2010年02月02日
心情の間歇
早朝のあぜ道を抜ける。
又今年も、冬の寒風に耐えた黒褐色の枝構えと、いち早く四季の移ろいに気付いて真っ白な花びらを開こうとしている白梅の姿が眼に入る。
毎年のことだが、体を近づけ、瞼を閉じ、鼻先を近づけ香を楽しむ。
その甘く消え去るような香りは、何度も何度も息を吸いこませるほどに,通り過ぎるのをなごり惜しくあとを引く。
古来梅はその枝振りと香が命だった。他の樹木とは一味違った、強い線を引くような枝振り。まるでデッサンの殴り書きのような切れ切れの造形が目を引く。例え人の手による裁断だとしても、「枝の求めるままに」という気がするのは私だけだろうか。
今年は、土地のオーナーの方針だろうか、この区域に網が張られ通り沿いの体が届く距離の背丈の低い梅に顔を近づけるのが精いっぱいだ。
野暮な・・と思っても、仕方のないことで諦める。
犬の糞の後始末をしない飼い主が悪いのか、それとも近頃はたまにしか見かけない野良犬のせいなのか。(きちんきちんと整理されていく、人の為の行政の陰で、命を奪われていく野良犬がいる。)
見上げると、高い枝の先にも一輪のつぼみが見える。その遠方には白い朝の月が、うっすらと青い空に刷り込まれていた。
海や山の大自然でなくとも、通りすがりの花や草の果敢ない匂いや音や色に、忘れられた昔の記憶が蘇ることがある。
その意味で屋外の散策は、贅沢な趣味かもしれない。
プルーストは、長編「失われた時を求めて」で、さんざしやアスパラガスなどの、花や食べ物の匂いや味をきっかけに、「感覚・サンサシオン」に潜む人間の深い秘密や歓び悲しみに思いを馳せる智恵への可能性を見せてくれた。
それはちょっと冗長で、食文化の違う日本人には感じにくい部分が多いのかもしれない。我々なら「味覚」とはもう少し違った材料を使いたいと思ったりする。
いずれにしてもその書物の本当の主人公は「私」でなければ、紅茶に浸したマドレーヌでもない。それは「時」なのだろう。
その冒頭は
「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」で始まり、
最後は、
「(登場する)人間たちは、多くの年月の中に投げ込まれた巨人達として、あのように多くの日々がそこに入ってきて位置を占めたあのように隔たった様々な時期に、同時に触れるのだから、際限もなくのびひろがった一つの場所を占めることになるのだ、・・・・時の中に。」で結ばれている。
そう考えると、私たち一人一人の心の内にしまい込んでいた記憶が、あるちょっとした仕草や感覚によって思い起こされ胸を締め付けられる経験は誰にも思い当たるもので、それを単によくある感傷としてやり過ごしてしまうか否かにかかっている。丁度写真という優れた方法を折角手にしながら、単なるコレクションとしてしまい込んでしまうように。
それでも散らかった部屋の掃除を始め、引き出しの中に忘れていた、何十年も前の在りし日の母の写真を偶然に見つける時、その懐かしい情景は過去の時間と空間を超えてとめどもなく流れ始める。過去が現在に変わる。これは「見出された時」なのだろうか。
この時は、過去と現在と未来に分けられている絶対時間ではない。数字で見える・数えられる時間ではない。
(絶対時間は、近代人が発明してしまったまことに厄介な思想だ。この虜になった現代人は、めったなことではここから抜け出せない。絶対時間に居る間は、「人や宇宙による支配」や「比較の悪魔」から抜け出せない。)
そうではなく、この「時」は、過去も現在も無い、私の流れる時間だ。
もともと彼が「失われた時を求めて」という作品のタイトルとして考えていたという「心情の間歇」は或る時突然、前触れもなくやってくる。
一所懸命に探している間は、湧いてこない。いっとき目を離して、とらわれない眼で通過(パサージュ)するように観ることだ。
自分が中心で無くなった時、時間は突然流れ出す。始まりがあり終わりがある、人に親しい、音楽もあれば匂いもある時間。茂木先生のいうクオリアである。
「本当の名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるものではなく、この総和を完全に採り入れても十分でない何者かから生まれる。なぜなら真の名作はまさにその総和の外にあるのだから。」
これはプルーストの単なる想い出回帰の話ではない。
「本を読む時、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それが本当の意味での読者である。作家の著書は一種の光学器械に過ぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身の中から見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見分けさせるのである。」(X・P393)
何かを主張するのでもない、力強いものでもない、壮大な構想が入っているわけでもない。説得力や共感を押しつけるものからも遠い。
彼は持病の喘息の発作という「負」を、「病も仏」に置き換えて、この発作発生の構造を逞しくも書物に適用し、凡人の我々が気付かないままやり過してしまう、自然(含む人間)との交感を思い起こさせ、貴重な人生の体験を美しく蘇らせる装置を提供してくれた。これは新しい人生観でもある。この発見に生涯を捧げたマルセルに合掌。
「朝のカフェ・オ・レの味は、我々に晴天への漠とした希望をもたらす。その希望は、我々が、クリーム状にプリーツがついて、かたまった牛乳のようにみえた白磁のボウルでカフェ・オ・レを飲んでいて、その一日がまだそっくりそのまま我々の前に残されていた時、早朝の不確かな薄明かりのなかで、かって何度もわれわれに微笑み始めたのだった。一筋の弱い光は、弱い光でしかないのではない、それは、匂いと、音と、計画と、気候とに満たされた甕である。」(X・P354)
一日のはじまりの予感に満ちた朝のカフェ・オ・レ。
或る日のたった一杯のカフェ・オ・レにも人生の豊かな恵みを見つけよう!
