあった方々の霊をまつる霊廟とのことです。
<物見へ登る道>
ちょっと戻って、これは最初の入り口(枡形虎口)付近になります。かつては物見櫓があった場所。この細い道を登りきると『天狗岩』と絶景が待っています。
<天狗岩>
ここに登って景色を眺めました。マネする方は足元気を付けて下さい。ここは崖と谷の山城です。
<奇岩>
これ天然の岩です。かつての物見櫓付近は、こんな岩ばかりです。
<関東平野>
関東平野 が一望できます。この日はやや霞んでいますが、空気が澄んでいる日は、東京の高層ビルが見えるそうです。いわゆる「関八州」が(ほぼ)見渡せる山城です。
こんな逸話があります。ここから江戸の大火が見えたので、早馬で江戸に駆け付けた当主・佐野信吉。本人は見舞いのつもりでしたが、徳川家康から「江戸を見下ろせる所に城を構えているのか」と逆に不興を買うことになりました。佐野氏が最終的にはこの堅城を放棄したことと、関係あるかもしれませんね。
■つわものどもが夢の跡■
激戦の関東で、名だたる戦国大名に何度も攻め込まれながら落ちなかった山城。1602年、佐野氏が唐沢山の麓に築いた佐野城へ移ったことで廃城となりました。攻め落とされたのではなく、自主的に幕を閉じました。
----------■唐沢山城■----------
別 名:栃本城、根古屋城
築城者:藤原秀郷
築城年:927年(延長5)
改修年:1180年(治承4)
改修者:佐野成俊(藤原成俊)※
※30年を費やし改修
再改修:1491年(延徳3)
改修者:佐野盛綱
城 主:佐野氏歴代
廃 城:1602年(慶長7)
[栃木県佐野市富士町]
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2017年09月19日
城好きのワンダーランド駅(佐野駅)
<佐野駅>
改札を出て鳥肌がたちました。駅がそのまま城跡に直結しています。ここは栃木県の佐野駅。城跡好きにとっては夢の駅です。ディズニー好きがディズニーランド・ステーションに到着した時、きっとこういう高揚感を味わうのでしょう(たぶん)。
昔ながらの風情のある駅舎を想像していましたが、近代的な橋上駅(きょうじょうえき)。プラットホームを南北に跨いでいます。改札を出て、南側へ進めば、その先は長い階段。地表に降り立つには、そこを下らなくてはなりません。そちらが駅南口になります。さて、画像は逆の側。こっちは北口、そして「城山公園口」となります。この美しい響きの「城山公園口」は、そっちに城山がありますよという曖昧なレベルのものではありません。南北に細長い丘へ『直結』しています。もうこれだけで、駅の北側の城と南側の平地の高低差、つまり地形を実感できますね。そしてこの丘こそが、佐野氏の居城だった佐野城。もろもろの事情から堅城・唐沢山城を捨てて引っ越した城跡です。
■城跡が豊富な佐野■
この日は南口(つまり階段を降りたところ)で待ち合わせ。友人のクルマで唐沢山へ向かう予定でした。ただ電車の都合で早く到着したため、急いでこの駅直結型山城を探索。
<佐野城跡>
[佐野市若松町]
佐野市を訪れる城好きの人のお目当ては、当然「関東屈指の山城」である唐沢山城でしょう。私もです。ただ「ついでに寄ってみた」という人たちが「えっ予想以上に遺構がある」と口をそろえて驚くのがここ佐野城です。唐沢山城ほど期待していない。そして、事前に調べてもみない。だからこそ逆に満足するようです。
<唐沢山城跡>
[佐野市富士町]
人気の山城。上杉謙信も手をやいた難攻不落の城です。佐野を代表する、いや、関東を代表する山城です。関東七名城の一つです。
佐野市内には他にも沢山の城跡が残されています。赤見城、椿田城、跡蓬山城などなど。城好き、特に中世の城が好きな人にとってはワンダーランド。本気で見て回ったらとても一日では足りません。
