<豪姫住居遺址説明板>
ここはあの豪姫の屋敷跡なのかぁ
詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。
『Go-Hime was the fourth daugther of Maeda …』
はい
ちょっと撮影に失敗してしまいました。転記も和訳も厳しいので、いつも通り奥の日本語版にします。
『豪姫は一五七四年(天正二)、加賀藩藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称される。
一六〇〇年(慶長五)、関ヶ原の合戦に敗れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より粧田千五百石を与えられ、この辺りで居住したと文献は伝えている。
一六三四年(寛永十一)五月二十三日、豪姫はこの地で六十年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。』
前田家で生まれ、豊臣家の養女となり、宇喜多家に嫁いだ。凄い経歴です。
秀吉や正室の寧々に寵愛された豪姫と、秀吉から信頼され、豊臣政権下で五大老まで務めた57万石を領する岡山城主・宇喜多秀家という夫婦。こういう言い方もなんですが、当時のセレブ同士の結婚です。何ごと無ければ、日本史素人の私の記憶に残ることもなかったかもしれません。
何ごと無ければ…
ご存じの通り、関ヶ原の戦いにおいて、宇喜多秀家の率いる軍勢は西軍の主力でした。活躍するものの東軍の勝利。宇喜多氏は身分を剥奪され所領も没収となりました。説明文にもある通り秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰ることになりました。藩主となっていた弟・前田利常から支援を受けて、この辺りで居住したようです。
豪姫にしてみれば、夫だけでなく、授かった子供まで島流しとなったわけです。当時の八丈島は、食糧をはじめ物資が不足していました。豪姫の必死の働きかけもあり、幕府の許可を得て、加賀前田家は島に流された宇喜多家への支援を始めました。その支援は豪姫なきあとも、そして秀家亡き後も続き、なんと江戸時代が終わるまで継続しました。別な見かたをすれば、徳川幕府が宇喜多家を許すことはありませんでした。
やがて明治政府から罪を許され、宇喜多秀家の子孫は八丈島から、下屋敷のあった東京の板橋へ移ったそうです。そうとう先の話となりましたが、豪姫の願いが叶ったということですね。
<黒門前緑地>
豪姫は八丈島へ渡る機会に恵まれることもないまま、この地で亡くなりました(1634年)
■訪問:豪姫の屋敷跡
(黒門前緑地)
[石川県金沢市丸の内]5-16
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-----------( 追 記 )-----------
■黒門前緑地について■
この緑地は金沢地方検察庁検事正官舎の敷地を整備したもので、かつての官舎の一部、そしてアドレナリンの発見などで世界的に知られる化学者・高峰譲吉博士の家屋が移築され、日本庭園風の公園となっています。豪姫が暮らした屋敷は残されていませんが、敷地内は建物も含めて自由に見学できます。
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
「豪姫住居遺址」
・金沢市HP
「金沢市の紹介」
>施設案内> 黒門前緑地
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/midoritohananoka/gyomuannai/4/1/6346.html
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