2010年03月07日
愚痴をちょっと
モンスターペイシェント(モンスター患者)という言葉がある(「モンスター患者」、「怪物患者」、「DQN患者」などとも言う)。医療従事者や 医療機関に対して自己中心的で理不尽な要求果ては暴言・暴力を繰り返す患者や、その保護者等を意味する和製英語だ。
確かに医療ミスはあり、見過ごしてはいけない。ただ我々は当初、本来医者や医療機関の何に敬意を、尊敬を払ったのか、払うべきかを考えなければならない。
医者だから敬意を払うのではない、患者の生命を救い、よりよく生きる為に献身的に努力と研鑽を重ねているその「姿勢」に敬意を払うのだという事をはっきり認識させることから始まる。「医師」だというそれだけのことに敬意を払っているから、ひとたびその尊敬の的がミスを起こすと「そこに至る経緯や努力や姿勢なんか関係ない」と様変わりすることになる。
そこを見るのは非常に根気が要り、神経が擦り減らされるし大変なことだ。しかしそれをすることが本当の解決の突破口なのだと思う。それをきれいごとと批判するのは勘違いだと思う。戦う場所を勘違いしているか、面倒を放棄しているのだと思う。
患者・弱いものという立場を逆手にとって、権利は全て残らず主張し、取れるものは全て取ろうという姿勢は如何なものだろう。
それを見ている子どもたちなどの後輩に、どのような悪影響をもたらすだろうか。
患者や保護者はただその立場にあるから、患者や保護者なのではない。人と人との正しい関係・敬意を保つ努力をしたうえでその立場にいるからこそ、患者・保護者たりうる。その意味で患者・保護者は良い患者・保護者であって、悪い・つまり何の気使いもできない 権利の上に胡坐をかいているだけの患者・保護者は、患者・保護者と呼ばない。
それは同時に「医師」や医療機関関係者にも言えることだ。高飛車に上から目線で患者を人間扱いしない・利益追求に走るものは、「医師」や医療機関関係者と呼びたくない。
○×式の解答は人間関係には無い。それを無理にどちらかに強引に決めつけようとするところに遺恨が残る。
現代は「代理」の時代と言われる。何でも代理。政治も裁判も皆人任せでなければやりきれない。しかしそうであっても
任せた立場の人間として、最低限やらなければならないことがある(金は払ったとしても)。任せっ切りにして、結果だけ人ごとのように批判しないこと。つまり任せた人なりの「参加」と結果に対する「覚悟・自分なりの賭けのリスク」は、自分が受け取ることだ。
それはたった100年前の人たちと比べてみるだけですぐに判る「便利さ・豊かさ」を得たことの責任でもある。自分ひとりでここまで来たなどと勘違いしてはいけない。権利は確かにあるが、自分ひとりで勝ち取ったなどと勘違いしてはいけない。
それでもまだモンスターペイシェントは、自分の名を名乗り、結果に対する責任を負うならば、マスコミ(の一部)より少しはましかもしれない。テレビや新聞の一部(全てがそうとは言わないが)では、ニュース番組ひとつとっても、政治と金の問題に終始していて、全く「生活」に関係する取材を怠っている。
政治は神様がやると思って我々は投票していない。それなのに清廉潔白・身辺清潔で無いと許さない。国民或いは視聴者がそれに同調するということは、ばかにされている、つまり政治とは神様がやると思って我々は投票したと認めているようなものだ。
過去にそんな人気首相もいたことはいた。でも彼は確かに身辺きれいで金に疎かったおぼっちゃまだったが、政治として何をしたのだろうか?自分が手を汚さない「代理」戦争(一体何人の子どもたちの命や宝を奪ったことか)にいち早く支持を表明したし、「天下の悪法」と呼ばれた上から目線の「障害者自立?支援法」にサインした。それでも誰も何も言わないのは、人気があるのはなぜなんだろう。馬鹿にされているのに気付かないんだろうか?
今の首相も確かにおぼっちゃまで歯切れは悪いが、政治としてやろうとしていることはいい方向ではないだろうか?それなのにあれこれ足を引っ張ろうとするのはなぜなんだろう。やって欲しかったら少しでも協力したらどうなんだろう。やって欲しくないなら話は別だが。
マスコミ(の一部)は我々が求めてもいないことばかりを、(うわべの視聴率にかまけて)報道し、解説者はまるで鬼の首でもとった様に、失敗やスキャンダルを非難する。私は国民の代表だ。知る権利・糾弾する権利があると。そして(何年後かに誰も)反省することもしない。
ある解説者などは何様かと見違える態度で出演して、廻りも腫れものに触るような扱いをしており、見苦しい。
おっと勘違いしないでほしい、知る権利があるのは国民の方だ。あなたたちがするべきは、任せっ切りにして、結果だけを人ごとのように批判するのを助長するのでなく、国民の「参加」と結果に対する「覚悟・自分なりの賭けのリスク」を自覚させることではありませんか?