<例:赤見城跡>
[佐野市赤見町]
佐野駅はそのワンダーランドの入口。城巡りは、現地の駅から城跡までどうするか、事前に考えておく必要がありますね。これは仕方ない。佐野駅は、到着するとまず「徒歩で探索できる中世の城跡」が出迎えてくれるのです。これは嬉しいですね。ここから始まる佐野市内の城跡巡りに、期待が膨らむ駅です。
---------■佐野駅■---------
開 業:1888年
橋上駅舎:2003年
乗り入れ:JR東日本・東武鉄道
[栃木県佐野市若松町]
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改札を出て鳥肌がたちました。駅がそのまま城跡に直結しています。ここは栃木県の佐野駅。城跡好きにとっては夢の駅です。ディズニー好きがディズニーランド・ステーションに到着した時、きっとこういう高揚感を味わうのでしょう(たぶん)。
昔ながらの風情のある駅舎を想像していましたが、近代的な橋上駅(きょうじょうえき)。プラットホームを南北に跨いでいます。改札を出て、南側へ進めば、その先は長い階段。地表に降り立つには、そこを下らなくてはなりません。そちらが駅南口になります。さて、画像は逆の側。こっちは北口、そして「城山公園口」となります。この美しい響きの「城山公園口」は、そっちに城山がありますよという曖昧なレベルのものではありません。南北に細長い丘へ『直結』しています。もうこれだけで、駅の北側の城と南側の平地の高低差、つまり地形を実感できますね。そしてこの丘こそが、佐野氏の居城だった佐野城。もろもろの事情から堅城・唐沢山城を捨てて引っ越した城跡です。
■城跡が豊富な佐野■
この日は南口(つまり階段を降りたところ)で待ち合わせ。友人のクルマで唐沢山へ向かう予定でした。ただ電車の都合で早く到着したため、急いでこの駅直結型山城を探索。
<佐野城跡>
[佐野市若松町]
佐野市を訪れる城好きの人のお目当ては、当然「関東屈指の山城」である唐沢山城でしょう。私もです。ただ「ついでに寄ってみた」という人たちが「えっ予想以上に遺構がある」と口をそろえて驚くのがここ佐野城です。唐沢山城ほど期待していない。そして、事前に調べてもみない。だからこそ逆に満足するようです。
<唐沢山城跡>
[佐野市富士町]
人気の山城。上杉謙信も手をやいた難攻不落の城です。佐野を代表する、いや、関東を代表する山城です。関東七名城の一つです。
佐野市内には他にも沢山の城跡が残されています。赤見城、椿田城、跡蓬山城などなど。城好き、特に中世の城が好きな人にとってはワンダーランド。本気で見て回ったらとても一日では足りません。
<例:赤見城跡>
[佐野市赤見町]
佐野駅はそのワンダーランドの入口。城巡りは、現地の駅から城跡までどうするか、事前に考えておく必要がありますね。これは仕方ない。佐野駅は、到着するとまず「徒歩で探索できる中世の城跡」が出迎えてくれるのです。これは嬉しいですね。ここから始まる佐野市内の城跡巡りに、期待が膨らむ駅です。
---------■佐野駅■---------
開 業:1888年
橋上駅舎:2003年
乗り入れ:JR東日本・東武鉄道
[栃木県佐野市若松町]
お城巡りランキング
2017年09月14日
水郷の平城 土浦城のなごり
つわものどもが夢の跡
水郷の城跡を訪ねました。
<本丸櫓門>やぐらもん
櫓の二階に設置した太鼓で時を知らせたことから太鼓櫓門とも呼ばれたそうです。
■築城から戦国期■ 小田氏領有
室町時代の中期、地元豪族の小田氏に属する若泉三郎(または今泉三郎)が城を築いたことが始まりと考えられています。それ以前に、平将門が砦を築いたという伝説もあります。それが事実なら最初の築城は平安時代末期ということになりますが、明確な文献がなく、若泉三郎築城とするのが一般的です。
