2011年08月17日
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ポランニーはそこまで指摘しなかったが、貨幣(カネ)を売り買いの取引にしてしまったことも、まさに「悪魔の挽き臼」のなせるしわざだった。では、なぜこんなにもカネ自体が暴走するようになったのか。資本主義の初期においては、貨幣は金本位制度に裏打ちされていた。手持ちの紙幣を銀行にもっていけば、それに相当する価値の金(きん)を入手できたのである。むろん金(きん)とて土地と同様に自然界のものであり、これまた限られた資源であるのだから、これを交換できるようにすることには本来矛盾はあるのだが、それでもまだしも金本位制が動いていれば、貨幣の暴走に歯止めをかけることにはなっていた。それが各国で金本位制が中止されることになったのは、第一次世界大戦がその大きな転換点になったのだが、各国で膨張した戦費を支払ううえで金(きん)との兌換を維持することが不可能になったからだった。そこヘ1929年のアメリカ発の大恐慌がやってきて、金本位制は二度と戻らなくなった。
そこでいったんは金本位制に代わるIMF体制(国際通貨基金制度)が導入された。けれども1971年にアメリカが金(きん)との兌換を停止すると、これをきっかけに各国が自由に貨幣を発行できる「管理通貨制度」が生まれ、
「貨幣はもはやどんな裏付けもない」ものとなり、この無目的な性格を活用したマネーゲームが始まり、これを金融工学が理論化するに至ったのだった。あらんかなこの軍縮の流れ・緊縮の流れによって締めだされた、恐ろしく頭の良い(いや失礼頭のずるがしこい)戦争ゲームの専門家集団は、投資に絶対失敗しない、つまりリスクその物を取引する方法まで考え出した。ここには「心配」や「ドキドキ」なんて何もない。ただテクニックがあるだけ。あとは他人さまの不幸や心配を、不確定な出来事を、ビジネスチャンスに変えるだけの裁量があるかどうかだけのこと。デリバティブと呼ばれる
許されざるこの手法は、今日再び堂々とウオールストリートを闊歩している。
私達は「競争に乗り遅れるから」という理由で、小さい政府やグローバル化についていった。変りたくない、どうなるか判らない方向に舵を切るのは嫌だ。といって、小泉さんや竹中さんについていった。自分たちの今の境遇を守るために。でもそれなら、イラクに戦争を仕掛ける覚悟を持ってましたか?いや戦争に出る(テレビで見るんじゃありませんよ!)覚悟はありましたか?官僚の尻馬に乗って、明日の生活もままならない障害者から、「三方両損」だとかお笑いのへ理屈で、税金を取るという天下の悪法を平気で成立(障害者自立支援法?自立妨げ法ではないの?)させて何とも思っていないんです。
またそれに輪をかけて、グローバル資本主義の暴走を支えているのが新しい「死の商人」である「通信ネットワーク企業」なのだ。
ブルデューは通信ネットワーク企業が、驚くべきスピードで企業の吸収・合併・売却をしつづけていることに警鐘を鳴らす。とくにソフトを制作するグループと配給を担うグループが合併することを非難する。このままでは「配給がソフトを検閲する」という垂直統合だけが世には蔓延すると指摘する。かつては権力や支配層が「思想と猥褻の検閲」をしたものだが、これからは売れる商品だけをふやすために、「資本による検閲」が始まっていくというのだ。
儲かるものしか作らないというのは、儲からない内容を資本が検閲しているということなのである。もはやメディアにおける利潤の追求は文化の否定に近づいてきたのである。"
出版の世界だけではない。合併ばやりの今世紀は都市銀行同志の合併、大手百貨店の合併、最近ではグーグルのモトローラ買収など「大きいことはいいことだ。ソフトと機器の提供が一手になれば、無駄が省けて効率化が図れる、そしなければ生き残れない」とばかり巨大化に躍起になっている。メディアも相乗りして、目先の利点ばかり強調する。しかしこの吸収合併は何をもたらすのだろうか。企業の個性を奪い、顧客の選択の自由を奪い、特定資本の考え方だけを提供し、社員のリストラを促ししいては、売上に貢献する顧客をやせ細らせ、自分だけ生き残ろうとするが最後には「だーれもいなくなった」の世界が待っているだけなのだ。
