2015年09月24日
そこに山があるから―注と解説
注(1)
「内臓とこころ」三木成夫 河出文庫 P123 2013年3月
※三木氏はここで、ドイツの著名な観想学者であり哲学者であるルードヴィヒ・クラーゲス(1872〜1956)の言葉を引用しながら幼児の、人類の「立ち上がり」への衝動について語っている。
注(2)
「看護という職業は、医師よりもはるかに古く、はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。病気の診断がつく患者も、思うほど多くは無い。診断がつかない時医師は困る。あせる。・・しかし看護は、診断を越えたものでる。・・・」(「看護の為の精神医学」中井久夫著 医学書院 P2)
そうなのです、医療の最終目的は看護なんです。色々と実験をやりたがる、やり散らかしてどうにもならなければ医学の進歩の為の実験?そういう行為はうまくはまった時は拍手喝采ですが、結局最後まで見る、患者と共に見るのは看護なんです。確かに「フローレンス・ナイチンゲールの努力は看護を専門職として社会に承認させることに成功した。・・・・・にも拘らず、ナポレオン時代の”イデオローグ”主導の改革に始まる医療体制の整備が、大学と連携した研究中心の都市病院を頂点としたピラミッド型の構成を生みつつあるに並行して、看護は医師中心の医療に組み込まれ、医療補助者として位置づけられるに至った。・・同時に看護者は管理者となった。・・・・」(「分裂病と人類」中井久夫著 東京大学出版会P182)
現代は長生き志向ばかりで、医師を神の座に迄持ちあげる勢いだ。医師の方もそうまで持ちあげられると、何か勘違いして、反り返るものもいる。これでいいんでしょうか。もうそろそろ看護の母が、愛の鞭を下す時期が近付いて来ているのではないでしょうか。
このことは、現代人がとり憑かれ、思い込んでいる、「独立、競争(悪魔の焚き付け)、効率、達成、力などが高く評価される≪闘争か逃走か≫反応に属する諸要素が、どう生きるべきかの価値観や規範の唯一の原理となってしまっている」が、「私達には全く別の生き方もできるようになっているのだ・・・私達の体内に備え付け常備してあるオキシトシン(安らぎと結びつきをもたらすホルモンであり神経伝達物質)を放出させる活動や気晴らしをすれば良いのだ。これがわかれば残業よりエクササイズや瞑想・マッサージを優先する気になるだろう・・・パソコンの前で何時間も過ごす代わりに、子ども達と遊んだり散歩したいと考えるだろう(「オキシトシン」ジャスティン・モべリ著 晶文社2008年10月P215)」という方向への転換が求められていることと何ら変わりのない見方でしょう。どちらが上とかではなく、苦楽を共にするという付き合い方でしょう。幼い時おなかが痛いと言って母親に訴える。するとすぐに、薬ではなく、お中の痛いところにそっと手を当てる。すると内から緊張していた胃がグーグーと音を立てて活動を始める。痛みは去り安らかな気持ちに陥る。「手当て」という行為は人類の医療の根源を象徴する。
注(3)
人間には、小は睡眠の90分から大は寿命に至るまで、様々な日リズム・月リズム・年リズムが宿されているという。その中で、東京医科歯科大学学長を務めた岡田正弘は動物の歯には木の年輪と同じように日輪線があり、線が7つのグループで一つの週輪線を構成していることを証明し、一週7日に意味があることと関連づけた。
三木によれば、人間の生活にもほぼ7日の周期で脱皮していく多くの例が見られるという。初七日、四十九日、七草、週暦など。彼は初めて肉親の死に直面した時、まさに八日目に、はっきりと悲しみが遠くに行くのを体全体でしったという。
1975年のスト権ストも7日だった。夫婦げんかも八日目には時の氏神様がお出ましになるとか。四十九日は七の二乗ですね。人間は対数で状況を実感する。(注14参照)
注(4)「生命の形態学」三木成夫著 うぶすな書院2013年12月 P19
注(5)
「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P121
※コアセルベートとは、コロイド溶液から分離したコロイドに富む相(状態)。原生動物の細胞内の原形質と類似することから、生命の起源と関連付ける学説あり。
注(6)「生命形態学序説」三木成夫著 うぶすな書院1992月11月P202
注(7)
人は体に欠陥(?)のある人達を障害者だとか自閉症だとか呼び、自らを健常者と呼ぶ。それは何か大きな思いあがりでは無いのか。そう思ってきた。ノバーリスの言う様に、人には見えていないものがある。触れていないものがある。そう思ってきた。としたら健常者とはどんな障害を持っているのか?それが、「都市」(城壁)の建設に象徴される、森羅万象に対する人工物の氾濫でつくる自然にかぶせるバリアなのではないか。今ではその様な物質だけでなく、視覚・嗅覚・聴覚・思考などあらゆるものが、自然からのバリアを持ち、向こうが見えても見えない・相手のこころが見えない障害を作り出してしまった。そのことを異常と思えないこころこそ、人類の(宇宙に対する)「自閉症」なる所以なのではないか?と思う様になった。
注(8) 「生命形態学序説」三木成夫著 うぶすな書院1992月11月P203
注(9)
理性は確かに人間と動物との違いの一つだが、それを利用するばかりで本来の地球上の一生物としての自覚を忘れて、必要の域をはるかに超えて富を貯め込む行為は、他の生物にとってフェアではない。「人間は理性という名を付けてそれを使うが、それはただ、どのけものよりもっとけものらしいけものになろう為なんだ。」
(ゲーテ・「ファウスト」(手塚富雄訳)中央公論社P13−天上の序曲・メフィストフェレスの言より)