のちに、やはり小田氏家臣の菅谷勝貞が城主となり、以降は菅谷氏の城となります。その菅谷氏、戦乱の関東で小田原北条氏側についていました。これにより、秀吉の小田原征伐の際には天下軍(佐竹・徳川ほか)に攻められ、居城である土浦城は落城。菅谷氏も滅ぼされてしまいました。
主君の小田氏ですが、もともと宇都宮氏や小山氏などとともに関東八屋形(かんとうはちやかた)に名を連ねた名門家です。しかし、この頃には弱小と言わざるを得ない小大名。15代当主の氏治は、小田城(現在の茨城県つくば市)を拠点に、古くからの家臣団とともに先祖代々の領地を必死に守り続けますが、佐竹・上杉・北条といった名だたる戦国大名にはとてもかないません。何度も敗れ、その度に家臣の城であるここ土浦城へ逃げ込んだそうです。いわば避難場所だったわけですね。その土浦城も失い、最後は秀吉の北条征伐に参加しなかったことが原因で、小田氏は滅ぼされてしまいました。
<本丸跡>
■江戸時代■ 統治の城
徳川家康が関東に入ると、長年小田氏の所領だった土浦は、結城城(茨城県結城市)の結城秀康の所領となりました。秀康、つまり家康の次男ですね。その秀康が1601年に越前国北庄へ移ると、関ヶ原で功のあった松平信一が下総国布川から三万五千石で入封。土浦藩が誕生します。その後も何度か藩主が変わりますが、長く定着したのは土屋氏。世襲で十代。老中まで出す名家となり、常陸国では水戸藩に次ぐ領地を支配すことになりました。
■土屋氏■元武田家臣の血筋
老中・政直の時には9万5000石に。その政直、第5代将軍・綱吉から吉宗まで、なんと四代にわたって仕えたといいますから、本当に幕府の中核だったのですね。凄い人物です。そもそもこの土屋氏、ご先祖は武田信玄の家臣でした。信玄・勝頼の二代に仕えて、勇猛な戦国武将として名高いた土屋昌恒(まさつね)の子孫です。土屋昌恒は武勇もさることながら、忠義の武士としても有名です。信玄亡きあと武田家からの離反が相次いでも、決して主君を見捨てず、織田軍に滅ぼされる瞬間(天目山の戦い)まで勝頼と行動を共にしました。最後は主君が自害する時間を稼いで討ち死に。敵方も絶賛する壮絶な最期でした。この影響もあるのでしょう。昌恒の遺児は、徳川家康に引き取られます。土浦藩の藩主の座を継承した土屋氏は、その子孫ということになります。
ここでちょっと話が逸れますが(戦国武将好きなのでお許し下さい)、赤穂浪士の仇討の時、吉良邸の隣の屋敷は土屋さん。この土屋さんも土屋昌恒の子孫です。こちらは直系。ひ孫にあたる土屋逵直(みちなお⇒主税の呼び名で知られているので以下は主税<チカラ>)は、本来なら上総久留里藩主となるはずでしたが、事情があってこの時は旗本となっていました(幕末まで続きます)。そんな名のある土屋家が、仇討に手を貸す訳にはいきませんが、夜陰に灯りを掲げ、間接的に忠義の浪人たちを手助けしました。この土屋主税の配慮、感謝する赤穂浪士たち、映画やドラマでもよく取り上げられるシーンです。泣かせるシーンです。
(長くなりすみません。要するにその旗本・土屋氏と土浦藩主・土屋氏は遠縁ということです。)
【昌恒の血筋】片手千人斬り伝説の血筋
昌恒⇒忠直⇒(長男)利直⇒ 直樹⇒ 逵直(主税)
|⇒(次男)数直⇒ 政直
■城のなごり■
<枡形>
本丸出入口です。門も雰囲気があります。
<東櫓>
内部を見学できます。
現在の姿は亀城公園。かつての土浦城(江戸時代になって整備された土浦城)の本丸・二ノ丸跡です。
印象としは、あくまで城マニアとしての感想ですが、やや整備されすぎています。ただ都市化が進む街中、よくぞこの平らな区画を温存してくれたと感謝したくもなります。
