2011年12月22日
細部に神は宿る
この言葉は、もとは、建築のデザインの世界の言葉と言われています。
「ミース・ファン・デル・ローエというシカゴで活躍した建築のマイスターが鉄骨とガラスの建築のプロトタイプを作った人なんですが装飾を廃したミニマリズム(シンプルがいいという考え)にもかかわらずディテール・・・つまり細部 これはおもに接合部のデザインサッシと枠、枠と方立て、横ざん、鉄骨など部材のみえかたをいかにシンプルかつ、綺麗にみせるかそういうことに凝った人なんです。やはりそういう意味で「神は細部にやどる」は建築、インテリア特有の価値観と捉えたほうがわかりやすいのではないでしょうか。
決して人生相談に出てくるような意味はないと思います。」と説明されています。
私はこのような片付け方に疑問を持ちます。
唐突ですが、「末期がんの患者の多くが、「もしがんにならなかったとしたら、いまの自分はなかっただろう。がんになって良かった」というそうです。
この巡り合わせを、大きな試練を克服すべき「敵」と見るか、大きな学びのヒントと見るかの分かれ目ですね。
私達は、常に現状を変えなければ良くならない。改革こそ世に幸せをもたらす。と教えられてきました。病気も私達の健康を脅かす、生命を脅かす悪でありそれを取り除けば、消滅させれば幸せは来ると。即ち、そうして現状を変え、住みよい環境を追求すること、それが出来ないことは敗北であり、それができる人は、行動力があり、勝利者だと褒められてきました。
でももう何をしても治る見込みのない患者さんにできることは何でしょうか?ギリギリまで、抗がん剤投与や生命維持装置を付けて、「ガンバレ、ガンバレ、戦え、戦え」と励まし続けることでしょうか?がんでなくとも、いずれ人は皆死んでいく事実に置かれています。
治る見込みのない、苦しんでいる、患者さんにしてあげるべきことは、「そばにいて手を握り、或いは抱きしめることで一人じゃないことを伝える」ことではないでしょうか?「怖くないよ」と。
それに立ち会うのはだれでもいい、身内でなければならないということはない。生死という大きな瞬間は、親子を超えて人類更には生き者という広い範囲を対象とする世界です。もう世俗の恐れは超越しているのですから、世間から守ってくれる家族に限定しなければならないということはないのです。彼らは既に人生よりももっと大きい「宇宙」の法則に戻っているのですから。それが愛というものではないでしょうか。
それはできれば寛解期にあり、子供であれば、やりたくてもできなかった家に帰っての自転車乗りであったり、成長した大人であれば「あの両親のもとに生まれ、この家族を持ち、この子どもに恵まれ、この環境のもとに生きてきた経験」を、もう二度とできないかけがえのない経験をもう一度味わいつくすことではないでしょうか。
生き続けることが、大事なのではない。生きて人の、動物の心に触れ合うことが本当に望んでいることなのではないでしょうか?
長くさえ生きれば、いつでもそれはできると、先延ばししているのが、われわれの現実ではないでしょうか?それがいつしか、長く生きることが目的になってしまう。
時間はあってないものです。問題はいつ覚めるかです。
「もうすぐ逝くわ。ようやく決心がついたの。「どう決心がついたんだい?」夫は訪ねました。「あなたがいるところに逝くんだってお告げがあったの。私が逝くところにあなたはいるんだわ」これは現実にあって、50年以上も愛し合った妻の夫に伝えた最後の言葉だそうです。いまベッドの脇に座っている夫が、あと20年後まで生きたとしても、そして妻との再会が20年後になったとしても、妻の逝く世界が時間の無い世界 なら、そこに夫がいてもおかしくない。既に彼女は薬剤治療をやめてクリアーな意識状態だったという。彼女は永遠を見つけたのではないでしょうか?
運命に身を預けることを知ったのではないでしょうか。
考えてみれば我々は生まれる時もそうでした、死ぬ時もそうです。何も戦えません。
ただただ、身をゆだねるだけです。こちらが宇宙の真実なんですね。
恐れや環境に抗って、変えていこうとするのは、高々70年80年の間の問題解決ならぬ「問題先延ばし」に過ぎないんですね。
ジョナス・ソークがポリオのワクチンを発見した時、人々にその新薬の特許をとるつもりかたずねられたそうです。もしそうしたら彼は間違いなく大富豪だった。
ソークの答えは「太陽の光は私のものじゃないから特許は取れない。このワクチンも同じだ」と。
彼は多忙を極めた人生の中の、本当に些細なことにまで、際立った力量と思いやりを持って誠実に対処していたそうです。華やかなイベントや注目の中での 医療行為ばかりでなく、この人生の一番小さな側面に、一瞬一瞬の触れ合いに、もっと大きなものを見ていたのである。彼はただ小児の命を永らえる為だけに研究したのではない。素晴らしい人生と触れ合うチャンスを与えるために研究したのだ。
人は人生の昇進、結婚、退職、病気の回復など節目節目に目を向け生きているが、むしろ学ぶ必要のあることのほとんどは、その間にある小さな出来事の中にある。
そんな貴重な体験は、「明日死ぬかもしれないという、覚悟を持った時に突然姿を現す。この世界を経験することは二度とできない。同じ友人と過ごすことも今回限り。
あの海、あの空、あの星、あの愛する人を、最後にもう一度だけ見たいと思ったとき、この世界が、実は、毎日見飽きていると見過ごしている平凡な世界だったことに気付くのだ。
皆さん、「最後にもう一度だけ」と願う様になる時まで、待つ必要がありますか?
