2012年04月26日
世の初めに隠されたこと
ルネ・ジラールに「世の初めから隠されていること」という本があるが、この主張こそ過去の歴史の政治的な行動の本質をついた、大変ショッキングなもので、あらゆる権力の最初に「暴力」が隠され、権力者になったとたんにそれを隠そうとする。「暴力」は「横取り」と言い換えてもいい。
そういう経過を歴史は辿るものだ・・・。ここでは本題から外れるのでこれは別の機会に話そうとおもう。1つだけ大事な彼の金言を。
「殺さないために命を投げ出すことは、殺しと死との悪循環から抜け出すためなのだ」
涙が出てきますね。今の世界の権利の分捕り合戦を見ていると。いつになったら悪の連鎖から出られるんですかね。やっぱり、「大きな犠牲」を見ないと気付かないんですかね。
今日の話はタイトルが「模倣」されているが、「暴力」でもぎ取ったものではないので悪しからず。
今日の話は同じ「世の初めに隠されたこと」でも、政治の話ではなく、「こころ」の話。
というか、ぶっちゃけ「心の悩み」のお話し。
ある初老の男性が(実は私?)、急に仕事が嫌になり何もかも投げ出したくなった。それまでは仕事が面白くてたまらなくて「生きがい」ですらあった。成績も良く、部長にまでなって皆から祝福もされた(?)矢先なのに。この先のことを考えると、後何年生きて、それで俺の人生は何なのだろうなんて考え、なんだか今迄やってきたことがばからしくなって、自分が全く無価値の人間に思えてくる。
廻りの人を何をそんなにつまらないことに熱心になっているなと思う様になる。
こうなると、よくある「ウツ」にいらっしゃいされている状態だ。自分の経験もあるのでよくわかる。
終いには自分のようなものは生きている価値が無いとか、逆にもうすぐ自分の人生も終盤だ何もしていない、何もできない生きていてもしょうがない、などと考えてくる。
どうしてこのようになるのか。順調だったのに。「人生って何?」
これは「こころ」が抵抗しているんですね。「順調」などという狭い世界で人生を測ろうとしている「理性」に対して。理性絶対優位と思い込んで来たことに対して。
仕事のできない奴は「馬鹿」で、仕事の為なら家庭の難問は、誰かにお任せで無視してきてしまった。確かに頑張ってきたが、でもそれは「本当に狭い狭い世界に住んできた」に過ぎないのでは?
言葉を使っている限り、「たましい」のルールは判らない。「たましい」には論理もないのだから。
人生とは何なんだろうかと悩むこと自体が、言葉に操られている証拠なんです。
言葉は「何かを相手に語ります」。そうでない言葉や思考はありません。独り言だって、自分を相手ですから。言葉は「意味」や「正常」や「順調」という物を好みます。だって支離滅裂なんて、言葉の
存在を揺るがせますからね。
でも、ここが問題なんです。「魂」に論理なんてないんです。
たましいを考え、見つめたら「支離滅裂」は当たり前なんです。これを、無視し続けた(見ないふりした)大人や世間にも責任はあるんです。
一人一人の「こころ」は「魂」という宇宙の全体にも繋がるものに支えられてるんです。
つまり、いま起きてることは、理性にしたがって「いい子」でいることに、「魂」が反抗して、抑えつけられていたものが吹き出そうとしているんです。
その為間に挟まって、全体と個を繋ぎとめている「こころ」が困って悲しんでるんです。
じゃーどうしたらいいか?君は病気なんだから、セパゾンやリボドりールでも飲んで治療することですな。とくる。まだ(医学という)理性で解決できると思ってるんですね、こういう人達は。ひどい奴になると入院して隔離させようとする。そんなこと言われるとお人好しな人は、本当に病んでいるのだろうかと思い込んでしまう。
病気なんてないんですよ。理性派とやらの、了見の狭い連中が自分に理解できないものはみな何処かに追いやって、まとめて監視下に置きたいから(身体の病気にまねて)そう言ってるだけなんです。
魂や心の声に正直な人が、なんで病人なんですか!