<土塁>
遺構も残されています。
■水郷の城郭■
土浦は霞ヶ浦に複数の川注ぎ込む低地。土浦城はそこに築かれた水郷の平城(ひらじろ)です。築城当時は、戦のための地の利はあるものの、水に翻弄される砦だったと思われます。時を経て、城の役割も変わり、建築・土木技術の向上、度重なる改修により、土浦城は水郷の近世城郭として完成されていったのでしょう。城の主要な曲輪だけでなく、武家屋敷や町屋を含めて堀で取り囲む総構えであったと言われています。
<水堀>
雰囲気がいいですね。
この城の別名は亀城(きじょう)。めぐらされた堀により、本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことからそう呼ばれたそうです。きっと城が現役の頃は、もっとスケールの大きい堀だったのでしょうね。
駅からは亀城通りを歩いて城跡まで行きましたが、その道、もともとは川(川口川)でした。城の水堀と運河で繋がっていたそうです。海運で栄えた城下町らしい構図ですね。城そのものだけでなく、町とともに整備された完成度の高い城郭だったと思われます。
■つわものどもが夢の跡■
街そのものの治水が興味深い城跡でした。廃城となったあとも、水との取り組みは続いています。
----------■土浦城■----------
別 名:亀城(きじょう)
築城者:若泉三郎
築城年:室町中期 (戦国期以前)
改修者:松平信一・信吉ほか
城 主:若泉氏・小田氏・松平氏
西尾氏・朽木氏・土屋氏
[茨城県土浦市中央一丁目]
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水郷の城跡を訪ねました。
<本丸櫓門>やぐらもん
櫓の二階に設置した太鼓で時を知らせたことから太鼓櫓門とも呼ばれたそうです。
■築城から戦国期■ 小田氏領有
室町時代の中期、地元豪族の小田氏に属する若泉三郎(または今泉三郎)が城を築いたことが始まりと考えられています。それ以前に、平将門が砦を築いたという伝説もあります。それが事実なら最初の築城は平安時代末期ということになりますが、明確な文献がなく、若泉三郎築城とするのが一般的です。
のちに、やはり小田氏家臣の菅谷勝貞が城主となり、以降は菅谷氏の城となります。その菅谷氏、戦乱の関東で小田原北条氏側についていました。これにより、秀吉の小田原征伐の際には天下軍(佐竹・徳川ほか)に攻められ、居城である土浦城は落城。菅谷氏も滅ぼされてしまいました。
主君の小田氏ですが、もともと宇都宮氏や小山氏などとともに関東八屋形(かんとうはちやかた)に名を連ねた名門家です。しかし、この頃には弱小と言わざるを得ない小大名。15代当主の氏治は、小田城(現在の茨城県つくば市)を拠点に、古くからの家臣団とともに先祖代々の領地を必死に守り続けますが、佐竹・上杉・北条といった名だたる戦国大名にはとてもかないません。何度も敗れ、その度に家臣の城であるここ土浦城へ逃げ込んだそうです。いわば避難場所だったわけですね。その土浦城も失い、最後は秀吉の北条征伐に参加しなかったことが原因で、小田氏は滅ぼされてしまいました。
<本丸跡>
■江戸時代■ 統治の城
徳川家康が関東に入ると、長年小田氏の所領だった土浦は、結城城(茨城県結城市)の結城秀康の所領となりました。秀康、つまり家康の次男ですね。その秀康が1601年に越前国北庄へ移ると、関ヶ原で功のあった松平信一が下総国布川から三万五千石で入封。土浦藩が誕生します。その後も何度か藩主が変わりますが、長く定着したのは土屋氏。世襲で十代。老中まで出す名家となり、常陸国では水戸藩に次ぐ領地を支配すことになりました。
■土屋氏■元武田家臣の血筋