※光合成で自らの栄養を作れない動物は、移動という手段で、他のいきものの命を奪って栄養とするしか手段は無い。まさに「(命を)いただきます」なのだ。そんな存在である動物でありながら人間のみがひとり寿命に逆らって、恋々と永遠の命を望んで、他を貪り尽くすのは如何なものか。命をいただいて生き延びてきた我々は「その時」が来たら、寿命というものを受け入れて、潔く土に還り、バクテリアに食われるのが、奪ってきた命に対する恩返し・礼儀というものでは無いのだろうか。私が安易に臓器提供のサインをできない理由なのだが、それは「命を法に任せるな。自分で責任をとれ」というつもりもある。やり方がずるいと思うんですね。寿命に逆らって生きようとすると言ったって、それも年端もいかない幼い命を救う為なら、喜んで提供しますよ。でもその様な自然の摂理に逆らう重大な行為が、自らの(親や医師の)命がけの責任を伴ったものでなく、法律で決めたから「はい、一丁上がり」という人類の慢心の基になることは見え透いているからサインしないんです。これは悪い方の「7日リズム」ですね。救いたいなら、自らの手を汚せ。責任を持ち、命がけで奪え。と言いたいですね。それなら喜んで切られましょう。どんなに哀そうでも、法に責任をかぶせては駄目なんです。その一線を、「幸福」という麻薬を守る為に、易々と越えてしまうことが今日の暴走を招いているんですから。
注(10) 「生命の形態学」三木成夫著 うぶすな書院2013年12月 P204
注(12)
“こころ”とは、「をわり」即ち死を意識した時に生まれる、「時間感覚」なんですね。この不安から逃れようと、あの手この手で、永遠を目指すあわれな存在が、人間なんですね。その“こころ”が引き寄せられるのが大小宇宙のリズムの波であり、この波を古代中国の人達は少し曲がった三本線で表した(甲骨文字)。「気」という文字の基になるものです。だから、「気は心」なんですね。
注(13)
カントによれば、理念の能力である理性と異なって,感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能
力,判断の能力をいう。全てを一度に把握できる、直観とでもいう能力のことですね。もっとも「自閉」しまくって完璧な(理念の)世界観を作った「蜘蛛男」ヘーゲルにいわせれば、悟性は、感覚に留まって統合の出来ない非弁証法的・反省的・抽象的認識能力 と手厳しい。私に言わせれば、その完璧な世界(膜)を作ったのは・眺めているお前は誰だ、と言いたいですね。お前は神か!と。悟性の優れているのは、「(たかだか100年も生きられない)人間は考える葦に過ぎないが・・・・・人間の尊厳は、一瞬のうちに全宇宙への想い(137億光年の宇宙)をめぐらすことのできるところにある(パンセ)。」とパスカルに言わしめた全体を観る目だろう。
注(14)
体重を60Kgとしたヒトサイズの動物のエネルギー消費量(標準代謝率)は88.8ワットに対し、我々成人男子の消費量は73.3ワットと少なめです。食べる量も動物190ワット(摂取量の倍程度)に対し成人男子は121ワットと低めです。これはサラリーマンは運動量が少なく食べる量も少なめになるからです。ところが現代人のエネルギー消費量はこのほかに石油や原子力や太陽光などから得たエネルギーを大量に使い国民1人当たりで5378ワット(1992年当時)にのぼっています。これに先ほどの食べるエネルギー121ワットを加えると約5500ワットになり、標準代謝率もしくは基礎代謝率(安静時の最小エネルギー消費量)をこの半分と見ても2750ワットで、ヒトの成人男子の消費量は73.3ワットの40倍近い量となります。これほど多量のエネルギーを体内で消費する動物と言ったら何と、5.9トン=ゾウ並みの体重所有者のそれとなります。これはものすごい数字です。エアコン、電灯、夜まで働く工場、通信網、いったいどこまで行けば気が済むのでしょう。明治初期までは、体以外のエネルギー消費量は200ワット程度だったようですから、約2倍程度でした。それが10倍(1961年)、20倍(1967年)と倍々ゲームならぬ10倍ゲームです
(「時間」本川達雄著 NHK出版 第3章-エネルギー問題を考える-より)。
エネルギーを使えば使うほど時間は速く進みますから、今の社会にはとってもついてゆけない人は多いのではないでしょうか。平均寿命が80歳といっても、昔の人(生物学的に、ヒトの平均寿命は30歳ですがもう少し長かった)とそんな長くなったという実感はないんじゃないでしょうか。ゾウの時間とネズミの時間とは、当の本人たちにとっての絶対感覚では違わないのですから。節操というものがあります。昔はそれを宗教が警告してくれました。しかし自然科学は警告はしません。調子に乗って自分ばかりが湯水のようにエネルギーをバカ食いして、気が付いたらもうコントロール不能の状態になっているのです。自然には「こころ」は在りません。だから「時間」が無い、つまり無限なんです。ですから人類が滅亡しようがしまいが知ったこっちゃない。体は「桁」で違いを感じるようです。一桁越えた時が「おかしいぞ」のチャンスだったんです。でももう40倍。次は100倍まで気づかない。黙々と経済の奴隷として働き蜂と女王蜂(資本家)の関係を続けようとするでしょう。誰かが「もう元に戻ろう」と言っても、「何が悪い!」「無責任だ」の罵声しか返ってこないでしょう。”こころ”が眠ってしまっているから、反乱を起こそうという考えは思いつかないんです。自分が見えないんです。まるでギリシャ・ローマ時代の奴隷のように。ま、その前に確実に桁違いの「自然破壊」が人類を襲うでしょうが。