病気なのはお宅のほうだろ。現代病というやつさ。
現代人のようにすれてなかった昔の人たちは、ちゃんと魂の存在を認めて、それとうまく付き合っていく方法を心得ていた。古くは魂振りの儀式や、祭りや、舞踊や、歌謡や俳句や祭事などで魂を鎮めることを知っていた。民間行事だって一例を言えば、正月の門松から始まって、七草粥、豆まきなどの行事も、自然という魂を忘れかけて金もうけに奔走した1年の垢を落として、もう一度自然の魂を呼び込んで(その象徴としての門松)、七草だけの粗末な自然の生活を思い出し、ようやく(自然という)魂の充電がなされたあと、そのお礼に、(自然の代表である)鬼に向かって、「ありがとう!」と里で取れた最も栄養価の高い豆(里人にとっては宝物)を投げつけて感謝の気持ちを表したんです。
「鬼は外」なんて、魂の判らない人があとから取ってつけた子供騙しの掛け声にすぎません。いやもしかしたらこれは「鬼はいつも外にいるんだぞ」と知っていること、そのことに対する覚悟の言葉だったかもしれませんね。(最もこれは折口信夫の説と言われていますが、私は当たらずと言えども遠からずと思っています。)
理屈ではこんなこと昔からの迷信と、言いながらも、瞬間瞬間では本気でこれらの祭事に向かったこともあったでしょう?その時は心を通して「魂」の声に素直になれていたんです。でもすぐ忘れる。
簡単で有効な方法なんてないんです。静まってくれるのを待つしかないんです。こころ静かに、「おおいなるもの」に「ひれ伏す」しかないんです。「ノンちゃん雲に乗る」のおじいちゃんの言う様に、「人にはひれ伏す心がなければ、えらくはなれんのじゃよ!」なんです。
話は長くなりましたが、そのことと、「世の初めに隠されたこと」というタイトルにどういう
関係があるの?と、いい加減疲れた声が聞こえてきそうです。
結論です。人は言葉の世界(森といってもいいかも知れません)に迷い込んで、いつの間にかここが、ここだけが真実の世界と信じて疑わなくなってしまった。しかしここは虚構の世界なんです。
このことが隠されていたことなんです。
言い方を変えれば「劇場」なんです。(なーんだそれはニヒリズムじゃないか、と言われるかもしれません。論理の世界から見ればそうなるでしょう。でもそんな未練を残したような狭い世界じゃないんです。)
人類が過去から、悩んで苦しんでこれと戦って工夫して、やっとつくった世界なんですから、虚構で結構じゃないですか。
問題はそのことを知らずに、論理だけで全てを片ずけようとし、理屈に合わないものは病人とか狂気とか言って正面から向かい合おうとしないことなんです。気付いた人を押しのけることです。
言葉で作り上げた世界が行き着くところは「神」です。
つまり、言葉の最終出口ということです。先にも言いましたが、「言葉は何かを相手に語ります。そうでない言葉や思考はありません。独り言だって、自分を相手ですから。」つまり厳密に論理を突き詰めていけば、「神」に語ることで自己矛盾に陥ります。
ここでようやく「森」の出口に来るんです。「魂」の世界に至るんです。そこに見えるものは何なんでしょうね。言葉の世界では「神」と呼ばざるをえないもの。この正体とは?