テレビを見ていても、どのチャンネルをひねっても、みな配給企業の都合のよい話か、誰か自分たち以外を攻撃することで(都合のいいのは政府ですね)視聴率を上げようとしているばかり。新しい情報統制ですね。
じゃーどうしろというのだ。という声が聞こえてきます。
自己主張の姿勢を差し控える勇気を持つことではじめて可能な「協調」の精神。
人間のスケールに応じた生活、精神とバランスのとれた考え方に気付かないと、次のようなことが起きやすい。
以前、愛知で10代の少年が起こした殺人事件では「人が死ぬとはどういうことか、納得のいく答えを見つけ出したかった」という動機の1つが公開された。「学問」の発想そのものですね。
この手の事件の容疑者の小さい時の作文に、「小学校と中学校とでは「算数」と呼ばれていた科目が中学校になると「数学」になったと書かれているケースがよく見られるようだ。
「おそらく「学/頭」と「術/体」が重なって、「こころ」が誕生する。
嘗ては「頭」が「体」に追いつかないために「こころ」が不安定になるケースが10代におおかった。現代では逆に「頭」が「体」の先を走ってしまって、「こころ」が吹き飛ぶのである。
「極端なことを言わせていただければ、「数学」が「算数」(算術)より高尚だと思っている限り、10代の猟奇殺人のような事件は増え続けるかもしれない。(いや、10代のみならず、若い父母も、少し辛ければすぐに虐待や猟奇な事件を起こすことを、我々はただ眼をそむけるだけで、早く通り過ぎてしまえばいいと感じるだけで、何の解決策をも講じられないのだろう。)
(ルネッサンスの頃の)ダ・ヴィンチの解剖図は、解剖学という「学」であるとともに、「芸術」という「術」でもあった。
「学」と「術」がバランスよく成熟していたおかげで、レオナルドは(学問的興味に基ずき)殺人を犯さなかったとは言えないだろうか?。」(森村泰昌)
「経済学」だっておなじですね。我々の生活よりもこんなものが優越するなんて、とんでもない勘違いですね。
我々が本当に、お金ではなく心の豊かな生活を望むなら、勇気を持って既得権益を放棄するのだ。そして東欧のような活気のない成長の見込めない(何の成長だ?まだ金か?)などという拝金主義者のデマに惑わされず、小さな地域単位の絆・生活・文化を取り戻すのだ。
人間らしい生活を取り戻すのだ。東欧の小さな国々はもう気づいている。際限のない欲望がもたらすものは、破滅しかないと。
「一ツ橋で教鞭をとり、ソニーの社外取締役を務めた中谷さんが実際に現地で見聞取材したところによると、デンマークでは企業はいつでも余剰人員を解雇できるようになっているらしい。しかも解雇された従業員たちは、それに対する不満をほとんどもたないのだという。なぜなら、デンマークでは解雇されても失業保険が手厚く支給されるので生活は急に不安にはならないそれとともに同一労働・同一賃金制度をとっているので、同じ仕事をしているかぎりは、同じ会社で何年務めていても賃金は上がらない。そこで大事になるのがスキルアップだということになるのだが、失業はこのスキルアップをするチャンスになるらしい。全国規模でかなり充実した職業訓練所ができていて、解雇されると同時に無料の職業訓練学校にも行ける。考えようによっては、ときどき解雇されたほうがかえって技能訓練ができるということになる。中谷さんは、このような制度はマクロ的には労働市場の流動性が確保されることになるとも見たようだ。企業側も経済情勢や実績に応じて、労働コストや人事コストを「可変費用」とみなせるようになる。国のレベルで見ても、産業構造の転換がもっと容易になるかもしれない。
かつての日本の終身雇用性はそれなりに独自の長所をもっていたのだが、過剰雇用になったばあいに雇用調整がきかないという欠点をもっていた。そのためしだいに非正規社員をふやすようになっていったのだが、それが従業員の一体感を損ねた。アキハバラで無差別殺人をした青年は、
