2015年11月19日
NHK「あさいち」で紹介された「痴漢防止カード」
NHK「あさチャン」に続く「あさいち」の軽妙なやり取りは、毎日楽しく拝見させてもらっています。
さて、本日は、女生徒とお母さんの困りごと、痴漢対策の紹介がありました。
なかなか止まらない痴漢行為に悩まれていたご家族が、考えに考えてある対策を講じた。
それが、痴漢防止カードだったというお話でした。
痴漢防止カードを付けると、行為がピタっと止まった。
「痴漢は犯罪です、
私は絶対泣き寝入りしません。」
の絵入りカードをバックのベルト部分につける。
こんなことで効果あるの?、なぜだろうと、あさチャン流に考えてみました。
どこにもある警告文と違うのは、後半部分で、「私は絶対泣き寝入りしません」という部分を読むことで、(痴漢が)相手を「自身の延長物」と見ていた状況(トポス)に、突然「物でない相手」を出現させる。つまり相手を識別する自分が出現するからだと思います。
そこで痴漢は自分が見る側から、見られる側に変わったからだろうと、即ち状況が相対化され、冷静な自分が出現し、
「おれは何をやっているんだろう!」
恥ずかしさが出現する訳です。
ストリッパー一条さおりの、見られるから見せるへの作戦変更過程でおこる、見る側と見られる側の主客転倒、「相手を恥かしめる見る側」から、「見ているこっちが恥かしくなる見せられる側」に変える作戦です。
つまり、見る側に、「恥ずかしさを感じる自分」を出現させる作戦でした。
見られていた(恥かしめられていた)から、見せている(勝ち誇っている)への大逆転の例は、古くは古事記で、芸能の発祥の起源として「漁業を生業・なりわいとする海幸彦が、山の獲物を獲る弟・山幸彦に負けた様を未来永劫演じ続ける」罰を与えられたことから始まるようですが(山幸彦とはヤマト朝廷、海幸彦とは「まつろわぬ人・従わない薩摩の人達・薩摩隼人」のことを指すようです)、その海幸彦は、辱められる方なのに、海幸彦(隼人)が活躍する時間がだんだん長いドラマになっていく。
そうすると、隼人は徐々に観客の目に、見られるもの(恥かしめられるもの)から観客に見せるもの(負けても主役となり、勝ち誇るもの)に変わっていくんですね。筋としては負けるものであるのに。
中世ではあの世阿弥も同様の手口で、「神迎え」の儀式(神がマレビトとしての客で、主人はこれを迎える人だった)であった芸能を、「神遊び」(客であってマレビトであったものを、即ち神をシテとして演じてしまう、そしてそれ(シテ)を接待する・繫ぎ役をするものをワキとして新たに設ける)にしてしまい、(見る側・観客と見られる側・シテとワキとの)主客逆転の「能」を作り、世阿弥個人でいえば、権力者の衆道(男色)の餌食として筈かしめられていた(「見られていた」・肉体的にも嬲られていた)稚児側から、彼らに芸術を「見せる」側に回るという復讐と言ってもいい方法を考え付いたことは、以前「なぜ中世の名工は己の名を刻まなかったか」でご紹介しましたね。
本当におみごとな親子の連携だったと思います。「びっくりポンや!」
しかし、未だ心が残っている相手だから通じたやり方で、動物に近い、心の薄い人間(今の文明はこういう輩を多く排出させる方向に向かっています・文明の幼年化)には通じないことは、知っておく必要があるでしょう。
やられてもいいとか、抵抗しないとおもっている。との解説でしたが、その効果が出る過程に、カードを見る事によって起こる、場所の相対化と、見た人に起こる「自分の出現」があったということだと思います。しばらくするとまた慣れが生じたり、このカードの記号化(シンボル化)が起き始め、効果が薄れることも予測されます。
あのように多くのデザインを募集してしまえばしまうほど、カードを作った行為そのものが「偶像化」されて、バリアの貼られたものだけが残る状態に落ちてしまい、そこに相対化現象が起きにくくなります。
コピペは此処がいけないのです。一回限りの覚悟でやったことだから効果が出たと思います。次の対策を、変容を考えていかれる事をお勧めします。
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