2015年11月09日
「私の番だわ!」
私の番だわ!
One time has come at last!
(とうとうきたわ!)
これは、赤毛のアンで、孤児のアンをひきとって育てた、マリラの発した言葉ですが、
NHK朝ドラ「花子とアン」で、ちょうど、花子の妹 かよ が、愛するフィアンセも自分の大切なお店も空襲で失って抜け殻のようになっていた時、戦争の孤児刈りから逃れてかよの元に飛び込んできた孤児たちをまのあたりにして、この子たちを引き取ろうと決心した時、かよの決心を見て、花子が図らずも思い起こした言葉でもありました。
何も孤児を引き取ることが共通しているなどというお話ではありません。
人は「何も分からず、生まれさせられて」、「何も選べず、姿形から環境まで決まった段階でスタートさせられて」、「時至れば滅びていく」という運命の相のもとにあります。
大変な「枯渇感」をもって生まれてくるものなんです。
その為、旅に出たり、出家したりする人も僅かにありますが、そうしないでも、市井に埋もれて生きながらでも、市塵に染まらず、来し方を思い、私とは何かを思う事で、自らを相対化しながら、海の青さにまぎれず一点を画すカモメのように、「自分を中心とする世界観」から抜け出ることができて、もっと大きな「運命という流れが主人公であるという世界」を見ることができた時初めて、「私は!私は!」でなく、海山の間に一画を占める「もの」として動くことが良く生きることであるという境地に達することができるのかもしれません。
そんなとき、眼の前に躍り出た「孤児」という存在に、「さあ、此処があなたの出番よ!」と促されて、「私が決めるところだ・出演する番だ」と感じた時に、思わず出た言葉だったのだと思います。「私の番だわ。」は、「縁」のことなんですね。
こうしてマリラやかよは、初めて自身で運命を決める(変えることも、変えないこともできたし、従うこともできた)場面に参加することで、自分の存在意義を、確認できたのでした。
そしてその行為が、思わぬ展開を生んでいくのです。そう、運命を作ったのです。自分ひとりだけの力では無く、(ここでは)孤児たちの力を通しても。
長い人生に、そんな場面は必ずやってきます。(いつもいつもではありません。何しろ世界は、自分中心では無いのですから。)
そんな時、機会(縁)を逃さず、後悔しないように、心の持続は続けたいものですね。
こういう心持を、孔子は「仁」と言いました。そしていつもいつもその持続が試されるような波乱にとんだ時ばかりではありません。なにも起こらない、なにも進まない、そんな時もあります。その様な時如何に心を持続させるか、その様な時を「せぬ暇」と世阿弥は呼びました。その時こそ「おもしろき」と言いました。
しかし実はいつも「場面」は転がっているんですね。なぜって、持続しないで(感動しないで)流されてしまって、他の人達が捨ててしまっている「場面」がごろごろしているんですから。
そんな、こととことの「間」のときこそ、心を持続させていないと、ふーっと通り過ぎてしまうものなんですね。
見様によっては何のことは無い通りすがりの事が、(枯渇感を持続し)良く感じていると(感動できると)、見えてくる。出番は実はたくさんあるのですね。
道元の「正方眼蔵」には、有名な「香厳撃竹(きょうげんぎゃくちく)」の話が紹介されています。
香厳は若い時から頭脳明晰で仏教者として最高の水準にあった。百丈の弟子である香厳は師が亡くなったので兄弟子の偉山を訪ねるが、そこで「お前が学んできたものはここではいらない。父母未生已前(禅宗の語。父や母すら生まれる以前のこと。相対的な存在にすぎない自己という立場を離れた,絶対・普遍的な真理の立場)に当たって何かを言ってみよ」と言われ、何も考えられなかった。何かヒントが欲しいと言ったら、「教えることを惜しみはしないが、そうすればお前は何時か私や自分を恨むだろう」と突っぱねられた。帰って庵を結んで竹を植えて暮らしていた。或る日庭の掃除をしていた時(禅僧にとって庭の掃除は、落ち葉を掃く為ではありません。その行為を通じて、葉と、土と風に一体になるまで待っているのです)、自分の掃いた石ころが竹に当たって激しい音を発した(水を吸い込む(渇望する)土、光を吸い込む(渇望する)葉、(渇望する)土に吸い込まれる枯葉のように、心身が一体となったとき竹の発した音が激しく自身の心の叫びと一体化した)時、ハッとして香厳は水浴して禅院に向かい祈った。こういうお話です。
真実というか、森羅万象に「生の存在」の脈々と流れていることが見えていなかったことに気づかされた瞬間だったのでしょう。
(竹の音・太鼓の音はトリガーです。きっかけであり、タクトです。それ自身はメロディーも何も持たず、それが見えない・きこえない人に、区切りとして・デッサンの役割として底に流れる「生の存在」を見せてくれる補助手段です。能の鼓であり、色の芸術である絵画における、絵の具を解く水の様な役割です)
だから竹の音に打たれた瞬間見えたのです。竹の息が、土の・葉の生が。おのれが「部分」になって森羅万象に溶け込み一体となって呼吸できたのです。
常に渇望する(繫がる準備)心掛でいなければ、「竹のこえ」など聞こえてきません。「せぬ暇」です。
聞くままに また心なき 身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水(道元)
眼で聞くと言うのは、森羅万象一枚になって聴くのでしょう。自然から「分裂」して、人間が人間となって以来感じられなくなった全たき感覚で「軒の玉水」を見て、聞いて、心を入れない感覚を掴むことでしょう。雨滴の声を己自身と聞くか、無心と聞くか。どちらでもあり、どちらでもない。
市井にあっても同様であり、このような「悟りを渇望する人達」の努力ばかりが人生では無く、与えられた場面で、何をするべきかの決断は、禅僧とも変わりはないのです。
「孤児たちの偶然の来訪」が「竹の音」だったんですね。
マリラも、かよも、「仁」を持続し、巡り合った「場面」を逃さず、良く決断し、演じ切ったのです。
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