その一体感から切り離されたという被害意識をもっていた。これからの日本は新たな雇用に関する改革が着手されなければならない。ただし、デンマークのような大胆な改革をするには「小さな政府」にこだわっていては何もできないし、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスに縛られていても二進も三進もいかない。
実はスウェーデンは1000万人に満たない「小国」であり、デンマークやノルウェーはその半分程度の規模なのである。一方、現在の日本は多くの場面で地域コミュニティの機能を失い、「絆」を断たれた分断された社会が無数のひび割れのような裂け目を見せている。
農村部では「限界集落」化がおこって高齢者が地域を守るのが困難になっているが、同じことが都市部にもおこっている。少子化だけが問題なのではない。1億人をこえる日本人がいつまでも、十把一からげの政策や地域自治や福利厚生の傘の中に入っていることが問題なのである。
むしろ領域や段階に新たな「意味」をもたせることのほうが重要なのだ。ということは、いま日本では、さかんに「道州制」が議論の俎上にのぼっているけれど、新たな社会や文化を守ったり作ったりしていくということを考えるのなら、道州制でもまだまだ大きすぎるのである。
もっと小さな行政単位と介護や医療や生活や文化が取り組まれるべきなのである。日本には、もっと「小さな領域」をダイナミックにつないでいく方法が必要なのである。
EUが制度の平準化をめぐって提案している「相互承認」(mutual recognition)という考え方がある。今日の日本は日米同盟を漂流させながら、東アジアとの紐帯を模索する必要が出ているのだが(だからヒラリー・クリントンも日本に来たあと東アジア諸国をまわるのだが)、日本自身にもそれぞれの領域の凹凸をつなぎうる相互承認力が必要になっているのはあきらかなのだ。
こうして中谷さんは「相互承認」の次世代に望みを託しつつ、本書を次のような言葉でしめくくっていく。「自由とは禁断の果実であり、ひとたびその美味しさを知ってしまった人間が自らを抑制するほど賢くなっているかどうかは疑わしい。となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか、道はあるまい」というふうに。」(「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌より)
そこでいったんは金本位制に代わるIMF体制(国際通貨基金制度)が導入された。けれども1971年にアメリカが金(きん)との兌換を停止すると、これをきっかけに各国が自由に貨幣を発行できる「管理通貨制度」が生まれ、
「貨幣はもはやどんな裏付けもない」ものとなり、この無目的な性格を活用したマネーゲームが始まり、これを金融工学が理論化するに至ったのだった。あらんかなこの軍縮の流れ・緊縮の流れによって締めだされた、恐ろしく頭の良い(いや失礼頭のずるがしこい)戦争ゲームの専門家集団は、投資に絶対失敗しない、つまりリスクその物を取引する方法まで考え出した。ここには「心配」や「ドキドキ」なんて何もない。ただテクニックがあるだけ。あとは他人さまの不幸や心配を、不確定な出来事を、ビジネスチャンスに変えるだけの裁量があるかどうかだけのこと。デリバティブと呼ばれる
許されざるこの手法は、今日再び堂々とウオールストリートを闊歩している。
私達は「競争に乗り遅れるから」という理由で、小さい政府やグローバル化についていった。変りたくない、どうなるか判らない方向に舵を切るのは嫌だ。といって、小泉さんや竹中さんについていった。自分たちの今の境遇を守るために。でもそれなら、イラクに戦争を仕掛ける覚悟を持ってましたか?いや戦争に出る(テレビで見るんじゃありませんよ!)覚悟はありましたか?官僚の尻馬に乗って、明日の生活もままならない障害者から、「三方両損」だとかお笑いのへ理屈で、税金を取るという天下の悪法を平気で成立(障害者自立支援法?自立妨げ法ではないの?)させて何とも思っていないんです。
