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2018年03月29日

鬼門を守った徳川家菩提寺(寛永寺)

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は寛永寺。増上寺と並ぶ徳川家菩提寺です。

<徳川家霊廟>
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徳川将軍15代のうち6人が眠る場所です。


■寛永寺■かんえいじ
<根本中堂>こんぽんちゅうどう
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天台宗関東総本山。江戸時代初期、徳川家康の側近となり、江戸の都市計画に強い影響を与えた天海によって開山されたお寺です。天海は家康・秀忠・家光の三代から信頼を得た天台宗の層寛永寺の建立は寛永2年で三代将軍家光の時です。創建時の元号がそのまま使われているわけですね。今と違って、これは結構重みのあることなのではないでしょうか。

sirononagori215 (4).JPG

<書院>
sirononagori215ad (2).JPG
根本中堂の裏手。いい雰囲気です。非公開ですが、ここにはあの徳川慶喜が蟄居していた部屋があるそうです。

<境内>
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むかしの寛永寺は、いまでいう上野公園をも含んでいたということですから、そうとう広かったわけですね。上野公園と言えば、思い出すのは上野の山と不忍池(しのばずのいけ)。この立地に深い意味があったようです。


■東の比叡山■
寛永寺の山号は東叡山(とうえいざん)。「東の比叡山」という意味ですね。比叡山は京の都からみて北東(丑寅)。ここに建立された延暦寺は、都の鬼門を守る役割を担ってきました。「東の比叡山」である寛永寺の存在は、この構図とまったく同じです。延暦寺にならって江戸の北東、つまり鬼門の方角に建てられました。ちなみに、反対側の南西、つまり裏鬼門には増上寺が位置しているとも言われています。鬼門と裏鬼門にある2つの寺が、徳川家の菩提寺ということになりますね。ただこれには諸説あるので、増上寺のことはあくまで参考程度に。

そして上野の不忍池ですが、これは琵琶湖に見立てられたと考えて間違いありません。まぁちょっとスケールに違いがありますが、存在する意味として受け取って下さい。弁財天が祀られている不忍池の中の島は、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)を模したといわれています。

天海はひとりの僧というより徳川家のブレーン的な存在。江戸の町は風水を背景に設計されたという話がよく聞かれますが、天海の影響が強くあらわれていることは間違いありません。

この風水の考え方(四神相応など)も興味深いところではありますが、その捉え方にも諸説ある上に、私本人も薄っぺらな知識しかないのでまたいつか。ただ北東の方位を鬼門と呼び、鬼が出入りする方角として忌み嫌われてきたことは良く知られていますよね。城郭巡りをしていると、城からみて北東に寺や神社が設けられている光景をよく目にします。これは鬼門を封じているわけですね。


<説明板>
sirononagori215 (3).JPG
現地に大きな説明板が設置されています。寺院に精通しているわけではないので助かります。これなら予備知識少な目でいきなり訪問しても大丈夫。

■江戸に二つの菩提寺■
徳川家の菩提寺は?と聞かれると、まず港区の『増上寺』が思い浮かびます。そういう方、結構多いのではないでしょうか。しかし今回訪問の寛永寺も徳川家菩提寺。どっちが本当?ではなく、両方です。

sirononagori215 (6).JPG

江戸に入った家康が、徳川家菩提寺と定めたのは増上寺でした。増上寺はもともとあった寺です。これに対し、ここ寛永寺は江戸時代になってから建立された寺。当初はあくまで徳川家の祈祷寺という位置づけでしたが、先述のような天海の影響力もあり、まぁいろいろと経緯はあったようですが、結果としては増上寺と並ぶ徳川家菩提寺となっています。

ちょっと状況を整理すると、15人の将軍の墓所は下記の通り。家康と家光の墓所は日光、最後の将軍である慶喜は諸事情から別となっているので、残るは12人ですね。

●寛永寺
家綱(4代)・綱吉(5代)・吉宗(8代)・家治(10代)・家斉(11代)・家定(13代)

●増上寺
秀忠(2代)・家宣(6代)・ 家継(7代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)

結果的なのか、意図的なのか、とにかく6人ずつとなっています。


■上野戦争■寺の荒廃
戊辰戦争の時に「上野の山」で戦闘があったことは良く知られていますね。この時に旧幕府軍(江戸城の無血開城に不満を持つ彰義隊)が集結したのがここ寛永寺でした。これを新政府軍が包囲。そして戦闘に至りました。江戸時代を通して保たれた寛永寺の姿は、この時に失われました。また、寺領の大半は新政府により没収となったことから、すぐに復興というわけにはいかなかったようです。

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現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院から移築されたもの。もともと寛永寺にあった根本中堂は、彰義隊と新政府軍の戦いの際に焼失してしまいました。


■徳川歴代将軍御霊廟■
さて、本日のテーマの墓所へ

<勅額門>ちょくがくもん
sirononagori215 (8).JPG
第二次世界大戦で、お墓に付随する貴重な建造物の大半は焼失したとのこと。増上寺もそうでした。とても残念でですね。ただこの門は難を逃れました。とても貴重です。

<重要文化財>
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重要文化財に指定されています。

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6人の将軍がこの門の奥で眠られているわけですね。

綱吉吉宗は歴代将軍の中でも比較的人気者。そのお二人がここ寛永寺。あまり不謹慎なことは言えませんが、将軍さまの人気度合だと、もう一つの菩提寺である増上寺に勝るかもしれませんね。私個人は戦国武将ファンなので、家康の後継者であり、信康や秀康の弟である秀忠に思い入れがありますが、さて一般的にはどうなんでしょう。

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将軍を中心に説明してきましたが、あの篤姫(天璋院)のお墓もこの奥です。ちょっと寛永寺が有利ですかね。逆に、なおさら増上寺を応援したくなりました。

sirononagori215 (10).JPG
あくまで墓所ですが、とても新鮮な気分になりました。今に残る徳川幕府のなごり。また訪問したいですね。

■訪問:寛永寺
[東京都台東区上野桜木]


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---------- 画像追加 ----------
上野公園を訪問した時の画像を追加で貼っておきます。

<東叡山全景>
Map-Kaneiji.JPG
現在の上野公園一帯が寛永寺の境内でした。

<清水観音堂>
Kiyomyzu-kannondo.JPG
Kiyomyzukannondo-Ueno.JPG
京都の清水寺を模した舞台造りのお堂です。不忍池を見下ろせる斜面上に築かれました。

<旧寛永寺五重塔>
Kyu-Kaneiji-gojyu-no-to.JPG
重要文化財です

<上野東照宮>
Ueno-Toshogu-Shrine-Dedicated-spirit-Tokugawa-Ieyasu.JPG
寛永寺の境内に創建された東照社が上野東照宮のはじまりです。こちらも重要文化財です。
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