(*標準代謝率もしくは基礎代謝率は、安静時の最小エネルギー消費量ですが、食物の種類によって燃焼時のエネルギー量は異なるので、その違いを消す為に、ここではエネルギー発生量に比例する酸素消費量で置き換えて比較しています。)
注(15)「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P125。
注(16)
CS=Customer Satisfaction(顧客満足)、ES=Employee Satisfaction(従業員満足)
※「お客様は神様です」などとうそぶく経営者に限り、社員の待遇をけちり、儲けに奔走するものです。“人件費が一番金を食う“などと学者面してまるで損をしているが如き口をきく。社員の満足を一番にされれば、社員は黙っていてもお客様に親切にしたくなるものなんです。それを逆をやるから、社員はそのストレスをお客に転嫁するものなんですね。そんな経営はど素人でもできます。CS=ES急がば廻れ。ついでに、良い会社の基準は、利益の大小なんかじゃありませんよ。如何に「多くの雇用」を産み出し維持したかなんです。離職率の高い会社は如何に利益を出そうと、無駄な費用(雇用対策費)で遠回りをしているばかりか、企業の本来目的(雇用)を知らない駄目な会社です。
注(17)
三木は身体を内臓系と体壁系に分ける。内臓系の中心に心臓、体壁系の中心に頭脳を置く。内臓系は植物器官の流れをくみ、腎管系(排出)・血管系(循環)・腸管系(吸収)・不随意筋(蠕動運動=疲れない)構成され「食と性」を司る。体壁系は動物系の流れをくみ、外皮系(感覚)・神経系(伝達)・筋肉系(随意運動=疲れる)から構成され、感覚と運動に携わる「手足」にすぎない。これでこころは内臓から、意志は頭脳からくるのが納得されたと思います。
私は内臓系に無意識(こころ)・芸術 を、体壁系に意識・自然科学を加えたい。
我々の無意識的な「判断」では大体10の7乗(1000万)レベルのビット数(情報の最小単位)のデータを脳が分析して結論を出してくるのだそうです。これは全く意識されない。これを吟味するのがおよそ20ビットぐらいのデータ。このように僅かなデータによって意識が今思いついたこととして吟味する (この間僅か0.55秒) 。ここで無意識的な自己(セルフ)からの判断を、意識的な自己(エゴ)は0.55秒遅れで「いま自分がこう判断している(決断している)」とみなす。こころはひとを殺しもすれば、救いもする。この判断に「待てよ」と0.55秒後に吟味をかけるのが意識であり良心なのです。(「こんなときわたしはどうしてきたか」中井久夫著 医学書院P78)
意識は理性は、無意識の大海から湧きおこってくる“こころ”を吟味して正しい方向に導くのが本来の役目だった。“こころ”は間違いやすいから。
注(18)「宮沢賢治・イーハトヴ自然館」 ネイチャープロ編集室 東京美術 P50 2006年8月
注(19)
「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P278、P30
「ある人の面影とは、その時々の「個々のかたち」を言うのではなく、それらを通じていつの間にか人々の瞼に焼きつき、振り払う事のできぬものとなってしまった、そのような根強いかたちでなければならない。」
※「僕は面影という言葉が好きなんですよ、何となく。それで「おもて」と「かげ」が一緒になって人間という存在があるのかな、と思うわけです。ひるがえって、僕らのような立場から言うと「おもて」と「かげ(うら)」っていうのは対極概念ですが・・・・それが同時に存在している(佐治晴夫・養老孟氏対談「わかることはかわること」P54)
これは理性ではとらえられない「一瞬にして全体を見る」パスカルの眼ですね。
注(20)
「胎児の世界」三木成夫著 中公新書 1983年5月 P107〜116
※人の胎児はお母さんのおなかの中で、羊水に揺られながら、受胎の日から指折り数えて32日ころから鰓を持った魚、34日頃から両生類、38日頃から爬虫類、40日頃にはヒトと呼べる変身劇を遂げる。僅か1週間の間に、脊椎動物5億年の歴史を演じる。これは「見てはいけない最たる奇跡(神秘)」だが、それを暴いてしまうのもヒトの左脳(論理脳・ロゴス脳)の為せる業というものだろうか。
※作家三島由紀夫の壮絶な死は、その衝撃とともに多くの非難や無視や擁護にさらされていた。瀬戸内寂聴さんが言う様に三島がノーベル文学賞を受賞していれば、川端も三島も二人とも自殺しなかっただろう。この推測は正しい。収まるべきところに収まるべきものが行った訳だから。三島は、虚栄心が旺盛で自らを憑き動かすものの正体を知らない大衆を手玉にとって、益々話題作を提供できただろう。何も好き好んで包丁など振り回さずとも虚栄心を満たしながら鬼才と呼ばれ続けただろう。又川端は重すぎた荷を背負いこむことなく(ノーベル賞作家にふさわしい作品を書かねばという重荷)ガス管ならぬたばこの煙で悠々自適の「女形」作家として余生を全うしただろう。
