南部氏の居城、盛岡城を訪問しました。現在は盛岡城跡公園として整備されています。市街地を進んで行くと、心の準備もなく目の前に現れる石垣に目を奪われます。
「こんな完璧な造りなのか・・・」
<目をひく石垣>
東北地方において、これほどの石垣は希です。
■東北の名城■
城跡は盛岡駅から1kmほど。市街地にあり、比較的楽に訪問できます。旧北上川〈明治の治水工事以前の北上川〉と中津川の合流地点に位置する河岸段丘を利用した城。当時としてはかなり高度な技術を駆使して石垣か築かれました。東北三名城として、会津若松城、白河城と並び称される名城。日本百名城にも選ばれています。
〈北上川〉
盛岡市内を流れる北上川。奥にそびえ立つのは標高2千メートル級の山「岩手山」です。
<石垣の城>
しっかりとした造り。縄張りの分類だと「連郭式」です。
■南部の城■甲斐源氏の一族
南部氏は東北地方の北部(青森県三戸郡・八戸市周辺)を基盤に勢力を拡大した大名。武田氏と同じ甲斐源氏の流れをくむ名門の血筋です。もともとは三戸城を居城としていましたが、豊臣軍により九戸政実が滅ぼされると、九戸氏の居城だった九戸城へ移ります。ただ、統治する範囲が広がった南部氏にとって、九戸城は位置的に不便でした。更に、野心家の伊達政宗と領地が隣接することから、拠点をより南へ移してけん制する必要があったと考えられています。
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■西国の影響■
築城者の南部信直(南部氏26代当主)は、時の天下人・豊臣秀吉と良好な関係を保っていましたので、ここへ移る前の九戸城の改修がそうであったように、西国大名の支援を受けて城を築いたようです。
盛岡市のホームページでは「城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言よるもの」とあります。九戸城を改修したのは蒲生氏郷でした(改修して名を福岡城と改めましたが、その呼び方は後の時代に引き継がれず)。浅野長政、そして蒲生氏郷。助っ人の豪華さからして、南部氏は豊臣家から大変な支援を受けていたことになりますね。背景に「東北地方を何とか治めねば」という豊臣側の意図が見え隠れしています。一方で、南部の家督問題で身内と争った信直は、天下人に服従することで、当主としての正統性を得ました。お互いにとって好都合だったのかも知れませんね。
<石垣@乱積>
石垣の積み方で分類すると「乱積(らんづみ)」。 不均一な石を積み上げていきます。
<石垣A布積>
こちらは「布積(ぬのづみ)」。ある程度加工してほぼサイズを揃えた石を積み上げます。
ひとくちに石垣と言っても、場所によって石の加工具合や積み方が異なります。城内の縄張り(曲輪の配置など)とともに、こういったところを見ながら探索するのも楽しみの一つです。
<石垣B隅石>
石垣を積む時、角になる部分の強度は重要。この部分に使われる石を隅石(すみいし:「角石」)と呼びます。
■盛岡城の別名■不来方城
「不来方城 ( こずかたじょう ) 」と言った場合、一般的にはこの盛岡城を指しています。不来方は盛岡のもともとの地名。実は盛岡城築城以前から不来方には別の城があったことから、正確にはこれを指して「不来方城」と呼ぶそうです。ただまぁ私も一般的に通っている言い方を真似たいと思います。元々の城は「不来方城の前身」ということで。その「不来方」という地名ですが、南部藩主が「心悪しき文字」として嫌って「森ヶ岡」に改め、のちに「盛岡」となったようです。
<城内>
11月中旬。城内もすっかり秋です。
■つわものどもが夢の跡■
<盛岡城からの眺め>
南部氏の「中興の祖」とまで呼ばれる南部信直。秀吉に従い朝鮮出兵にも従事しますが(海は渡らず肥前名護屋城への参陣まで)、その後は広大な領内の基盤固めに努めました。盛岡城は1598年に築城が開始されます。しかし翌年の1599年に信直は病没。城の完成を見ることはありませんでした。没した場所は、かつて信直が天下軍の力を借りて滅ぼした九戸政実の居城・九戸城でした。
------■盛岡城■------
別 名:不来方城
築城者:南部信直(26代当主)
築城年:1598年
改修者:南部重直(28代当主)
城 主:南部氏
廃城年:1871年
[岩手県盛岡市内丸]
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