もう充分でしょう。しゃべりすぎました。
過去の人たちも「それを言ったらおしまいよ。と言ってエポケーしてきました。(「エポケーという方法」参照)
だって言葉を使ってしゃべれば、嘘になりますから。まさに
「言葉から出て言葉に出る」(上田閑照)なんです。
(わかったつもりになっている様々なことについて、それは果たして何かと
問い返すとますます判らなくなってくる。言葉が出ないまま問い続けると
それは苦しい過程を経たのちに、ふとその答えが言葉に出る。
これも言葉に違いないが、初めの「判ったつもりの」言葉とは
全く異なるはずだ。)
色即是空、空即是色 だって、同じことです。
そういう経過を歴史は辿るものだ・・・。ここでは本題から外れるのでこれは別の機会に話そうとおもう。1つだけ大事な彼の金言を。
「殺さないために命を投げ出すことは、殺しと死との悪循環から抜け出すためなのだ」
涙が出てきますね。今の世界の権利の分捕り合戦を見ていると。いつになったら悪の連鎖から出られるんですかね。やっぱり、「大きな犠牲」を見ないと気付かないんですかね。
今日の話はタイトルが「模倣」されているが、「暴力」でもぎ取ったものではないので悪しからず。
今日の話は同じ「世の初めに隠されたこと」でも、政治の話ではなく、「こころ」の話。
というか、ぶっちゃけ「心の悩み」のお話し。
ある初老の男性が(実は私?)、急に仕事が嫌になり何もかも投げ出したくなった。それまでは仕事が面白くてたまらなくて「生きがい」ですらあった。成績も良く、部長にまでなって皆から祝福もされた(?)矢先なのに。この先のことを考えると、後何年生きて、それで俺の人生は何なのだろうなんて考え、なんだか今迄やってきたことがばからしくなって、自分が全く無価値の人間に思えてくる。
廻りの人を何をそんなにつまらないことに熱心になっているなと思う様になる。
こうなると、よくある「ウツ」にいらっしゃいされている状態だ。自分の経験もあるのでよくわかる。
終いには自分のようなものは生きている価値が無いとか、逆にもうすぐ自分の人生も終盤だ何もしていない、何もできない生きていてもしょうがない、などと考えてくる。
どうしてこのようになるのか。順調だったのに。「人生って何?」
これは「こころ」が抵抗しているんですね。「順調」などという狭い世界で人生を測ろうとしている「理性」に対して。理性絶対優位と思い込んで来たことに対して。
仕事のできない奴は「馬鹿」で、仕事の為なら家庭の難問は、誰かにお任せで無視してきてしまった。確かに頑張ってきたが、でもそれは「本当に狭い狭い世界に住んできた」に過ぎないのでは?
言葉を使っている限り、「たましい」のルールは判らない。「たましい」には論理もないのだから。
人生とは何なんだろうかと悩むこと自体が、言葉に操られている証拠なんです。
言葉は「何かを相手に語ります」。そうでない言葉や思考はありません。独り言だって、自分を相手ですから。言葉は「意味」や「正常」や「順調」という物を好みます。だって支離滅裂なんて、言葉の
存在を揺るがせますからね。
でも、ここが問題なんです。「魂」に論理なんてないんです。
たましいを考え、見つめたら「支離滅裂」は当たり前なんです。これを、無視し続けた(見ないふりした)大人や世間にも責任はあるんです。
一人一人の「こころ」は「魂」という宇宙の全体にも繋がるものに支えられてるんです。
つまり、いま起きてることは、理性にしたがって「いい子」でいることに、「魂」が反抗して、抑えつけられていたものが吹き出そうとしているんです。
その為間に挟まって、全体と個を繋ぎとめている「こころ」が困って悲しんでるんです。
じゃーどうしたらいいか?君は病気なんだから、セパゾンやリボドりールでも飲んで治療することですな。とくる。まだ(医学という)理性で解決できると思ってるんですね、こういう人達は。ひどい奴になると入院して隔離させようとする。そんなこと言われるとお人好しな人は、本当に病んでいるのだろうかと思い込んでしまう。
病気なんてないんですよ。理性派とやらの、了見の狭い連中が自分に理解できないものはみな何処かに追いやって、まとめて監視下に置きたいから(身体の病気にまねて)そう言ってるだけなんです。
魂や心の声に正直な人が、なんで病人なんですか!