だが、誰一人と言っては言い過ぎだが、三島の遠の記憶への憧憬を語るものは少なかった。彼は恐ろしく頭が良かった。東大の金時計組だった。つまり「人工」の達人だった。彼の書くものは恐ろしい分析だった。理屈で固めた天才批評家だった。舌を巻くほどうまい解説、洞察。人一倍作品に感動する能力に長けていた。しかし彼の作るもの(小説)には感動が無かった。人工のぎごちなさがあちこちで目に付いた。彼は話題は提供したが、感動は生めなかった。かえって翻訳では外国人の想像力がそのぎごちなさを補った。彼がボディービルを初めとした肉体改造を始めたのは、理屈(脳)では無い、天体の回帰と歩調を合わせた内臓のうねりの感覚(こころ)に知らずに引かれたからに相違ない。遠からの声に。あたまはかんがえるもの、こころは感じるもの。どこで、内臓で(心底納得した時は、こころで納得したという事で、「腑に落ちた」といいます)。内臓は筋肉で動きます。呼吸を司る横隔膜(これも筋肉です)、運動する筋肉などの、あたまで動かせる筋肉(横紋筋=随意筋)は疲労します。しかしあたまの命令に関係なく動き続ける筋肉もあります(平滑筋=不随意筋)。彼等は疲れません。心臓(ヒトは約15億回打ったらはいこれでおしまいではありますが)しかり、胃袋しかり。岩をはむ激流を苦もなく遡る鮭の回遊や数千メートルの冬山を平気で飛び続ける鶴や夜通し飛び続ける月夜の雁がねは、この筋肉の仕業です。海水の中でも、大空の中でも時至れば、出発の時刻と目標の方角が定められるのは、鮭がどこにいても迷わず生まれ故郷の石狩川に戻れるのは、一体何に引かれているのか。宇宙の軌道に同期しているからではないでしょうか。生物もその細胞は「星」だからです。デジタルではどうしても掴めないあのアナログの質感(クオリア)に引かれながら、三島は、いいえ人類は、この宇宙からの声に耳を塞ぎ自閉し続けた報いを受けたのです。人類と言って大げさなら、日本人を代表して。肉体からの復讐です。盾の会は「切腹死」という、現代では未だ「人工」の手に染まっていない「自然=肉体」に触れるアナログを生きる最後の舞台だったのでしょう(彼のグローブ座)。それは彼がやりたくてできなかった、初めて「(内臓を)さらけ出した自分」だったのです。もう作家ではない。日本人自閉症化への、肉体からの警告でもありました。他人を巻き添えにする犯罪を犯してまで。(幕末の堺事件では、フランス水兵たちを殺害した攘夷派土佐藩士達は、責任を取らされ切腹したが、そのむごたらしさは、フランス側から中止依頼の来る程だったという。何と志士は自らのはらわたを、処刑を見物に来ていたフランス兵たちに投げつけたのだ。つまり当時の日本人の”こころ”の象徴を投げつけた訳だ。いやだ、気持ち悪い、あり得ないと私とて言いたいものですが、かくも深く、人が自然の摂理に一体化していた時代だった、少なくとも自らの利益(欲)の為に他国の物や心まで同じ色に染め、異なる考えは排除しようという則を越えた考えは無かったという事を思う必要があるでしょう。勘違いされては困りますから、言っておきますが太平洋戦争の侵略は、確かに神風特攻隊の飛行士はこころをぶつけたでしょう。しかしそれを平気でやらせた(操った)のは、大和魂を持った武士などでは無い。西洋の権力文明にコンプレックスを持ち且つ憧れ、自分達はちゃっかり安全を確保し、陰で贅沢なものを食べ、脅しの上手な成り上がりの”こころ”の薄い連中だったのではないでしょうか。彼等は「もののあわれ」すら解さず、女々しいと排除したんですから)
「この事件をジャーナリスティックに取り扱う事はできない。この事件の本質には何か大変孤独なものがある。三島由紀夫も自分自身が透明だった筈が無い。やはり運命というような暗い力と一緒にいたのではないか。これは本人にもわからなかっただろう。・・人間の肝心なところは謎だとはっきり言っていいのだ(雑誌新潮「感想」小林秀雄)」
「僕はこれからの人生で何か愚行を演じるかもしれない。そして日本中の人
がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。・・・僕は自分の中にそう
いう要素があると思っている。ただもしそういうことをして、日本中が笑った
場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣(足穂)さんだという確信が、僕
は在るんだ。なぜかというと・・ついに男というものの秘密を日本の作家は
知らない。男は何のために生まれて何のために死ぬのかを知らない。男の
秘密から発するものが天上と地獄を駆け巡る場合、どこででもちゃんと鉤
(かぎ)でもって引っかけてくれるのが稲垣さんだという確信を持っている。
・・・」
(対談「タルホの世界」三島由紀夫・渋沢竜彦共著 中公文庫)
文学者ばかりでは無い、あの湯川秀樹だって、「女の足の指を嘗めるように、自然の足の指を嘗める自然科学というものが必要なんや」「谷崎(潤一郎)みたいなことですか?」「そうや、あれや。あれを物理学にしたいんや」と、松岡正剛さんに言ったそうです。既に素領域理論に取りかかっていた頃だそうで、そのメタファー(隠喩)の根幹に在るのは老荘思想だった。即ち宇宙には大いなるものが偏在していて、個々の現象や人間はその様な大いなるものに自分を合わせるだけでいいという信念だった。(江戸時代を覆っていた孔子を頂点とした、深いが「矩(のり)」にマネージされた儒教に変わって仁や礼すら越えた「万物斉同(人の認識は善悪・是非・美醜・生死など、相対的概念で成り立っているが、これを超越した絶対の無の境地に立てば、対立と差別は消滅し、すべてのものは同じであると考えることができ(差別などの「違い」意識から開放される)とする説。荘子の思想)」の考えに基づいていた。アナーキーと言われればそうだが、ここには立派な自然(摂理・道)に対する信仰が根にある。翻ってグローバルこそ「神なきアナーキー」でしょ)
湯川さんは、物質だって「百代の過客」がやってきて宿を借りて去っていくような席を持っているのではないかというふうにも考えておられた(松岡正剛・茂木健一郎対談「脳と日本人」文芸春秋社2007年12月 P20)。これはバリアを剥がした生の自然の下の、人間・動物・植物・塵に至る全ての平等とそれらとの交流、共振する「遠」との共鳴・「掻き立てられるもの」をめざす行為そのものですね。
注(21)「新星座巡礼」野尻抱影著 中公文庫2002年11月P194〜198