またそれに輪をかけて、グローバル資本主義の暴走を支えているのが新しい「死の商人」である「通信ネットワーク企業」なのだ。
ブルデューは通信ネットワーク企業が、驚くべきスピードで企業の吸収・合併・売却をしつづけていることに警鐘を鳴らす。とくにソフトを制作するグループと配給を担うグループが合併することを非難する。このままでは「配給がソフトを検閲する」という垂直統合だけが世には蔓延すると指摘する。かつては権力や支配層が「思想と猥褻の検閲」をしたものだが、これからは売れる商品だけをふやすために、「資本による検閲」が始まっていくというのだ。
儲かるものしか作らないというのは、儲からない内容を資本が検閲しているということなのである。もはやメディアにおける利潤の追求は文化の否定に近づいてきたのである。"
出版の世界だけではない。合併ばやりの今世紀は都市銀行同志の合併、大手百貨店の合併、最近ではグーグルのモトローラ買収など「大きいことはいいことだ。ソフトと機器の提供が一手になれば、無駄が省けて効率化が図れる、そしなければ生き残れない」とばかり巨大化に躍起になっている。メディアも相乗りして、目先の利点ばかり強調する。しかしこの吸収合併は何をもたらすのだろうか。企業の個性を奪い、顧客の選択の自由を奪い、特定資本の考え方だけを提供し、社員のリストラを促ししいては、売上に貢献する顧客をやせ細らせ、自分だけ生き残ろうとするが最後には「だーれもいなくなった」の世界が待っているだけなのだ。
テレビを見ていても、どのチャンネルをひねっても、みな配給企業の都合のよい話か、誰か自分たち以外を攻撃することで(都合のいいのは政府ですね)視聴率を上げようとしているばかり。新しい情報統制ですね。
じゃーどうしろというのだ。という声が聞こえてきます。
自己主張の姿勢を差し控える勇気を持つことではじめて可能な「協調」の精神。
人間のスケールに応じた生活、精神とバランスのとれた考え方に気付かないと、次のようなことが起きやすい。
以前、愛知で10代の少年が起こした殺人事件では「人が死ぬとはどういうことか、納得のいく答えを見つけ出したかった」という動機の1つが公開された。「学問」の発想そのものですね。
この手の事件の容疑者の小さい時の作文に、「小学校と中学校とでは「算数」と呼ばれていた科目が中学校になると「数学」になったと書かれているケースがよく見られるようだ。
「おそらく「学/頭」と「術/体」が重なって、「こころ」が誕生する。
嘗ては「頭」が「体」に追いつかないために「こころ」が不安定になるケースが10代におおかった。現代では逆に「頭」が「体」の先を走ってしまって、「こころ」が吹き飛ぶのである。
「極端なことを言わせていただければ、「数学」が「算数」(算術)より高尚だと思っている限り、10代の猟奇殺人のような事件は増え続けるかもしれない。(いや、10代のみならず、若い父母も、少し辛ければすぐに虐待や猟奇な事件を起こすことを、我々はただ眼をそむけるだけで、早く通り過ぎてしまえばいいと感じるだけで、何の解決策をも講じられないのだろう。)
(ルネッサンスの頃の)ダ・ヴィンチの解剖図は、解剖学という「学」であるとともに、「芸術」という「術」でもあった。
「学」と「術」がバランスよく成熟していたおかげで、レオナルドは(学問的興味に基ずき)殺人を犯さなかったとは言えないだろうか?。」(森村泰昌)
「経済学」だっておなじですね。我々の生活よりもこんなものが優越するなんて、とんでもない勘違いですね。
我々が本当に、お金ではなく心の豊かな生活を望むなら、勇気を持って既得権益を放棄するのだ。そして東欧のような活気のない成長の見込めない(何の成長だ?まだ金か?)などという拝金主義者のデマに惑わされず、小さな地域単位の絆・生活・文化を取り戻すのだ。
人間らしい生活を取り戻すのだ。東欧の小さな国々はもう気づいている。際限のない欲望がもたらすものは、破滅しかないと。
