深谷城の支城的な役割を担ったとされる東方城跡を訪ねました。
<東方城跡>ひがしがたじょう
■東方城■
築城時期については定かではありませんが、深谷上杉氏家臣の城だったと伝わりますので、室町時代には既に存在していたと思われます。
深谷上杉氏は上杉氏諸家のひとつで、深谷城を本拠に武蔵国で一定の勢力を誇っていました。しかし戦国期に突入して、小田原の北条氏の勢力が関東に及ぶとこれに服従。その北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされると、所領没収となりました。
関東にたくさんあった中世の城は、このタイミングで廃城となるケースが多いですね。しかし今回訪問の東方城は、もうちょっとだけ城としての役割を担うことになります。関東へやってきた家康の家臣・松平康長が1万石の所領で東方城へ入ることに。康長は家康の古からの家臣で、先述の小田原征伐でも上野白井城を落とす武功を挙げています。そういった戦歴を経て、1万石とともに城を与えられたわけですね。
康長は関ヶ原の戦でも活躍し、これが認められて上野国白井藩(群馬県渋川市)に加封されることになります(1601年)。東方城はこの頃に廃城となったと思われます。
<現地到着>
この道もかつての城のなごりでしよう。右手は明らかに土塁です。左側も土塁だとすると二重土塁でしょうか。あるいは堀切?
<土塁の上>
土塁の上に登って撮影。城は原型を留めていませんが、しっかりとした遺構が確認できます。
<土塁の上から見た曲輪>
ただし藪の中なので、探索は一苦労。全体の一部なのか、あるいはこの空間だけの単郭だったのか、ここだけでは判断できず。
<曲輪の中>
土塁から降りて曲輪の中へ
いい感じの土塁が曲輪を囲んでいます。ただ身動きがとれないことと、窮屈な空間に若干の不安を感じ、一旦外へ出てることにしました。
道を下って正面と思われる側に回ってみました。
<虎口>
曲輪の北側です。ここがむかしからの入り口なのでしょうか。城跡を縁取るように、水路が施されています。
だいたいこんな感じですが、草木が多くて全体が良く分かりませんね
<上から撮影>
さきほどの曲輪らしき場所を高い位置(県道261号)から撮影しました。東方城は台地の端に築かれていることが分ります。そして城の正面入り口は低地。台地の斜面も含めて城だったという理解で良いですかね。
上の画像の手前の道からもっと接近してみたかったのですが、私有地と思われ、更に暮らしに直結した領域と判断し、立ち入りはしませんでした。実は事前の情報で、台地上の個人宅の奥に土塁があると聞き及んでいたのですが、訪れてみると固く門が閉ざされており、断念しました。門は明らかに後から造り足した頑丈なものです。あくまで想像ですが、心無い訪問者に困ってのことなのではないでしょうか。
東方城跡は市指定史跡となっていますが、見学に配慮は必要です。城跡巡りはあくまで趣味の世界。実際にそこで暮らしている人達の迷惑になってはいけませんよね。
<つわものどもが夢の跡>
現地で城の全体像を実感することは困難です。しかし、かつてここに城があったことは実感できます。城があったということは、誰かの思惑が込められていたということ。その欠片に触れることができました。
------■東方城■------
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
城 主:深谷上杉氏
北条氏
松平康長
廃城年:1601年頃
[埼玉県深谷市東方]
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