「内臓とこころ」三木成夫 河出文庫 P123 2013年3月
※三木氏はここで、ドイツの著名な観想学者であり哲学者であるルードヴィヒ・クラーゲス(1872〜1956)の言葉を引用しながら幼児の、人類の「立ち上がり」への衝動について語っている。
注(2)
「看護という職業は、医師よりもはるかに古く、はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。病気の診断がつく患者も、思うほど多くは無い。診断がつかない時医師は困る。あせる。・・しかし看護は、診断を越えたものでる。・・・」(「看護の為の精神医学」中井久夫著 医学書院 P2)
そうなのです、医療の最終目的は看護なんです。色々と実験をやりたがる、やり散らかしてどうにもならなければ医学の進歩の為の実験?そういう行為はうまくはまった時は拍手喝采ですが、結局最後まで見る、患者と共に見るのは看護なんです。確かに「フローレンス・ナイチンゲールの努力は看護を専門職として社会に承認させることに成功した。・・・・・にも拘らず、ナポレオン時代の”イデオローグ”主導の改革に始まる医療体制の整備が、大学と連携した研究中心の都市病院を頂点としたピラミッド型の構成を生みつつあるに並行して、看護は医師中心の医療に組み込まれ、医療補助者として位置づけられるに至った。・・同時に看護者は管理者となった。・・・・」(「分裂病と人類」中井久夫著 東京大学出版会P182)
現代は長生き志向ばかりで、医師を神の座に迄持ちあげる勢いだ。医師の方もそうまで持ちあげられると、何か勘違いして、反り返るものもいる。これでいいんでしょうか。もうそろそろ看護の母が、愛の鞭を下す時期が近付いて来ているのではないでしょうか。
このことは、現代人がとり憑かれ、思い込んでいる、「独立、競争(悪魔の焚き付け)、効率、達成、力などが高く評価される≪闘争か逃走か≫反応に属する諸要素が、どう生きるべきかの価値観や規範の唯一の原理となってしまっている」が、「私達には全く別の生き方もできるようになっているのだ・・・私達の体内に備え付け常備してあるオキシトシン(安らぎと結びつきをもたらすホルモンであり神経伝達物質)を放出させる活動や気晴らしをすれば良いのだ。これがわかれば残業よりエクササイズや瞑想・マッサージを優先する気になるだろう・・・パソコンの前で何時間も過ごす代わりに、子ども達と遊んだり散歩したいと考えるだろう(「オキシトシン」ジャスティン・モべリ著 晶文社2008年10月P215)」という方向への転換が求められていることと何ら変わりのない見方でしょう。どちらが上とかではなく、苦楽を共にするという付き合い方でしょう。幼い時おなかが痛いと言って母親に訴える。するとすぐに、薬ではなく、お中の痛いところにそっと手を当てる。すると内から緊張していた胃がグーグーと音を立てて活動を始める。痛みは去り安らかな気持ちに陥る。「手当て」という行為は人類の医療の根源を象徴する。
注(3)
人間には、小は睡眠の90分から大は寿命に至るまで、様々な日リズム・月リズム・年リズムが宿されているという。その中で、東京医科歯科大学学長を務めた岡田正弘は動物の歯には木の年輪と同じように日輪線があり、線が7つのグループで一つの週輪線を構成していることを証明し、一週7日に意味があることと関連づけた。
三木によれば、人間の生活にもほぼ7日の周期で脱皮していく多くの例が見られるという。初七日、四十九日、七草、週暦など。彼は初めて肉親の死に直面した時、まさに八日目に、はっきりと悲しみが遠くに行くのを体全体でしったという。
1975年のスト権ストも7日だった。夫婦げんかも八日目には時の氏神様がお出ましになるとか。四十九日は七の二乗ですね。人間は対数で状況を実感する。(注14参照)
注(4)「生命の形態学」三木成夫著 うぶすな書院2013年12月 P19
注(5)
「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P121
※コアセルベートとは、コロイド溶液から分離したコロイドに富む相(状態)。原生動物の細胞内の原形質と類似することから、生命の起源と関連付ける学説あり。
注(6)「生命形態学序説」三木成夫著 うぶすな書院1992月11月P202
注(7)
人は体に欠陥(?)のある人達を障害者だとか自閉症だとか呼び、自らを健常者と呼ぶ。それは何か大きな思いあがりでは無いのか。そう思ってきた。ノバーリスの言う様に、人には見えていないものがある。触れていないものがある。そう思ってきた。としたら健常者とはどんな障害を持っているのか?それが、「都市」(城壁)の建設に象徴される、森羅万象に対する人工物の氾濫でつくる自然にかぶせるバリアなのではないか。今ではその様な物質だけでなく、視覚・嗅覚・聴覚・思考などあらゆるものが、自然からのバリアを持ち、向こうが見えても見えない・相手のこころが見えない障害を作り出してしまった。そのことを異常と思えないこころこそ、人類の(宇宙に対する)「自閉症」なる所以なのではないか?と思う様になった。
注(8) 「生命形態学序説」三木成夫著 うぶすな書院1992月11月P203
注(9)
理性は確かに人間と動物との違いの一つだが、それを利用するばかりで本来の地球上の一生物としての自覚を忘れて、必要の域をはるかに超えて富を貯め込む行為は、他の生物にとってフェアではない。「人間は理性という名を付けてそれを使うが、それはただ、どのけものよりもっとけものらしいけものになろう為なんだ。」
(ゲーテ・「ファウスト」(手塚富雄訳)中央公論社P13−天上の序曲・メフィストフェレスの言より)