あなたさえその気になれば、神はいつでもそこにいる。
様々な思惑に隠されて、見えにくい細部に。
「ミース・ファン・デル・ローエというシカゴで活躍した建築のマイスターが鉄骨とガラスの建築のプロトタイプを作った人なんですが装飾を廃したミニマリズム(シンプルがいいという考え)にもかかわらずディテール・・・つまり細部 これはおもに接合部のデザインサッシと枠、枠と方立て、横ざん、鉄骨など部材のみえかたをいかにシンプルかつ、綺麗にみせるかそういうことに凝った人なんです。やはりそういう意味で「神は細部にやどる」は建築、インテリア特有の価値観と捉えたほうがわかりやすいのではないでしょうか。
決して人生相談に出てくるような意味はないと思います。」と説明されています。
私はこのような片付け方に疑問を持ちます。
唐突ですが、「末期がんの患者の多くが、「もしがんにならなかったとしたら、いまの自分はなかっただろう。がんになって良かった」というそうです。
この巡り合わせを、大きな試練を克服すべき「敵」と見るか、大きな学びのヒントと見るかの分かれ目ですね。
私達は、常に現状を変えなければ良くならない。改革こそ世に幸せをもたらす。と教えられてきました。病気も私達の健康を脅かす、生命を脅かす悪でありそれを取り除けば、消滅させれば幸せは来ると。即ち、そうして現状を変え、住みよい環境を追求すること、それが出来ないことは敗北であり、それができる人は、行動力があり、勝利者だと褒められてきました。
でももう何をしても治る見込みのない患者さんにできることは何でしょうか?ギリギリまで、抗がん剤投与や生命維持装置を付けて、「ガンバレ、ガンバレ、戦え、戦え」と励まし続けることでしょうか?がんでなくとも、いずれ人は皆死んでいく事実に置かれています。
治る見込みのない、苦しんでいる、患者さんにしてあげるべきことは、「そばにいて手を握り、或いは抱きしめることで一人じゃないことを伝える」ことではないでしょうか?「怖くないよ」と。
それに立ち会うのはだれでもいい、身内でなければならないということはない。生死という大きな瞬間は、親子を超えて人類更には生き者という広い範囲を対象とする世界です。もう世俗の恐れは超越しているのですから、世間から守ってくれる家族に限定しなければならないということはないのです。彼らは既に人生よりももっと大きい「宇宙」の法則に戻っているのですから。それが愛というものではないでしょうか。
それはできれば寛解期にあり、子供であれば、やりたくてもできなかった家に帰っての自転車乗りであったり、成長した大人であれば「あの両親のもとに生まれ、この家族を持ち、この子どもに恵まれ、この環境のもとに生きてきた経験」を、もう二度とできないかけがえのない経験をもう一度味わいつくすことではないでしょうか。
生き続けることが、大事なのではない。生きて人の、動物の心に触れ合うことが本当に望んでいることなのではないでしょうか?
長くさえ生きれば、いつでもそれはできると、先延ばししているのが、われわれの現実ではないでしょうか?それがいつしか、長く生きることが目的になってしまう。
時間はあってないものです。問題はいつ覚めるかです。
「もうすぐ逝くわ。ようやく決心がついたの。「どう決心がついたんだい?」夫は訪ねました。「あなたがいるところに逝くんだってお告げがあったの。私が逝くところにあなたはいるんだわ」これは現実にあって、50年以上も愛し合った妻の夫に伝えた最後の言葉だそうです。いまベッドの脇に座っている夫が、あと20年後まで生きたとしても、そして妻との再会が20年後になったとしても、妻の逝く世界が時間の無い世界 なら、そこに夫がいてもおかしくない。既に彼女は薬剤治療をやめてクリアーな意識状態だったという。彼女は永遠を見つけたのではないでしょうか?
運命に身を預けることを知ったのではないでしょうか。
考えてみれば我々は生まれる時もそうでした、死ぬ時もそうです。何も戦えません。
ただただ、身をゆだねるだけです。こちらが宇宙の真実なんですね。
恐れや環境に抗って、変えていこうとするのは、高々70年80年の間の問題解決ならぬ「問題先延ばし」に過ぎないんですね。
ジョナス・ソークがポリオのワクチンを発見した時、人々にその新薬の特許をとるつもりかたずねられたそうです。もしそうしたら彼は間違いなく大富豪だった。
ソークの答えは「太陽の光は私のものじゃないから特許は取れない。このワクチンも同じだ」と。
彼は多忙を極めた人生の中の、本当に些細なことにまで、際立った力量と思いやりを持って誠実に対処していたそうです。華やかなイベントや注目の中での 医療行為ばかりでなく、この人生の一番小さな側面に、一瞬一瞬の触れ合いに、もっと大きなものを見ていたのである。彼はただ小児の命を永らえる為だけに研究したのではない。素晴らしい人生と触れ合うチャンスを与えるために研究したのだ。
人は人生の昇進、結婚、退職、病気の回復など節目節目に目を向け生きているが、むしろ学ぶ必要のあることのほとんどは、その間にある小さな出来事の中にある。
そんな貴重な体験は、「明日死ぬかもしれないという、覚悟を持った時に突然姿を現す。この世界を経験することは二度とできない。同じ友人と過ごすことも今回限り。
あの海、あの空、あの星、あの愛する人を、最後にもう一度だけ見たいと思ったとき、この世界が、実は、毎日見飽きていると見過ごしている平凡な世界だったことに気付くのだ。
皆さん、「最後にもう一度だけ」と願う様になる時まで、待つ必要がありますか?
あなたさえその気になれば、神はいつでもそこにいる。
様々な思惑に隠されて、見えにくい細部に。
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