「一ツ橋で教鞭をとり、ソニーの社外取締役を務めた中谷さんが実際に現地で見聞取材したところによると、デンマークでは企業はいつでも余剰人員を解雇できるようになっているらしい。しかも解雇された従業員たちは、それに対する不満をほとんどもたないのだという。なぜなら、デンマークでは解雇されても失業保険が手厚く支給されるので生活は急に不安にはならないそれとともに同一労働・同一賃金制度をとっているので、同じ仕事をしているかぎりは、同じ会社で何年務めていても賃金は上がらない。そこで大事になるのがスキルアップだということになるのだが、失業はこのスキルアップをするチャンスになるらしい。全国規模でかなり充実した職業訓練所ができていて、解雇されると同時に無料の職業訓練学校にも行ける。考えようによっては、ときどき解雇されたほうがかえって技能訓練ができるということになる。中谷さんは、このような制度はマクロ的には労働市場の流動性が確保されることになるとも見たようだ。企業側も経済情勢や実績に応じて、労働コストや人事コストを「可変費用」とみなせるようになる。国のレベルで見ても、産業構造の転換がもっと容易になるかもしれない。
かつての日本の終身雇用性はそれなりに独自の長所をもっていたのだが、過剰雇用になったばあいに雇用調整がきかないという欠点をもっていた。そのためしだいに非正規社員をふやすようになっていったのだが、それが従業員の一体感を損ねた。アキハバラで無差別殺人をした青年は、
その一体感から切り離されたという被害意識をもっていた。これからの日本は新たな雇用に関する改革が着手されなければならない。ただし、デンマークのような大胆な改革をするには「小さな政府」にこだわっていては何もできないし、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスに縛られていても二進も三進もいかない。
実はスウェーデンは1000万人に満たない「小国」であり、デンマークやノルウェーはその半分程度の規模なのである。一方、現在の日本は多くの場面で地域コミュニティの機能を失い、「絆」を断たれた分断された社会が無数のひび割れのような裂け目を見せている。
農村部では「限界集落」化がおこって高齢者が地域を守るのが困難になっているが、同じことが都市部にもおこっている。少子化だけが問題なのではない。1億人をこえる日本人がいつまでも、十把一からげの政策や地域自治や福利厚生の傘の中に入っていることが問題なのである。
むしろ領域や段階に新たな「意味」をもたせることのほうが重要なのだ。ということは、いま日本では、さかんに「道州制」が議論の俎上にのぼっているけれど、新たな社会や文化を守ったり作ったりしていくということを考えるのなら、道州制でもまだまだ大きすぎるのである。
もっと小さな行政単位と介護や医療や生活や文化が取り組まれるべきなのである。日本には、もっと「小さな領域」をダイナミックにつないでいく方法が必要なのである。
EUが制度の平準化をめぐって提案している「相互承認」(mutual recognition)という考え方がある。今日の日本は日米同盟を漂流させながら、東アジアとの紐帯を模索する必要が出ているのだが(だからヒラリー・クリントンも日本に来たあと東アジア諸国をまわるのだが)、日本自身にもそれぞれの領域の凹凸をつなぎうる相互承認力が必要になっているのはあきらかなのだ。
こうして中谷さんは「相互承認」の次世代に望みを託しつつ、本書を次のような言葉でしめくくっていく。「自由とは禁断の果実であり、ひとたびその美味しさを知ってしまった人間が自らを抑制するほど賢くなっているかどうかは疑わしい。となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか、道はあるまい」というふうに。」(「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌より)
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