※光合成で自らの栄養を作れない動物は、移動という手段で、他のいきものの命を奪って栄養とするしか手段は無い。まさに「(命を)いただきます」なのだ。そんな存在である動物でありながら人間のみがひとり寿命に逆らって、恋々と永遠の命を望んで、他を貪り尽くすのは如何なものか。命をいただいて生き延びてきた我々は「その時」が来たら、寿命というものを受け入れて、潔く土に還り、バクテリアに食われるのが、奪ってきた命に対する恩返し・礼儀というものでは無いのだろうか。私が安易に臓器提供のサインをできない理由なのだが、それは「命を法に任せるな。自分で責任をとれ」というつもりもある。やり方がずるいと思うんですね。寿命に逆らって生きようとすると言ったって、それも年端もいかない幼い命を救う為なら、喜んで提供しますよ。でもその様な自然の摂理に逆らう重大な行為が、自らの(親や医師の)命がけの責任を伴ったものでなく、法律で決めたから「はい、一丁上がり」という人類の慢心の基になることは見え透いているからサインしないんです。これは悪い方の「7日リズム」ですね。救いたいなら、自らの手を汚せ。責任を持ち、命がけで奪え。と言いたいですね。それなら喜んで切られましょう。どんなに哀そうでも、法に責任をかぶせては駄目なんです。その一線を、「幸福」という麻薬を守る為に、易々と越えてしまうことが今日の暴走を招いているんですから。
注(10) 「生命の形態学」三木成夫著 うぶすな書院2013年12月 P204
注(12)
“こころ”とは、「をわり」即ち死を意識した時に生まれる、「時間感覚」なんですね。この不安から逃れようと、あの手この手で、永遠を目指すあわれな存在が、人間なんですね。その“こころ”が引き寄せられるのが大小宇宙のリズムの波であり、この波を古代中国の人達は少し曲がった三本線で表した(甲骨文字)。「気」という文字の基になるものです。だから、「気は心」なんですね。
注(13)
カントによれば、理念の能力である理性と異なって,感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能
力,判断の能力をいう。全てを一度に把握できる、直観とでもいう能力のことですね。もっとも「自閉」しまくって完璧な(理念の)世界観を作った「蜘蛛男」ヘーゲルにいわせれば、悟性は、感覚に留まって統合の出来ない非弁証法的・反省的・抽象的認識能力 と手厳しい。私に言わせれば、その完璧な世界(膜)を作ったのは・眺めているお前は誰だ、と言いたいですね。お前は神か!と。悟性の優れているのは、「(たかだか100年も生きられない)人間は考える葦に過ぎないが・・・・・人間の尊厳は、一瞬のうちに全宇宙への想い(137億光年の宇宙)をめぐらすことのできるところにある(パンセ)。」とパスカルに言わしめた全体を観る目だろう。
注(14)
体重を60Kgとしたヒトサイズの動物のエネルギー消費量(標準代謝率)は88.8ワットに対し、我々成人男子の消費量は73.3ワットと少なめです。食べる量も動物190ワット(摂取量の倍程度)に対し成人男子は121ワットと低めです。これはサラリーマンは運動量が少なく食べる量も少なめになるからです。ところが現代人のエネルギー消費量はこのほかに石油や原子力や太陽光などから得たエネルギーを大量に使い国民1人当たりで5378ワット(1992年当時)にのぼっています。これに先ほどの食べるエネルギー121ワットを加えると約5500ワットになり、標準代謝率もしくは基礎代謝率(安静時の最小エネルギー消費量)をこの半分と見ても2750ワットで、ヒトの成人男子の消費量は73.3ワットの40倍近い量となります。これほど多量のエネルギーを体内で消費する動物と言ったら何と、5.9トン=ゾウ並みの体重所有者のそれとなります。これはものすごい数字です。エアコン、電灯、夜まで働く工場、通信網、いったいどこまで行けば気が済むのでしょう。明治初期までは、体以外のエネルギー消費量は200ワット程度だったようですから、約2倍程度でした。それが10倍(1961年)、20倍(1967年)と倍々ゲームならぬ10倍ゲームです
(「時間」本川達雄著 NHK出版 第3章-エネルギー問題を考える-より)。
エネルギーを使えば使うほど時間は速く進みますから、今の社会にはとってもついてゆけない人は多いのではないでしょうか。平均寿命が80歳といっても、昔の人(生物学的に、ヒトの平均寿命は30歳ですがもう少し長かった)とそんな長くなったという実感はないんじゃないでしょうか。ゾウの時間とネズミの時間とは、当の本人たちにとっての絶対感覚では違わないのですから。節操というものがあります。昔はそれを宗教が警告してくれました。しかし自然科学は警告はしません。調子に乗って自分ばかりが湯水のようにエネルギーをバカ食いして、気が付いたらもうコントロール不能の状態になっているのです。自然には「こころ」は在りません。だから「時間」が無い、つまり無限なんです。ですから人類が滅亡しようがしまいが知ったこっちゃない。体は「桁」で違いを感じるようです。一桁越えた時が「おかしいぞ」のチャンスだったんです。でももう40倍。次は100倍まで気づかない。黙々と経済の奴隷として働き蜂と女王蜂(資本家)の関係を続けようとするでしょう。誰かが「もう元に戻ろう」と言っても、「何が悪い!」「無責任だ」の罵声しか返ってこないでしょう。”こころ”が眠ってしまっているから、反乱を起こそうという考えは思いつかないんです。自分が見えないんです。まるでギリシャ・ローマ時代の奴隷のように。ま、その前に確実に桁違いの「自然破壊」が人類を襲うでしょうが。