病気なのはお宅のほうだろ。現代病というやつさ。
現代人のようにすれてなかった昔の人たちは、ちゃんと魂の存在を認めて、それとうまく付き合っていく方法を心得ていた。古くは魂振りの儀式や、祭りや、舞踊や、歌謡や俳句や祭事などで魂を鎮めることを知っていた。民間行事だって一例を言えば、正月の門松から始まって、七草粥、豆まきなどの行事も、自然という魂を忘れかけて金もうけに奔走した1年の垢を落として、もう一度自然の魂を呼び込んで(その象徴としての門松)、七草だけの粗末な自然の生活を思い出し、ようやく(自然という)魂の充電がなされたあと、そのお礼に、(自然の代表である)鬼に向かって、「ありがとう!」と里で取れた最も栄養価の高い豆(里人にとっては宝物)を投げつけて感謝の気持ちを表したんです。
「鬼は外」なんて、魂の判らない人があとから取ってつけた子供騙しの掛け声にすぎません。いやもしかしたらこれは「鬼はいつも外にいるんだぞ」と知っていること、そのことに対する覚悟の言葉だったかもしれませんね。(最もこれは折口信夫の説と言われていますが、私は当たらずと言えども遠からずと思っています。)
理屈ではこんなこと昔からの迷信と、言いながらも、瞬間瞬間では本気でこれらの祭事に向かったこともあったでしょう?その時は心を通して「魂」の声に素直になれていたんです。でもすぐ忘れる。
簡単で有効な方法なんてないんです。静まってくれるのを待つしかないんです。こころ静かに、「おおいなるもの」に「ひれ伏す」しかないんです。「ノンちゃん雲に乗る」のおじいちゃんの言う様に、「人にはひれ伏す心がなければ、えらくはなれんのじゃよ!」なんです。
話は長くなりましたが、そのことと、「世の初めに隠されたこと」というタイトルにどういう
関係があるの?と、いい加減疲れた声が聞こえてきそうです。
結論です。人は言葉の世界(森といってもいいかも知れません)に迷い込んで、いつの間にかここが、ここだけが真実の世界と信じて疑わなくなってしまった。しかしここは虚構の世界なんです。
このことが隠されていたことなんです。
言い方を変えれば「劇場」なんです。(なーんだそれはニヒリズムじゃないか、と言われるかもしれません。論理の世界から見ればそうなるでしょう。でもそんな未練を残したような狭い世界じゃないんです。)
人類が過去から、悩んで苦しんでこれと戦って工夫して、やっとつくった世界なんですから、虚構で結構じゃないですか。
問題はそのことを知らずに、論理だけで全てを片ずけようとし、理屈に合わないものは病人とか狂気とか言って正面から向かい合おうとしないことなんです。気付いた人を押しのけることです。
言葉で作り上げた世界が行き着くところは「神」です。
つまり、言葉の最終出口ということです。先にも言いましたが、「言葉は何かを相手に語ります。そうでない言葉や思考はありません。独り言だって、自分を相手ですから。」つまり厳密に論理を突き詰めていけば、「神」に語ることで自己矛盾に陥ります。
ここでようやく「森」の出口に来るんです。「魂」の世界に至るんです。そこに見えるものは何なんでしょうね。言葉の世界では「神」と呼ばざるをえないもの。この正体とは?
もう充分でしょう。しゃべりすぎました。
過去の人たちも「それを言ったらおしまいよ。と言ってエポケーしてきました。(「エポケーという方法」参照)
だって言葉を使ってしゃべれば、嘘になりますから。まさに
「言葉から出て言葉に出る」(上田閑照)なんです。
(わかったつもりになっている様々なことについて、それは果たして何かと
問い返すとますます判らなくなってくる。言葉が出ないまま問い続けると
それは苦しい過程を経たのちに、ふとその答えが言葉に出る。
これも言葉に違いないが、初めの「判ったつもりの」言葉とは
全く異なるはずだ。)
色即是空、空即是色 だって、同じことです。
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