又今年も、冬の寒風に耐えた黒褐色の枝構えと、いち早く四季の移ろいに気付いて真っ白な花びらを開こうとしている白梅の姿が眼に入る。
毎年のことだが、体を近づけ、瞼を閉じ、鼻先を近づけ香を楽しむ。
その甘く消え去るような香りは、何度も何度も息を吸いこませるほどに,通り過ぎるのをなごり惜しくあとを引く。
古来梅はその枝振りと香が命だった。他の樹木とは一味違った、強い線を引くような枝振り。まるでデッサンの殴り書きのような切れ切れの造形が目を引く。例え人の手による裁断だとしても、「枝の求めるままに」という気がするのは私だけだろうか。
今年は、土地のオーナーの方針だろうか、この区域に網が張られ通り沿いの体が届く距離の背丈の低い梅に顔を近づけるのが精いっぱいだ。
野暮な・・と思っても、仕方のないことで諦める。
犬の糞の後始末をしない飼い主が悪いのか、それとも近頃はたまにしか見かけない野良犬のせいなのか。(きちんきちんと整理されていく、人の為の行政の陰で、命を奪われていく野良犬がいる。)
見上げると、高い枝の先にも一輪のつぼみが見える。その遠方には白い朝の月が、うっすらと青い空に刷り込まれていた。
海や山の大自然でなくとも、通りすがりの花や草の果敢ない匂いや音や色に、忘れられた昔の記憶が蘇ることがある。
その意味で屋外の散策は、贅沢な趣味かもしれない。
プルーストは、長編「失われた時を求めて」で、さんざしやアスパラガスなどの、花や食べ物の匂いや味をきっかけに、「感覚・サンサシオン」に潜む人間の深い秘密や歓び悲しみに思いを馳せる智恵への可能性を見せてくれた。
それはちょっと冗長で、食文化の違う日本人には感じにくい部分が多いのかもしれない。我々なら「味覚」とはもう少し違った材料を使いたいと思ったりする。
いずれにしてもその書物の本当の主人公は「私」でなければ、紅茶に浸したマドレーヌでもない。それは「時」なのだろう。
その冒頭は
「長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。」で始まり、
最後は、
「(登場する)人間たちは、多くの年月の中に投げ込まれた巨人達として、あのように多くの日々がそこに入ってきて位置を占めたあのように隔たった様々な時期に、同時に触れるのだから、際限もなくのびひろがった一つの場所を占めることになるのだ、・・・・時の中に。」で結ばれている。
そう考えると、私たち一人一人の心の内にしまい込んでいた記憶が、あるちょっとした仕草や感覚によって思い起こされ胸を締め付けられる経験は誰にも思い当たるもので、それを単によくある感傷としてやり過ごしてしまうか否かにかかっている。丁度写真という優れた方法を折角手にしながら、単なるコレクションとしてしまい込んでしまうように。
それでも散らかった部屋の掃除を始め、引き出しの中に忘れていた、何十年も前の在りし日の母の写真を偶然に見つける時、その懐かしい情景は過去の時間と空間を超えてとめどもなく流れ始める。過去が現在に変わる。これは「見出された時」なのだろうか。
この時は、過去と現在と未来に分けられている絶対時間ではない。数字で見える・数えられる時間ではない。
(絶対時間は、近代人が発明してしまったまことに厄介な思想だ。この虜になった現代人は、めったなことではここから抜け出せない。絶対時間に居る間は、「人や宇宙による支配」や「比較の悪魔」から抜け出せない。)
そうではなく、この「時」は、過去も現在も無い、私の流れる時間だ。
もともと彼が「失われた時を求めて」という作品のタイトルとして考えていたという「心情の間歇」は或る時突然、前触れもなくやってくる。
一所懸命に探している間は、湧いてこない。いっとき目を離して、とらわれない眼で通過(パサージュ)するように観ることだ。
自分が中心で無くなった時、時間は突然流れ出す。始まりがあり終わりがある、人に親しい、音楽もあれば匂いもある時間。茂木先生のいうクオリアである。
「本当の名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるものではなく、この総和を完全に採り入れても十分でない何者かから生まれる。なぜなら真の名作はまさにその総和の外にあるのだから。」
これはプルーストの単なる想い出回帰の話ではない。
「本を読む時、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それが本当の意味での読者である。作家の著書は一種の光学器械に過ぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身の中から見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見分けさせるのである。」(X・P393)
何かを主張するのでもない、力強いものでもない、壮大な構想が入っているわけでもない。説得力や共感を押しつけるものからも遠い。
彼は持病の喘息の発作という「負」を、「病も仏」に置き換えて、この発作発生の構造を逞しくも書物に適用し、凡人の我々が気付かないままやり過してしまう、自然(含む人間)との交感を思い起こさせ、貴重な人生の体験を美しく蘇らせる装置を提供してくれた。これは新しい人生観でもある。この発見に生涯を捧げたマルセルに合掌。
「朝のカフェ・オ・レの味は、我々に晴天への漠とした希望をもたらす。その希望は、我々が、クリーム状にプリーツがついて、かたまった牛乳のようにみえた白磁のボウルでカフェ・オ・レを飲んでいて、その一日がまだそっくりそのまま我々の前に残されていた時、早朝の不確かな薄明かりのなかで、かって何度もわれわれに微笑み始めたのだった。一筋の弱い光は、弱い光でしかないのではない、それは、匂いと、音と、計画と、気候とに満たされた甕である。」(X・P354)
一日のはじまりの予感に満ちた朝のカフェ・オ・レ。
或る日のたった一杯のカフェ・オ・レにも人生の豊かな恵みを見つけよう!
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