(*標準代謝率もしくは基礎代謝率は、安静時の最小エネルギー消費量ですが、食物の種類によって燃焼時のエネルギー量は異なるので、その違いを消す為に、ここではエネルギー発生量に比例する酸素消費量で置き換えて比較しています。)
注(15)「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P125。
注(16)
CS=Customer Satisfaction(顧客満足)、ES=Employee Satisfaction(従業員満足)
※「お客様は神様です」などとうそぶく経営者に限り、社員の待遇をけちり、儲けに奔走するものです。“人件費が一番金を食う“などと学者面してまるで損をしているが如き口をきく。社員の満足を一番にされれば、社員は黙っていてもお客様に親切にしたくなるものなんです。それを逆をやるから、社員はそのストレスをお客に転嫁するものなんですね。そんな経営はど素人でもできます。CS=ES急がば廻れ。ついでに、良い会社の基準は、利益の大小なんかじゃありませんよ。如何に「多くの雇用」を産み出し維持したかなんです。離職率の高い会社は如何に利益を出そうと、無駄な費用(雇用対策費)で遠回りをしているばかりか、企業の本来目的(雇用)を知らない駄目な会社です。
注(17)
三木は身体を内臓系と体壁系に分ける。内臓系の中心に心臓、体壁系の中心に頭脳を置く。内臓系は植物器官の流れをくみ、腎管系(排出)・血管系(循環)・腸管系(吸収)・不随意筋(蠕動運動=疲れない)構成され「食と性」を司る。体壁系は動物系の流れをくみ、外皮系(感覚)・神経系(伝達)・筋肉系(随意運動=疲れる)から構成され、感覚と運動に携わる「手足」にすぎない。これでこころは内臓から、意志は頭脳からくるのが納得されたと思います。
私は内臓系に無意識(こころ)・芸術 を、体壁系に意識・自然科学を加えたい。
我々の無意識的な「判断」では大体10の7乗(1000万)レベルのビット数(情報の最小単位)のデータを脳が分析して結論を出してくるのだそうです。これは全く意識されない。これを吟味するのがおよそ20ビットぐらいのデータ。このように僅かなデータによって意識が今思いついたこととして吟味する (この間僅か0.55秒) 。ここで無意識的な自己(セルフ)からの判断を、意識的な自己(エゴ)は0.55秒遅れで「いま自分がこう判断している(決断している)」とみなす。こころはひとを殺しもすれば、救いもする。この判断に「待てよ」と0.55秒後に吟味をかけるのが意識であり良心なのです。(「こんなときわたしはどうしてきたか」中井久夫著 医学書院P78)
意識は理性は、無意識の大海から湧きおこってくる“こころ”を吟味して正しい方向に導くのが本来の役目だった。“こころ”は間違いやすいから。
注(18)「宮沢賢治・イーハトヴ自然館」 ネイチャープロ編集室 東京美術 P50 2006年8月
注(19)
「生命とリズム」三木成夫著 河出文庫 2013年10月P278、P30
「ある人の面影とは、その時々の「個々のかたち」を言うのではなく、それらを通じていつの間にか人々の瞼に焼きつき、振り払う事のできぬものとなってしまった、そのような根強いかたちでなければならない。」
※「僕は面影という言葉が好きなんですよ、何となく。それで「おもて」と「かげ」が一緒になって人間という存在があるのかな、と思うわけです。ひるがえって、僕らのような立場から言うと「おもて」と「かげ(うら)」っていうのは対極概念ですが・・・・それが同時に存在している(佐治晴夫・養老孟氏対談「わかることはかわること」P54)
これは理性ではとらえられない「一瞬にして全体を見る」パスカルの眼ですね。
注(20)
「胎児の世界」三木成夫著 中公新書 1983年5月 P107〜116
※人の胎児はお母さんのおなかの中で、羊水に揺られながら、受胎の日から指折り数えて32日ころから鰓を持った魚、34日頃から両生類、38日頃から爬虫類、40日頃にはヒトと呼べる変身劇を遂げる。僅か1週間の間に、脊椎動物5億年の歴史を演じる。これは「見てはいけない最たる奇跡(神秘)」だが、それを暴いてしまうのもヒトの左脳(論理脳・ロゴス脳)の為せる業というものだろうか。
※作家三島由紀夫の壮絶な死は、その衝撃とともに多くの非難や無視や擁護にさらされていた。瀬戸内寂聴さんが言う様に三島がノーベル文学賞を受賞していれば、川端も三島も二人とも自殺しなかっただろう。この推測は正しい。収まるべきところに収まるべきものが行った訳だから。三島は、虚栄心が旺盛で自らを憑き動かすものの正体を知らない大衆を手玉にとって、益々話題作を提供できただろう。何も好き好んで包丁など振り回さずとも虚栄心を満たしながら鬼才と呼ばれ続けただろう。又川端は重すぎた荷を背負いこむことなく(ノーベル賞作家にふさわしい作品を書かねばという重荷)ガス管ならぬたばこの煙で悠々自適の「女形」作家として余生を全うしただろう。
だが、誰一人と言っては言い過ぎだが、三島の遠の記憶への憧憬を語るものは少なかった。彼は恐ろしく頭が良かった。東大の金時計組だった。つまり「人工」の達人だった。彼の書くものは恐ろしい分析だった。理屈で固めた天才批評家だった。舌を巻くほどうまい解説、洞察。人一倍作品に感動する能力に長けていた。しかし彼の作るもの(小説)には感動が無かった。人工のぎごちなさがあちこちで目に付いた。彼は話題は提供したが、感動は生めなかった。かえって翻訳では外国人の想像力がそのぎごちなさを補った。彼がボディービルを初めとした肉体改造を始めたのは、理屈(脳)では無い、天体の回帰と歩調を合わせた内臓のうねりの感覚(こころ)に知らずに引かれたからに相違ない。遠からの声に。あたまはかんがえるもの、こころは感じるもの。