写真家の藤原さんが新聞に書かれていたが、冬季オリンピックの放映でも金メダルの数をだしに視聴率を競い、国民もそれにあおられ血眼になってその動向を後押しした。学校では「競争はいけません」「個性は尊重されるべき」などとうそを教えている一方で、いざとなると本性むき出しで、一番を取り合う。又そんなカッコウはふさわしくないなどと怒る(確かにカッコウ良くなかったけど)。
そんな教育を受けた子どもたちは、いざ戦いの・ハイリスクの場面に押し出されてもろさが露呈する。
自ら判断して、覚悟を持って参加しなくちゃいけないのは、テレビや新聞に接するときも変わらないんだなーと感じるこの頃です。
つまらない愚痴におつきあいいただき、ありがとうございました。
確かに医療ミスはあり、見過ごしてはいけない。ただ我々は当初、本来医者や医療機関の何に敬意を、尊敬を払ったのか、払うべきかを考えなければならない。
医者だから敬意を払うのではない、患者の生命を救い、よりよく生きる為に献身的に努力と研鑽を重ねているその「姿勢」に敬意を払うのだという事をはっきり認識させることから始まる。「医師」だというそれだけのことに敬意を払っているから、ひとたびその尊敬の的がミスを起こすと「そこに至る経緯や努力や姿勢なんか関係ない」と様変わりすることになる。
そこを見るのは非常に根気が要り、神経が擦り減らされるし大変なことだ。しかしそれをすることが本当の解決の突破口なのだと思う。それをきれいごとと批判するのは勘違いだと思う。戦う場所を勘違いしているか、面倒を放棄しているのだと思う。
患者・弱いものという立場を逆手にとって、権利は全て残らず主張し、取れるものは全て取ろうという姿勢は如何なものだろう。
それを見ている子どもたちなどの後輩に、どのような悪影響をもたらすだろうか。
患者や保護者はただその立場にあるから、患者や保護者なのではない。人と人との正しい関係・敬意を保つ努力をしたうえでその立場にいるからこそ、患者・保護者たりうる。その意味で患者・保護者は良い患者・保護者であって、悪い・つまり何の気使いもできない 権利の上に胡坐をかいているだけの患者・保護者は、患者・保護者と呼ばない。
それは同時に「医師」や医療機関関係者にも言えることだ。高飛車に上から目線で患者を人間扱いしない・利益追求に走るものは、「医師」や医療機関関係者と呼びたくない。
○×式の解答は人間関係には無い。それを無理にどちらかに強引に決めつけようとするところに遺恨が残る。
現代は「代理」の時代と言われる。何でも代理。政治も裁判も皆人任せでなければやりきれない。しかしそうであっても
任せた立場の人間として、最低限やらなければならないことがある(金は払ったとしても)。任せっ切りにして、結果だけ人ごとのように批判しないこと。つまり任せた人なりの「参加」と結果に対する「覚悟・自分なりの賭けのリスク」は、自分が受け取ることだ。
それはたった100年前の人たちと比べてみるだけですぐに判る「便利さ・豊かさ」を得たことの責任でもある。自分ひとりでここまで来たなどと勘違いしてはいけない。権利は確かにあるが、自分ひとりで勝ち取ったなどと勘違いしてはいけない。
それでもまだモンスターペイシェントは、自分の名を名乗り、結果に対する責任を負うならば、マスコミ(の一部)より少しはましかもしれない。テレビや新聞の一部(全てがそうとは言わないが)では、ニュース番組ひとつとっても、政治と金の問題に終始していて、全く「生活」に関係する取材を怠っている。
政治は神様がやると思って我々は投票していない。それなのに清廉潔白・身辺清潔で無いと許さない。国民或いは視聴者がそれに同調するということは、ばかにされている、つまり政治とは神様がやると思って我々は投票したと認めているようなものだ。
過去にそんな人気首相もいたことはいた。でも彼は確かに身辺きれいで金に疎かったおぼっちゃまだったが、政治として何をしたのだろうか?自分が手を汚さない「代理」戦争(一体何人の子どもたちの命や宝を奪ったことか)にいち早く支持を表明したし、「天下の悪法」と呼ばれた上から目線の「障害者自立?支援法」にサインした。それでも誰も何も言わないのは、人気があるのはなぜなんだろう。馬鹿にされているのに気付かないんだろうか?
今の首相も確かにおぼっちゃまで歯切れは悪いが、政治としてやろうとしていることはいい方向ではないだろうか?それなのにあれこれ足を引っ張ろうとするのはなぜなんだろう。やって欲しかったら少しでも協力したらどうなんだろう。やって欲しくないなら話は別だが。
マスコミ(の一部)は我々が求めてもいないことばかりを、(うわべの視聴率にかまけて)報道し、解説者はまるで鬼の首でもとった様に、失敗やスキャンダルを非難する。私は国民の代表だ。知る権利・糾弾する権利があると。そして(何年後かに誰も)反省することもしない。
ある解説者などは何様かと見違える態度で出演して、廻りも腫れものに触るような扱いをしており、見苦しい。
おっと勘違いしないでほしい、知る権利があるのは国民の方だ。あなたたちがするべきは、任せっ切りにして、結果だけを人ごとのように批判するのを助長するのでなく、国民の「参加」と結果に対する「覚悟・自分なりの賭けのリスク」を自覚させることではありませんか?
写真家の藤原さんが新聞に書かれていたが、冬季オリンピックの放映でも金メダルの数をだしに視聴率を競い、国民もそれにあおられ血眼になってその動向を後押しした。学校では「競争はいけません」「個性は尊重されるべき」などとうそを教えている一方で、いざとなると本性むき出しで、一番を取り合う。又そんなカッコウはふさわしくないなどと怒る(確かにカッコウ良くなかったけど)。
そんな教育を受けた子どもたちは、いざ戦いの・ハイリスクの場面に押し出されてもろさが露呈する。
自ら判断して、覚悟を持って参加しなくちゃいけないのは、テレビや新聞に接するときも変わらないんだなーと感じるこの頃です。
つまらない愚痴におつきあいいただき、ありがとうございました。
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