老中・政直の時には9万5000石に。その政直、第5代将軍・綱吉から吉宗まで、なんと四代にわたって仕えたといいますから、本当に幕府の中核だったのですね。凄い人物です。そもそもこの土屋氏、ご先祖は武田信玄の家臣でした。信玄・勝頼の二代に仕えて、勇猛な戦国武将として名高いた土屋昌恒(まさつね)の子孫です。土屋昌恒は武勇もさることながら、忠義の武士としても有名です。信玄亡きあと武田家からの離反が相次いでも、決して主君を見捨てず、織田軍に滅ぼされる瞬間(天目山の戦い)まで勝頼と行動を共にしました。最後は主君が自害する時間を稼いで討ち死に。敵方も絶賛する壮絶な最期でした。この影響もあるのでしょう。昌恒の遺児は、徳川家康に引き取られます。土浦藩の藩主の座を継承した土屋氏は、その子孫ということになります。
ここでちょっと話が逸れますが(戦国武将好きなのでお許し下さい)、赤穂浪士の仇討の時、吉良邸の隣の屋敷は土屋さん。この土屋さんも土屋昌恒の子孫です。こちらは直系。ひ孫にあたる土屋逵直(みちなお⇒主税の呼び名で知られているので以下は主税<チカラ>)は、本来なら上総久留里藩主となるはずでしたが、事情があってこの時は旗本となっていました(幕末まで続きます)。そんな名のある土屋家が、仇討に手を貸す訳にはいきませんが、夜陰に灯りを掲げ、間接的に忠義の浪人たちを手助けしました。この土屋主税の配慮、感謝する赤穂浪士たち、映画やドラマでもよく取り上げられるシーンです。泣かせるシーンです。
(長くなりすみません。要するにその旗本・土屋氏と土浦藩主・土屋氏は遠縁ということです。)
【昌恒の血筋】片手千人斬り伝説の血筋
昌恒⇒忠直⇒(長男)利直⇒ 直樹⇒ 逵直(主税)
|⇒(次男)数直⇒ 政直
■城のなごり■
<枡形>
本丸出入口です。門も雰囲気があります。
<東櫓>
内部を見学できます。
現在の姿は亀城公園。かつての土浦城(江戸時代になって整備された土浦城)の本丸・二ノ丸跡です。
印象としは、あくまで城マニアとしての感想ですが、やや整備されすぎています。ただ都市化が進む街中、よくぞこの平らな区画を温存してくれたと感謝したくもなります。
<土塁>
遺構も残されています。
■水郷の城郭■
土浦は霞ヶ浦に複数の川注ぎ込む低地。土浦城はそこに築かれた水郷の平城(ひらじろ)です。築城当時は、戦のための地の利はあるものの、水に翻弄される砦だったと思われます。時を経て、城の役割も変わり、建築・土木技術の向上、度重なる改修により、土浦城は水郷の近世城郭として完成されていったのでしょう。城の主要な曲輪だけでなく、武家屋敷や町屋を含めて堀で取り囲む総構えであったと言われています。
<水堀>
雰囲気がいいですね。
この城の別名は亀城(きじょう)。めぐらされた堀により、本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことからそう呼ばれたそうです。きっと城が現役の頃は、もっとスケールの大きい堀だったのでしょうね。
駅からは亀城通りを歩いて城跡まで行きましたが、その道、もともとは川(川口川)でした。城の水堀と運河で繋がっていたそうです。海運で栄えた城下町らしい構図ですね。城そのものだけでなく、町とともに整備された完成度の高い城郭だったと思われます。
■つわものどもが夢の跡■
街そのものの治水が興味深い城跡でした。廃城となったあとも、水との取り組みは続いています。
----------■土浦城■----------
別 名:亀城(きじょう)
築城者:若泉三郎
築城年:室町中期 (戦国期以前)
改修者:松平信一・信吉ほか
城 主:若泉氏・小田氏・松平氏
西尾氏・朽木氏・土屋氏
[茨城県土浦市中央一丁目]
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