どこで、内臓で(心底納得した時は、こころで納得したという事で、「腑に落ちた」といいます)。内臓は筋肉で動きます。呼吸を司る横隔膜(これも筋肉です)、運動する筋肉などの、あたまで動かせる筋肉(横紋筋=随意筋)は疲労します。しかしあたまの命令に関係なく動き続ける筋肉もあります(平滑筋=不随意筋)。彼等は疲れません。心臓(ヒトは約15億回打ったらはいこれでおしまいではありますが)しかり、胃袋しかり。岩をはむ激流を苦もなく遡る鮭の回遊や数千メートルの冬山を平気で飛び続ける鶴や夜通し飛び続ける月夜の雁がねは、この筋肉の仕業です。海水の中でも、大空の中でも時至れば、出発の時刻と目標の方角が定められるのは、鮭がどこにいても迷わず生まれ故郷の石狩川に戻れるのは、一体何に引かれているのか。宇宙の軌道に同期しているからではないでしょうか。生物もその細胞は「星」だからです。デジタルではどうしても掴めないあのアナログの質感(クオリア)に引かれながら、三島は、いいえ人類は、この宇宙からの声に耳を塞ぎ自閉し続けた報いを受けたのです。人類と言って大げさなら、日本人を代表して。肉体からの復讐です。盾の会は「切腹死」という、現代では未だ「人工」の手に染まっていない「自然=肉体」に触れるアナログを生きる最後の舞台だったのでしょう(彼のグローブ座)。それは彼がやりたくてできなかった、初めて「(内臓を)さらけ出した自分」だったのです。もう作家ではない。日本人自閉症化への、肉体からの警告でもありました。他人を巻き添えにする犯罪を犯してまで。(幕末の堺事件では、フランス水兵たちを殺害した攘夷派土佐藩士達は、責任を取らされ切腹したが、そのむごたらしさは、フランス側から中止依頼の来る程だったという。何と志士は自らのはらわたを、処刑を見物に来ていたフランス兵たちに投げつけたのだ。つまり当時の日本人の”こころ”の象徴を投げつけた訳だ。いやだ、気持ち悪い、あり得ないと私とて言いたいものですが、かくも深く、人が自然の摂理に一体化していた時代だった、少なくとも自らの利益(欲)の為に他国の物や心まで同じ色に染め、異なる考えは排除しようという則を越えた考えは無かったという事を思う必要があるでしょう。勘違いされては困りますから、言っておきますが太平洋戦争の侵略は、確かに神風特攻隊の飛行士はこころをぶつけたでしょう。しかしそれを平気でやらせた(操った)のは、大和魂を持った武士などでは無い。西洋の権力文明にコンプレックスを持ち且つ憧れ、自分達はちゃっかり安全を確保し、陰で贅沢なものを食べ、脅しの上手な成り上がりの”こころ”の薄い連中だったのではないでしょうか。彼等は「もののあわれ」すら解さず、女々しいと排除したんですから)
「この事件をジャーナリスティックに取り扱う事はできない。この事件の本質には何か大変孤独なものがある。三島由紀夫も自分自身が透明だった筈が無い。やはり運命というような暗い力と一緒にいたのではないか。これは本人にもわからなかっただろう。・・人間の肝心なところは謎だとはっきり言っていいのだ(雑誌新潮「感想」小林秀雄)」
「僕はこれからの人生で何か愚行を演じるかもしれない。そして日本中の人
がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。・・・僕は自分の中にそう
いう要素があると思っている。ただもしそういうことをして、日本中が笑った
場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣(足穂)さんだという確信が、僕
は在るんだ。なぜかというと・・ついに男というものの秘密を日本の作家は
知らない。男は何のために生まれて何のために死ぬのかを知らない。男の
秘密から発するものが天上と地獄を駆け巡る場合、どこででもちゃんと鉤
(かぎ)でもって引っかけてくれるのが稲垣さんだという確信を持っている。
・・・」
(対談「タルホの世界」三島由紀夫・渋沢竜彦共著 中公文庫)
文学者ばかりでは無い、あの湯川秀樹だって、「女の足の指を嘗めるように、自然の足の指を嘗める自然科学というものが必要なんや」「谷崎(潤一郎)みたいなことですか?」「そうや、あれや。あれを物理学にしたいんや」と、松岡正剛さんに言ったそうです。既に素領域理論に取りかかっていた頃だそうで、そのメタファー(隠喩)の根幹に在るのは老荘思想だった。即ち宇宙には大いなるものが偏在していて、個々の現象や人間はその様な大いなるものに自分を合わせるだけでいいという信念だった。(江戸時代を覆っていた孔子を頂点とした、深いが「矩(のり)」にマネージされた儒教に変わって仁や礼すら越えた「万物斉同(人の認識は善悪・是非・美醜・生死など、相対的概念で成り立っているが、これを超越した絶対の無の境地に立てば、対立と差別は消滅し、すべてのものは同じであると考えることができ(差別などの「違い」意識から開放される)とする説。荘子の思想)」の考えに基づいていた。アナーキーと言われればそうだが、ここには立派な自然(摂理・道)に対する信仰が根にある。翻ってグローバルこそ「神なきアナーキー」でしょ)
湯川さんは、物質だって「百代の過客」がやってきて宿を借りて去っていくような席を持っているのではないかというふうにも考えておられた(松岡正剛・茂木健一郎対談「脳と日本人」文芸春秋社2007年12月 P20)。これはバリアを剥がした生の自然の下の、人間・動物・植物・塵に至る全ての平等とそれらとの交流、共振する「遠」との共鳴・「掻き立てられるもの」をめざす行為そのものですね。
注(21)「新星座巡礼」野尻抱影著 中公文庫2002年11月P194〜198
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